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第7話

Author: 北野 艾
『赤ちゃん』という言葉に、詩織が無理やり心の奥底に押し込めていた痛みが、じわじわと全身に広がっていくのを感じた。

……真っ白な天井の照明。……鼻をつく消毒液の匂い。……処置を終えた後の、体の芯まで凍えるような寒気。

一生、忘れられない。

自らの血肉が剥がれ落ちるような、あの痛みも、永遠に。

今になって思えば、あの子は何かを予感していたのかもしれない。

だから、静かにやって来て、また静かに去っていった。

まるで、自分に代わって大きな厄災を引き受けてくれるかのように。

会議が終わると、志帆が密に声をかけた。「小林さん、さっきの議事録、一部送ってくださる?」

内心の怒りを抑えきれない密は、棘のある言い方で答える。「まだ、まとめてません」

「だったら、整理してからでいいわ」

「こっちは死ぬほど忙しいんです。そんな時間ありません」

志帆は眉をひそめ、密を一瞥した。

密はそんな彼女を無視して、詩織の周りの片付けを黙々と手伝っている。

志帆が部屋を出て行った後で、詩織は彼女を諭すように言った。「覚えておいて。仕事に感情を持ち込んでは駄目。この会社では、それは許されないことよ。もしあなたがここで長くやっていきたいなら、誰の反感も買っちゃいけない。特に、自分より職位が上の人にはね」

「……だって、詩織さんのことを思うと、悔しくて」

「悔しいとか、そういうものじゃないの」詩織の表情から、すっと感情が抜け落ちていた。

彼女にしてみれば、恋愛は等価交換ではない。

自分が柊也に尽くすのは、自分がそうしたかったから。

それに対して柊也がどう応えるかは、彼自身の選択だ。

その二つの間に等号を引こうとすれば、自分で自分の首を絞めるだけだ。

柊也を愛していたから、将来を賭けて、海外留学の機会も諦めて、彼の起業に付き添い、彼を支えることを選んだ。

結果は芳しいものではなかったけれど、後悔はしていない。

負けを認めて、潔く身を引く。人生における最大の敵は、時として、自分の思考という名の檻に囚われたままの自分なのだから。

ただ、一つの恋が終わること。それはどうしようもなく、人を疲れさせ、悲しませる。

もう少し、時間が必要なだけ。

きっと、乗り越えられる。

……

終業時刻が近づいた頃、詩織は志帆宛てにメッセージを送った。

投資第三部のプロジェクト資料はすべて整理が完了したこと、必要であればいつでも届けに行く、と。

志帆からの返信は、驚くほど早かった。

【江崎さん、悪いけどその資料、柊也くんのオフィスに届けてもらえるかしら。私、帰国したばかりで国内のビジネス環境にはまだ疎いの。だから、柊也くんに少し分析をお願いしたくて】

