LOGIN履歴書の備考欄には、密が書き加えた「独身」という二文字がある。受け答えの内容も申し分なく、一通りの質問を終えると、密が彼女に外で待機するよう告げた。愛梨が退室すると、密が隣の詩織に声を落として訊ねる。「詩織さん、あの子いいと思うんですが。どうですか?」しかし、詩織の手元では、愛梨の名前に大きなバツ印がつけられていた。まさか、詩織さん……賀来社長の件で焼きもちを?密がそんな不敬な邪推をしているとは露知らず、詩織は淡々とした口調で言った。「彼女、右の中指に指輪の跡があったわ。面接に来る直前に慌てて外したんでしょうね」この界隈の習慣では、右の中指に指輪をはめるのは「婚約中」や「真剣交際中」を意味することが多い。愛梨は、採用に不利になるのを恐れてか、その事実を隠して「独身」と嘘をついたのだ。もちろん、採用されたい一心での隠し事だろう。だが、詩織が求めているのは、公私にわたって密接に自分を支え、時には機密事項にも触れることになるアシスタントだ。仕事の入り口でこうした不誠実さを見せる人間を身近に置くのは、ビジネス上のリスクを伴う。詩織が彼女を落とした理由は、嫉妬などではなく、あくまで冷徹なリスク管理の結果だった。密は自分の考えの浅さを恥じ、背筋を正した。その後も何人かの面接を行ったが、誰もが優秀ではあった。しかし、性別の壁を除けば、柊也の積み上げてきた圧倒的なキャリアを打ち負かせる者など、一人もいなかった。詩織は手元に残った四枚の履歴書を眺め、一分ほどの沈黙のあと。迷いなく、賀来柊也の名前にチェックを入れた。彼女はペンを置くと、密に言い渡した。「規約通り、試用期間は一ヶ月。合格ラインに達して初めて本採用とするわ」そして、会議室を出る間際に、短くこう付け加えた。「今夜の会食、さっそく彼を同行させて」......太一は朝から頭痛が止まらなかった。原因はわかっている。今日またしても、あのニーナと顔を合わせる羽目になったからだ。本当に勘弁してほしかった。前回、あの女にねっとりとセクハラまがいのボディタッチをされて以来、三日連続で悪夢にうなされたのだ。ようやくトラウマから立ち直りかけていたというのに、今夜のレセプションパーティーに彼女が参加すると知らされ、本気で泣きたい気分だった。
お昼時、ミキから詩織の元にメッセージが届いた。夜は大事な接待が入ったから夕食は作れない、適当に済ませてほしいという内容だ。詩織が「最近、仕事入れすぎじゃない?」と返すと、ミキは「それだけ私が売れっ子になる予兆ってこと!」と、自信満々の絵文字を送ってきた。「『人生の三大錯覚』って知ってる?」詩織が冗談半分に訊ねる。「何それ?」「海外株が暴落する、日経平均が爆上がりする、そして――『私はもうすぐ有名になる』」するとミキは、首を横に振るスタンプと共にこう返してきた。「残念、今は『四大錯覚』に更新されてるよ」「あと一つは?」「『彼はまだ私を愛している』、それから『今回は今までとは違う』」「……」これ以上の返信は無理だ。完全に会話を強制終了させられた気分だった。そんな「会話ブレイカー」のミキだが、最後の一押しは忘れなかった。「アシスタントのこと、忘れないでよ!」「わかってる。ちょうど今、密が面接してるはずだから」ミキからOKの手元スタンプが届き、やり取りは終わった。スマホを置いたタイミングで、密がノックをして部屋に入ってきた。その表情はどこか言いようのない、奇妙な陰を帯びている。詩織は怪訝そうに顔を上げた。「面接、この時間じゃなかった?」密は困ったように頭をかいた。「そうなんですけど……ちょっと判断に迷いまして。詩織さん、お忙しいところ申し訳ないんですが、一度直接会っていただけませんか?」密が詩織の下について五年になる。実務能力に疑いの余地はない彼女が、ここまで歯切れを悪くするというのは、よほどの事情があるに違いない。「候補者の履歴書を見せて」密は心得たもので、最終選考に残した五人の履歴書をすぐに差し出し、手短に報告した。「最終に残ったのは五名。女性が四名、男性が一名です」「男性?アシスタントは女性限定って言っておいたはずだけど」「はい、承知しています。ただ……この最後の一人だけは、あまりに経歴が優秀すぎて……」詩織の訝しむような視線を受け、密はもう腹をくくったという様子で言った。「とにかく、まずは彼のプロフィールをご覧になってから、判断していただけますか」一番下にあった履歴書を目にした瞬間、詩織は密があんなに歯切れが悪かった理由を完全に理解した。彼女は眉間にしわを寄せ、その履歴書
