Share

第63話

Author: 北野 艾
業界に蔓延る汚い裏取引を、この女が知らないはずはなかった。だというのに、わざわざ水を差すような真似をする。

その事実が、向井を苛立たせた。

男はテーブルのグラスを掴むと、中の酒を躊躇なく詩織の顔に浴びせかけた。「何様のつもりだ、お前は。なんで俺がお前の顔を立てなきゃならん?たかが秘書ふぜいが、俺に指図するな!」

不意を突かれ、詩織はなすすべもなかった。

氷のように冷たい液体が、顔から首筋を伝ってブラウスの襟元に染み込んでいく。その冷たさが、逆説的に彼女の頭を冴えさせた。

「向井社長。お酒も浴びせ、気は済みましたでしょうか。でしたら、こちらは失礼させていただきます。どうぞ、ごゆっくり」

そう言い放つと、詩織はぐったりしている志帆の腕を引き、部屋を出た。背後で向井がどれだけ怒り、どれだけ汚い言葉で罵っているかなど、もうどうでもよかった。

長い廊下の突き当たりに、慌てた様子の柊也と太一の姿が見えた。

二人に気づいた太一が、焦ったように声を上げる。「志帆ちゃん!」

その声が合図だったかのように、今まで詩織の肩にもたれかかっていた志帆が、突然ぐいっと詩織を突き放し、よろめく足で
Continue to read this book for free
Scan code to download App
Locked Chapter

Latest chapter

  • 七年の恋の終わりに、冷酷な彼は豹変した   第1255話

    彼女のその徹底した無関心と嘲笑を目の当たりにして、白彦の胸にズキリと鋭い痛みが走った。だが、その原因を作ったのは他でもない自分自身だ。反論する権利など、彼にはない。彼は込み上げてくる苦い後悔を喉の奥に押し殺し、絞り出すように言った。「……とにかく、送るから」「だから、必要ないって言ってるでしょ!」この男、本当に昔から人の話を聞かないわね。ミキが呆れてレストランを出ると、白彦も当然のように後ろをついてきた。エントランスにはすでに白彦の車が待機している。彼は自ら後部座席のドアを開け、ミキが乗るのを無言で待っていた。その時、沈黙していたスマホが三度目の着信を知らせる。いや、四度目だ。白彦は忌々しげに顔をしかめ、ついに電話に出た。電話口から微かにヒステリックな声が漏れ聞こえ、白彦の顔色がスッと変わる。「……わかった。すぐに行く」通話を切った白彦は、ミキに対してひどく申し訳なさそうな視線を向けた。「璃々子が……事故に遭ったらしい」「そう。なら早く行ってあげれば?」ラッキー。これでやっと解放される。ミキの冷淡な反応にも、白彦はすぐに車に乗り込もうとはせず、ミキの目をじっと見つめて言った。「……今回の視察に来る社長夫婦の詳細な資料、後で君のスマホに送っておく」「ん、わかった」ミキは適当に相槌を打った。早く行けばいいのに、グズグズしていて鬱陶しい。「いや、俺が言いたいのは……」白彦は気まずそうに目を逸らした。「君のスマホの、俺の着信拒否とブロックを解除してくれないと、資料が送れないんだが」「……あ」そうだった。完全に忘れていた。だが、仕事としてパートナーのフリをする以上、事前の打ち合わせで連絡を取り合うのは必須だ。本番でボロを出すわけにはいかない。仕方なく、ミキは「わかった」と頷いた。それを確認して、白彦はようやく自分の車に乗り込み、璃々子の元へと走り去っていった。ミキはレストランを出ると、流しのタクシーを捕まえてホテルへ向かった。しかし、道中で見覚えのあるケーキ屋の看板が目に入り、思わず運転手に声をかけた。「あっ、すみません。ここで降ろしてください」無性に甘いものが食べたくなったのだ。さっきのレストランでは、白彦と一緒だったせいでまったく

