LOGINさらには詩織が入ってくるのを見計らって、わざ見せつけるように京介に擦り寄っていく。京介はさりげなくそれをかわし、「少しタバコを吸ってくる」と席を立った。霜花はすかさずその後を追う。一目散に元夫の機嫌を取りに行く気満々だ。「あの二人、結局のところ本当に離婚したわけ?それともただの喧嘩?」誰かが野次馬根性で尋ねた。すると、霜花に金魚のフンのようについてきた取り巻きの一人が、鼻高々に答えた。「あれは夫婦のちょっとしたスパイスみたいなものよ。わからないかしら?敬語で静かに過ごす夫婦もいれば、ああやって喧嘩しながら愛を深める夫婦もいるの」そこで彼女はわざとらしく言葉を区切り、ちらりと詩織を見下しながら口の端を吊り上げた。「だから、変な噂を流さないでよね。あの二人の絆は本物なんだから。どこかの誰かさんが、変な期待をして勘違いすると困るでしょ?」あまりにも露骨な当て擦りに、詩織は思わず眉をひそめた。その瞬間、太一の足がテーブルの下で誰かに蹴られた。彼は慌てて咳払いし、喋っていた女に向かって唐突に口を開いた。「いや、ちょっとごめん。俺、あんたを誕生会に呼んだ記憶はないんだけど? もしかして会場間違えてない?」女の顔が引きつった。這うように出た気まずい笑みを浮かべ、必死に取り繕う。「えっと、私は霜花ちゃんと一緒に……」「別に霜花さんのことも呼んでないけど」ここまで言われると、さすがの女も愛想笑いすら作れなくなった。しかし、彼女も面の皮の厚さには自信があるらしい。「……まあまあ、もう来ちゃったんだからいいじゃない。お祝いの席は賑やかな方が楽しいでしょ?まさか太一さん、席から追い出すような野暮な真似はしないわよね?」自分たちは常識のある大人なのだ。いくらなんでも太一がここで本気で追い払うような真面はしないだろう。女はそうタカをくくっていた。だが、残念ながらそれは大きな勘違いだった。もし先ほどのあの当て擦りがなければ、太一だって大人の対応でその「常識」とやらを保っていただろう。だが、相手はよりにもよって詩織に噛み付いたのだ。ならば、情け容赦などする必要はない。「あ、大正解。出口はあっちだから、気をつけて帰れよ」女の顔は真っ赤に染まった。怒りと屈辱で震えながら、彼女は逃げるようにその場を去っていった。「江崎、
詩織という女は、そういう人間だった。貸し借りの境界線をきっちりと引き、少しでも不釣り合いな贈り物は絶対に受け取らない。相手にばかり負担をかけることを極端に嫌がった。高価なプレゼントをもらえば必ずそのことを覚えておき、後から自分なりのもっと心のこもった贈り物で返してくる。彼女は決して好意を無下にしているわけではない。人間関係における「バランス」の重要性を、誰よりも熟知していたのだ。一方的に甘えて、相手を利用していると思われるのを酷く恐れていた。かつて、彼女が恩師である高村教授に詫びを入れるため、彼が欲しがっていた書画をオークションで競り落とそうとした時のことだ。その時、横から強引に横取りしていったのが志帆だった。志帆は別にその掛け軸が欲しかったわけではなく、ただ詩織のものを奪いたかっただけだ。手に入れた途端に興味を失い、その後、柊也が裏で手を回したことなど微塵も気づいていなかった。彼が父の海雲の名前を借りて、それをこっそり詩織の手に渡したことなど。だがその後すぐ、詩織は自ら骨董屋で別の絵画を見つけ出し、海雲への「お礼」として贈ってきたのだ。自立しすぎていて、あまりにも潔い。だからこそ、彼が彼女に贈るプレゼントは、常に彼女が気負わずに受け取れる負担のないものばかりになった。――「五ヶ月と八日」。その正確すぎる数字の響きに、詩織は胸の奥がぎゅっと締め付けられるのを感じた。急にこの狭い部屋が、ひどく息苦しい場所に思えてくる。彼女はふいと顔をそむけ、無意識に指をきつく握り込んだ。完全に塞いでいたはずの心の奥底に、また小さな波紋が広がっていくのがわかる。じわじわと込み上げてくる胸の痛みをどうにか押し殺すと、彼女は冷たい声を作って振り返った。「……どうして、そんな無意味なことをするの? 私が情にほだされて、よりを戻すとでも思ってるわけ?」「そんなこと、一度も考えたことはない」柊也は酔った瞳の奥に真剣な光を宿して答えた。もし今夜、酒に酔って正気を失っていなければ、こんな場所を詩織に見せるつもりなど到底なかった。彼はただ、彼女のかつての痛みを疑似体験したかっただけなのだ。彼女が歩んできた苦難の道を、自分も同じように歩いてみたかっただけ。これは、彼自身が背負った過去の罪に対する身勝手な精算だ。彼女にひけらかすための
