Share

第7話

Author: 北野 艾
『赤ちゃん』という言葉に、詩織が無理やり心の奥底に押し込めていた痛みが、じわじわと全身に広がっていくのを感じた。

……真っ白な天井の照明。……鼻をつく消毒液の匂い。……処置を終えた後の、体の芯まで凍えるような寒気。

一生、忘れられない。

自らの血肉が剥がれ落ちるような、あの痛みも、永遠に。

今になって思えば、あの子は何かを予感していたのかもしれない。

だから、静かにやって来て、また静かに去っていった。

まるで、自分に代わって大きな厄災を引き受けてくれるかのように。

会議が終わると、志帆が密に声をかけた。「小林さん、さっきの議事録、一部送ってくださる?」

内心の怒りを抑えきれない密は、棘のある言い方で答える。「まだ、まとめてません」

「だったら、整理してからでいいわ」

「こっちは死ぬほど忙しいんです。そんな時間ありません」

志帆は眉をひそめ、密を一瞥した。

密はそんな彼女を無視して、詩織の周りの片付けを黙々と手伝っている。

志帆が部屋を出て行った後で、詩織は彼女を諭すように言った。「覚えておいて。仕事に感情を持ち込んでは駄目。この会社では、それは許されないことよ。もしあなたがここで長くやっていきたいなら、誰の反感も買っちゃいけない。特に、自分より職位が上の人にはね」

「……だって、詩織さんのことを思うと、悔しくて」

「悔しいとか、そういうものじゃないの」詩織の表情から、すっと感情が抜け落ちていた。

彼女にしてみれば、恋愛は等価交換ではない。

自分が柊也に尽くすのは、自分がそうしたかったから。

それに対して柊也がどう応えるかは、彼自身の選択だ。

その二つの間に等号を引こうとすれば、自分で自分の首を絞めるだけだ。

柊也を愛していたから、将来を賭けて、海外留学の機会も諦めて、彼の起業に付き添い、彼を支えることを選んだ。

結果は芳しいものではなかったけれど、後悔はしていない。

負けを認めて、潔く身を引く。人生における最大の敵は、時として、自分の思考という名の檻に囚われたままの自分なのだから。

ただ、一つの恋が終わること。それはどうしようもなく、人を疲れさせ、悲しませる。

もう少し、時間が必要なだけ。

きっと、乗り越えられる。

……

終業時刻が近づいた頃、詩織は志帆宛てにメッセージを送った。

投資第三部のプロジェクト資料はすべて整理が完了したこと、必要であればいつでも届けに行く、と。

志帆からの返信は、驚くほど早かった。

【江崎さん、悪いけどその資料、柊也くんのオフィスに届けてもらえるかしら。私、帰国したばかりで国内のビジネス環境にはまだ疎いの。だから、柊也くんに少し分析をお願いしたくて】