あの日、横断歩道で死んだように立ち尽くしていた自分を、鬼気迫る顔で引き戻してくれたミキの怯えた目を、詩織は一生忘れることはないだろう。氷のように冷え切った自分の手を、泣きそうな顔で何度も何度も温めようと擦ってくれた、あの痛切な姿を。その一言が、柊也の胸の内で燃え上がっていた燻りを、冷水のように完全に鎮火させた。ぐうの音も出ない。これ以上、彼に反論する資格など何一つ残されていなかったからだ。詩織はあえて彼の方を振り返らず、冷たい窓ガラスを向いたまま淡々と言った。「もしあなたがこういう関係を我慢できないなら、今この瞬間に諦めてくれて構わないわよ」――選択権は、最初からずっとあなたの側にある。対する柊也の答えは、絡めていた指にさらに力を込め、彼女の手を力強く握りしめることだった。「俺は構わない」迷いのない、絶対的な響き。「たとえ一生、公にできない日陰の身だったとしても……俺は構わない」その言葉に、詩織の胸の奥が、熱い火の粉を落とされたようにチリッと焼けた。彼女は残された最後の理性を総動員して、彼に強く握り込まれた手を振り払った。「……もう帰るわ」「なら……今夜は、俺のことを思い出してくれるか?」ほんの少しの甘い余韻でもいい、すがりつくように彼が問う。詩織は振り返ることなく、短い言葉を投げ返した。「……いいえ」それでも柊也は怒るどころか、静かな夜の雨音の中で、自嘲するように柔らかく笑った。「……俺は、ずっと君のことを考えているよ」......ミキはまだ起きていた。リビングのソファに寝転がり、中身のない恋愛リアリティ番組を見ながら、推しのカップリングの展開にきゃあきゃあと騒いでいる。詩織が玄関のドアを開けると、ミキは一瞬だけテレビから視線を移した。「おかえりー」「ただいま」詩織はうつむき加減で靴を脱いだ。「鍋にスープ作ってあるから飲んでおきなよ。お酒抜けるし、胃も休まるから」「うん、ありがとう」詩織はキッチンでスープを器によそい、ダイニングテーブルについた。温かいスープを、少しずつ胃の腑に流し込んでいく。「毎日そんな接待ばっかりで大丈夫なの?あんたもうすぐ三十路なんだよ。二十代半ばの頃とは違うんだから、絶対に体がもたないって。密に言って、もう一人アシスタントを探してもらいなよ」テレビ画面を眺め
――きっと、すべてはアルコールのせいだ。あるいは、雨の夜の湿気めいた空気が、人を甘く狂わせているだけなのかもしれない。詩織は、自分の中にある衝動を抑えきれなくなっていた。柊也は顔を近づけてはきたものの、唇を重ねようとはしない。ただ、互いの熱を帯びた吐息が、ごく近い距離で絡み合うだけだった。彼はかつてないほどの凄絶な忍耐力で、その瞬間に耐えていた。彼に覆い被さられるようにして狭い車内の空間に閉じ込められ、詩織の胸の鼓動は激しく鳴り続けている。彼女の体勢からキスをするには、上半身を少し浮かせ、背筋を伸ばして彼を仰ぎ見る必要があった。だが、彼女は動かなかった。代わりに手を伸ばし、彼のネクタイをそっと掴み――ほとんど力を入れずに、彼を引き寄せた。そして、迷うことなく顎を上げ、自らその唇に触れた。その瞬間、柊也の中で必死につなぎ止めていた理性の糸が、音を立てて灰燼に帰した。彼女の唇が触れたか触れないかの刹那、彼は受け身から一転して圧倒的な攻勢に出た。詩織がわずかでも戸惑う隙すら与えない。彼女のうなじを太い指で強く固定すると、荒々しく唇を塞ぎ、強引に彼女のすべてを支配した。容赦のない、野蛮なまでの口づけだった。それはもはや、相手から何もかもをもぎ取ろうとする『略奪』そのものだった。彼女の心ごとその呼吸を、彼は激しく奪い尽くしていく。