แชร์

第9話

ผู้เขียน: 北野 艾
太一は、柊也が驚愕するだろうと踏んでいた。

ところが、彼の反応は驚くほど平然としていた。「城戸の奴、まだ諦めてなかったのか」

「ってことは……あいつ、江崎に声をかけるの、初めてじゃないのか?」

「ああ」柊也は意にも介さず、その口調には確信さえ滲んでいた。「だが、あいつに引き抜けるようなタマじゃない。江崎は行かない」

太一も同意見だった。彼はせせら笑う。「だよな。江崎がエイジアを辞めるわけねえよな」

他の理由はさておき、柊也がエイジアにいる限り、詩織が会社を去ることなどあり得ない。

「あの女も大概、食えねえよな。俺の見立てじゃ、わざと城戸をあの店に呼び出したんだ。俺に目撃させて、その噂をお前の耳に入れさせるために。そうすりゃ、お前が焦って引き留めてくれるとでも思ったんだろ」

太一は、すべてお見通しだと言わんばかりの口調で続けた。

「お前が志帆ちゃんを重用して、自分を構わないから嫉妬してんだ。まったく安っぽい手だよな。分別ってもんがねえ。男が、女の嫉妬だの小細工だのを一番嫌うって分かってねえのか。そんな真似すればするほど、お前が離れていくってのによ。

ほんと、身の程知らずもいいとこだ。自分が何様だと思ってんだ?志帆ちゃんと張り合おうなんて、土台無理な話だろ。どっちを選ぶかなんて、少しでも頭が回りゃ分かることだろうに」