  • 七年の恋の終わりに、冷酷な彼は豹変した   第1254話

    白彦が心の中でどう傷ついていようが、ミキの知ったことではない。だが、後で面倒なことにならないよう、釘だけは刺しておく必要があった。ミキは彼に向かって、三つの条件を突きつけた。第一に、あくまで演技であること。人前ではおしどり夫婦を演じても、二人の時は完全な他人として振る舞うこと。第二に、演技上どうしても必要な接触を除き、個人的なスキンシップは一切禁止すること。第三に、接待が終わり次第、即座に解散し、今後一切付き纏わないこと。白彦は、すべての条件を呑んだ。いや、呑むしかなかったのだ。かつては目も合わせてもらえず、完全に赤の他人として無視され続けていた頃に比べれば、こうして会話をしてくれる今の状況だけでも、彼にとっては奇跡に近かった。やがて料理が運ばれてきたが、ミキはまったく食指が動かなかった。目の前に並んでいるのは大好物ばかりのはずなのに、どうしても上の空で、チラチラとスマホの画面ばかり気にしてしまう。その様子に気づいた白彦が、少し心配そうな、温かい声で尋ねた。「……食欲がないのか?」そりゃ、アンタとご飯食べてて美味しいわけないでしょ。喉まで出かかった毒舌を、ミキはぐっと飲み込んだ。一兆円の配当金が懸かっているビジネスパートナーなのだから、ここは大人な対応をしておくべきだ。「最近、仕事の稽古がハードでちょっと疲れてるだけ」ミキは無難に答えた。白彦は彼女が通っているトレーニングセンターを実際に見たことがあるため、その言葉に嘘がないことは分かっていた。彼女がボロボロになって頑張る姿を思い出し、彼はたまらず口を開いた。「……そんなに無理をしてまで働く必要はないだろう。お金に困っているなら、俺に言ってくれればいいのに」彼は昔からずっと、ミキが女優を続ける理由はお金のためだと思い込んでいる。まだ夫婦だった頃、彼は何度も「女優なんて辞めろ」と言ってきた。一度、こっそり彼女の撮影現場を見に行ったことがある。当時のミキはまだ無名の新人だったため、理不尽な扱いや嫌がらせを受けていた。その過酷な光景を目の当たりにしたからこそ、辞めさせたかったのだ。だが、不器用で傲慢な彼には、思いやりのある言葉などかけられなかった。「由木家がお前に不自由な思いをさせたとでも言うのか?なぜわざわざ外

  • 七年の恋の終わりに、冷酷な彼は豹変した   第1253話

    ……もしかして、あの男、また車を買い替えたの?そう思いながら足を止めたミキの目の前で、後部座席のドアが開いた。だが、そこから降りてきたのは澪士ではなく――元夫の白彦だった。その姿を見た瞬間、ミキの今日一日の上機嫌は、冷水を浴びせられたように一瞬で凍りついた。白彦は、ミキが自分を心底嫌悪していることを自覚していた。自分が顔を出すたびに彼女を苛立たせていると分かっていたからこそ、ここしばらくは接触を控えていたのだ。だが今日は、どうしても彼女に会わなければならない正当な理由があった。彼はミキの前に歩み寄り、いつもよりずっとへりくだった態度で口を開いた。「……大事な話があって来たんだ。少し、時間をくれないか」ミキが舌打ちをして背を向けようとするのを察し、白彦は慌てて言葉を継いだ。「由木グループが現在進めている、重要プロジェクトの件だ!君は今、由木グループの大株主だろう。会社の莫大な利益に関わる重大な決定事項だから、筆頭株主である君に相談しに来たんだ。決して、個人的に君に付き纏おうとしているわけじゃない」確かに、彼の口調は完全にビジネスライクなものだった。ミキは冷ややかな目を彼に向けた。「……何の相談?」「まだ夕食を食べていないだろう? 食事でもしながら話そう」白彦は拒絶されるのを恐れるように、早口で付け加えた。「確認してもらいたい資料が山ほどあるんだ。立ち話で終わるような内容じゃない」ミキは少し考えた後、短く答えた。「……わかったわ」彼女は気だるげにため息をつくと、白彦の車に乗り込んだ。レストランの個室に入ると、白彦はメニューをミキに差し出し、注文を促した。ミキは遠慮なく、自分の食べたいものだけを次々とオーダーしていく。結婚していた頃のように「白彦の好みに合わせる」なんてことは一切しない。その変化に気づいた白彦の瞳が、ふっと寂しげに曇った。――一度手に入れたものを失うと、人はこうも執着してしまうものなのか。彼はまるで、過去の結婚生活という名の檻に魂を囚われたまま、一歩も外に出られなくなっているようだった。そして何より恐ろしいのは、彼自身がその檻の中にいることを「甘んじて受け入れている」ことだ。白彦から向けられる、湿っぽく複雑な視線に気づきながらも、ミキは完全に無視

