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七年目の終わり、雪が溶けた

七年目の終わり、雪が溶けた

By:  ピーちゃんCompleted
Language: Japanese
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新婚の夜、親友の弟が、髪から滴る水を拭いながらふと私に尋ねてきた。「ちょっと大きいけど……大丈夫?」 彼のきれいに割れた腹筋に目を奪われながら、頭の中が真っ白になる。「え?な、何が……?」 私の話が聞こえなかったように、彼は真剣な顔で繰り返す。「大丈夫?」 急な展開に、自分の声まで裏返った。「ちょ、ちょっと待って!そういうの、まだこれからって言ってたでしょ?今日はさすがに急すぎるんじゃ……」 その夜、家のセンサーライトが明滅を繰り返し、夜が更けても消えることはなかった。 元夫の森崎賢吾(もりさき けんご)は家の外でうずくまり、目を腫らして泣いていたが、私は気にすることはなかった。 かつて、私が賢吾の幼なじみとの「形だけの結婚」を認めたとき、彼はそれで私たちの冷戦が終わると信じていた。 ある日、彼から電話がかかってきた。 「俺とみやびの結婚式は体裁だけ。母さんのためにやるんだ。終わったら、必ずお前とやり直す。一緒に暮らそう、約束する」 私は何も答えなかった。ただスマホの画面に表示されたカウントダウンを見つめていた――あと何日でこの家を出られるかを計算するために。 彼は気づいていない。私に黙って離婚届を提出したその瞬間から、私たちの夫婦関係はすでに終わっていたということを。

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Chapter 1

第1話

今年に入って九度目――義理の母、森崎百合子(もりさき ゆりこ)が戸籍謄本を破ったとき、森崎あずさ(もりさき あずさ)の心がふと折れた。

手元には真っ二つになった書類。その片方に、先ほど百合子がぶちまけたスープの跡がまだ残っている。

百合子が怒りを爆発させるたび、決まって最初に犠牲になるのはこの一枚だった。

「何を見てるのよ!」病床に凭れながら、百合子は甲高い声を上げる。

「あんたみたいな厄病神が来なければ、私が寝たきりになることなんてなかったのよ!」

あずさは黙って床に散らばった食器の破片を拾い集める。鋭い端で指先を切り、赤い線が滲む。それでも声は上げず、白いワンピースに飛んだ油じみをそっと拭った。

「可哀想ぶるんじゃないわよ!」百合子はベッド脇のコップを掴み、投げつける。

「さっさと出て行け!顔を見るだけで腹が立つわ!」

コップはあずさの耳すれすれを通り過ぎ、壁に当たって粉々に砕け散った。

あずさは静かに病室を出て、ドアを閉めると、廊下の壁に背を預けて大きく息を吸い込んだ。

鼻腔を刺す消毒液の匂い。二年間、病院で過ごしてきた数え切れない夜が一気に胸に押し寄せる。

彼女はスマホを取り出し、夫の森崎賢吾(もりさき けんご)にメッセージを送った。

【賢吾、介護の人をお願いできない?今日もお義母さんが……】

画面には「既読」の文字が浮かぶ。だが、返事はいつまで経っても来ない。

十数分ほど待ち続けた末に、あずさはスマホを閉じ、戸籍謄本を再発行してもらおうと区役所へ向かった。

区役所の窓口は閑散としていた。破れた書類を差し出すと、職員は確認のために端末を操作し、眉をひそめる。

「……森崎さんは離婚されたようですが、『離婚』とわかる戸籍謄本を発行してもよろしいですか?」

「……離婚?」あずさは耳を疑った。

画面がこちらに向けられる。

「ご覧の通り、ご主人が離婚届を提出されています」

あずさはカウンターの縁を掴み、指先から血の気が引いていく。

彼女の脳裏に、二週間前の光景がよみがえった。治療費の清算に必要だと言って、賢吾が自分の印鑑を借りたことがあったのだ。そのとき、百合子の世話で手いっぱいだった彼女は詳しく聞きもせず、印鑑を差し出したのだった。