柊也に、太一のゴシップに付き合っている時間はなかった。適当に相槌を打って電話を切る。

サインすべき書類の束をめくると、一枚の書類が目に留まった。

詩織からの、退職願だった。

彼はごく僅かに眉をひそめたが、すぐにその書類を脇に放ると、何事もなかったかのように他の書類にペンを走らせ始めた。

……

詩織は渉との話が弾み、すっかり上機嫌になっていた。帰り道、マンションの一階にある花屋で、自分のために花束を一つ買った。

家に着いて、そういえば花瓶が一つもなかったことを思い出す。

部屋中に溢れる、自分のものではない品々を眺めているうちに、せっかくの明るい気持ちが少しだけ翳りを帯びた。

詩織は段ボール箱を見つけ出すと、そこへ書類をすべて詰め込んでいく。そうしてようやく、ダイニングテーブルの上を何もない状態に戻した。

部屋をぐるりと見回し、やがて花瓶の代わりになりそうなものを見つけ出した。

一つの、トロフィー。

エイジア・キャピタルの優秀社員賞トロフィー。

かつて柊也が自らの手で彼女に授与した、詩織がずっと宝物のように大切にしてきたものだった。

以前、親友のミキが酔い潰れて泊まりに来た夜のことだ。

夜中に気分が悪くなったミキが、そのトロフィーを掴んで吐き込もうとした時、詩織は血相を変えてそれを奪い取った。

ベッドを汚される方が、このトロフィーを汚されるよりもずっとましだったのだ。

詩織はトロフィーに水を注ぐと、買ってきた花を生けた。

しばらくそれをじっと見つめ、やがてぽつりと呟く。「ようやく、少しは役に立ったわね」

眠りにつく前に、携帯電話の電源を完全に切る。そんな新しい習慣を身につけた彼女は、その夜、朝までぐっすりと眠った。

朝九時、詩織は定刻通りに出社した。

この時間になってようやく姿を見せた彼女に、他の同僚たちは一様に不思議そうな顔を向けた。いつもなら、詩織は誰よりも早く会社に来ているはずだったからだ。

しかも今日の彼女は、いつもの堅苦しいスーツ姿ではなく、淡い色合いのブラウスにスカートという出で立ちだった。

「江崎さん、今日、なんだかいつもと雰囲気違うね」

詩織は微笑んで問い返した。「どこが違うかしら?」

「すごく、綺麗」

正確に言えば、息を呑むほど綺麗だった。

薄化粧を施しただけなのに、醸し出すオーラが昨日までとはまるで違う。

透明感があり、華やかさの中にも楚々とした優雅さが漂う。

老若男女を問わず、誰もが思わず目で追ってしまうような、まさに「雰囲気美人」だった。

「ありがとう」詩織は、さらに機嫌を良くした。

詩織は出勤途中に朝食を済ませていたので、会社に着くと胃薬を飲むため給湯室へ向かった。

ドアに差し掛かったところで、中からひそひそと話す声が聞こえてきた。

「ねえ、江崎さんと柏木さん、どっちが綺麗だと思う?」

「うーん、タイプが全然違うから、比べられないんじゃないかな」

「前だったら、間違いなく柏木さんだったけどねえ。昔の江崎さんってすごく堅苦しかったし、服装もメイクも野暮ったくて、十歳は老けて見えたもん。でも、元がいいから、ちょっと変えるだけでこんなにハッとさせられるんだって驚いた」

「わかる!雰囲気ありすぎて、思わず『お姉さん』って呼びたくなっちゃう!」

「見た目だけなら江崎さんに軍配が上がるかもだけど、柏木さんは学歴も家柄もずば抜けてるから。そこはもう、江崎さんじゃ太刀打ちできないでしょ」

「そうよねえ。頭の良さとか家柄って、天性のものだもの。生まれる家を選ぶのも、才能のうちってことね」

「江崎さん、たしか片親なんだっけ……」

詩織は、その会話を遮るように中へ入っていった。場の噂話をぴたりと止める、絶好のタイミングだった。

「おはよう」詩織は何も聞こえなかったかのように、平然とした顔で室内のシンクへ向かい、挨拶をする。

数人は慌てて挨拶を返すと、そそくさとその場を立ち去っていった。

薬を飲み終えて自分のデスクに戻った途端、投資第三部の深見部長が慌てた様子でやってきた。賀来社長直々のご指名で、スカイウィング社とのドローンプロジェクトに関する評価レポートを至急で欲しい、とのことだ。

詩織が資料を手渡すと、彼は思い出したように尋ねた。「そういえば江崎さん、携帯、壊れてる?」

「いえ、別に」詩織は、きょとんとした顔で答えた。

「それが、何度かけても繋がらなくて。社長が今朝から出張で、このレポートが急ぎで必要だったのに、江崎さんと連絡が取れなかったんですよ」と、深見は説明した。

詩織はそれを聞いても、ただ淡々と「電池が切れていたのかもしれません」と答えるだけだった。

あまりにわざとらしい言い訳に、深見でさえ信じているようには見えなかった。

だが彼はそれ以上は追及せず、「社長は柏木さんと一緒に、スカイウィング社のドローンプロジェクトを視察に行かれました。戻りは来週になるかと。このレポートは、先に俺の方から送っておきます」とだけ言った。

