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第13話

Author: ピーちゃん
翌日、賢吾はあずさが行きそうな場所を車で回ろうと思った。出かける前に残したのは、みやびへのひとことだけ。

「母さんのことは頼んだ」

みやびは素直にうなずき、遠慮がちに尋ねる。「賢吾さんは……あずささんを探しに行くの?」

賢吾は一瞬固まったが、何も答えずそのまま出ていった。

車が角を曲がって見えなくなると、みやびの笑顔はすぐに消えた。裸足になってサンダルを蹴飛ばし、大理石の床をペタペタと歩きながらキッチンに向かって叫んだ。

「田中(たなか)さーん!アメリカーノを入れて、アイスで!」

ちょうどそのとき、百合子は車椅子を回しながら書斎から出てきた。

「みやび、リハビリの時間だから、付き合って」

みやびは大げさに目を回しながら、のそのそと近づいていく。「おばさんはもう歩けるようになったって、賢吾さんが言ってたじゃないですか?」

「でも、リハビリも続けるようにって、先生に言われてたのよ」百合子は眉を寄せる。「とりあえず薬を持ってきて」

キッチンからは苦い漢方の匂いが漂ってくる。

みやびは鼻をつまみながらコップを手にもち、しぶしぶと差し出した。

百合子はひと口すすったが、すぐに吐き出す。「熱っ!……あずさは一度も――」

「私はあずささんじゃありませんから!」みやびは苛立ちを隠さず、コップをテーブルに乱暴に置いた。

百合子が吐き出した茶色い薬がはねて、みやびの新しいシルクのドレスに染みが広がる。「きゃあ!これ新品なのに!」

百合子は床の汚れに視線を落とす。あずさなら、すぐさま跪いて拭き取り、顔色ひとつ変えなかった。薬の温度も必ずちょうどよく冷まし、後味を消すために飴まで添えてくれた。

「おばさん、何ぼんやりしてるんですか?」みやびは紙ナプキンで汚れを適当に拭き取りながら言った。「リハビリに行くんでしょ?早く行きましょ」

――リハビリ室。

百合子は両手で平行棒を握り、汗をにじませながら一歩一歩踏みしめる。その横で、みやびはソファに座り、スマホをいじっていた。

「頑張ってくださいね、おばさん」視線は一度も上がらない。

「みやび、少しは支えて!」百合子は荒い息で声を張り上げた。

みやびは唇を尖らせ、しぶしぶ肩を差し出す。だが百合子の手が触れた瞬間、彼女は声をあげて叫んだ。「痛っ!爪が刺さったんですけど!」

「まったく、大袈裟わね!」百合子は彼
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