「もしかして……離婚についてあなたの合意は得られていないのですか?」職員が気の毒そうに尋ねる。

背後で順番待ちの人々がひそひそと声を交わした。

「ねぇ、あれって、森崎家のお嫁さんじゃない?賢吾さんにすがりついてるって噂の」

「そうそう、あの人のせいでお義母さんの足の治療が遅れたって聞いたのよ」

あずさは無言で左手の薬指を見つめた。そこにはめている指輪が、胸の奥に針を刺すような痛みを連れてくる。

「いえ。話し合って決めたことです、特に問題ありません」

かすれた声で言うと、職員は頷いた。

逃げ出すように区役所を後にする。真夏の日差しの下に立っているのに、全身が震えるほど寒かった。

タクシーに乗って病院に帰る途中、ようやく賢吾から返信が届いた。

「仕事で手が離せないんだ。夜に話そう」

何度もチャット画面を開き、問いただしたい衝動に駆られる。だが、文字を打ち込むことはできなかった。

病院へ戻ると、廊下は不思議なほど静まり返っていた。百合子の病室に近づき、中から笑い声が響いてくる。

そっとドアを押し開けたあずさは、その場に立ち尽くした。

ベッド脇に立つ百合子は、両足でしっかりと床を踏みしめ、器用にフォークで果物を口に運んでいた。

傍らには北沢みやび(きたざわ みやび)が座り、リンゴの皮をむいている。そして、忙しいと言い張っていた賢吾が母の肩を優しく揉んでいた。

「寝たふりなんて最高だわ」百合子は満足げに笑う。「あの小娘、私が歩けるようになったなんて夢にも思わないでしょうね」

「おばさんったら、またそんなことを……」みやびがにやりと笑う。「あずささん、あんなに一生懸命お世話してくれてたじゃないですか」

百合子は鼻で笑った。「当然よ。あの女が邪魔したせいで賢吾が電話に出られなくて、私は長い入院生活を強いられたのよ」

あずさはドア枠にしがみつくように手をかけ、賢吾の顔を見た。彼は複雑な表情を浮かべているが、母の言葉を否定しない。

「離婚届はもう出したのに、どうしてあいつはまだ出て行かないの?」百合子が詰め寄ると、賢吾は低く答えた。

「離婚については、まだ話してない。それに……」

「それにって?」百合子が甲高い声で遮る。「まさか未練でもあるっていうの?みやびのほうがあの女より百倍マシでしょ?」

「母さん!」賢吾の声が鋭く響いた。「離婚は俺なりの考えがある。母さんはゆっくり休んで、回復に専念してくれ」

「はいはい、勝手にすればいいわ」百合子は手を振り払うように言った。

「どうせもう別れるんだから。あいつがタダで世話をしてくれるなら、それはそれでいいわ」

あずさは一歩後ずさり、視界が涙でにじんだ。離婚の当事者である自分が、最後にそれを知るなんて……

病室に背を向けると、背後ではまだ笑い声が弾んでいた。

あずさは窓辺に立ち、スマホの中で眠らせていたとある番号を押した。

「……もしもし、私よ」

彼女の声は驚くほど落ち着いていた。「ここを離れたい。できるだけ早く」

スマホの向こうが沈黙したのちに問う。「もう決めたんだね?」

「うん」窓の外の街路樹が風に揺れ、葉が静かに擦れ合う。

「この家に二年も尽くした。もう、十分でしょう」

通話を切り、病室の方へ一度だけ目を向けた。相変わらず笑い声が満ちている。

その声は、まるで幸せな家庭そのもののように響く。けれど、そこに自分の居場所なんて一度もなかった。
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松坂 美枝
クズの自業自得物語だった 姑の嫁いびり容認に勝手に離婚届出したり他の女と結婚式して一晩中とか擁護できんわ 作中離婚届と離婚協議書出す順番逆ではとか赤信号で 渡るの?がちょい気になった
2025-10-04 10:43:11
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26 Chapters
