LOGINだが、その言葉を聞いた瞬間、ハッと目を覚ました。腕を伸ばし、彼の胸元にあるずぶ濡れのシャツをギュッと強く握りしめる。指先で生地がクシャクシャに丸まった。「……何、バカなこと言ってんのよ」「『もしも』の話だ」柊也はそう言い聞かせながら、彼女の背中に大きな手のひらを滑らせた。華奢な背骨のラインに沿って、何度も優しく撫で下ろす。それはまるで、子供をあやすような、あるいは彼女の動揺を鎮めるような手つきだった。「俺は死んでも構わない。だが、お前が死んだら、俺も生きてはいられないんだ」低くゆっくりと紡がれたその言葉は、まるで真っ赤に焼けた炭のように、詩織の胸の奥をジリッと熱く焦がした。胸が締め付けられる。彼女はもう何も言い返せなくなり、ただ彼の首筋に顔を深く埋めた。熱を持った肌に鼻先が擦れる。微かな冷水の匂いと、彼からいつも漂うほのかな沈香の香りが混じり合っていた。「……分かったか?」言うことを聞かない子猫をつまみ上げるように、柊也が詩織のうなじを軽く摘む。詩織は言葉では答えなかった。ただ、そっと顔を上げ――自分から彼の唇を塞いだ。その後、高村教授が二人のために着替えの服を用意してくれた。別の客間で身支度を済ませた柊也が、詩織のいる部屋へとやって来る。ちょうど詩織が髪を乾かしているところだった。部屋に入ってくるなり、柊也はひどく残念そうにため息をついた。「あーあ、せっかくのペアルックが台無しになっちまったな」見せつけるには絶好のチャンスだったのに、あっけなく終わってしまった。詩織は呆れて、まともに取り合う気にもなれない。すると柊也はごく自然な動作で詩織の手からドライヤーを奪い取り、彼女の後ろに立って髪を乾かし始めた。その手つきは、驚くほど手慣れていて優しい。温かい風と彼の指先が頭皮をマッサージするように滑る感覚に、詩織は目を細め、心地よい奉仕を大人しく受け入れていた。階下では、すでに昼食の準備が整っていた。高村教授が使用人に声をかけ、二階にいる二人を呼んでくるよう命じる。「あ、私が呼んできますよ」使用人が返事をするより早く、京介がそう言って席を立ち、二階へと向かった。一方、客間。髪がほとんど乾ききった頃、詩織はずっと気になっていたことを尋ねた。「それにしても、
柊也は隙を見て詩織の元へ向かおうとしたものの、高村教授に「ほれ、自慢の錦鯉を拝んでいけ」と捕まってしまった。それでもなお、ワインレッドの派手なスーツをまとった男の視線は、まるで獲物を追尾するレーダーのように詩織を離さない。そのあまりに直球な熱視線に耐えきれず、そもそも錦鯉などにも興味がなかった詩織は、くるりと回って屋内に戻ることにした。彼女の背中を追うように、京介も歩き出す。だが、大広間の扉に足を踏み入れようとした、まさにその時――ザッバーン!!背後から、何かが水面に激しく落ちる大きな水音が響き渡った。続いて、高村教授たちの驚愕の叫び声が上がる。「おいっ!賀来の小僧!?なんで池に落ちたんだ!!」詩織はピタリと足を止めた。心臓がドクンと跳ね、血の気が引いていく。すぐさまきびすを返し、池へ向かって全力で駆け出した。高村教授の自慢の庭池は、かなり広く、水深もある。しかもただの池ではない。趣向を凝らした本格的な造りになっていて、底や縁には鋭く尖った庭石や岩が複雑に配置されているのだ。もしそんな場所に頭や体を打ちつけでもしたら――気が気ではないまま池の縁へと飛び込んだが、水面が激しく波打つばかりで、柊也の姿はまだ浮かび上がってこない。――嘘、彼は泳げるはずじゃなかったの!?「柊也っ!?」たまらず、切迫した声でその名を叫んだ。だが、返事はない。ただバシャバシャと、水面を激しく叩く音が返ってくるだけだった。詩織は焦りのあまり後先などすっかり吹っ飛び、そのまま池へと飛び込んでしまった。暦の上では春を迎えたとはいえ、まだ2月の風は冷たく、池の水は氷のように冷え切っていた。水に飛び込んだ瞬間、その冷酷な温度に体が悲鳴を上げ、ふくらはぎが激しくつってしまった。足首を誰かに力任せに捻り上げられたような鋭い痛みが走り、脚から一気に力が抜け落ちる。体が言うことを聞かず、そのままズブズブと暗い水の底へと引きずり込まれていく。しまった……!パニックになりかけた、まさにその時。ぐんと、腰を強く引き寄せられた。背後から伸びてきた逞しい腕が詩織を抱きとめ、同時に温かい体温が背中にピタリと張り付いてくる。水の中に沈んでいたはずの柊也だった。彼はもう片方の腕を詩織の腹部に回し、彼女の体を丸ごと自分