詩織は静かに頷くと、パソコンを立ち上げて今日の業務に取りかかった。

あのドローンプロジェクトは、これまでずっと詩織が一人で進めてきた案件だった。二度にわたる現地視察も、先方との交渉も、すべて彼女が取り仕切ってきたのだ。

柊也がその件について口出ししてきたことは一度もなく、ましてや彼女に同行して地方の視察へ赴くことなど、あり得なかった。

何しろ、それはエイジアが抱える数多のプロジェクトの一つに過ぎず、柊也が自ら出張るほどの重要案件ではなかったからだ。

だが今回は、彼自らが足を運んでいる。

誰の目にも明らかだった。柊也の目的はプロジェクトの視察などではなく、志帆の後ろ盾となって、彼女に箔を付けることなのだ。

結構なことだわ。まるで、おしどり夫婦の出張ね。

柊也が会社にいないだけで、仕事量は半分になったように感じた。その上、もう第三部のプロジェクトに関わる必要もない。

驚くほど、心も体も軽やかで、居心地が良かった。

詩織は、仕事帰りに風間先生の診察を予約していた。胃の不調を治すための薬を処方してもらうためだ。

このボロボロの体を、そろそろ本気で立て直さなければならない。

風間先生は、江ノ本市では名の知れた内科と伝統医学の権威で、普段は予約を取ることすら困難だった。

以前、詩織がクライアントの家族のために、朝早くからクリニックに通い詰めてはどうにか予約を取り付けていた時期があり、その頃から顔見知りになっていた。

風間先生は詩織のその仕事熱心さを高く評価する一方で、会うたびに体のことを気遣い、こう口を酸っぱくして言っていた。

若いからといって無茶を続けていると、年を取ってから後悔することになるぞ、と。

そんな彼女が自ら体を顧みるようになったのが嬉しいのだろう、先生はわざわざ診察時間を過ぎても、詩織を待っていてくれることになっていた。

ところが、詩織がクリニックへ向かう途中、スカイウィング社の社長、早乙女怜(さおとめ れい)から電話がかかってきた。

「江崎さん、大変なことになったんです。すぐにこちらへ来てもらえませんか!」

詩織は眉をひそめ、何があったのか尋ねた。

怜の話では、エイジア・キャピタルの人間がプロジェクトの視察に訪れ、当初はすべて順調だったという。

だが、交渉の段になって、エイジア投資第三部の柏木志帆が、一度は合意したはずの評価額から、さらに3パーセントもの値下げを強要してきたらしい。

そればかりか、スカイウィング社のドローンは工業向けに偏りすぎていて商業的価値が低い、市場シェアも他の商用ブランドに劣る、などと難癖をつけては、執拗に値下げを迫っているとのことだった。

「江崎さん、あの時、あなたが誰よりも誠意を見せてくれて、私たちの未来に寄り添った提携案を考えてくれたから、私たちはエイジアを選んだんです!他にも提携したいっていう投資家は、たくさんいたんですよ!こんなやり方、あまりに信義に反します!私が交渉の席につくのは、江崎さん、あなただけです。もし来てくれないなら、この話はもう、なかったことにします!」

อ่านหนังสือเล่มนี้ต่อได้ฟรี
สแกนรหัสเพื่อดาวน์โหลดแอป
ความคิดเห็น (1)
goodnovel comment avatar
もんもん
この社長がヒーローではないと信じます。あまりにも無慈悲で薄情過ぎて、正直読み進みたくない。できれば、エンディングでヒロインが幸せでいる所を今すぐ読みたい。この社長と周辺の、ヒロインを貶める人物全員がヒロイン以上の辛酸を舐め尽くす悲惨な状態である事を願います。
ดูความคิดเห็นทั้งหมด

บทล่าสุด

  • 七年の恋の終わりに、冷酷な彼は豹変した   第922話

    それは単に、二度と志帆を入り込ませないためだった。当時は最も緊迫した局面に差し掛かっていた。何年にもわたり、血の滲むような思いで繋ぎ合わせてきた証拠の包囲網が、あと少しで完成しようとしていたのだ。ここでほんのわずかでも躊躇や弱みを見せれば、長年の苦労がすべて水の泡になる。だからこそ、彼は心を鬼にして、あの家を徹底的に破壊するしかなかったのだ。志帆を納得させる口実も十分だった。「ここにあるものはすべて詩織が整えたものだ。君に嫌な思いをさせたくないから、更地にして建て直すことにした」そう告げると、彼女は疑うどころか、自分のためにそこまでしてくれるのかと感激すらしていた。自分はこれほどまでに愛されているのだと、彼女は信じて疑わなかった。だが、真実は彼だけが知っている。建物が崩れ去るその瞬間、彼の心もまた、音を立てて瓦礫の山へと崩れ落ちていた。思えば、あの家の装飾を詩織に一任したときから、彼には下心があった。自分の好みなど一切気にせず、彼女の好きなように、彼女の理想を形にしてほしかったのだ。遠慮させないよう、あえて無関心を装い、「寝られればどこでもいい」などとそっけない態度をとった。ただ、彼女が思い描く「温かな家庭」がどんなものか、見てみたかったのだ。もし運が良ければ、三、五年ほど刑務所で服役したあと、彼女が作り上げたあの家で余生を静かに過ごせるかもしれない。運が悪ければ――その時は、それまでの運命だと諦めるつもりだった。......車がホテルのエントランスに滑り込んだ。詩織は、再び眠りに落ちかけた柊也を揺り起こした。回ってきたアルコールのせいで、彼の意識はさっきよりも混濁している。運転手が手を貸そうとしても、彼はそれが誰かも判別できないのか、ひたすらその手を拒絶し、振り払おうとする。見かねた詩織が、代わりに彼の身体を支えた。すると、彼は先ほどまでの抵抗が嘘のように大人しくなったが、代わりにその体重のすべてが彼女にのしかかってきた。詩織はドレスにハイヒールという格好だ。成人男性の重みを支えきる体力など、どこにもない。「……お願い、少しは自分で歩いてよ」詩織の声に、余裕がなくなっていく。「ここにも、泊まらない……」柊也は頑なにホテルに入ろうとしない。いい加減、詩織の堪忍袋の