メッセージの中では、何度も「柊也くん」という言葉が繰り返される。あまりにも気安い、親密な響き。

そして柊也は、その呼び方を一度も咎めようとはしなかった。志帆がそう呼ぶのを、ただ許している。

詩織は、はっきりと覚えていた。柊也は、社内で役職以外の名で呼ばれることを、何よりも嫌っていたはずだ。

この七年間、詩織はそのルールを固く守り、社内でも、取引先との会食の席でも、彼を「賀来社長」と呼び続けてきた。

忠実に、職務を全うしてきた。

そのすべてが今、一つの滑稽な茶番劇のように思える。

つまり、柊也が作ったルールは、しょせん「他人」にしか適用されないものだったのだ。

そして自分は、その「他人」に他ならなかった。

本当に好きな相手には、彼は何の制約も設けない。

詩織は【承知いたしました】とだけ返信し、整理し終えた分厚い資料の束に、柊也のサインが必要な書類を重ね合わせた。一緒にオフィスへ届けるつもりだった。

席を立つ直前、彼女は引き出しから署名を済ませた退職願を取り出し、柊也に提出する書類の間に、そっと差し込んだ。

彼がサインをするかどうかは分からない。それでも、踏むべき手順は踏まなければならなかった。

大量の資料を抱え、詩織は社長室へとまっすぐに向かう。

いつもと同じように、ドアをノックし、そして――返事を待たずに、そのままドアを開けた。

それが、柊也が彼女に与えた唯一の特権だったから。

秘書として、彼との業務上のやり取りはあまりにも多い。時間のロスをなくし、効率を上げるため、社長室への入室はノックのみで許可されていた。

いつしかその習慣は、詩織の体に深く染みついていた。

だから、彼女はノックをした後、無意識にドアノブに手をかけ、中へと足を踏み入れたのだ。

「失礼します」という言葉が口をついて出る前に、詩織の心臓は、目の前の光景によって激しく握りつぶされた。

志帆が、柊也のデスクに腰かけていた。その上半身は、椅子に座る柊也の方へと、乗り出すように傾けられている。

柊也の顔と、志帆の胸元が、触れんばかりに近付いていて……

それは、想像を絶するほど、親密な姿だった。

「きゃっ……」

詩織の突然の入室に驚いたのか、志帆はバランスを崩し、そのまま柊也の腕の中へと倒れ込んだ。

柊也は眉間に深い皺を刻み、氷のような声で詩織を叱責した。「ノックもできないのか」

詩織は、ノックはした、と言いかけた。

だが、そんな反論の言葉が、今この状況で何の意味を持つというのだろう。

「礼儀も知らないのか! それがお前の仕事のやり方か!」

男の顔は冷たく、その声は刃のように鋭い。彼女に特権を与えたのが自分であることなど、とうに忘却の彼方らしい。

「……申し訳ありません。次からは、気をつけます」詩織は、ただ頭を下げた。

――もう、次などないのだから。

志帆が、ようやく柊也の腕の中から顔を上げた。その頬は潤んだように赤く染まり、艶めかしい。

「柊也くん、そんなに怒らないであげて。江崎さんも、わざとじゃないんだから」志帆はそう言って、甘えた声で彼を諌める。

そして、今度は詩織の方へとにこやかに視線を向けた。「江崎さん、プロジェクトの資料を届けてくれたのよね。悪いのだけど、そこに置いてもらえる?今、ちょっと手が離せなくって」

詩織は己の感情を殺し、言われた通りに資料をデスクの端に置いた。そして、付け加えるように言う。「中に、社長のサインが必要な書類も入っております」

「わかったわ。じゃあ、もう出て行ってちょうだい」まるで女主人のように、志帆は詩織に命じた。

柊也もそれに続く。「用がないなら、二度と入ってくるな。邪魔だ。……他の者にもそう伝えておけ」

その言葉に、詩織の胸がずきりと痛んだ。震える指を、ゆっくりと握りしめる。「……承知いたしました」

詩織は、彼にそう約束した。

あの息の詰まるようなオフィスから、どうやって自分が退出したのか、詩織には思い出せない。

ただ覚えているのは、自分が部屋を出るその瞬間まで、志帆が柊也の膝の上に、泰然と座り続けていたことだけ。

まるでそこが、当然のように自分の居場所であるとでも言うように。

そして柊也もまた、彼女を突き放そうとする素振りなど、微塵も見せなかった。

彼が怒り、苛立っていたのは、自分たちの「いいところ」を邪魔されたからなのだろう。

出会って七年。柊也が、ここまで理性を失った姿を、詩織は初めて見た。

彼の冷静さと知性など、すべてが上辺だけの虚像だったかのようだ。

男という生き物は、本当に好きな女の前でだけ、内なる衝動と激情を抑えきれなくなるのだろうか。

でなければ、真昼間から、オフィスでこんな情事を繰り広げようなどと思うはずがない。

定時を迎えると、詩織はさっとパソコンの電源を落とし、帰る支度を始めた。

その様子に、秘書室の誰もが驚きに目を丸くした。

それもそのはず、詩織はエイジア・キャピタルでその名を知らない者はいないほどの仕事の鬼として知られ、年間を通して社内の残業時間記録を更新し続けている張本人なのだ。

特に投資第三部の業務を兼任するようになってからは、会社に寝泊まりすることさえ厭わず、まさに「会社が家」という状態だった。

その彼女が、定時で帰るなど……

誰もが我が目を疑う光景だった。

会社の正面玄関を出たところで、城戸渉(きど わたる)からまた電話がかかってきた。

いつもなら、詩織は着信を無視するか、適当な理由をつけて断っていたはずだ。

渉は、ヘッドハンターなのだ。

これまで何度も詩織を引き抜こうとアプローチしてきたが、そのたびにけんもほろろに断られていた。

だが今回、詩織は迷うことなく通話ボタンを押した。

電話の向こうの渉は、あまりの意外さに、自分がなぜ電話をかけたのかという本来の目的さえ忘れかけるほどだった。

詩織の方から話を切り出した。「城戸さん、お時間ありますか? 一度、お食事でもいかがでしょう」

渉は、隠しきれない興奮を声に滲ませた。「あ、あります、ありますとも!江崎さんからのお誘いとあれば、いつでも時間は作ります!何料理がお好みですか、すぐに店を押さえますよ!」