たちまち酸欠状態に陥った詩織は息を詰まらせ、彼のネクタイを握りしめていた指先の力を、弱めてはまた強く握り込んだ。やがて限界を迎え、仔猫のように抗議のサインとして彼の胸を小さく引っ掻く。それに気づいて、柊也はようやく唇を離した。額と額を重ね合わせ、鼻先と鼻先が親しげにこすれ合う。吐息はまだ、すぐそばで熱を交わし合っていた。詩織の瞳はすっかり霞み、潤んだ水面のように揺れている。柊也の親指の腹が、赤く腫れた彼女の柔らかな唇をそっと撫でた。鋭い喉仏が上下にゆっくりと滑る。「……嘘つきだな。あんなにも甘かったじゃないか」彼が指しているのは、レモネードのことではなく、彼女の唇のことだ。無意識に、詩織は自分の下唇を舌先でぺろりと舐めた。その仕草だけで、狭い車内の温度がさらに数度跳ね上がった。柊也の眼光が途端に暗く沈む。次の瞬間、再び嵐のようなキスが情赦なく押
「他に誰がいるのよ。あんたの『お料理の師匠』よ」「…………」詩織さんも、たまには冗談を言うんですね……だが、まさに噂をすれば影、である。外の湿った空気とともに、柊也が姿を現した。天井に連なる巨大なクリスタルシャンデリアが眩い光を放ち、その輝きが墨をこぼしたような影となって彼の端正な佇まいに降り注ぐ。彼は迷いのない足取りで詩織の元へ歩み寄ると、密から引き継ぐように、極めて自然な動作で彼女を抱き上げた。詩織の長い髪が重力に従ってこぼれ落ち、しなやかな髪筋が音もなく彼の腕に絡みつく。彼女は腕の中で首を傾けながら、じっと彼を見つめた。薄暗い照明と華やかな喧騒、そのすべてがこの男の顔にはよく似合う。柊也もまた彼女の瞳を見つめ返し、その奥に柔らかな笑みを浮かべた。「……何を見ているんだ?」詩織は答えず、代わりに指先を伸ばして彼の彫りの深い眉をなぞった。高い眉骨が、その下の涼やかな目元をより深く、情熱的に見せている。誰を――たとえそれが一匹の犬であっても、慈しむように見つめてしまう罪な瞳。「酔ったのか?」ふわりと漂う淡い酒の匂いに、柊也が尋ねた。「酔ってない。知ってるでしょ、私がお酒に強いことくらい」詩織が即座に否定すると、柊也はたまらずといった風に吹き出した。「なるほど。これだけはっきり『酔ってない』と言い張るなら、相当飲んだみたいだな」「……私が酔わなきゃ、あなたに迎えに来るチャンスなんてないでしょう?」詩織が小さく不満を漏らすと、柊也の喉仏がわずかに震えた。「……ほう。じゃあ、わざと酔い潰れて、俺に機会を作ってくれたのか?」詩織は彼の胸に顔を埋め、語尾を濁した。「……そんなわけないじゃない」「はいはい、そうだな」柊也は愛おしさを噛みしめるように応じると、壊れものを扱うような手つきで彼女を車に乗せた。詩織を座席に落ち着かせると、彼は用意していた特製のレモネードを差し出した。一口含んだ途端、詩織は整った眉をぐにゃりと歪めた。「……酸っぱい」「そんなはずはないだろう?」即座に柊也が否定する。彼女好みの味にするために、彼はこれまで何度となくレモネードを作ってきた。目分量だけで完璧な黄金比を再現できる自信がある。味見をするまでもなく、それが彼女の好きな甘酸っぱさであるはずだった
坂崎の言葉に、その場にいた一同だけでなく、詩織も興味を惹かれた。坂崎はゆったりとした口調で続けた。「単なる秘書の一人なら、私もそこまで注目はしなかったでしょう。あの日、賀来社長が『どうしても紹介したい人材がいる』と私を離さなかったんですよ。彼は会場中を歩き回ってあなたを探し、最後には電話でわざわざ呼び出した。私は、あの彼がそこまで熱心に推す人物とは一体何者だろうか、と強く興味を惹かれたわけです」坂崎は穏やかな視線を詩織に向けた。「後に、あなたが『ココロ』のプロジェクトを抱えて私を訪ねてきた時、ようやく確信しましたよ。ああ、あの男がここまで惚れ込んだ才能は、本物だったんだな、と」坂崎の話に、詩織の思考は一瞬だけ止まった。――思い出した。あの日、祝賀会の運営に追われていた彼女は、胃の激痛に襲われていた。あまりの辛さに耐えかね、ラウンジの隅で白湯を飲み、身体を丸めるようにして休んでいたのだ。