第1話
今年に入って九度目――義理の母、森崎百合子(もりさき ゆりこ)が戸籍謄本を破ったとき、森崎あずさ(もりさき あずさ)の心がふと折れた。手元には真っ二つになった書類。その片方に、先ほど百合子がぶちまけたスープの跡がまだ残っている。百合子が怒りを爆発させるたび、決まって最初に犠牲になるのはこの一枚だった。「何を見てるのよ!」病床に凭れながら、百合子は甲高い声を上げる。「あんたみたいな厄病神が来なければ、私が寝たきりになることなんてなかったのよ!」あずさは黙って床に散らばった食器の破片を拾い集める。鋭い端で指先を切り、赤い線が滲む。それでも声は上げず、白いワンピースに飛んだ油じみをそっと拭った。「可哀想ぶるんじゃないわよ!」百合子はベッド脇のコップを掴み、投げつける。「さっさと出て行け!顔を見るだけで腹が立つわ!」コップはあずさの耳すれすれを通り過ぎ、壁に当たって粉々に砕け散った。あずさは静かに病室を出て、ドアを閉めると、廊下の壁に背を預けて大きく息を吸い込んだ。鼻腔を刺す消毒液の匂い。二年間、病院で過ごしてきた数え切れない夜が一気に胸に押し寄せる。彼女はスマホを取り出し、夫の森崎賢吾(もりさき けんご)にメッセージを送った。【賢吾、介護の人をお願いできない?今日もお義母さんが……】画面には「既読」の文字が浮かぶ。だが、返事はいつまで経っても来ない。十数分ほど待ち続けた末に、あずさはスマホを閉じ、戸籍謄本を再発行してもらおうと区役所へ向かった。区役所の窓口は閑散としていた。破れた書類を差し出すと、職員は確認のために端末を操作し、眉をひそめる。「……森崎さんは離婚されたようですが、『離婚』とわかる戸籍謄本を発行してもよろしいですか?」「……離婚?」あずさは耳を疑った。画面がこちらに向けられる。「ご覧の通り、ご主人が離婚届を提出されています」あずさはカウンターの縁を掴み、指先から血の気が引いていく。彼女の脳裏に、二週間前の光景がよみがえった。治療費の清算に必要だと言って、賢吾が自分の印鑑を借りたことがあったのだ。そのとき、百合子の世話で手いっぱいだった彼女は詳しく聞きもせず、印鑑を差し出したのだった。「もしかして……離婚についてあなたの合意は得られていないのですか?」職員が気の毒そうに尋ね
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第2話
あずさは病室へ戻ることなく、タクシーに乗って家へ直行した。夜になって荷物をまとめ終えたころ、賢吾がドアを開けて帰ってきた。「お義母さん、今日も三度も茶碗を投げつけてきたわ。私がみやびほど気が利かないんですって」顔を上げずに告げると、賢吾はネクタイを緩め、うんざりした声を返す。「二年も寝たきりだったんだ。機嫌が悪くても仕方がない。少しぐらい我慢してやれないのか」「我慢?」あずさは思わず笑った。昼間スープで汚されたワンピースを手に取って見せる。「これ、わざとよ。今朝、自分から浴びせかけてきたの」「それがどうした!いい加減にしてくれないか!」賢吾はワンピースを奪い取り、ベッドに投げ捨てる。「あずさ、昔のお前はこんなんじゃなかったんだぞ!」「じゃ私はどんな人間だった?」あずさは立ち上がり、目頭が熱くなる。「毎朝五時に起きてお粥を作ってた家政婦?それとも膝をついて床を磨きながら、『厄病神』って罵られても言い返さない意気地なし?」賢吾は喉仏を上下させ、顔をそらした。「……お前だってわかってるだろ、母さんが寝たきりになった理由を」空気が凍りつく。あずさは拳を握り締め、爪が掌に食い込む。――すべては一本の電話から始まったのだ。二年前の結婚記念日の夜。肌を重ねた直後、百合子から電話がかかってきた。「今日は出ないで」あずさは裸足のままカーペットに立ち、賢吾の腰に腕を回した。「今日は記念日なんだから」賢吾は迷いながらも、唇を重ねたのち囁いた。「一分だけ、頼む」「毎回それよ!」限界に達したあずさはスマホを奪い、床に叩きつけた。