京介は慣れた手つきで茶器を温めながらも、意識は自然と隣に座る詩織の方へと向いていた。彼女に、どうしても伝えたいことがある。ただ、まだその切り出し方が見つからないだけだ。焦ってはいけない。その時が来るのを、静かに待つんだ――数杯のお茶を味わい終えた頃、高村教授が最近手に入れたという高価な錦鯉の話を始めた。なんでも、品評会で優勝するような血統を持つオークション級の逸品で、一尾六千万円は下らないという。三番弟子の澪士からの贈り物らしい。高村教授はすっかりこの錦鯉に惚れ込んでおり、早くから庭に大金を注ぎ込んで立派な専用池まで造らせていた。「せっかくだ、自慢の鯉を皆で見に行こうじゃないか」と、教授が弟子たちを促す。詩織が立ち上がろうとした時だった。「詩織、少し話があるんだ」京介が彼女を呼び止めた。詩織は、仕事の用件だろうと思った。この五年間、二人が直接顔を合わせた回数は数えるほどしかない。ここ数ヶ月でようやく何度か会う機会があった程度だ。そのうち二度ほど、京介が明らかに自分への好意を匂わせてきたことがあったが、詩織はどちらも容赦なく話を逸らし、その芽を摘み取っている。だから、彼もすっかり冷静になり、もう変な期待は抱いていないはずだと思っていた。しかし、他の弟子たちが部屋を出て行った途端、京介の目つきが変わった。喉仏が上下に動く。彼の胸の奥で、長年抑え込んできた想いがついに限界を迎え、溢れ出そうとしていた。――詩織、もう一度俺にチャンスをくれないか。――君がどんな選択をしようと、俺はずっと待ち続ける。――たとえ君が柊也を選んだとしても、振り返れば、俺の隣はいつでも空けてあるから。「……詩織」口から紡がれた声はいつもより低く掠れ、微かな緊張を孕んでいた。京介が半歩前に踏み出す。「もう一度――」という言葉が、舌先まで出かかったその瞬間。外から、高村教授の快活で鋭い大声が轟いた。「賀来の小僧! 呼ばれてもいないのに、よくも図々しく来られたな。入り口の警備は何をやっとるんだ!」柊也?どうして彼がここに?詩織の意識は一瞬にして外へと飛んでしまった。京介の次の言葉を待つことすらなく、足早に部屋を飛び出していく。玄関先には、入ってきたばかりの柊也が立っていた。
少しだけ上を向いた柊也は、得体の知れない強烈な渇きを飲み下すように、何度も喉仏を上下させている。呼吸はひどく乱れていた。冷たい空気の中に吐き出される荒い白い息が、限界まで強張った顎のラインを曖昧にぼやかしていく。突然突き放されたような形になった詩織は、潤んだ目尻を赤く染めたまま呆然としていた。激しく吸われた唇は、まだジンジンと痺れている。大丈夫?と声をかけようと口を開きかけた。「喋るな」酷く掠れた低い声が、それを遮る。きつく目を閉じてから、再び開かれたその瞳は、底なしの闇のように深く濁っていた。「……少し、落ち着かせてくれ」そう言って、そっと手が伸びてくる。熱を持った頬を、指の背で愛おしげに撫でた。その動作はとろけるほど優しいのに、指先は恐ろしいほどの熱を帯びたままだった。触れた瞬間にバチッと電流が走ったかのように、二人同時に肩を震わせる。柊也は小さく息で笑った。まだ息は整っておらず、微かな危険を孕んだ声色が夜の空気に溶ける。「早く部屋に戻らないと、今夜はもう帰さないぞ」そして最後には、お手上げだというように苦笑いを浮かべた。「やっと初恵さんから少し信用してもらえるようになったんだ。これ以上、俺の理性を試さないでくれ」「……」なるほど。ここ最近、妙にお行儀が良かったのは、母からの印象を悪くしないためだったのか。「それから、初恵さんに、あの怪しげな滋養強壮スープを作るのをやめるよう言ってくれ。これ以上あんなもん飲まされたら、俺、確実にルール違反するから」彼が言う『ルール違反』とは、詩織が定めた絶対のルールのことだ。――彼女が心から頷くまで、最後の一線は越えない。詩織は目を丸くした。お母さんが毎日せっせと作っていたあの特製スープって……まさか、精力増強のためだったの!?どうりで最近、柊也の顔色がどこかおかしかったはずだ。いつも別れ際に不自然なほど距離を取っていたのも、理性が吹き飛びそうになるのを必死に抑え込んでいたからだったなんて。一体どれほどの我慢を重ねていたのかと思うと、途端に柊也への同情心が湧いてくる。「……お母さんには、私からちゃんと言っておくから」少し躊躇ってから、詩織はおそるおそる尋ねた。「じゃあ、最近はどうやって……その、耐えてたの?」
