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第4話

Author: タイピスト7号
桐真は、突然言葉を失った。

律は元々、彼が彼らの子どものために考えていた名前だった。

美蘭は以前、彼のメモ帳でそれを見たことがある。男女問わず、皆がこの呼び名を使うつもりだという。この名前は、彼自身が願いを込めて手書きで書き残したものだ。

曲げない強い意志を持つ子どもに育ってほしいと願っていた。

だが今、その名は紗雪の子どもに与えられている。

「星奈(ほしな)」

沈黙を破ったのは美蘭だった。

「うちの子の名前は、星奈」

桐真は喉を鳴らし、張りつめていた表情が少し和らいだ。

彼の声は、いつものように優しさをまとっていた。

「星奈か、いい名前だ。星のように温かく、いつも母のそばにいられるような子だな」

彼は手を伸ばし、彼女の髪に触れようとした。

「美蘭、俺は数日出張が入った。戻ったら……」

「うん。仕事、頑張って」

美蘭はもうこれ以上取り繕う気もなく、彼の言葉を途中で遮り、そのまま歩き去った。

家に戻り、彼女はやっと星奈を寝かしつけたところで、スマホに紗雪のSNS通知が飛び込んできた。

写真には、3つの手が重なって映っていた。

律はぷにぷにした手のひらで車の鍵を握っていた。

1億円もする車を、彼は私生児の玩具にしているのだ。

それなのに、彼女が先週3回も頼んだのに、彼は結局娘のための輸入おむつを買い忘れたままだった。

美蘭は、スマホの画面を見て笑い声を漏らした。

その投稿を無言でスクリーンショットし、「証拠」というフォルダに保存した。

腕の中の星奈が、小さく口を動かして寝息を立てている。

まつげが照明に照らされ、扇のように影を落としていた。

彼女は娘のふわふわの頬にそっとキスした。

「大丈夫よ、星奈。ママが必ず守ってあげる」

翌日、手元の資産と持ち株の整理を終えた美蘭は、3日後に杭市へ飛ぶ航空券をすぐに予約した。

前回彼女の疑念に気づいてからというもの、桐真はここ数日、ほぼ毎時間メッセージを送ってきていた。

【美蘭、今日のクライアントは手強かったけど、なんとか片づけたよ】

【美蘭、仕事お疲れ様。南市のお菓子がすごく美味しかったよ、今度一緒に食べに行こう】

桐真はきっと知らないのだろう。

彼がこっそり紗雪の口座に振り込んだプロジェクトのボーナス、その全明細が美蘭のメールボックスにきっちり残っていることに。

そして、彼が「愛妻家」を必死に演じているその裏で、紗雪は彼からもらった金を使って、下着に詰め込んだ札束や、体中についた意味ありげなキスマークを、堂々とSNSに投稿していた。

美蘭は、スマホの画面を見つめながら皮肉に笑った。

かつては、桐真も彼女をこんなふうに大切にしてくれていた。

彼らは、誰もが羨む幼なじみだった。そして、彼は桜木の下で、頬を赤らめながら、君以外とは結婚しないと言ったのだ。

大学時代、桐真は彼女のまわりに近づく男をことごとく遠ざけ、狼のように独占欲を剥き出しにしていた。

盲腸の手術をしたとき、彼は3日3晩も付き添い、寝ずに看病してくれた。

初めて稼いだお金は、1円残さず全て彼女の口座に振り込み、送金メッセージには「愛する姫へ」と書かれていた。

突然、赤ちゃんの部屋から心をえぐるような泣き声が響いた。

慌てた様子の使用人が飛び出してきて、手には血が付いていた。

「奥様!大変です!お嬢様の太ももが何かで切れたみたいで、血が止まりません!早く見てください!」

美蘭の心臓が一瞬、止まった。

彼女は息を呑みながら部屋へ飛び込み、星奈を抱き上げた。

その小さな体は弱々しく泣いていて、太ももにはまだ血のにじむ傷があった。

彼女は気が狂ったかのように、娘を抱えて病院へ急いだ。

検査の結果、医師が診断書を手に告げる。

「血液凝固障害です。ヘモグロビンが非常に低く、すぐに輸血が必要です」

美蘭は唇を震わせながら懇願した。

「先生、私は彼女の母親です。私の血を……」

医師は厳しい口調で答えた。

「親からの直接の輸血はできません。それに、お嬢さんはRhマイナスの血液型です。まず血液センターの在庫を調べる必要があります」

「凝固促進剤を早く投与して!」

彼女はほとんど叫ぶように命じた。

だが凝固促進剤を投与しても、傷口からの出血は止まらなかった。

美蘭は顔色の悪い娘を抱き、涙がまるで糸の切れた真珠のようにこぼし続けた。

十数分後、看護師が慌てて駆け込んできて、同情を隠せない顔で言った。

「神原さん、Rhマイナスの血液はすべて使われてしまいました」

美蘭は驚き目を見開き、憤りに燃えた瞳で問い詰めた。

「さっきはまだ在庫があると言っていたのに、なぜ急に全部使われたのですか?」

看護師は唇を噛み、声を潜めて答えた。

「当院は私立病院で、大株主の賀茂社長の息子さんが緊急輸血を必要としていました。院長の指示で、すべてのRhマイナスの血液がVIP病室に回されたのです」

その言葉は美蘭の理性を粉々に打ち砕いた。

彼女が桐真に電話で問い詰めようとしたその時、紗雪の新しいSNS投稿が目に入った。

【やんちゃ坊主ね、膝を擦りむいちゃったの。でも心配しないくていいの、凄いパパがいるから、町の希少なRhマイナスの血液をサッと調達してくれたよ】

美蘭はただ、血が頭に上るのを感じていた。

星奈を看護師に預け、彼女は迷うことなく病院の最上階のVIP病室へ駆け上がった。

VIP病室のドアを蹴破って入ると、そこには紗雪が座り込み、病床の律とゲームに興じていた。

子どもの膝の小さな擦り傷は、絆創膏も必要ないほどだった。

その光景は凍りつくような刃となって美蘭の胸を突き刺した。

目の前にいる「幸せな」母子を見つめ、胸の奥から湧き上がる憎悪に呑み込まれそうになりながら、彼女は叫んだ。

「Rhマイナスの血液をよこせ!」
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