「どうせ今度も仮病でしょ?この電話に出るなら、離婚するわ!」賢吾の瞳には複雑な感情が浮かんでいた――驚き、諦め、そして妥協。彼はため息をつき、スマホを拾って横におくと、彼女を抱き寄せる。「わかった。もう出ないよ」だが翌日になって、昨夜百合子は脳出血を起こして救急搬送されたことがわかった。賢吾が電話に出なかったため、処置が遅れて半身不随になったのだ。「わかってる、あれは私のせいだから、償わなきゃいけないって」あずさは絞り出すように言う。喉から出た声がひどく掠れていた。「だからといって、二年間も馬車馬のように尽くさなきゃいけないの?お義母さんにご飯を服に吐かれても、みや
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第3話
あずさが階段を降りると、百合子がみやびに車椅子を押され、数人の使用人と一緒に荷物を運び込んでいるところだった。「まあ、やっと来たの?」百合子がまぶたをわずかに上げ、唇に冷ややかな笑みを浮かべる。「てっきり一生、部屋に閉じこもっているのかと思ったわ」みやびは横に控え、手にしたお茶を差し出しながら、柔らかい声をかけた。「おばさんはリハビリを終えたばかりなんです。お医者さんからは、とにかく歩くようにって」「リハビリ?」あずさの視線が百合子の足元へ向く。百合子は得意げに膝を軽く叩いた。「驚いた?医者が言うには、回復は順調で、もう少し養生すればすっかり治るんですって」そう言って彼女は上の階を指差した。「今日からみやびがここに住むわ。私の世話をするためよ。あんたがどう思おうと、これは決まったことなんだから」あずさは唇をわずかに歪めただけで、黙って賢吾に目を向ける。彼は唇を引き結び、小さく答えた。「……この件について、あずさはもう了承してある」百合子は一瞬驚いたが、すぐに鼻で笑った。「ようやく物分かりが良くなったのね」みやびはすぐさま嬉しそうに百合子の腕に絡む。「おばさん、荷物は私が運びますね」「ええ、好きな部屋を選ぶといいわよ」「ありがとうございます!」みやびは弾むように階段を駆け上がり、ほどなくしてガタンと大きな音が響いた。顔を上げたあずさの目に映ったのは、みやびが使用人に指示して、廊下に飾られた絵を外させている姿だった。その絵は、あずさと賢吾が初めてのデートで訪れた海を描いたもの。二人で選んだ大切な思い出だった。「こんなの、部屋の雰囲気に合わないでしょ」みやびは悪びれもせず笑い、絵を脇へ放ると、さらに壁の写真を指さす。「この辺も、邪魔だから片付けちゃって」次々と外されていく写真の中には、二人の結婚写真もあった。賢吾は階段の途中で立ち止まり、険しい顔をした。何かを言いかけて、けれど結局、あずさに向かって小声で言っただけだった。「……放っておけ。あとで戻せばいい」あずさは口元を引きつらせ、何も言わなかった。そのとき、みやびが階上から顔を出し、甘えるように賢吾を呼ぶ。「賢吾さん、私、主寝室がいいな。おばさんの部屋にも近いし、看病もしやすいでしょ?」「そうね、そのほうが助かるわ」百合
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第4話
食卓は一瞬で静まり返った。百合子が目を見開き、賢吾も勢いよく顔を上げる。「……今、なんて言った?」あずさは立ち上がり、淡々と答えた。「ごちそうさま。ごゆっくりどうぞ」背を向けて階段へ向かう。背後で百合子が小声でつぶやいた。「なにそれ、頭おかしいの?」階段に差しかかったところで、賢吾が追いかけてきて腕を掴む。「さっきの話、どういう意味なんだ?」あずさは振り返り、冷静に目を合わせた。「結婚式をするんでしょう?私は別に構わないよ」賢吾の眉間に深いしわが寄る。「あれはただの体裁なんだ!母さんが退院したばかりだから、機嫌を損ねたくないだけだ」「うん」あずさは淡々とうなずいた。「好きにしていいから」賢吾はじっと彼女の目を探るように見つめ、やがて低く言った。