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第8話

Author: 北野 艾
だが彼は知らない。あの部屋が散らかっていたのは、彼の物で溢れかえっていたからだということを。

柊也は根っからの仕事人間で、首席秘書である詩織は、彼の都合に合わせて二十四時間いつでも動けるように待機していなければならなかった。

机の上には、彼がいつ必要とするか分からない各種資料が山積みになっていた。

壁には、彼のスケジュールや業務計画を記したメモがびっしりと貼られていた。

クローゼットには、彼がパーティーで着るための様々な礼服が掛けられていた。

床には、彼がクライアントに贈るためのギフト類が無造作に置かれていた……

もともと広くもないワンルームは、詩織にとって第二のオフィスと化していた。

部屋全体で、彼女自身のものだと言えるのは、あの小さなシングルベッドだけだった。

皮肉なことに、柊也はそのベッドさえも「狭すぎる」と嫌い、あの日以来、二度と彼女の部屋に来ることはなかった。

家を出る前、詩織は引っ越し業者に一本電話を入れ、週末に荷物の整理を手伝う人員を手配してくれるよう頼んだ。

もう、自分のものではない物をすべて部屋から運び出す時が来たのだ。

……

渉が選んだのは、最近オープンしたばかりで、体に優しい繊細な味わいで評判の創作料理の店だった。

店名は『月蝕』。

電話口で詩織が「胃の調子が悪い」と言ったのを聞いて、気を遣ってくれたのだろう。テーブルに並べられたのは、どれも胃に優しそうなあっさりとした料理ばかりだった。

本当に、気が利く人だ。

こういう気遣いは、誰かに教わってできるものではない。

詩織は今まで、柊也が生活の中の些細なことを見過ごすのは、ただ仕事に集中しすぎているからだと信じようとしてきた。

だから、そんな彼を受け入れ、気にしないように自分に言い聞かせてきたのだ。

けれど今日、思い知らされた。柊也は、志帆が生理中だと知るや、彼女を気遣って薬膳スープを出す『百草庵(ひゃくそうあん)』へとわざわざ連れて行くような男だったのだ。

彼もまた、ちゃんと気が利く人だった。ただ、その相手が自分でなかったというだけで。

詩織は、いつもの生真面目な印象をがらりと変えていた。体に貼り付いていたようなスーツを脱ぎ捨て、長年きつくまとめていた髪も解いている。

もともと透き通るように白い肌が、淡い色のワンピースに映え、まるで発光しているかのようだ。

渉は、一目見ただけでは彼女だと気づけなかった。

詩織の方から声をかける。「城戸さん、すみません、お待たせしてしまって」

渉は呆然としたまま彼女を見つめ、目が飛び出さんばかりに瞠っていた。「え、江崎さん……?あまりに雰囲気が違っていて……全然気づきませんでしたよ!」

詩織が席に着くと、一筋の髪が肩から滑り落ち、彼女はそれをさりげなく耳にかけた。

「江崎さん、一つお聞きしてもいいですか」渉は、好奇心を抑えきれないといった様子で口を開いた。

「ええ、何なりと」詩織はおおらかに答える。

「御社って、何か妙な決まりごとでもあるんですか」

詩織が片眉を上げる。「例えば?」

「例えば、美女はわざと野暮ったく見せなきゃいけない、とか」

詩織はくすりと笑った。「それは、城戸さんからの褒め言葉だと受け取っておきますね」

「いえいえ、褒めてるつもりはないですよ。俺は、思ったことを正直に言うのが得意なだけですから!」

ヘッドハンター、それもトップクラスとなれば、コミュニケーション能力が並外れて高い。

二言三言で、場の空気を和ませてしまうのだ。

太一が個室から出てきた時、窓際に座る詩織の姿が目に飛び込んできた。

最初はただ、その美しさに目を奪われただけだった。

詩織が座っているのは、絶好の場所だった。

大きな窓の外から、夕陽が斜めに差し込んでいる。

光の中に佇む彼女は、まるで神々しいまでの美しさを放っていた。

太一は呆然と立ち尽くし、無意識にそちらへ足が向いていた。

ちょうどその時、詩織がふと太一の方に視線を向けた。

太一ははっと足を止め、信じられないという顔をした。いや、それ以上に、あり得ないという表情だった。

あれは……詩織?

似ている。だが、まるで別人だ。

何しろ太一の記憶の中の詩織は、年がら年中古臭い格好をしていて、どうにも垢抜けず、色気の欠片もない女だったのだ。

以前は、周りにいくらでもいる美女には目もくれず、よりによってあんな女を選ぶなんて、柊也のセンスを本気で疑ったこともあった。

今にして思えば……甘かったのは、自分のようだ。

あいつ、この七年間、とんでもないご馳走を独り占めしていたわけか!

