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第9話

Penulis: 北野 艾
太一は、柊也が驚愕するだろうと踏んでいた。

ところが、彼の反応は驚くほど平然としていた。「城戸の奴、まだ諦めてなかったのか」

「ってことは……あいつ、江崎に声をかけるの、初めてじゃないのか?」

「ああ」柊也は意にも介さず、その口調には確信さえ滲んでいた。「だが、あいつに引き抜けるようなタマじゃない。江崎は行かない」

太一も同意見だった。彼はせせら笑う。「だよな。江崎がエイジアを辞めるわけねえよな」

他の理由はさておき、柊也がエイジアにいる限り、詩織が会社を去ることなどあり得ない。

「あの女も大概、食えねえよな。俺の見立てじゃ、わざと城戸をあの店に呼び出したんだ。俺に目撃させて、その噂をお前の耳に入れさせるために。そうすりゃ、お前が焦って引き留めてくれるとでも思ったんだろ」

太一は、すべてお見通しだと言わんばかりの口調で続けた。

「お前が志帆ちゃんを重用して、自分を構わないから嫉妬してんだ。まったく安っぽい手だよな。分別ってもんがねえ。男が、女の嫉妬だの小細工だのを一番嫌うって分かってねえのか。そんな真似すればするほど、お前が離れていくってのによ。

ほんと、身の程知らずもいいとこだ。自分が何様だと思ってんだ?志帆ちゃんと張り合おうなんて、土台無理な話だろ。どっちを選ぶかなんて、少しでも頭が回りゃ分かることだろうに」

柊也に、太一のゴシップに付き合っている時間はなかった。適当に相槌を打って電話を切る。

サインすべき書類の束をめくると、一枚の書類が目に留まった。

詩織からの、退職願だった。

彼はごく僅かに眉をひそめたが、すぐにその書類を脇に放ると、何事もなかったかのように他の書類にペンを走らせ始めた。

……

詩織は渉との話が弾み、すっかり上機嫌になっていた。帰り道、マンションの一階にある花屋で、自分のために花束を一つ買った。

家に着いて、そういえば花瓶が一つもなかったことを思い出す。

部屋中に溢れる、自分のものではない品々を眺めているうちに、せっかくの明るい気持ちが少しだけ翳りを帯びた。

詩織は段ボール箱を見つけ出すと、そこへ書類をすべて詰め込んでいく。そうしてようやく、ダイニングテーブルの上を何もない状態に戻した。

部屋をぐるりと見回し、やがて花瓶の代わりになりそうなものを見つけ出した。

一つの、トロフィー。

エイジア・キャピタルの優秀社員賞トロフィー。

かつて柊也が自らの手で彼女に授与した、詩織がずっと宝物のように大切にしてきたものだった。

以前、親友のミキが酔い潰れて泊まりに来た夜のことだ。

夜中に気分が悪くなったミキが、そのトロフィーを掴んで吐き込もうとした時、詩織は血相を変えてそれを奪い取った。

ベッドを汚される方が、このトロフィーを汚されるよりもずっとましだったのだ。

詩織はトロフィーに水を注ぐと、買ってきた花を生けた。

しばらくそれをじっと見つめ、やがてぽつりと呟く。「ようやく、少しは役に立ったわね」

眠りにつく前に、携帯電話の電源を完全に切る。そんな新しい習慣を身につけた彼女は、その夜、朝までぐっすりと眠った。

朝九時、詩織は定刻通りに出社した。

この時間になってようやく姿を見せた彼女に、他の同僚たちは一様に不思議そうな顔を向けた。いつもなら、詩織は誰よりも早く会社に来ているはずだったからだ。

しかも今日の彼女は、いつもの堅苦しいスーツ姿ではなく、淡い色合いのブラウスにスカートという出で立ちだった。

「江崎さん、今日、なんだかいつもと雰囲気違うね」

詩織は微笑んで問い返した。「どこが違うかしら?」

「すごく、綺麗」

正確に言えば、息を呑むほど綺麗だった。

薄化粧を施しただけなのに、醸し出すオーラが昨日までとはまるで違う。

透明感があり、華やかさの中にも楚々とした優雅さが漂う。

老若男女を問わず、誰もが思わず目で追ってしまうような、まさに「雰囲気美人」だった。

「ありがとう」詩織は、さらに機嫌を良くした。

詩織は出勤途中に朝食を済ませていたので、会社に着くと胃薬を飲むため給湯室へ向かった。

ドアに差し掛かったところで、中からひそひそと話す声が聞こえてきた。

「ねえ、江崎さんと柏木さん、どっちが綺麗だと思う?」

「うーん、タイプが全然違うから、比べられないんじゃないかな」

「前だったら、間違いなく柏木さんだったけどねえ。昔の江崎さんってすごく堅苦しかったし、服装もメイクも野暮ったくて、十歳は老けて見えたもん。でも、元がいいから、ちょっと変えるだけでこんなにハッとさせられるんだって驚いた」