「……安心しろ。離婚届を提出したとしても、俺たちが夫婦であることには変わりがないから」あずさは小さく笑った。「うん、わかってる」その笑みに安堵した賢吾は、つい手を伸ばし、彼女の髪に触れようとする。「……いい子だ」だが、あずさはさっと身をかわし、唇の端を皮肉に歪めて階段を上がっていった。残された賢吾は、彼女の背を見送りながら、得体の知れない不安を覚えた。翌朝。賢吾が家を出た後、あずさはようやく客室から出てきた。百合子はすでにダイニングに座り、待ちくたびれたように指先でテーブルを叩いていた。彼女はあずさを見つけるなり冷たく言い放つ。「突っ立ってないで、さっさと顔を拭いてちょうだい」これまでなら、あずさはすぐに湯を沸かし、タオルを絞り、しゃがんで彼女の顔を拭いては、髪を梳いた。ときには膝を床について、靴まで履かせていた。だが今日の彼女は、ただ無表情で百合子を一瞥しただけで、台所へ入り、牛乳を注いで、ゆっくりとトーストを焼き始めた。百合子の顔が一気に険しくなる。「話、聞こえなかった?」すると、みやびが取り繕うように声をかけた。「おばさん、私がやりますね」ぎこちない手つきで百合子の顔を拭くと、ほんの一瞬、百合子は眉をひそめた。その光景を眺めながら、あずさは自分の愚かさを嘲笑った。――二年間も頑張って尽くし、食事から身の回りの世話まで一通りこなしてきた。百合子に食事を吐きかけられたときでさえ、笑顔で拭いていた。なのに、百合子の顔を拭
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第5話
「気がついた?」ベッドの脇から賢吾の声がした。あずさは痛みを堪えながら顔を横に向ける。彼は椅子に腰かけ、眉間に深い皺を刻んでいた。その瞳には一瞬だけ憂いが浮かんだが、すぐに怒りがそれを覆い隠した。「自分が骨折してるの、わかってるか?」声は低く重い。「医者が言ってた。あと少しずれてたら、命はなかったって!」喉が焼けるように乾き、あずさはかすれ声で言った。「……みやびに、押されてたの」賢吾の表情が一瞬で凍りつく。「この期に及んで、まだ他人を陥れるつもりか?」「いや、本当よ!」あずさは必死に上体を起こそうとする。「あのあと、私を車道に押し出したのは、あなたの母さんよ!」「いい加減にしろ!」賢吾は立ち上がり、目に炎を宿す。「母さんはさっき目を覚まして、お前が突き飛ばしたってはっきり言ってたんだぞ!みやびだって見てたんだ、車椅子にぶつけたのはお前だって!」あずさは彼を真っ直ぐに見据え、低く言った。「じゃ防犯カメラを調べて」「そんなの調べるまでもない!」賢吾は彼女の手首を乱暴に掴んだ。「母さんはどんな人間なのか、俺が一番よくわかってる!それにみやびは優しいし、母さんに危害を加える理由もないんだ!」あずさはふっと笑った。けれどその目は真っ赤に染まる。彼は誰の言葉でも信じるのに、自分の話だけは信じてくれない。あずさは震える指でナースコールを押した。入ってきた看護師に、彼女ははっきりと告げる。「警察を呼んでください」「……正気か?」賢吾の顔色が一変する。ほどなくして警察が到着した。事情を聞かれ、あずさが答えようとしたとき、賢吾がきっぱりと遮った。「彼女は精神的に不安定なんです。うつを患っていて、しょっちゅう妄想に囚われてるんですよ」警官の視線が疑わしげにあずさへ向けられる。「私は道路の防犯映像を確認したいだけです」あずさは落ち着いた声で言った。賢吾は低く言い添える。「すみません、彼女、最近情緒が不安定で……これから精神科へ連れて行く予定なんです」警官は逡巡したものの、簡単な記録だけ残して去っていった。扉が閉まるや否や、賢吾はあずさの肩を強く掴み、声を冷たく落とす。「そこまで事を荒立てたいのか?」「私は真実が欲しいだけ」あずさは静かに答えた。「真実?」賢吾は鼻で笑う。「昨日から芝居を打ってたのは、母
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第6話