  • 七年の恋の終わりに、冷酷な彼は豹変した   第1252話

    言うまでもなく、彼が口にした「欲しい」は、単なる「会いたい」という意味ではない。極めて露骨な、夜の誘惑だ。ミキは普段、竹を割ったようなサバサバした性格で、少々の下ネタや冗談なら笑って受け流せるタイプだ。だが、彼から向けられる剥き出しの情欲にはどうしても耐性がなく、一瞬で顔に朱が差してしまった。カッと熱波のようなものが頬を打ち、それに呼応するように、身体の奥底がじくじくと甘く疼き始める。全身が火照り、呼吸のペースが不規則に乱れていくのを、自分でも止められなかった。そして、スマホのマイクは、その微かな吐息の乱れを正確に拾い上げていた。それに気づいた澪士は、酷薄な唇に愉悦の笑みを浮かべる。「可愛い子ちゃん。素直に認めなさい。……君も、俺にめちゃくちゃにされたいんだろう?」何千キロも離れた場所にいるはずなのに、まるでこの世界に彼と自分しか存在していないかのような錯覚に陥る。頭の中がぐらぐらと揺れ、思考が熱く溶けていく。ふと画面を見ると、澪士の表情が限界を迎えたように歪んでいた。彼はゆっくりと天を仰ぎ、太い首筋にある喉仏を激しく上下させる。「……っ、はぁ……」スピーカー越しに、喉の奥から絞り出されたような低く荒い吐息が響き渡る。それは、彼が今まさに深い快楽に溺れている証拠だった。――っ!?嘘でしょ、この男、画面越しに……!ミキの頭の中で、パーンッと何かが爆発した。耐えきれなくなった彼女は、別れの挨拶すら口にする余裕もなく、パニック状態で通話切断ボタンを連打した。プツンと画面が暗転した後、テーブルにあったグラスを掴み、冷たい水を一気に喉に流し込む。それでも、身体の芯で燃え上がった火は簡単には鎮まってくれなかった。私、絶対におかしくなってる……!その後、澪士からメッセージの通知が何件か届いたが、ミキは恐ろしくて画面を開くことすらできなかった。一方、出張先にいる澪士も、ミキから返信が来ないことなど百も承知だった。メッセージを送信した後、彼は革張りのオフィスチェアに深くもたれかかり、荒い呼吸を整えながら数分間じっと余韻に浸った。それからゆっくりと立ち上がり、バスルームへと向かった。その結果、午後一時に予定されていた重要な役員会議は、何の説明もないまま丸一時間も延期されることになった