  • 七年の恋の終わりに、冷酷な彼は豹変した   第921話

    せり上がってくる苦いきしみから逃れるように、詩織は窓から顔を背けた。眉間を寄せ、冷徹なまでに淡々とした声で言い放つ。「何を今さら感傷に浸ってるの?自分で壊したくせに」柊也は気怠げに腕を上げ、自分の両目を覆い隠した。そして、重苦しい車内の空気よりもさらに沈んだ声で、ひと言だけこぼした。「ああ……俺が、この手で台無しにしたんだ」その瞬間、詩織の胸には訊きたいことが山ほど込み上げてきた。なぜ、あの家を壊したのか。志帆を愛したことなど一度もないと言うなら、なぜあの時、私を捨てて彼女を選んだのか。けれど、言葉が喉まで出かかっては、そのまま飲み込むことを繰り返した。今さら訊いてどうなる。未練があると思わせるだけではないか。彼女の心には、燻り続ける怒りと、どうしても拭えない不信感があった。一度私を捨てた男だ。二度目も、三度目も、きっと同じことを繰り返すに違いない。......「柊也くん、家が火事になっちゃって……しばらくの間、あなたのところに置いてもらえないかな?」そう訴える志帆の瞳は、悲劇のヒロインのように潤んでいた。柊也が、長期滞在用のホテルを手配しようと口を開きかけた、その時だ。佳乃が、まるで示し合わせたようなタイミングで助け舟を出した。「志帆は昔からデリケートでしょ?ホテルだとなかなか寝付けないのよ。一日二日ならまだしも、長期となると……家を直すのに一ヶ月はかかるっていうし」佳乃はわざとらしく自分を責めるような仕草を見せた。「ごめんなさいね。私の不注意なの。料理中に電話に出ちゃって、つい火の粉を……」当時、帰国したばかりの志帆を伴って現れた佳乃の言葉は、明らかに柊也を試すためのものだった。「ホテルには泊まれない」などというのは単なる口実で、彼がどこまで志帆を特別扱いするのかを見極めようとしていたのだ。柊也は仕方なく、志帆を自分の家に住まわせることを承諾した。本当は、適当なマンションの一室を自分の家だと偽って貸し出すつもりだった。詩織が心を込めて整えたあの家を、志帆に汚されたくなかったからだ。だが、志帆はすでに調べ上げていた。職場であるエイジアに近く、都会の喧騒を忘れさせるあの閑静な邸宅が、彼の一番の拠点であることを。あの日、柊也は車を走らせながら、同じ場所を何度も何度も回った。