詩織の視線が、太一のものと絡んだ。だが、すぐに逸らされる。その反応はあまりに平然としていて、まるで知らない人を見るかのようだった。

それが、太一のプライドを妙に刺激した。

これまで散々、詩織のことを見下してきたのだ。柊也に「来い」と言われれば尻尾を振って駆けつけ、「あっちへ行け」と命じられればすごすごと引き下がる、ただの犬じゃないか。

そんな女が、この俺の前で気取った態度を見せる資格なんてあるものか。どうせ、気取っているフリだろうが!

太一は城戸渉のことも知っていた。彼はわざわざ二人のテーブルに歩み寄ると、詩織には目もくれず、渉にだけ声をかけた。

「城戸さん、ご無沙汰してます。相変わらずお忙しいようで」

江ノ本市の名家・宇田川家の次男坊とあっては、多少道楽が過ぎるきらいがあっても、その背景にある影響力は無視できない。渉も商売柄、無下に扱うわけにはいかなかった。

「これは宇田川さん。俺の仕事はご存じでしょう。もちろん、優秀な人材を探して走り回ってますよ」

「人材探し、ねえ……」

太一は詩織に意味ありげな一瞥をくれると、嘲るように、いや、それ以上にせせら笑うように口の端を上げた。

「あんたの腕も、大したことないみたいだな」

「とんでもない。江崎さんは、この業界では引く手あまたの逸材ですよ」

太一はその言葉を無視し、続けた。「あんたは知らないだろうけどな、エイジアの賀来社長が最近、海外からとんでもない大物を引き抜いてきたんだ。WTビジネススクールの博士号持ちで、前職はユニコン・バンク。今はエイジアの投資第三部でディレクターをやってる」

彼は得意げに口角を上げる。「そっちの業界じゃ、文句なしのトップクラスだろ?」

渉は正直に認めた。「ええ、間違いなくトップクラスの人材ですね」

「だから言ったろ。あんたの腕も、まだまだだってな」太一は渉の肩を、ぽん、と軽く叩いた。

渉は怒るでもなく、ただ笑顔で応じる。「ご指摘ありがとうございます」

太一は言いたいことを言って満足したのか、すっかり上機嫌だ。「ああ、そうだ。この店、俺も一枚噛んでてね。今日の食事は俺のおごりってことで」

「いえいえ、そんなわけには」

「遠慮しないでくれよ。この先、俺があんたに人探しを頼むことだってあるかもしれない。そのための先行投資ってやつさ」

帰り際、太一は侮るような視線で、ちらりと詩織に目をやった。

おそらく、彼女の顔に屈辱や嫉妬の色が浮かぶのを期待していたのだろう。

だが、残念なことに、詩織の表情は凪いだ水面のように静かなままだった。

彼はそこから、何一つ感情を読み取ることができなかった。

それが、どうしようもなく気に食わなかった。

だから店を出た後、真っ先に柊也に電話をかけて告げ口をしたのだ。

「柊也、今俺が誰見たと思う!?」

柊也はまだ残業中で、太一の言葉に応える暇もなく、内線で秘書室に繋いだ。「江崎、コーヒーを一杯頼む」

電話の向こうで、太一は一瞬、言葉を失った。

まさか柊也は、詩織がもう会社にいないことを知らないのか?

面白いことになってきた、と太一は思った。

コーヒーを待つ間、柊也は太一に問い返した。「で、誰に会ったんだ」

「城戸渉だ」太一はすぐには本題に入らない。「また誰かの引き抜きさ」

その時、社長室のドアがノックされ、柊也は「入れ」と短く告げた。

入ってきたのは密だった。コーヒーを運んできたのだ。

柊也は一瞬動きを止め、無意識に眉をひそめた。「江崎は?」

「退勤されました」と、密は答えた。

その言葉に、柊也の眉間の皺がさらに深くなる。「今夜は残業じゃないのか?」

「はい、しておりません」

柊也は腑に落ちないものを感じたが、それ以上は考えなかった。仕事でミスをすることが滅多にない彼女のことだ、何か別の用事でもあるのだろうと軽く流した。

彼は密を下がらせると、カップを手に取り、コーヒーを一口含んだ。

わずかに和らいでいた眉が、再びきつく寄せられる。

いつも自分が口にしている味ではなかった。

柊也はコーヒーを飲む気も失せ、カップをデスクに戻すと、二度とそれに手をつけようとはしなかった。椅子に深くもたれかかり、眉間を揉みながら太一に尋ねる。「誰を引き抜こうとしてたんだ」

ようやく本題だ。太一は、待ってましたとばかりに口を開いた。

「城戸の奴、江崎を引き抜こうとしてたぜ!」

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