「できれば、胃に優しい……あっさりした味付けのお店にしていただけると。少し胃の調子が悪くて」

「はい!もちろんです!すぐに手配して、お店の情報を送りますね!では、後ほど!」と、渉は二つ返事で快諾した。

「ええ、後ほど」

詩織は一旦帰宅して私服に着替えてから、約束の場所へと向かった。彼女が借りているアパートは、会社からそう遠くない。

家賃は高いが、会社に近ければ通勤も残業も楽だという理由で選んだ場所だった。

以前、柊也はそのことを全く理解できず、詩織の部屋を「狭すぎるし、ごちゃごちゃだ」と貶し、一度訪れたきり二度と足を踏み入れることはなかった。

用がある時はいつも、詩織を自分のマンションに呼びつけた。

Patuloy na basahin ang aklat na ito nang libre
I-scan ang code upang i-download ang App

Pinakabagong kabanata

  • 七年の恋の終わりに、冷酷な彼は豹変した   第715話

    沈黙が落ちた。詩織が「私ってば会話クラッシャーだわ」と自己嫌悪に陥りかけたその時、男が静かに口を開いた。「……まだ、忘れられないんですか?その元カレのこと」柊也にとって、それは内なる葛藤の末に捻り出した問いだった。期待と恐怖。相反する感情が胸の中でせめぎ合い、問いかけた直後にはもう後悔していた。今すぐにでも逃げ出したい衝動に駆られる。だが、残酷なまでに答えは早かった。考える素振りさえ見せず、詩織は即答したのだ。「とっくに忘れたわよ」その声はあくまで軽く、晴れやかだった。「私とあの人は、もう平行線なの。二度と交わることのない関係よ」彼女は右手を掲げ、薬指に嵌めた指輪をひらひらと見せつけるように振った。「ほら、見て。私、婚約したんだから」……翌朝。詩織の自宅マンションに二日酔い止めのスープを届けに来た密は、想像以上にボスの顔色が良く、いつものような頭痛に苦しむ様子がないことに驚いた。「あら、意外と元気そうですね?」「うん、昨晩ちょっとね……酔い止めのスープ飲ませてもらったり、ホットタオルで介抱してもらったりしたから。おかげでだいぶ楽なの」詩織の何気ない説明に、密は目を輝かせて食いついた。「えっ、誰です? 私より気の利くその相手って!」「……えっと」詩織は言葉に詰まった。まさか『ホストクラブのイケメンお兄さん』に手厚く介護されたとは言えない。目の前の純粋な部下は、まだロマンチックな愛を信じているお年頃なのだ。教育上、あまりに不健全すぎる。詩織が朝食を終えた頃、ミキが帰ってきた。まるで数日間水をやっていない観葉植物のように、全身から生気が抜けてしおれている。「朝ごはんは?」「……食べた」ミキは力なく答えると、苛立ちを紛らわすように髪をぐしゃぐしゃとかきむしった。「さあ、懺悔タイムと行きますか」詩織は今日、会社を休んでいた。この瞬間を待っていたのだ。だが、ミキ本人はどこから切り出せばいいのか分からない様子で、途方に暮れているように見えた。詩織は急かすことなく、彼女が口を開くのをじっと待つ。どんな作り話だろうと、あるいは真実だろうと、受け止める覚悟はできていた。やがて、ミキがぽつりぽつりと話し始めた。「まあ、ありふれた昼ドラみたいな話なんだけどさ……うちの父親と白彦の