二日が過ぎたころ、重く閉ざされていた扉が軋む音を立てて開いた。差し込んだ眩しい光に、あずさは思わず身を縮め、壁際へと後ずさる。入り口には賢吾が立っていた。眉間に深い皺を刻み、低い声を落とす。「……これはどういうことだ?」説明しかけた医師の言葉を遮るように、みやびが早足で中に入り、柔らかく声を掛けた。「賢吾さん、あずささん、ずいぶんつらそうだけど、早く連れて帰ってあげましょう」彼女がそっと手を伸ばすと、あずさはびくりと体を震わせ、乱暴に避けた。彼女の長い髪は乱れ、顔を覆い隠す。右手首には包帯が巻かれ、指先も微かに震えていた。賢吾は不快そうに目を細めた。「二日間閉じ込められただけだろう?どうしてこんな有り様に?」医師は言い淀んでいると、みやびはすぐに賢吾の腕にすがりついた。「あずささん、右手も怪我してるから、つらいに決まってるよ」賢吾はわずかに眉をひそめ、あずさに歩み寄ると、彼女の頭に手を伸ばした。「……帰ろう、あずさ」だが彼女は条件反射のように身をすくめ、さらに後ろへ逃げた。賢吾の手は宙に止まり、そのまま固まった。帰りの車の中。あずさは窓に身を預け、流れていく景色を虚ろな目で追い続けていた。「……明日だが」賢吾が口を開いた。ためらいのにじむ声だった。「明日、俺とみやびの結婚式は、ただの儀式にすぎないんだ。母さんを喜ばせるための」賢吾はあずさを一瞥するが、彼女は何も答えなかった。「離婚の件も気にしないでくれ、いずれまた婚姻届を出せばいい。俺とみやびの間には、本当に何もないんだ」あずさはなおも沈黙し続けた。助手席のみやびが振り返り、にこやかに言う。「あずささん、あとで一緒にドレスを見に行かない?」「彼女の怪我はまだ治ってない」と賢吾は眉をひそめる。「でも、あずささんは結婚式の経験があるから、きっといいアドバイスをしてくれるでしょ?それに、私……あずささんと一緒に選びたいの」賢吾は少し迷い、やがてあずさに視線を向けた。「行けるか?」あずさは小さく答えた。「……いいよ」ウェディングドレスの店に入り、みやびは嬉しそうにはしゃいだ。「このドレス、すごく可愛い!」みやびは裾に指を滑らせ、振り返って賢吾に笑顔を向けた。「賢吾さん、これがいい!これにしましょ?」あずさが顔をあげると、心臓が凍
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第7話
あずさは、結婚式場の隅にひっそりと立っていた。爪が食い込むほどに掌を握りしめる。明日。明日になれば迎えがきて、この家から完全に解放される。だが今日だけは、賢吾とみやびの結婚式を、この目で見届けなければならない。赤いバージンロードの両脇には招待客がぎっしりと並び、車椅子に座る百合子は満面の笑みを浮かべている。音楽が鳴り響き、漆黒のタキシードに身を包んだ賢吾が、みやびの手を取って歩み出した。あずさの脳裏に、自分の結婚式の日がよみがえる。同じ教会、同じ赤い絨毯。賢吾は緊張で手に汗をかきながらも、強く彼女の手を握りしめ、耳元で囁いた。――「あずさ、やっとお前を妻にできた」だが今、彼は別の女と腕を絡め、落ち着いた顔でかつて彼女が歩いた道を、ためらいもなく進んでいく。不意に涙がこぼれ落ち、あずさは慌てて拭った。だが耳には、周囲のささやき声が容赦なく届く。「ねえ、あれって森崎社長の元奥さんじゃない?こんなとこに顔を出すなんて、図々しいわね」「精神的におかしいって噂よ。お義母さんを危うく殺しかけたとか」「哀れな人ね」あずさはそれらの声を聞こえなかったふりをして、ただ、壇上の賢吾を見つめ続けた。彼もまた何かに気づいたように、視線を巡らせ、やがて彼女の涙をとらえる。ほんの一瞬、彼の表情が揺らいだ。だが結局、何も言わずに顔を背け、儀式を続けた。――あずさ、お前ならわかってくれるだろう?式が終わり、客が次々と帰っていく。あずさが主寝室の前を通りかかった時、中から甘やかな声が漏れた。