Short
風に消えた誓い

風に消えた誓い

By:  こむぎこCompleted
Language: Japanese
goodnovel4goodnovel
9Chapters
35views
Read
Add to library

Share:  

Report
Overview
Catalog
SCAN CODE TO READ ON APP

Synopsis

甘々シリアス

逆転

ドロドロ展開

愛人

ひいき/自己中

クズ男

婚姻生活

不倫

社長である松浦竜也(まつうら たつや)と内密に結婚して6年。やっと彼が、私たち夫婦の関係を公表してくれる気になった。 会社のパーティーでは、もう知らないふりなんてしないで、みんなに私のことを紹介してくれた。 竜也が、柴田遥(しばた はるか)のために家に帰ってこなかったり、私との約束をすっぽかしたりすることも、もうなくなった。 竜也の態度が変わったおかげで、義母の松浦穂花(まつうら ほのか)からも、もう嫌味を言われなくなった。 竜也があからさまに特別扱いしてきた、遥からでさえ、メッセージが届いた。 【あなたの勝ち。6年も添い寝もなしの生活に耐えて、やっと彼の気が変わったってわけね】 こうして私は、やっと名実ともに竜也の妻になった。 でも、思ったほどうれしくはなかった。 竜也が、結婚式のプランを差し出してきた時、私は思わず黙り込んでしまった。 私の様子がおかしいことに気づいた竜也は、眉間にしわを寄せて問い詰めてきた。 「周りにもちゃんと紹介して、結婚式もやり直す。これって、お前がずっと望んでいたことじゃなかったのか? 絵美(えみ)、また何をすねてるんだ?」

View More

Chapter 1

第1話

社長である松浦竜也(まつうら たつや)と内密に結婚して6年。やっと彼が、私たち夫婦の関係を公表してくれる気になった。

会社のパーティーでは、もう知らないふりなんてしないで、みんなに私のことを紹介してくれた。

竜也が、柴田遥(しばた はるか)のために家に帰ってこなかったり、私との約束をすっぽかしたりすることも、もうなくなった。

竜也の態度が変わったおかげで、義母の松浦穂花(まつうら ほのか)からも、もう嫌味を言われなくなった。

竜也があからさまに特別扱いしてきた、遥からでさえ、メッセージが届いた。

【あなたの勝ち。6年も添い寝もなしの生活に耐えて、やっと彼の気が変わったってわけね】

こうして私は、やっと名実ともに竜也の妻になった。

でも、思ったほどうれしくはなかった。

竜也が、結婚式のプランを差し出してきた時、私は思わず黙り込んでしまった。

私の様子がおかしいことに気づいた竜也は、眉間にしわを寄せて問い詰めてきた。

「周りにもちゃんと紹介して、結婚式もやり直す。これって、お前がずっと望んでいたことじゃなかったのか?