  • 七年の恋の終わりに、冷酷な彼は豹変した   第920話

    太一は、背筋に氷を押し当てられたような戦慄を覚えた。振り返るまでもない。この得体の知れない気配の主を、彼は嫌というほど知っていた。「太一くん、来てたなら挨拶くらいしてくれてもいいじゃない」ニーナが前に回り込んできた。顔中にべったりと笑みを湛えている。「……いやあ、今日のニーナさんがあまりに綺麗なんで、見惚れて誰だかわからなかったんですよ」太一は引きつりそうになる顔を必死で抑え、精一杯の営業スマイルを絞り出した。「もう、相変わらず口が上手いんだから。そういうところが大好きなのよねえ」ニーナは上機嫌で浮かれているが、太一の方はすでに表情筋が限界だった。今の太一が味わっている地獄とは対照的に、会場の反対側で「完璧なアシスタント」を演じている男は、まさに我が世の春を謳歌しているようだった。今夜、詩織に注がれる酒はすべて、柊也が鮮やかな手際で引き受けていた。宴も中盤に差し掛かっているが、詩織はまだ一滴もアルコールに触れていない。最初は、彼のアレルギーを心配して止めたのだ。だが柊也は「来る前に薬を飲んできたから大丈夫だ」と事もなげに言った。その言葉に、詩織の思考がふと止まる。――その手慣れた準備の良さは、かつて志帆の傍らで彼女を庇い、酒を代わりに飲み続けてきた経験からきているものだろう。そう気づいた瞬間、詩織の心は鉛を飲まされたように重く沈んでいった。結局、お開きになる頃には、柊也はすっかり出来上がっていた。詩織は彼を支えて車に押し込み、ひとまず送り届けようとして、ふと足が止まった。自分は今の柊也の住所を知らない。隣のシートに沈み込んでいる男に目を向ける。かなりの酔いようだ。二、三度名前を呼んでみたが、反応がない。詩織はためらいながらも、彼の頬を軽く叩いて促した。「柊也、起きて。家はどこ?住所を教えてくれないと送れないでしょう」「……ん……」柊也は何かをくぐもった声で呟いた。聞き取れず、詩織が耳をその口元へ寄せた。「どこだって?」しかし、彼はそれきり黙り込んでしまった。耳たぶにかかる熱い吐息に、詩織は思わず身をすくめる。彼女は小さくため息をつくと、運転席へ指示を出した。「……ひとまず、賀来の本宅へ向かってください」賀来家の本宅は帰り道からだいぶ外れていたが、詩織は構わず運転手にハンド

  • 七年の恋の終わりに、冷酷な彼は豹変した   第919話

    履歴書の備考欄には、密が書き加えた「独身」という二文字がある。受け答えの内容も申し分なく、一通りの質問を終えると、密が彼女に外で待機するよう告げた。愛梨が退室すると、密が隣の詩織に声を落として訊ねる。「詩織さん、あの子いいと思うんですが。どうですか?」しかし、詩織の手元では、愛梨の名前に大きなバツ印がつけられていた。まさか、詩織さん……賀来社長の件で焼きもちを?密がそんな不敬な邪推をしているとは露知らず、詩織は淡々とした口調で言った。「彼女、右の中指に指輪の跡があったわ。面接に来る直前に慌てて外したんでしょうね」この界隈の習慣では、右の中指に指輪をはめるのは「婚約中」や「真剣交際中」を意味することが多い。愛梨は、採用に不利になるのを恐れてか、その事実を隠して「独身」と嘘をついたのだ。もちろん、採用されたい一心での隠し事だろう。だが、詩織が求めているのは、公私にわたって密接に自分を支え、時には機密事項にも触れることになるアシスタントだ。仕事の入り口でこうした不誠実さを見せる人間を身近に置くのは、ビジネス上のリスクを伴う。詩織が彼女を落とした理由は、嫉妬などではなく、あくまで冷徹なリスク管理の結果だった。密は自分の考えの浅さを恥じ、背筋を正した。その後も何人かの面接を行ったが、誰もが優秀ではあった。しかし、性別の壁を除けば、柊也の積み上げてきた圧倒的なキャリアを打ち負かせる者など、一人もいなかった。詩織は手元に残った四枚の履歴書を眺め、一分ほどの沈黙のあと。迷いなく、賀来柊也の名前にチェックを入れた。彼女はペンを置くと、密に言い渡した。「規約通り、試用期間は一ヶ月。合格ラインに達して初めて本採用とするわ」そして、会議室を出る間際に、短くこう付け加えた。「今夜の会食、さっそく彼を同行させて」......太一は朝から頭痛が止まらなかった。原因はわかっている。今日またしても、あのニーナと顔を合わせる羽目になったからだ。本当に勘弁してほしかった。前回、あの女にねっとりとセクハラまがいのボディタッチをされて以来、三日連続で悪夢にうなされたのだ。ようやくトラウマから立ち直りかけていたというのに、今夜のレセプションパーティーに彼女が参加すると知らされ、本気で泣きたい気分だった。