だが、まさか柊也が今そこに住んでいるなんて。実際に部屋へ足を踏み入れた瞬間、詩織の胸は激しく揺さぶられた。部屋のレイアウトは五年前と全く同じで、何一つ変わっていない。かつて彼女が大切にしていたトロフィーすら、元の場所に飾られていた。ピカピカに磨き上げられた表面を見れば、頻繁に手入れされているのは明らかだ。でも、あのトロフィーは間違いなくゴミ箱に捨てたはずなのに。手に取って確かめてみる。欠けた部分の傷跡まで、記憶と完全に一致した。間違いない、私が捨てたあのトロフィーだ。リビングの壁際には相変わらずデスクが置かれ、壁には色とりどりの付箋が貼られている。しかし、そこに書かれているのは彼女の文字ではない。柊也の筆跡だった。以前彼が落とした手帳と同じように、書かれていることの九割九分は彼女に関するものだった。部屋の至る所に、確かな生活の匂いがあった。テーブルには飲みかけのグラス。キッチンにはずらりと並んだ調味料に、オープンラックに収納された様々な鍋。冷蔵庫には新鮮な食材がたっぷりと詰まっており、今朝彼女が食べたばかりのオレンジまで入っている……それらを目の当たりにし、詩織の冷ややかな表情に複雑な色が滲んだ。彼女は深く探るような視線を柊也に向ける。「……どうして?」いくらエイジアが破産したとはいえ、彼は賀来グループの唯一の跡取りだ。豪華な別荘にだって、五つ星ホテルや高級マンションにだって住める。最悪、実家に戻ることだってできる。帰る場所に困るような人間ではない。それなのに、どうしてこんな狭いアパートに?あんなにこの場所を嫌っていたじゃないか。私が住んでいたあの七年間で、彼がここに来た回数なんて両手で数えるほどしかなかったのに。今になって、なぜ彼がここに住んでいるの?柊也はペットボトルの水を一本飲み干し、ようやく少しだけ正気を取り戻した。だが、まだ頭は重いのか、ひどく辛そうな顔をしている。彼はゆっくりと息を吐き出すと、さきほどの問いに答えた。「ただ……君が昔どんなふうに過ごしていたのか、俺も同じように感じてみたかったんだ」ここは本当に狭い。彼の実家のバスルームにすら及ばない。住人の層もバラバラで、セキュリティなど無いに等しい。環境も酷いものだ。訳ありの住人も多く、モラルなんて期
それは単に、二度と志帆を入り込ませないためだった。当時は最も緊迫した局面に差し掛かっていた。何年にもわたり、血の滲むような思いで繋ぎ合わせてきた証拠の包囲網が、あと少しで完成しようとしていたのだ。ここでほんのわずかでも躊躇や弱みを見せれば、長年の苦労がすべて水の泡になる。だからこそ、彼は心を鬼にして、あの家を徹底的に破壊するしかなかったのだ。志帆を納得させる口実も十分だった。「ここにあるものはすべて詩織が整えたものだ。君に嫌な思いをさせたくないから、更地にして建て直すことにした」そう告げると、彼女は疑うどころか、自分のためにそこまでしてくれるのかと感激すらしていた。自分はこれほどまでに愛されているのだと、彼女は信じて疑わなかった。だが、真実は彼だけが知っている。建物が崩れ去るその瞬間、彼の心もまた、音を立てて瓦礫の山へと崩れ落ちていた。思えば、あの家の装飾を詩織に一任したときから、彼には下心があった。自分の好みなど一切気にせず、彼女の好きなように、彼女の理想を形にしてほしかったのだ。遠慮させないよう、あえて無関心を装い、「寝られればどこでもいい」などとそっけない態度をとった。ただ、彼女が思い描く「温かな家庭」がどんなものか、見てみたかったのだ。もし運が良ければ、三、五年ほど刑務所で服役したあと、彼女が作り上げたあの家で余生を静かに過ごせるかもしれない。