  • 七年の恋の終わりに、冷酷な彼は豹変した   第714話

    柊也の喉が渇ききったように引きつった。……離せ。理性が警告する。今すぐこの手を離すべきだと。だが、身体は命令を拒絶した。その華奢な腰の感触、懐かしい温もりへの渇望が勝り、どうしても腕を解くことができない。詩織は完全に出来上がっていた。身体に力が入らず、誰かに支えられていなければそのまま崩れ落ちてしまいそうだ。だから、彼女を支えてくれているその腕の主に、礼儀正しくお礼を言った。「悪いけど……テラスまで連れてってくれない? 風に当たりたいの」こめかみを指で揉みほぐしながら呻く。数日前、G市にいる響太朗の付き合いで接待に顔を出した疲れが抜けていないところに、この深酒だ。頭の中でガンガンと鐘が鳴り響いている。「今はやめた方がいい。冷たい風に当たると、余計に頭痛がひどくなる」柊也は声のトーンを意識的に低くして答えた。幸い、詩織の意识は散漫で、頭痛も相まってその声の正体に気づく様子はない。「蜂蜜水を持ってくる。少し休んだ方がいい」そう言って、柊也は詩織を伴い、近くの空いている個室へと入った。部屋の中にいた太一は、柊也が詩織を連れ込んでくるのを見て、あんぐりと口を開けた。何か言いかけたその時、柊也の鋭い視線が飛んでくる。太一は瞬時にその意味を悟った。『消えろ』だ。「はいはい、お邪魔虫は撤収しますよっと」彼は心得たように肩をすくめ、そそくさと部屋を出て行った。照明を落とした薄暗い個室で、詩織はソファに深く沈み込み、目を閉じてぐるぐると回る視界に耐えていた。ふと、瞼の上に温かいものが触れた。じわりと広がる熱が、締め付けられるような頭痛を和らげていく。詩織は思わず安堵の吐息を漏らした。なるほどね……沙羅がホストクラブに入り浸るわけだわ。この至れり尽くせりの優しさは、確かに中毒性がある。心地よさに浸っていると、今度は口元にストローが差し出された。蜂蜜レモン水だ。ストローをくわえ、ちびちびと喉を潤す。荒れた胃壁に優しい甘さが染み渡り、吐き気が嘘のように引いていった。口を離すと、頭上から低い声が降ってくる。「少しは楽になったか?」声までそっくり……詩織は自嘲気味に心の中で笑った。どうやら自分は、想像以上に重症らしい。「ねえ、ここで働き始めてどれくらい?」沈黙が気まずくて、詩織は

  • 七年の恋の終わりに、冷酷な彼は豹変した   第713話

    悔しいが、今のミキには金がない。それが彼女の最大の弱点であり、白彦に首根っこを掴まれている理由だった。ミキが黙り込んだのを見て、脅しが効いたと判断したのだろう。白彦の声色がわずかに和らいだ。「祖母が江ノ本市に来た。一緒に帰るぞ」……はぁ、そういうこと。ミキはようやく合点がいった。彼が愛しい璃々子を置いて、わざわざこんな薄暗い夜の街まで自分を探しに来た理由。要するに、お祖母様への「仲良し夫婦アピール」が必要になったからだ。体裁を取り繕うための、ただの道具扱いというわけだ。「医者の話だと、祖母の血圧が不安定らしい。余計な騒ぎを起こして刺激するなよ」白彦はそう釘を刺すと、「ついて来い」とだけ言い捨てて歩き出した。ミキは背中に向かって憤怒のため息をついたが、結局はおとなしく後を追った。他でもない。昔から可愛がってくれている白彦のお祖母様の顔を立てるためなら、従うしかなかったのだ。個室で待機していた詩織のスマホに、ミキからのメッセージが届いたのはそれからしばらくしてからのことだった。【ごめん、今日は行けなくなった!心配しないで。明日はちゃんと埋め合わせするから!(土下座のスタンプ)】詩織は少し考えてから、『気をつけてね』とだけ返信した。それにしても、ミキがあの北里市の名門・由木家の、それも当主である白彦と結婚していたとは。あまりに突飛すぎて現実味がない。ミキが去り、詩織は一人残って沙羅の酒に付き合うことになった。ここ数年、酒席から遠ざかっていた詩織の肝臓は、すっかりアルコールに弱くなっている。「あらら、もう赤いわよ?」沙羅がブランデーグラスを揺らしながら揶揄った。「昔は『ザル』を通り越して『ワク』って豪語してたのに。あの頃の詩織が羨ましかったわよ。ほら、私たちみたいな仕事って、酒が飲めるかどうかで勝負が決まるところがあるじゃない?」それは否定できない事実だ。酒量と商談の成約率は比例する。『とりあえず乾杯』から始まり、酔った勢いで契約書に判を押させる――そんな「飲みニケーション」神話は、いまも一部の業界で根強く残っている。「ここ数年は大学院の研究ばかりで、現場を離れてましたから……すっかり弱くなっちゃったみたいです」苦笑しながら、詩織は水を一口飲んだ。「沙羅さんも気をつけてくださいね。お酒は強力