「賢吾さん、もっと優しくして……」みやびの艶めいた声が、鋭い刃となってあずさの胸を突き刺す。全身が硬直し、指先が震えた。やがて賢吾の押し殺した息遣いが重なる。「っ……声を抑えろ」みやびが小さく笑う。「別にいいでしょ?そのうちわかっちゃうから」「……黙れ」「ねえ、あの人と結婚したの、後悔してる?」不意に、みやびはそう聞いた。あずさは息を呑む。短い沈黙のあと、苛立ちを含んだ賢吾の声が響く。「ああ、後悔してるよ」その言葉が、熱い鉄のように胸に押し当てられ、内臓が焼き切れるように痛んだ。結婚式の日、彼は神父の前で「一生後悔しない」と誓ったはずなのに、今は「後悔してる」と言った。これ以上は耐え
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第8話
車は弁護士事務所を離れ、あずさは窓にもたれて流れる街並みをじっと見つめていた。もう何度も通ったはずの景色が、今日はただ遠ざかっていくばかり。泣くと思っていた。でも目はひどく乾いて痛むだけで、涙ひとつ落ちなかった。「お腹すいてない?」ハンドルを握る安東直美(あんどう なおみ)が横目で彼女を見た。「どっかで食べていく?」あずさは首を振り、無意識に左手の薬指をなぞった。そこには薄く白い跡が残っている。指輪を外しても、消えない痕だ。「もう見ないで」直美が彼女の手にそっと触れた。「あんな男、さっさと忘れたほうがいいよ」「……うん」小さな声で答え、あずさは再び窓の外に視線を向けた。空港は人であふれかえっていた。直美がスーツケースを引いて前を歩き、時折振り返っては、あずさがついてきているか確かめる。まるで彼女が突然消えてしまうのを恐れているかのように。あずさの足取りは重く、どこか宙に浮いたようだった。「ほら、これを持って」直美が搭乗券を手渡す。「飛行機に乗ったら少し寝てね。着いたら起こすから」あずさは券に記された見慣れない南の都市名を見つめ、言葉を探したが、結局うなずくだけだった。「泣きたいなら泣けば?」直美がティッシュを差し出す。「我慢したって苦しいだけでしょ」あずさは首を横に振り、涙を堪える。泣いちゃだめ。今泣いたら、まだここに未練があるみたいじゃない。飛行機が浮き上がる瞬間、心臓が一気に沈んだような気がした。あずさはシートの肘掛けを掴み、目を閉じる。「大丈夫?」直美が尋ねる。「平気。ただ……最後に飛行機に乗ったの、彼と新婚旅行の時だったから」「ったく、そんなやつのこと、もう思い出すなって」直美は呆れたように目を転がした。それ以上何も言わず、あずさはただ窓の外を見ていた。機内食が配られても、フォークを動かすだけで口に運ばない。胃の奥が鉛のように重く、呼吸さえ苦しかった。「少しは食べなさい」直美が眉をひそめる。「だめでしょ?こんなに痩せちゃって」仕方なくパンを一口かじったが、喉が詰まって痛みが走った。飛行機が降り立つ頃には、もう夜だった。初めて訪れる街の灯がきらきらと瞬いている。空港を出た途端、冷たい風に髪が舞い上がり、あずさはふと立ち尽くす。ここには賢吾も、百合子もいない。息が詰まるよ
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第9話
温泉の湯気が立ちこめるなか、賢吾は池の縁に体を預け、じんわりとした温かさにこわばった神経を解きほぐされていた。百合子はみやびに車椅子を押されながらゆっくり近づいてきて、満足げに笑う。「連れてきてくれてありがとうね。家よりずっと快適だわ」賢吾は微笑み、百合子の濡れた髪をそっと上げてやる。「母さん、足が治ったばかりなんだから、長湯は禁物だぞ」百合子は軽く彼の手を叩き、珍しく柔らかい口調で言った。「心配しなくても大丈夫。加減くらいわかってるわ」みやびが横に控え、タイミングを見計らってタオルを差し出す。「どうぞ、お顔を拭いてください」百合子は満足そうにうなずき、賢吾を見やった。「やっぱりみやびのほうが、誰かさんよりよほど気が利くわ」賢吾の笑みがわずかに揺らぐ。