運が悪ければ――その時は、それまでの運命だと諦めるつもりだった。......車がホテルのエントランスに滑り込んだ。詩織は、再び眠りに落ちかけた柊也を揺り起こした。回ってきたアルコールのせいで、彼の意識はさっきよりも混濁している。運転手が手を貸そうとしても、彼はそれが誰かも判別できないのか、ひたすらその手を拒絶し、振り払おうとする。見かねた詩織が、代わりに彼の身体を支えた。すると、彼は先ほどまでの抵抗が嘘のように大人しくなったが、代わりにその体重のすべてが彼女にのしかかってきた。詩織はドレスにハイヒールという格好だ。成人男性の重みを支えきる体力など、どこにもない。「……お願い、少しは自分で歩いてよ」詩織の声に、余裕がなくなっていく。「ここにも、泊まらない……」柊也は頑なにホテルに入ろうとしない。いい加減、詩織の堪忍袋の
せり上がってくる苦いきしみから逃れるように、詩織は窓から顔を背けた。眉間を寄せ、冷徹なまでに淡々とした声で言い放つ。「何を今さら感傷に浸ってるの?自分で壊したくせに」柊也は気怠げに腕を上げ、自分の両目を覆い隠した。そして、重苦しい車内の空気よりもさらに沈んだ声で、ひと言だけこぼした。「ああ……俺が、この手で台無しにしたんだ」その瞬間、詩織の胸には訊きたいことが山ほど込み上げてきた。なぜ、あの家を壊したのか。志帆を愛したことなど一度もないと言うなら、なぜあの時、私を捨てて彼女を選んだのか。けれど、言葉が喉まで出かかっては、そのまま飲み込むことを繰り返した。今さら訊いてどうなる。未練があると思わせるだけではないか。彼女の心には、燻り続ける怒りと、どうしても拭えない不信感があった。一度私を捨てた男だ。二度目も、三度目も、きっと同じことを繰り返すに違いない。......「柊也くん、家が火事になっちゃって……しばらくの間、あなたのところに置いてもらえないかな?」そう訴える志帆の瞳は、悲劇のヒロインのように潤んでいた。柊也が、長期滞在用のホテルを手配しようと口を開きかけた、その時だ。佳乃が、まるで示し合わせたようなタイミングで助け舟を出した。「志帆は昔からデリケートでしょ?ホテルだとなかなか寝付けないのよ。一日二日ならまだしも、長期となると……家を直すのに一ヶ月はかかるっていうし」佳乃はわざとらしく自分を責めるような仕草を見せた。「ごめんなさいね。私の不注意なの。料理中に電話に出ちゃって、つい火の粉を……」当時、帰国したばかりの志帆を伴って現れた佳乃の言葉は、明らかに柊也を試すためのものだった。「ホテルには泊まれない」などというのは単なる口実で、彼がどこまで志帆を特別扱いするのかを見極めようとしていたのだ。柊也は仕方なく、志帆を自分の家に住まわせることを承諾した。本当は、適当なマンションの一室を自分の家だと偽って貸し出すつもりだった。詩織が心を込めて整えたあの家を、志帆に汚されたくなかったからだ。だが、志帆はすでに調べ上げていた。職場であるエイジアに近く、都会の喧騒を忘れさせるあの閑静な邸宅が、彼の一番の拠点であることを。あの日、柊也は車を走らせながら、同じ場所を何度も何度も回った。
太一は、背筋に氷を押し当てられたような戦慄を覚えた。振り返るまでもない。この得体の知れない気配の主を、彼は嫌というほど知っていた。「太一くん、来てたなら挨拶くらいしてくれてもいいじゃない」ニーナが前に回り込んできた。顔中にべったりと笑みを湛えている。「……いやあ、今日のニーナさんがあまりに綺麗なんで、見惚れて誰だかわからなかったんですよ」太一は引きつりそうになる顔を必死で抑え、精一杯の営業スマイルを絞り出した。「もう、相変わらず口が上手いんだから。そういうところが大好きなのよねえ」ニーナは上機嫌で浮かれているが、太一の方はすでに表情筋が限界だった。今の太一が味わっている地獄とは対照的に、会場の反対側で「完璧なアシスタント」を演じている男は、まさに我が世の春を謳歌しているようだった。今夜、詩織に注がれる酒はすべて、柊也が鮮やかな手際で引き受けていた。