  • 七年の恋の終わりに、冷酷な彼は豹変した   第712話

    事情が飲み込めないミキの担当ホストが、キョトンとした顔で尋ねた。「お姉さん、この人誰?」空気の読めない別のホストが、白彦の前に立ちはだかり、その胸を軽く小突く。「ちょっとお兄さん、順番守ろうよ。お姉さんが指名したのは俺たち三人だから」白彦の顔色がみるみる土気色に変わっていく。ただならぬ気配を察知した詩織は、とっさに身を乗り出し、ミキを庇うように立ちふさがった。白彦がミキの腕を掴もうとするのを遮り、毅然と声を張り上げる。「ちょっと!何のつもりですか? 私の友だちから手を離してください!」「……江崎社長。これは俺とこいつの問題だ。引っ込んでいてもらおうか」白彦は詩織を乱暴に払いのけようとする。だが、詩織も負けてはいない。「そうはいきません。関係もはっきりしない相手に、友人を連れ去らせるわけにはいかないわ」ミキが後ろから叫んだ。「私、こんな男知らない!」間髪入れず、白彦が怒号を返す。「夫婦だ!」「……は?」詩織の思考がフリーズした。今、なんて?ミキも目を丸くして白彦を凝視している。「言ったわね! 私、一言も言ってないから!」「……あとで金は振り込む!」白彦はギリギリと歯ぎしりしそうな顔でミキを睨むと、深呼吸をして詩織に向き直った。その声には、必死に抑え込んだ焦燥が滲んでいる。「夫婦間のプライベートな話があるだけだ。安心してくれ、DV趣味はない」言うが早いか、詩織の返答も待たずに、彼はミキを米俵のように肩に担ぎ上げた。「ちょっ、待ちなさいよ!」詩織が慌てて追いかける。担がれたまま、ミキが頭だけをもたげて詩織に言った。「詩織、大丈夫!ちょっと話つけてくるから、心配しないでそこで飲んでて!」「でも……」「まあまあ」と沙羅が詩織の肩を掴んで引き留めた。「夫婦喧嘩なら、他人が口出しするのも野暮よ。二人に任せましょう」沙羅に諭され、詩織は足を止めるしかなかった。白彦はミキを担いだまま、ズカズカと廊下を進んだ。その足取りは速く、容赦がない。逆さまにされたミキの世界は激しく揺れ、男の硬い肩が容赦なく腹に食い込む。頭に血が上り、胃の中身が逆流しそうだ。「ちょっと! 降ろしてよ! 吐く、吐くってば!」ミキが叫ぶが、白彦は聞く耳を持たない。揺れる視界、圧迫される胃袋、極限の不快感――限界だった。「おぇっ