ところが、痛みが引く間もなく柊也から電話がかかってきた。その時の彼の声は、どこまでも冷酷で厳しかった。疲労困憊の彼女を気遣う素振りすら見せず、冷たくどこにいるのかと問い詰め、「今すぐここへ来い」と命じたのだ。てっきり、自分を酒席の相手か何かの穴埋めに呼び出したのだとばかり思っていた。今の今まで、そう信じて疑わなかった。坂崎の話は、以前、沙羅から聞いた話と奇妙に符合した。沙羅も打ち明けてくれたことがあった。最初の2億円は個人的な友情から出資したが、その後の巨額の投資に関しては、柊也の強力な後押しがあったからだと。坂崎が詩織への投資を決めた裏側にも、やはり柊也の影があったのだ。ようやく、隠されていた真実の片鱗が見えてきた。当時、彼女は彼に傷つけられた痛みゆえに、自分が見たい一面……「冷酷な彼」しか直視していなかったのだ。今や一流のヘッドハンティング会社を経営する城戸も、酒席で坂崎の話に乗っかってきた。「いや、それだけじゃないですよ」と手を振って笑う。「あの頃の投資界隈じゃ、江崎さんのプロジェクトが難航してるって噂でもちきりでした。みんな様子見を決めていて、手を出そうとはしなかった。それどころか、わざわざ賀来社長に探りを入れた奴らもいたくらいです」当時の柊也の返答は、実に明快なものだったという。『あれは素晴ら
志帆が駆けつけたとき、柊也は道端の花壇の縁に腰かけ、一人で煙草を吸っていた。もうほとんど燃え尽きそうなそれを、彼はただ指先に挟んだまま、動こうとしない。夜風が吹き抜けていく。火の粉を散らした灰が、手の上にぽとりと落ちた。じり、と焼けるような熱さに、思わず手が震える。彼は遠くへ向けていた視線を、自分の手元に戻した。痩せた手の甲に、煙草の火が残した赤い痕が、くっきりと浮かんでいる。痛みは、感じなかった。彼はただ、短くなった煙草を再び口にくわえ、麻痺したように数回、煙を吸い込んだ。そしてようやく、燃え尽きた吸い殻を花壇の土に押し付けて、火を消した。「柊也くん」 ようや
しかし、中央の席に座る人物が詩織だとわかった途端、言葉が喉の奥で凍りつく。その瞬間、沙耶の顔から血の気が引いていく様は、実に見事だった。詩織はあくまで事務的な口調で、彼女に着席を促す。質問もごくありふれたもので、相手が沙耶だからといって特別な扱いをしたり、意地悪な問いを投げかけたりはしなかった。むしろ、緊張からかミスを連発しているのは沙耶のほうだった。「本日は面接にお越しいただき、ありがとうございました。結果は一週間以内にメールかメッセージにてご連絡します。……では、次の方をお呼びいただけますか」沙耶はこわばった体のまま、面接室を後にした。結果など、聞くまでもなかっ
柊也の、もうひとりの幼馴染。もちろん、譲がこれまで詩織に好意的な態度を見せたことなど一度もなかった。とはいえ、宇田川太一のように所かまわず狂犬のように噛みついてくるタイプではない。譲のほうは、もっと陰湿で、言葉に棘があるタイプだ。今だってそうだ。彼はなにも口にしない。けれど、その嘲るような笑みが、彼の胸の内を物語っていた。また柊也に付きまとって、懲りない女だ。きっと、心の中でそう笑っているに違いない。以前の詩織なら、見て見ぬふりをするどころか、必死に彼らの輪に入り込もうとして、自分から話しかけに行っただろう。けれど、七年間努力しても、彼らの世界に受け入れられることは
だが今は……譲は、過去の自分の偏見を後悔し始めていた。運命の風向きとは、本当に変わるものだ。花は捨てられ、電話は無視される。となれば、もう直接会いに行くしかない。譲が『華栄』のビルの前に着いたちょうどその時、グループチャットに太一から全員宛のメンションが飛んできた。【なあ、お前ら今夜の予定は?】大晦日だ。特別な夜には違いない。太一はすぐに柊也と志帆を候補から外す。【あ、柊也と志帆ちゃんは答えなくていいぜ!こんな大事な日に、二人が一緒に過ごすのは分かってるからな!】志帆が口元を隠して笑うスタンプを送り、それを肯定した。柊也からの返信はない。京介が答える。【用事があ