絵美(えみ)、また何をすねてるんだ?」

竜也は分厚い結婚式の企画書を、不機嫌そうに投げ捨てた。

大きな音が耳元で響いて、私はビクッと震えた。胸が苦しくなって、呼吸が少し速くなる。

竜也もそれに気づいたようで、眉間のしわをさらに深くして、いらだたしげにため息をついた。

「一体どうしたいんだ?俺は最近、お前のためを思っていろいろやってるつもりなんだが」

私はうつむいて、カーペットの複雑な模様をただじっと見つめ、何も言わなかった。

確かにこの3か月、竜也はよくやってくれたと思う。

遥とはもう会っていない。

私が止めなければ、すぐにでも遥を海外に送り返すつもりだったみたい。

結婚記念日も覚えていてくれたし、付き合いの飲み会を断って、私と食事をするために家に帰ってきてくれた。

どこへ行くにも報告してくれたし、インスタにあった遥の写真を、私と竜也のツーショットに変えてくれさえした。

このやり直しの結婚式だって、私が昔話した好みに合わせて準備してくれている。

まるで人が変わったように、彼は完璧な夫になろうとしている。

私は乾いた唇をきゅっと結び、無理やり笑顔を作った。

「あなたが選んでくれれば、それでいいわ」

竜也の我慢も、もう限界だったみたい。

彼はタバコの箱から一本取り出して、火をつけた。

でも何かを思い出したように、急に灰皿にタバコを押し付けて、立ち上がると私を腕の中に引き寄せた。

「絵美、俺の我慢にも限界がある」

竜也は声を低くして、警告するように言った。「これ以上、わがままを言うな」

竜也の腕の中で体がこわばる。私を抱きしめるその手は、指の節がくっきりしていて、昔は大好きだったのに。

でも今は、その手が氷のように冷たい手錠にしか感じられない。

こんなに体を寄せ合っているのに、私たちの間には決して越えられない深い溝があるように感じた。

恋を知ったときから十数年、竜也を愛してきたけど、今ではもう心は冷え切ってしまった。

そして今この瞬間、竜也に触れられることに、吐き気と拒絶感しか抱けない自分に気づいた。

だから、インターホンが鳴って、竜也がやけになったみたいに、訪ねてきた遥を中に入れた時、私はなぜか、ほっとした。

遥は家に入るなり、ぽろぽろと涙をこぼし始めた。今にも倒れそうな様子だった。

「竜也、どうして会ってくれないの?電話にも出てくれないし。会いたかったよ……」

竜也は何も答えず、私の反応をうかがっていた。

私が無表情なのを見て、彼は諦めたようだった。ここ数か月、遥に見せていた冷たい態度はもうどこにもなかった。

竜也は手を伸ばして、遥を腕の中に抱き寄せた。

「これからはもうしないよ」

遥は嬉しそうに顔を上げた。でも、竜也の視線が私に向いていることに気づくと、悔しそうに唇を噛んだ。

遥は私の方に向き直ると、哀れな声で頼んできた。

「絵美さん、誤解しないで。どうしても竜也に会いたかっただけで、あなたから何かを奪おうなんて思っていないわ」

遥はそう言うと、今度は悲しそうな顔で竜也を見上げた。

「竜也、今日で会うのは最後にするから。

お腹の子は諦めるわ。そして海外に戻って、もう二度とあなたの邪魔はしない」

「なんだって?

妊娠したのか?」

竜也は、はっと息をのんだ。

遥は悲しそうに頷くと、挑発するように私をちらりと見た。そして、そのままぐらりと倒れて気を失ってしまった。
Expand
Next Chapter
Download