  • 七年の恋の終わりに、冷酷な彼は豹変した   第918話

    お昼時、ミキから詩織の元にメッセージが届いた。夜は大事な接待が入ったから夕食は作れない、適当に済ませてほしいという内容だ。詩織が「最近、仕事入れすぎじゃない?」と返すと、ミキは「それだけ私が売れっ子になる予兆ってこと!」と、自信満々の絵文字を送ってきた。「『人生の三大錯覚』って知ってる?」詩織が冗談半分に訊ねる。「何それ?」「海外株が暴落する、日経平均が爆上がりする、そして――『私はもうすぐ有名になる』」するとミキは、首を横に振るスタンプと共にこう返してきた。「残念、今は『四大錯覚』に更新されてるよ」「あと一つは?」「『彼はまだ私を愛している』、それから『今回は今までとは違う』」「……」これ以上の返信は無理だ。完全に会話を強制終了させられた気分だった。そんな「会話ブレイカー」のミキだが、最後の一押しは忘れなかった。「アシスタントのこと、忘れないでよ!」「わかってる。ちょうど今、密が面接してるはずだから」ミキからOKの手元スタンプが届き、やり取りは終わった。スマホを置いたタイミングで、密がノックをして部屋に入ってきた。その表情はどこか言いようのない、奇妙な陰を帯びている。詩織は怪訝そうに顔を上げた。「面接、この時間じゃなかった?」密は困ったように頭をかいた。「そうなんですけど……ちょっと判断に迷いまして。詩織さん、お忙しいところ申し訳ないんですが、一度直接会っていただけませんか?」密が詩織の下について五年になる。実務能力に疑いの余地はない彼女が、ここまで歯切れを悪くするというのは、よほどの事情があるに違いない。「候補者の履歴書を見せて」密は心得たもので、最終選考に残した五人の履歴書をすぐに差し出し、手短に報告した。「最終に残ったのは五名。女性が四名、男性が一名です」「男性?アシスタントは女性限定って言っておいたはずだけど」「はい、承知しています。ただ……この最後の一人だけは、あまりに経歴が優秀すぎて……」詩織の訝しむような視線を受け、密はもう腹をくくったという様子で言った。「とにかく、まずは彼のプロフィールをご覧になってから、判断していただけますか」一番下にあった履歴書を目にした瞬間、詩織は密があんなに歯切れが悪かった理由を完全に理解した。彼女は眉間にしわを寄せ、その履歴書

  • 七年の恋の終わりに、冷酷な彼は豹変した   第917話

    あの日、横断歩道で死んだように立ち尽くしていた自分を、鬼気迫る顔で引き戻してくれたミキの怯えた目を、詩織は一生忘れることはないだろう。氷のように冷え切った自分の手を、泣きそうな顔で何度も何度も温めようと擦ってくれた、あの痛切な姿を。その一言が、柊也の胸の内で燃え上がっていた燻りを、冷水のように完全に鎮火させた。ぐうの音も出ない。これ以上、彼に反論する資格など何一つ残されていなかったからだ。詩織はあえて彼の方を振り返らず、冷たい窓ガラスを向いたまま淡々と言った。「もしあなたがこういう関係を我慢できないなら、今この瞬間に諦めてくれて構わないわよ」――選択権は、最初からずっとあなたの側にある。対する柊也の答えは、絡めていた指にさらに力を込め、彼女の手を力強く握りしめることだった。「俺は構わない」迷いのない、絶対的な響き。「たとえ一生、公にできない日陰の身だったとしても……俺は構わない」その言葉に、詩織の胸の奥が、熱い火の粉を落とされたようにチリッと焼けた。彼女は残された最後の理性を総動員して、彼に強く握り込まれた手を振り払った。「……もう帰るわ」「なら……今夜は、俺のことを思い出してくれるか?」ほんの少しの甘い余韻でもいい、すがりつくように彼が問う。詩織は振り返ることなく、短い言葉を投げ返した。「……いいえ」それでも柊也は怒るどころか、静かな夜の雨音の中で、自嘲するように柔らかく笑った。「……俺は、ずっと君のことを考えているよ」......ミキはまだ起きていた。リビングのソファに寝転がり、中身のない恋愛リアリティ番組を見ながら、推しのカップリングの展開にきゃあきゃあと騒いでいる。詩織が玄関のドアを開けると、ミキは一瞬だけテレビから視線を移した。「おかえりー」「ただいま」詩織はうつむき加減で靴を脱いだ。「鍋にスープ作ってあるから飲んでおきなよ。お酒抜けるし、胃も休まるから」「うん、ありがとう」詩織はキッチンでスープを器によそい、ダイニングテーブルについた。温かいスープを、少しずつ胃の腑に流し込んでいく。「毎日そんな接待ばっかりで大丈夫なの?あんたもうすぐ三十路なんだよ。二十代半ばの頃とは違うんだから、絶対に体がもたないって。密に言って、もう一人アシスタントを探してもらいなよ」テレビ画面を眺め