メッセージの中では、何度も「柊也くん」という言葉が繰り返される。あまりにも気安い、親密な響き。

そして柊也は、その呼び方を一度も咎めようとはしなかった。志帆がそう呼ぶのを、ただ許している。

詩織は、はっきりと覚えていた。柊也は、社内で役職以外の名で呼ばれることを、何よりも嫌っていたはずだ。

この七年間、詩織はそのルールを固く守り、社内でも、取引先との会食の席でも、彼を「賀来社長」と呼び続けてきた。

忠実に、職務を全うしてきた。

そのすべてが今、一つの滑稽な茶番劇のように思える。

つまり、柊也が作ったルールは、しょせん「他人」にしか適用されないものだったのだ。

そして自分は、その「他人」に他ならなかった。

本当に好きな相手には、彼は何の制約も設けない。

詩織は【承知いたしました】とだけ返信し、整理し終えた分厚い資料の束に、柊也のサインが必要な書類を重ね合わせた。一緒にオフィスへ届けるつもりだった。

席を立つ直前、彼女は引き出しから署名を済ませた退職願を取り出し、柊也に提出する書類の間に、そっと差し込んだ。

彼がサインをするかどうかは分からない。それでも、踏むべき手順は踏まなければならなかった。

大量の資料を抱え、詩織は社長室へとまっすぐに向かう。

いつもと同じように、ドアをノックし、そして――返事を待たずに、そのままドアを開けた。

それが、柊也が彼女に与えた唯一の特権だったから。

秘書として、彼との業務上のやり取りはあまりにも多い。時間のロスをなくし、効率を上げるため、社長室への入室はノックのみで許可されていた。

いつしかその習慣は、詩織の体に深く染みついていた。

だから、彼女はノックをした後、無意識にドアノブに手をかけ、中へと足を踏み入れたのだ。

「失礼します」という言葉が口をついて出る前に、詩織の心臓は、目の前の光景によって激しく握りつぶされた。

志帆が、柊也のデスクに腰かけていた。その上半身は、椅子に座る柊也の方へと、乗り出すように傾けられている。

柊也の顔と、志帆の胸元が、触れんばかりに近付いていて……

それは、想像を絶するほど、親密な姿だった。

「きゃっ……」

詩織の突然の入室に驚いたのか、志帆はバランスを崩し、そのまま柊也の腕の中へと倒れ込んだ。

柊也は眉間に深い皺を刻み、氷のような声で詩織を叱責した。「ノックもできないのか」

詩織は、ノックはした、と言いかけた。

だが、そんな反論の言葉が、今この状況で何の意味を持つというのだろう。

「礼儀も知らないのか! それがお前の仕事のやり方か!」

男の顔は冷たく、その声は刃のように鋭い。彼女に特権を与えたのが自分であることなど、とうに忘却の彼方らしい。

「……申し訳ありません。次からは、気をつけます」詩織は、ただ頭を下げた。

――もう、次などないのだから。

志帆が、ようやく柊也の腕の中から顔を上げた。その頬は潤んだように赤く染まり、艶めかしい。

「柊也くん、そんなに怒らないであげて。江崎さんも、わざとじゃないんだから」志帆はそう言って、甘えた声で彼を諌める。

そして、今度は詩織の方へとにこやかに視線を向けた。「江崎さん、プロジェクトの資料を届けてくれたのよね。悪いのだけど、そこに置いてもらえる?今、ちょっと手が離せなくって」

詩織は己の感情を殺し、言われた通りに資料をデスクの端に置いた。そして、付け加えるように言う。「中に、社長のサインが必要な書類も入っております」

「わかったわ。じゃあ、もう出て行ってちょうだい」まるで女主人のように、志帆は詩織に命じた。

柊也もそれに続く。「用がないなら、二度と入ってくるな。邪魔だ。……他の者にもそう伝えておけ」

その言葉に、詩織の胸がずきりと痛んだ。震える指を、ゆっくりと握りしめる。「……承知いたしました」

詩織は、彼にそう約束した。

あの息の詰まるようなオフィスから、どうやって自分が退出したのか、詩織には思い出せない。

ただ覚えているのは、自分が部屋を出るその瞬間まで、志帆が柊也の膝の上に、泰然と座り続けていたことだけ。

まるでそこが、当然のように自分の居場所であるとでも言うように。

そして柊也もまた、彼女を突き放そうとする素振りなど、微塵も見せなかった。

彼が怒り、苛立っていたのは、自分たちの「いいところ」を邪魔されたからなのだろう。

出会って七年。柊也が、ここまで理性を失った姿を、詩織は初めて見た。

彼の冷静さと知性など、すべてが上辺だけの虚像だったかのようだ。

男という生き物は、本当に好きな女の前でだけ、内なる衝動と激情を抑えきれなくなるのだろうか。

でなければ、真昼間から、オフィスでこんな情事を繰り広げようなどと思うはずがない。

定時を迎えると、詩織はさっとパソコンの電源を落とし、帰る支度を始めた。

その様子に、秘書室の誰もが驚きに目を丸くした。

それもそのはず、詩織はエイジア・キャピタルでその名を知らない者はいないほどの仕事の鬼として知られ、年間を通して社内の残業時間記録を更新し続けている張本人なのだ。

特に投資第三部の業務を兼任するようになってからは、会社に寝泊まりすることさえ厭わず、まさに「会社が家」という状態だった。

その彼女が、定時で帰るなど……

誰もが我が目を疑う光景だった。

会社の正面玄関を出たところで、城戸渉(きど わたる)からまた電話がかかってきた。

いつもなら、詩織は着信を無視するか、適当な理由をつけて断っていたはずだ。

渉は、ヘッドハンターなのだ。

これまで何度も詩織を引き抜こうとアプローチしてきたが、そのたびにけんもほろろに断られていた。

だが今回、詩織は迷うことなく通話ボタンを押した。

電話の向こうの渉は、あまりの意外さに、自分がなぜ電話をかけたのかという本来の目的さえ忘れかけるほどだった。

詩織の方から話を切り出した。「城戸さん、お時間ありますか? 一度、お食事でもいかがでしょう」

渉は、隠しきれない興奮を声に滲ませた。「あ、あります、ありますとも!江崎さんからのお誘いとあれば、いつでも時間は作ります!何料理がお好みですか、すぐに店を押さえますよ!」

「できれば、胃に優しい……あっさりした味付けのお店にしていただけると。少し胃の調子が悪くて」

「はい!もちろんです!すぐに手配して、お店の情報を送りますね!では、後ほど!」と、渉は二つ返事で快諾した。

「ええ、後ほど」

詩織は一旦帰宅して私服に着替えてから、約束の場所へと向かった。彼女が借りているアパートは、会社からそう遠くない。

家賃は高いが、会社に近ければ通勤も残業も楽だという理由で選んだ場所だった。

以前、柊也はそのことを全く理解できず、詩織の部屋を「狭すぎるし、ごちゃごちゃだ」と貶し、一度訪れたきり二度と足を踏み入れることはなかった。

用がある時はいつも、詩織を自分のマンションに呼びつけた。

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