「わかる!雰囲気ありすぎて、思わず『お姉さん』って呼びたくなっちゃう!」

「見た目だけなら江崎さんに軍配が上がるかもだけど、柏木さんは学歴も家柄もずば抜けてるから。そこはもう、江崎さんじゃ太刀打ちできないでしょ」

「そうよねえ。頭の良さとか家柄って、天性のものだもの。生まれる家を選ぶのも、才能のうちってことね」

「江崎さん、たしか片親なんだっけ……」

詩織は、その会話を遮るように中へ入っていった。場の噂話をぴたりと止める、絶好のタイミングだった。

「おはよう」詩織は何も聞こえなかったかのように、平然とした顔で室内のシンクへ向かい、挨拶をする。

数人は慌てて挨拶を返すと、そそくさとその場を立ち去っていった。

薬を飲み終えて自分のデスクに戻った途端、投資第三部の深見部長が慌てた様子でやってきた。賀来社長直々のご指名で、スカイウィング社とのドローンプロジェクトに関する評価レポートを至急で欲しい、とのことだ。

詩織が資料を手渡すと、彼は思い出したように尋ねた。「そういえば江崎さん、携帯、壊れてる?」

「いえ、別に」詩織は、きょとんとした顔で答えた。

「それが、何度かけても繋がらなくて。社長が今朝から出張で、このレポートが急ぎで必要だったのに、江崎さんと連絡が取れなかったんですよ」と、深見は説明した。

詩織はそれを聞いても、ただ淡々と「電池が切れていたのかもしれません」と答えるだけだった。

あまりにわざとらしい言い訳に、深見でさえ信じているようには見えなかった。

だが彼はそれ以上は追及せず、「社長は柏木さんと一緒に、スカイウィング社のドローンプロジェクトを視察に行かれました。戻りは来週になるかと。このレポートは、先に俺の方から送っておきます」とだけ言った。

詩織は静かに頷くと、パソコンを立ち上げて今日の業務に取りかかった。

あのドローンプロジェクトは、これまでずっと詩織が一人で進めてきた案件だった。二度にわたる現地視察も、先方との交渉も、すべて彼女が取り仕切ってきたのだ。

柊也がその件について口出ししてきたことは一度もなく、ましてや彼女に同行して地方の視察へ赴くことなど、あり得なかった。

何しろ、それはエイジアが抱える数多のプロジェクトの一つに過ぎず、柊也が自ら出張るほどの重要案件ではなかったからだ。

だが今回は、彼自らが足を運んでいる。

誰の目にも明らかだった。柊也の目的はプロジェクトの視察などではなく、志帆の後ろ盾となって、彼女に箔を付けることなのだ。

結構なことだわ。まるで、おしどり夫婦の出張ね。

柊也が会社にいないだけで、仕事量は半分になったように感じた。その上、もう第三部のプロジェクトに関わる必要もない。

驚くほど、心も体も軽やかで、居心地が良かった。

詩織は、仕事帰りに風間先生の診察を予約していた。胃の不調を治すための薬を処方してもらうためだ。

このボロボロの体を、そろそろ本気で立て直さなければならない。

風間先生は、江ノ本市では名の知れた内科と伝統医学の権威で、普段は予約を取ることすら困難だった。

以前、詩織がクライアントの家族のために、朝早くからクリニックに通い詰めてはどうにか予約を取り付けていた時期があり、その頃から顔見知りになっていた。

風間先生は詩織のその仕事熱心さを高く評価する一方で、会うたびに体のことを気遣い、こう口を酸っぱくして言っていた。

若いからといって無茶を続けていると、年を取ってから後悔することになるぞ、と。

そんな彼女が自ら体を顧みるようになったのが嬉しいのだろう、先生はわざわざ診察時間を過ぎても、詩織を待っていてくれることになっていた。

ところが、詩織がクリニックへ向かう途中、スカイウィング社の社長、早乙女怜(さおとめ れい)から電話がかかってきた。

「江崎さん、大変なことになったんです。すぐにこちらへ来てもらえませんか!」

詩織は眉をひそめ、何があったのか尋ねた。

怜の話では、エイジア・キャピタルの人間がプロジェクトの視察に訪れ、当初はすべて順調だったという。

だが、交渉の段になって、エイジア投資第三部の柏木志帆が、一度は合意したはずの評価額から、さらに3パーセントもの値下げを強要してきたらしい。

そればかりか、スカイウィング社のドローンは工業向けに偏りすぎていて商業的価値が低い、市場シェアも他の商用ブランドに劣る、などと難癖をつけては、執拗に値下げを迫っているとのことだった。

「江崎さん、あの時、あなたが誰よりも誠意を見せてくれて、私たちの未来に寄り添った提携案を考えてくれたから、私たちはエイジアを選んだんです!他にも提携したいっていう投資家は、たくさんいたんですよ!こんなやり方、あまりに信義に反します!私が交渉の席につくのは、江崎さん、あなただけです。もし来てくれないなら、この話はもう、なかったことにします!」

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Komen (1)
goodnovel comment avatar
もんもん
この社長がヒーローではないと信じます。あまりにも無慈悲で薄情過ぎて、正直読み進みたくない。できれば、エンディングでヒロインが幸せでいる所を今すぐ読みたい。この社長と周辺の、ヒロインを貶める人物全員がヒロイン以上の辛酸を舐め尽くす悲惨な状態である事を願います。
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