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第689話

Auteur: 北野 艾
ほどなくして、階下の騒音は潮が引くように収まった。

限界に達していた詩織は、そのまま深い眠りへと落ちていった。

翌朝。ドアをノックする音とともに、主治医が日課の健康チェックに訪れた。

小春は特殊な体質の持ち主で、響太朗が雇った専属医が毎日こうしてバイタルや数値をモニタリングし、万全を期しているのだ。

検査を受けながら、小春がばつが悪そうに切り出した。

「先生……ごめんなさい。昨日の夜、お薬飲まなかったの」

医師の手が止まる。「眠れましたか?」と心配そうに問う彼に、小春は力強く頷いてみせた。

「うん!ぐっすり眠れたよ」

医師は驚きを隠せない様子で目を見開いた。「驚きました……あなたが安定剤なしで自力で眠れたのは、ここ五年で初めてのことですよ」

その声は興奮に震えていた。

詩織は小春が何らかの投薬治療を受けていることは知っていたが、睡眠障害がそこまで深刻だとは知らなかった。まさか特製の安定剤なしでは眠ることさえできない体だったとは。

小春が洗面所へ向かった隙に、詩織は医師に詳しい病状を尋ねてみた。

医師の説明によれば、小春の脳波は常人とは異なる波形を示しているという
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    ほどなくして、階下の騒音は潮が引くように収まった。限界に達していた詩織は、そのまま深い眠りへと落ちていった。翌朝。ドアをノックする音とともに、主治医が日課の健康チェックに訪れた。小春は特殊な体質の持ち主で、響太朗が雇った専属医が毎日こうしてバイタルや数値をモニタリングし、万全を期しているのだ。検査を受けながら、小春がばつが悪そうに切り出した。「先生……ごめんなさい。昨日の夜、お薬飲まなかったの」医師の手が止まる。「眠れましたか?」と心配そうに問う彼に、小春は力強く頷いてみせた。「うん!ぐっすり眠れたよ」医師は驚きを隠せない様子で目を見開いた。「驚きました……あなたが安定剤なしで自力で眠れたのは、ここ五年で初めてのことですよ」その声は興奮に震えていた。詩織は小春が何らかの投薬治療を受けていることは知っていたが、睡眠障害がそこまで深刻だとは知らなかった。まさか特製の安定剤なしでは眠ることさえできない体だったとは。小春が洗面所へ向かった隙に、詩織は医師に詳しい病状を尋ねてみた。医師の説明によれば、小春の脳波は常人とは異なる波形を示しているという。脳の活動レベルが異常に高く、それが睡眠や日常生活に干渉してしまうらしい。一種の「天才病」とも呼べる症状だ。それを聞き、詩織はますます小春のことが愛おしく、そして不憫に思えてならなかった。「……江崎さん、ひとつお願いがあります。もしよろしければ、簡単な実験に協力していただけませんか?あなたのそばにいることが、彼女の睡眠を改善する鍵になっているのかどうか、データを取ってみたいんです」「もちろんです」詩織は即答した。検査を終え、二人が朝食をとるために一階へ降りると、詩織はリビングの雰囲気が少し変わっていることに気がついた。昨日まで飾られていたはずの年代物の花瓶が、いくつか姿を消していたのだ。模様替えでもしたのかしら。詩織は深く気に留めることなくダイニングへ向かった。響太朗は昨夜、結局戻らなかったらしい。使用人からそう聞かされても、詩織は「そう」と頷くだけで、特に理由を尋ねはしなかった。小春と朝食をとっていると、二人のメイドが誰にも聞かれないよう、ひそひそと話し込んでいるのに気がついた。距離があるから聞こえないと高を括っているのか、彼女たちはさして

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