彼は答えず、ただ遠くの山並みに目をやった。ふと、あずさの顔が浮かぶ。母に取り入るようなことは一切しなかったが、病気のときには黙って看病に付き添っていた。薬を用意したり、体を拭いたり、シーツも替えてくれて、愚痴ひとつこぼさなかった。「賢吾?」百合子の声に我に返る。「どうしたの、考えごと?」彼は首を振った。「いや……」少し間を置いて、思い切ったように口を開く。「母さん、俺とあずさのことにはもう干渉しないって、約束したよな」百合子の笑みが一瞬凍りつく。だがすぐに手をひらひらと振った。「わかってるわ。私も足が治ったし、もうあんたたちのことに口を出す気はないの」胸の奥に重くのしかかっていた石を、ようやく下ろした気がした。そうだ、母の足は治り、結婚式も済ませた。帰ったらきっと、すべては元に戻る。彼とあずさの関係もそうだ。夜。賢吾はスイートのテラスでタバコを手にしていたが、火は点けられずにいた。そのとき、みやびもテラスに出た。彼女はバスタオル一枚をまとい、髪先から水滴を散らしながら近づいてくる。「賢吾さん、どうしたの?」賢吾の肩にそっと手を置かれる。彼の視線は思わず彼女の首筋に向かった。赤い痕――昨夜、無我夢中になっていた自分が残したもの。賢吾の眉間にしわが寄る。胸の奥にどうしようもない苛立ちがこみ上げた。「みやび」彼は低く言う。「式は挙げたが、あずさはまだ俺の妻だ」彼女の指先が一瞬強張り、それから作り笑いでうなずく。「わかっ
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第10話
百合子の視線が、テーブルに置かれた離婚協議書に落ちる。その瞳に一瞬、満足げな光がきらめいたが、すぐに表情を作り直し、わざとらしく嘆息した。「まあ……これでいいのよ。ようやく身のほどをわきまえたってわけね」「……何だって?」賢吾が顔を上げる。百合子はゆったりとした口調で続けた。「佐藤さんが言ってたの。結婚式の夜、あいつ、あんたの部屋の前にしばらく立っていたらしいわよ。結局、入らずに戻ったけど」一瞬、空気が凍りついた。賢吾の呼吸が止まり、耳の奥で低い轟きが響く。結婚式の夜――みやびの体温に呑まれたあの時。彼女はこう尋ねていた。「ねえ、あの人と結婚したの、後悔してる?」彼は朦朧とした頭で、無意識に答えてしまった。「ああ、後悔してるよ」今ならわかる。あずさは、その言葉を聞いていたのだ。血の気が引き、顔色は真っ青に変わる。両手がぎゅっと握りしめられた。「おばさん、もうやめてください!」みやびは慌てて声を上げる。目には涙がにじんでいた。「全部、私のせいですから……」百合子は冷笑を浮かべる。「何があんたのせいよ。悪いのは――」「やめろ!」賢吾の声が鋭く空気を裂いた。掠れたその響きに、二人とも言葉を飲み込む。「……部屋に戻れ」冷たく突き放す調子に、みやびは百合子と視線を交わし、黙って車椅子を押して去っていった。リビングに残されたのは、賢吾ひとり。重い呼吸が部屋を満たす。彼はふらつきながらソファに腰を落とし、離婚協議書を凝視した。――あの日、彼女と一緒に役所に行くべきだった。だが彼は、軽く言ったのだ。「今日はお前一人で行ってこい。温泉から帰ってきてたら、何もかもが元通りになるよ」あずさは俯いたまま、小さな声で答えた。「……わかった」その声音には、穏やかすぎるほどの静けさがあった。あのときすでに、離婚を決意していたかのように。胸の奥から、息をも奪う痛みが押し寄せてくる。思い出す。――結婚式の日、式場の隅で涙を流すあずさの横顔。その夜、別の女を抱きながら吐いた、「後悔してる」という一言。そして翌日の朝、「一人で行ってこい」と、何気なく突き放したあの態度。彼に言われたとおり、彼女は行ってきたのだが、結局持ち帰ったのは「婚姻届」ではなく――離婚協議書だった。「……そんなはずはない」賢吾はう
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