  • 七年の恋の終わりに、冷酷な彼は豹変した   第1251話

    それでも澪士は決して諦めず、隙あらばこうして要求をねじ込んでくる。……ほんと、大型犬みたいでしつこい。泣いている犬のスタンプを見つめているうち、ミキはほんの一瞬だけ絆されそうになった。可哀想だから少しだけ宥めてやろうと、彼女は「犬の頭をヨシヨシと撫でる」スタンプを一つだけ返してやった。だが送信ボタンを押した直後、自分の行動がまるでバカップルのやり取りのようだと気づき、ミキは慌てて画面を閉じた。そこへ、休憩室に入ってきたアシスタントの萌が、スマホを見て無意識に微笑んでいたミキの顔をバッチリ目撃してしまった。「ねえ、ミキさん。もしかして最近、彼氏できました?」「――っ!?」ミキは危うくスマホを床に落としそうになった。図星を突かれた動揺から、明らかに目が泳いでしまう。「ち、違うわよ!な、なんでそんなこと言うの!?適当なこと言わないで!」萌は不思議そうに首を傾げた。「そうですか?でもミキさん、ここ数日すっごくお肌のツヤが良くてキラキラしてますよ。なんというか、内側からフェロモンが滲み出てるっていうか、すごく色っぽくなった気がして……」「…………」そ、そんなに……わかりやすいの!?ミキは無意識に自分の両頬をペチペチと触った。思い当たる節は、一つしかない。出張前のあの数日間、澪士に朝から晩までベッドで散々愛され、限界まで注ぎ込まれたせいだ。女は極上のオスに激しく抱かれ、極限の快感を与えられると、ホルモンバランスが整って肌の調子も劇的に良くなるというが……極上の男って、本当に最高級の美容液みたいなものなのね……ミキは火照る頬をごまかすように、フルーツティーをもう一口流し込んだ。夜。シャワーを浴び終えたミキは、胸の奥に重い不快感と、チリチリとした鈍い痛みを覚えていた。――生理前の、あの独特の張りだ。ミキは温めたタオルを用意すると、リビングのソファに深く丸まり、片手で胸元を優しくマッサージし始めた。空いているもう片方の手は、スマホをいじってSNSの裏アカウントをスクロールしている。この裏垢のタイムラインはすっかり彼女の好みに調教されており、少しスワイプするだけで、見事なシックスパックのイケメンたちが次々と画面に現れる。以前なら、これを見て「眼福だわ〜」とテンションを上げていたは

  • 七年の恋の終わりに、冷酷な彼は豹変した   第1250話

    ミキは半信半疑のままウォークインクローゼットに戻り、ハンガーにかかっている服を何着か手に取ってタグを確認した。――見事に、すべて彼女のジャストサイズだった。それどころか、並んでいるのはミキが普段から愛用しているブランドばかりで、しかも今期の最新コレクションが揃えられている。アウターやワンピースだけではない。引き出しを開けると、そこには繊細なレースの最高級ランジェリーまで、彼女のサイズにぴったりのものが色とりどりに用意されていた。「……変態」ミキは呆れて、低く小さく毒づいた。もしあの男が今ここにいてこの言葉を聞いたとしても、絶対に反省などしないだろう。むしろ「君の隅々まで熟知している証拠だ」とでも言わんばかりに、得意げな顔で笑うに決まっている。ミキはため息をつき、ふと奥にある一つのクローゼットに目を留めた。他のショーケースがすべて中身の見えるガラス扉なのに対し、その一つだけは中が見えない木製の扉になっている。普通のコートか何かでも入ってるのかな?好奇心から、ミキは不用意にその扉を開けてしまった。その瞬間、ミキの顔から火が出た。そこにひしめくように掛けられていたのは、過激なスリットが入ったベビードールや、布面積の少なすぎるスケスケのネグリジェなど、どう見ても『夜のプレイ用』としか思えないけしからん衣装の数々だったのだ。「っ、このエロ犬男!!」ミキは慌ててバタンッ!と大きな音を立てて扉を閉めた。耳の裏までカッと熱くなり、手で顔を扇ぎながら心の中で散々あの男を罵倒する。――出張で本人は不在なのに、残されたクローゼット一つでここまで私を振り回すなんて!これ以上ここにいると頭がおかしくなりそうだった。ミキは無難なデザインの服を素早く選び、手早く着替えると、自分の荷物をまとめて帰る準備を整えた。いくら服を用意されていても、ここはあくまで澪士の家だ。長居するつもりは一切ない。澪士からはエントランスの暗証番号を教えられていたが、「ずっとここにいろ」と直接引き留められたわけではない。もっとも、仮に引き留められたとしても、彼女は残らなかっただろうが。ミキの中で、澪士との関係性の位置づけは明確だ。それは大人の火遊びであり、寂しさを埋め合うだけの都合のいい関係。お互い自立した大人なのだ

More Chapters
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status