彼は空になったグラスをテーブルに置き、すっと立ち上がった。羽織るために持ち上げたジャケットが、空中で鋭い弧を描く。「帰る。もう遅い」太一は目を丸くした。「えっ、もう帰るのかよ!?まだ二杯しか飲んでないのに!」返ってきたのは、容赦なくピシャリと閉められたドアの音だけだった。廊下の突き当たり。京介はタバコに火をつけた。暗がりの中で、チリチリと燃える真っ赤な火種だけが明滅している。彼がスマホを取り出すと、光る画面がその冷酷なまでに美しい横顔を青白く照らし出した。画面には、詩織のSNSのアイコンが表示されている。親指の先が、そのアイコンの上を迷うようにさまよい、長い時間が過ぎていった。しかし最終的に――彼は画面を消し、同時にタバコの火を冷たく揉み消した。それから数日後。恩師である高村教授の門下生たちが集まる、定期的な食事会の日を迎えた。詩織は事前に柊也には伝えていた。最初は一緒に行かないかと誘うつもりだったが、二人の関係はまだ公にしていない。突然連れて行けば、周囲に根掘り葉掘り聞かれて面倒なことになると気づき、結局声はかけなかったのだ。柊也の方からも特に触れてはこなかった。だが、帰り際、マンションの下まで見送った時のこと。ふと思い出したように、ごくさりげなく尋ねてきた。「その食事会って、京介も来るのか?」「……」その名前が出た瞬間、詩織は目の前の男が何を気にしているのか察した。人差し指で、硬い胸板をツンと突く。「またそんな無意味なヤキモチ焼いてるの?」柊也は胸に当てられた指先をすっと掴むと、そのまま自身の唇へと引き寄せ、優しく口づけを落とした。「知ってるだろ。俺、あいつが絡むと途端に余裕なくなるって」詩織は呆れたようにため息をつく。一体いつになったら、この男は京介に対する警戒心を解くのだろうか。だが、そんな柊也の胸の内に渦巻いているのは、『一生、警戒を解く気なんてない』という暗く重い執着だった。「はいはい、もう遅いから早く帰って」握られている指先を引き抜こうとする。指先に触れる吐息が、やけに熱い。言葉にできないような、くすぐったい感覚が肌を這う。まるで羽の先で心臓を撫でられているかのように、胸の奥がざわざわと波立つのを感じた。ここ数日、柊也は人
抱きすくめてくる彼の体は、触れる肌から火照りが伝わってくるほど、尋常ではない熱を持っていた。けれど、詩織がその熱の正体を深く感じ取る間もなく、柊也はふいに腕の力を緩め、彼女の肩を軽く押して体を離した。「……今日は冷える。風邪を引く前に、早く上に戻りなさい」それほど寒いとは感じなかった。それに、詩織はもう少しだけ、彼と一緒にいたかった。いつもなら、彼をマンションの下まで見送ると、そのまま車のそばでしばらく甘くイチャイチャとじゃれ合うのがお決まりのパターンだ。しかし今日の彼は珍しく、彼女に甘えてこようとしなかった。どうしたのだろうかと不思議に思っていると、柊也が口を開いた。「……今日は、このまま一度家に戻らなきゃいけないんだ」なんだ、野暮用があるのね。それなら仕方がない。詩織はそれ以上引き留めず、ヒラヒラと手を振って彼を見送った。マンションに入り、エレベーターのボタンを押す。箱が静かに上昇していく間、詩織はふと、心に小さな違和感を覚えた。……今日、何かが足りないような?何が足りないのだろう。顔を上げ、鏡面仕上げになったエレベーターの壁に映る自分と目が合った瞬間、ハッとして気づいた。今日、一回もキスされてない!いつもなら、彼は息をするように詩織にキスをねだってくる。軽いリップ音を響かせるものから、息もできないほど深いものまで、あの手この手で甘く唇を奪いにくるのが常だった。それなのに、今日の彼は恐ろしいほどお行儀が良く、指一本触れずに帰っていったのだ。いくら用事があるとはいえ、あまりにも不自然すぎる。首を傾げながら玄関のドアを開けると、リビングにいたミキが目を丸くして驚いた。「えっ、もう帰ってきたの!?」詩織の頭に【?】が浮かぶ。「だってあんたたち、いつも下で見送るって言ってから、二時間くらいは平気で戻ってこないじゃない」「……っ」詩織は図星を突かれて、言葉に詰まった。それから数日間。初恵は毎日欠かさず、柊也のために特製のスープを煮込み続けていた。それも、誰の手も借りず完全に自分一人で、だ。佐知子さんが「初恵様が早起きされては体に障りますから、私にやらせてください」と申し出ても、初恵は首を縦に振らなかった。初恵がここまでこのスープに執念を燃やしてい