  • 七年の恋の終わりに、冷酷な彼は豹変した   第578話

    「ただ聞いただけだろ。俺をなんだと思ってるんだよ」澪士が抗議するも、雲斗はバッサリと切り捨てた。「ろくなもんじゃない、ってとこかな」澪士「……」俺の人望、なさすぎないか?雲斗は面白そうに続ける。「ま、噂じゃ今度入るコはかなりの美人で、今はフリーらしいけど……つい最近、男で手痛い失敗をしたばかりとか。体の怪我より、心の傷のほうが治りが遅いって言うしね。今は付け入る隙なんてないと思うよ」その言葉に、律がちらりと隣の千尋を見た。自分の過去でも重ねたのか、感づいた千尋がすかさず睨む。「律、なに変に共感してんのよ」「別に」「顔なら、悠人に聞けばいいだろ。会ったことあるんだ

  • 七年の恋の終わりに、冷酷な彼は豹変した   第574話

    向井が去った後、志帆は恐る恐る柊也の顔色を窺った。彼の様子は以前と少しも変わらない。平然として、静かなままだ。食事が進まない志帆に気づいたのか、彼がふと顔を上げる。「口に合わなかったか?」「ううん、そんなことないわ」その何気ない気遣いに、志帆の胸の痞えが少しだけ下りた気がした。食後、柊也はそのまま『エイジア』での会議へ向かうという。「ついでだから」と志帆を実家まで送り届けてくれた。帰宅するなり、美穂が目を丸くして出迎える。「早かったのね。てっきり一日中デートかと」「帰国したばかりだもの、会社が大忙しみたい。朝食の時間を作るだけでも大変だったんじゃないかしら」志帆はそう言

  • 七年の恋の終わりに、冷酷な彼は豹変した   第544話

    あの頑固な恩師のことだ。直接目の前に置いてやらなければ、薬を飲もうとなんてしないに決まっている。車を降りる際、詩織は運転手の湊に「すぐに戻るから」と一言残し、屋敷の玄関へ向かった。インターホンを押すと、家政婦が顔を出した。詩織の姿を認めると、柔和な笑みを浮かべる。「江崎さま。先生は散歩に出られておりまして、戻られるまで少し掛かるかと。中でお待ちになりますか?」「いえ、これを届けに来ただけですので。先生に、きちんと飲むようにお伝えください」詩織はそう言って、手にした紙袋を渡した。「かしこまりました」用件だけ済ませると、詩織は屋敷に足を踏み入れることなく踵を返した。家政

  • 七年の恋の終わりに、冷酷な彼は豹変した   第545話

    柊也は運転手を走らせ、アイスを買ってこさせた。だが、志帆はそれを二、三口舐めただけで、意味ありげな視線を柊也に送り続けた。しかし、彼の表情はあまりに平静で、彼女の暗示など微塵も察していないようだ。業を煮やした志帆は、わざとらしく彼の方へ身を寄せた。フェロモンを模した香水の甘い香りが車内に漂う。わざわざ胸元の大きく開いたミニドレスを選び、暑さを口実に上着まで脱ぎ捨てたのだ。その誘惑の意図はあまりに露骨だった。すると突然、柊也が口元に拳を当て、こほん、と咳払いをした。そして、やんわりと志帆の身体を押し戻した。「インフルエンザ気味なんだ。あまり近づかない方がいい。うつると

บทอื่นๆ
สำรวจและอ่านนวนิยายดีๆ ได้ฟรี
เข้าถึงนวนิยายดีๆ จำนวนมากได้ฟรีบนแอป GoodNovel ดาวน์โหลดหนังสือที่คุณชอบและอ่านได้ทุกที่ทุกเวลา
อ่านหนังสือฟรีบนแอป
สแกนรหัสเพื่ออ่านบนแอป
DMCA.com Protection Status