  • 七年の恋の終わりに、冷酷な彼は豹変した   第711話

    太一は小声でマネージャーを怒鳴りつけたが、相手は困り顔で弁解するばかりだ。「ですが……桐島社長は以前にもご利用いただいておりますので、裏メニューをご存知でして……」「……柊也」太一は助けを求めるように名を呼んだが、柊也の声からは完全に感情が抜け落ちていた。「客の要望だ。好きにさせろ」平坦な言葉とは裏腹に、彼が強く握りしめたグラスには、今にもヒビが入りそうなほどの力が込められていた。チーフが一礼して下がると、太一は頭を抱えて唸った。「なんだってんだよ、もう!あの女たち、羽目を外すにも程があるだろ……」文句を垂れ流しながらも、太一は気が気ではない。結局、心配のあまり、様子を探るために部屋を出たり入ったりと落ち着きなく動き回ることになった。一方、VIPルーム。チーフに先導されて八人の長身イケメンたちがぞろぞろと入ってきた瞬間、詩織はようやく沙羅の言う「特産品」の意味を理解した。「おー、いいじゃんいいじゃん! あの子なんて最高!」ミキは品定めをしながら、詩織の脇腹を肘で小突いてきた。「ほら詩織、あんたも一人選びなよ」「勘弁してよ……」詩織は力なく首をたれて降参のポーズをとる。すると、沙羅がグラスを傾けながら横から口を挟んだ。「諦めなさいよ、ミキ。私、詩織とは長い付き合いだけど、男遊びしてるとこなんて一度も見たことないわ。時々、本当は女が好きなんじゃないかって疑うレベルよ」その言葉に、ミキが目を細め、意地悪そうにニヤリと笑う。「……まさかあんた、まだあのクズ也のこと引きずってるわけ?」「……」詩織は言葉を失った。どうして話がそこへ飛躍するのか。「いい?聞いて詩織。女はお肌のためにもホルモンバランスが大事なの。つまり、男の潤いが必要不可欠ってこと!」謎の理論を力説するミキに、沙羅も「その通り」と言わんばかりに深く頷いた。詩織は悟った。今夜のこの二人は、完全にタガが外れている。ここで自分が空気を読まずに拒否し続ければ、耳にタコができるまで説教されるに違いない。二人の注意を逸らすため、詩織は視線を泳がせ、適当に指をさした。「じゃあ、彼で」ミキが視線の先を追い、次の瞬間、素っ頓狂な悲鳴を上げた。「うわっ!詩織ってば、ほんっとなんにも変わってない!」「は?何が?」「選んだ男、クズ也にくりそつじゃん!

  • 七年の恋の終わりに、冷酷な彼は豹変した   第710話

    背後の男は女が上の空なのに気づき、苛立ちを露わにした。強引に彼女を引きずり戻し、再び狭い空間へと押し込む。長い、長い時間が過ぎた。ようやく満足したのか、男はズボンを引き上げ、気だるげにタバコに火をつけた。美穂は乱れた服を整えると、冷めた声で男に金の催促をした。「お金、送ってよ」男は興を削がれたように顔を歪め、美穂の腰を乱暴に蹴り上げた。「チッ、クソが。払わねえなんて言ってねえだろ」「だったら早くしてよ」男は悪態をつきながらスマホを操作し、送金を済ませるとさっさと立ち去ろうとする。美穂は慌ててその腕を掴んだ。「ちょっと!話が違うじゃない。三万円って言ったでしょ!二万しか入ってないわよ!」「うるせえな!テメェは二万の価値しかねえんだよ!」男は容赦なく腕を振り払った。美穂はその勢いで壁に叩きつけられ、激しい衝撃に目の前が白く明滅する。それでも男の罵倒は止まらない。「いい加減にしねえと、ここの店長にバラすぞ。『店の中で勝手に売春してる女がいる』ってな。どっちがよりヤバいことになるか、頭使って考えな!」その脅し文句に、美穂の手から力が抜けた。男が勝ち誇ったように足音高く去っていくのを、ただ呆然と見送ることしかできなかった。男の姿が見えなくなると、美穂は汚い言葉で罵りながら床を蹴りつけた。その時、タイミングよくポケットのスマホが震えた。画面に表示された『工藤』という文字を見て、彼女の表情がいっそう陰る。出たくない。でも、無視すればどうなるかわからない。「……何よ」「金は?」受話器の向こうから、低い声が単刀直入に聞いてきた。「アンタ、犬並みの鼻でもしてんの? さっき客から入ったばっかなんだけど!」美穂は怒りを爆発させながらも、逆らうことはできない。結局、一万円だけ送金した。「あ?なんで一万しかねえんだよ」工藤がすぐに文句をつけてくる。「客が二万しか払わなかったのよ。文句言ったら店長にチクるって脅されたから、どうしようもなかったの!」「使えねえアマだな。マンコ売るしか能がねえのに、それすらまともにできねえのかよ」一方的に電話を切られ、美穂は行き場のない怒りをゴミ箱にぶつけた。客にも、工藤にも、自分を取り巻くすべてに搾取され、踏みつけにされている。ホールに戻ると、ちょうどチーフがVIPルー

Higit pang Kabanata
Galugarin at basahin ang magagandang nobela
Libreng basahin ang magagandang nobela sa GoodNovel app. I-download ang mga librong gusto mo at basahin kahit saan at anumang oras.
Libreng basahin ang mga aklat sa app
I-scan ang code para mabasa sa App
DMCA.com Protection Status