宴も中盤に差し掛かっているが、詩織はまだ一滴もアルコールに触れていない。最初は、彼のアレルギーを心配して止めたのだ。だが柊也は「来る前に薬を飲んできたから大丈夫だ」と事もなげに言った。その言葉に、詩織の思考がふと止まる。――その手慣れた準備の良さは、かつて志帆の傍らで彼女を庇い、酒を代わりに飲み続けてきた経験からきているものだろう。そう気づいた瞬間、詩織の心は鉛を飲まされたように重く沈んでいった。結局、お開きになる頃には、柊也はすっかり出来上がっていた。詩織は彼を支えて車に押し込み、ひとまず送り届けようとして、ふと足が止まった。自分は今の柊也の住所を知らない。隣のシートに沈み込んでいる男に目を向ける。かなりの酔いようだ。二、三度名前を呼んでみたが、反応がない。詩織はためらいながらも、彼の頬を軽く叩いて促した。「柊也、起きて。家はどこ?住所を教えてくれないと送れないでしょう」「……ん……」柊也は何かをくぐもった声で呟いた。聞き取れず、詩織が耳をその口元へ寄せた。「どこだって?」しかし、彼はそれきり黙り込んでしまった。耳たぶにかかる熱い吐息に、詩織は思わず身をすくめる。彼女は小さくため息をつくと、運転席へ指示を出した。「……ひとまず、賀来の本宅へ向かってください」賀来家の本宅は帰り道からだいぶ外れていたが、詩織は構わず運転手にハンド
詩織は、そんな彼らを誰一人拒むことなく、涼やかな笑顔で受け入れていた。一方、祝福に包まれる詩織たちとは対照的に、佳乃の顔色は怒りで蒼白になっていた。間の悪いことに、夫の長昭から電話が入る。「結果はどうだ?柊也くんも誘って、今夜は家族でお祝いのディナーといこうじゃないか」何も知らない夫の能天気な声に、佳乃の表情は完全に冷え切った。彼女は何も答えず、無言で通話を切った。志帆の顔色も最悪だった。母が先に席を立った後、その屈辱感はさらに増していく。このプロジェクトのために、どれだけの時間を費やし、どれだけの接待をこなしてきたか。それなのに、この無様な結果は何だ。「そこで何してん
そんな空気を察してか、太一が横から口を挟んだ。「サカザキと『ココロ』が最近組んだばかりだろ?譲の兄貴、仕事の話があるんじゃねーの。結構話し込んでるし」その言葉に、志帆は興味なさげに視線を外した。考えすぎだったようだ。譲も太一と同じで、詩織のことを快く思っていないはずだ。第一、詩織のような家柄の悪い女は、自分たちのような上流サークルにはふさわしくない。いくら詩織の見た目が良くても、譲が彼女に本気の興味を持つはずがないのだ。あくまでビジネス上のパートナーとして、社交辞令で接しているに過ぎない。裏では見向きもしないだろう。露骨に不機嫌になった美穂をなんとかなだめている
「あなた、名家の御曹司と結婚したいんじゃなかったの?」志帆は冷徹に現実を突きつけた。「裁判沙汰になって、公の場で謝罪させられることの意味、分かってる?あなたの経歴に一生傷がつくのよ」美穂は言葉を詰まらせた。「悔しいのは私も同じよ。でも、今は耐えるしかないの。向こうは今、一番勢いに乗ってる。正面からぶつかっても勝ち目はないわ」「じゃあ、どうすればいいのよ……」「今は爪を隠すの。手出しできないのは『今』だけ。チャンスは必ず巡ってくるわ」志帆の瞳の奥で、暗い情念の炎がゆらりと揺らめいた。結局、美穂は渋々『華栄』へ出向き、謝罪を申し入れた。しかし、詩織本人が出てくることはな
柊也はあくまで病院へ連れて行くつもりらしい。「賀来柊也!痛いってば!」詩織が悲鳴のような声を上げると、彼はハッとして手を緩めた。その隙に詩織は彼から距離を取り、赤くなった手首をさすった。表情を凍らせ、かつての彼のように嘲笑を含んだ口調で言い捨てる。「いつからそんなお節介焼きになったわけ?そんな暇があるなら、大事な本命彼女のご機嫌取りでもしてれば?」彼女はすぐに視線を切り、彼に一秒たりとも関心を割く価値はないとばかりに背を向けた。手の甲がひりひりと焼けるように痛む。確かに病院には行った方がいい。詩織は通りでタクシーを拾おうと手を挙げた。情緒不安定な元カレにかまっている