Latest chapter

More Chapters
No Comments
9 Chapters
第1話
社長である松浦竜也(まつうら たつや)と内密に結婚して6年。やっと彼が、私たち夫婦の関係を公表してくれる気になった。会社のパーティーでは、もう知らないふりなんてしないで、みんなに私のことを紹介してくれた。竜也が、柴田遥(しばた はるか)のために家に帰ってこなかったり、私との約束をすっぽかしたりすることも、もうなくなった。竜也の態度が変わったおかげで、義母の松浦穂花(まつうら ほのか)からも、もう嫌味を言われなくなった。竜也があからさまに特別扱いしてきた、遥からでさえ、メッセージが届いた。【あなたの勝ち。6年も添い寝もなしの生活に耐えて、やっと彼の気が変わったってわけね】こうして私は、やっと名実ともに竜也の妻になった。でも、思ったほどうれしくはなかった。竜也が、結婚式のプランを差し出してきた時、私は思わず黙り込んでしまった。私の様子がおかしいことに気づいた竜也は、眉間にしわを寄せて問い詰めてきた。「周りにもちゃんと紹介して、結婚式もやり直す。これって、お前がずっと望んでいたことじゃなかったのか?絵美(えみ)、また何をすねてるんだ?」竜也は分厚い結婚式の企画書を、不機嫌そうに投げ捨てた。大きな音が耳元で響いて、私はビクッと震えた。胸が苦しくなって、呼吸が少し速くなる。竜也もそれに気づいたようで、眉間のしわをさらに深くして、いらだたしげにため息をついた。「一体どうしたいんだ?俺は最近、お前のためを思っていろいろやってるつもりなんだが」私はうつむいて、カーペットの複雑な模様をただじっと見つめ、何も言わなかった。確かにこの3か月、竜也はよくやってくれたと思う。遥とはもう会っていない。私が止めなければ、すぐにでも遥を海外に送り返すつもりだったみたい。結婚記念日も覚えていてくれたし、付き合いの飲み会を断って、私と食事をするために家に帰ってきてくれた。どこへ行くにも報告してくれたし、インスタにあった遥の写真を、私と竜也のツーショットに変えてくれさえした。このやり直しの結婚式だって、私が昔話した好みに合わせて準備してくれている。まるで人が変わったように、彼は完璧な夫になろうとしている。私は乾いた唇をきゅっと結び、無理やり笑顔を作った。「あなたが選んでくれれば、それでいいわ」竜也の我
Read more
第2話
竜也は慌てふためき、遥を横抱きにすると、急いで外へ駆け出していった。ドアを出る間際、竜也は振り返り、複雑そうな目で私を見つめた。「病院に連れて行くだけだ。お前もお腹に子供がいるんだから、理解してくれるよな?」以前の私なら、きっと泣き崩れて「行かないで」とすがっていただろう。でも今は、ただ穏やかに微笑んで、竜也を気遣うように言った。「早く行ってあげて。妊娠中に倒れるなんて、何かあったら大変だから」私が気遣うそぶりを見せたことで、竜也はかえって腹を立てたようだった。バタン、と竜也はドアを乱暴に閉めつけた。私はうつむき、まだ平らなお腹をそっと撫でながら、ぼう然としていた。10分も経たないうちに、スマホがブーンと震えた。知り合いのパパラッチから写真が送られてきた。病院の廊下で、竜也が遥を強く抱きしめ、額にキスをしているところだった。パパラッチは私に聞いてきた。【いつものように、買い取りますか?】今までなら、松浦家と自分のくだらない面子のために、どんなにお金がかかっても、こんな写真を買い取っていたはずだ。でも今回は、ただ淡々と【好きにしてください】とだけ返した。その夜、【#松浦竜也、元サヤか】、【#柴田遥、妊娠か】というハッシュタグがネット中を駆け巡った。すぐに遥からも、何通かメッセージが届いた。【見たかしら?竜也が愛しているのは、やっぱり私なのよ】【竜也が一時的にあなたの元に帰ったところで、何になるっていうの?彼の心にあなたはいない。惨めなものね】【自分の立場をわきまえて、さっさと身を引いたらどうかしら】最後の一文で、私の唇から血の気が引いた。【私があなたの最初の子をダメにしたんだから。今度の子だって同じ目にあわせてあげる】そもそも、竜也は遥と一緒になるためなら、松浦家の跡継ぎの座を捨て、家を出ることさえ厭わなかったのだ。ところが、ある交通事故で記憶を失ってしまった。目が覚めた竜也は、お見舞いに来ていた私に一目惚れした。竜也の母親である穂花はすぐさま、遥に手切れ金を渡して追い払い、私と竜也の政略結婚をまとめたのだ。私は一度は断った。長年、竜也のことを密かに想っていたけれど、人の弱みにつけこむようなことはしたくなかったから。でも記憶のない竜也は、私の家の前で雨に打たれな
Read more
第3話
【お腹の子、堕ろすことに同意します。以前のお話、まだ有効ですか?】すぐに穂花の返信が来た。送られてきたメッセージは、こちらの様子を探るような内容だった。【本当にいいの?】母が亡くなってから、義理の父親にとって私はただの他人になってしまった。そのせいか、穂花はもう私のことなど眼中にないようだ。穂花はとっくの昔から私を追い出して、竜也にもっと家柄の釣り合う妻をもらわせたいと思っていた。私はスマホで予約していた中絶手術の画面をスクリーンショットして、そのまま穂花に送った。本当に、惨めだ。私の二人の子は、どちらも期待されて生まれてくることはなかった。実は、離婚しようという考えは3ヶ月も前からあった。あの日、竜也と話し合おうと家を出たのに、途中で気を失って倒れてしまったのだ。意識がまだはっきりしないうちに、医者が竜也に、私の体はもうこれ以上、流産には耐えられないと話しているのが聞こえてきた。竜也はしばらく黙っていたけど、やがて「分かりました」とだけ小さく答えて、タバコを吸いに部屋を出ていった。タバコを吸い終えて戻ってきた時、なんと私の手を握ったのだ。竜也は、お互いもう若くはないんだから、と言った。この子のために、良い夫、そして良い父親になれるように努力する、と。「過去のことはもう水に流そう」竜也は久しぶりに穏やかな口調で、「これからは、二人でうまくやっていこう」と言った。何かに取り憑かれたように、私はうなずいてしまった。もしかしたら、この子は神様が私にくれたチャンスなのかもしれない、そう思った。すべてを元の道に戻すための、きっかけだって。でも、私は間違っていた。竜也の優しい触りや、くちづけのたびに、まるで切れ味の悪いナイフで、心を何度も切りつけられるようだった。竜也が遥をどんなふうに撫でて、どんなふうに睦み合っていたのかが、目の前に浮かんでくる。胃の奥から吐き気がこみ上げてきた。ただ、逃げ出したいとしか思えなかった。ぼんやりとしたまま眠りに落ちたけど、すぐに大きな物音で目が覚めた。ドアの方に竜也が立っていた。その腕の中には、いかにも可哀想な顔をした遥が抱かれていた。私の頭が割れるように痛くて、こめかみを揉んだ。しかし、私が口を開くより先に、竜也はベッドから私を乱暴に
Read more
第4話
遥は不満そうに目を赤くした。「竜也、もう絵美さんを責めないであげて。私には、絵美さんに何かをしてもらう資格なんてない……」その姿が、竜也の怒りに火をつけた。彼は私の腕を力ずくで掴んで、キッチンへと引きずっていった。廊下の角にあった低い棚に、私は下腹部を強くぶつけてしまった。でも、竜也は全く気づいていないようだった。キッチンカウンターのそばで乱暴に突き飛ばされ、今度は腰を冷たい調理台に強く打ちつけてしまった。激しい痛みで目の前が真っ暗になる。それと同時に、股の間から何かが流れ出してくるのを感じた。竜也は冷たく腕を組んで、私を見下ろすだけだった。「芝居はやめろ。絵美、前はお前のことを大事にしてやったのに、それを無下にしやがって。今さらそんな顔、誰に見せてるつもりだ?料理が出来上がるまで、ここから一歩も出すつもりはないからな」「竜也……」私はなんとかキッチンカウンターに手をついて竜也に手を伸ばしたけど、声は細かった。「お腹が、すごく痛いの。もしかしたら、流産しちゃうかもしれない。早く病院に連れてって……」竜也は苛立った様子で私の手を振り払うと、振り返りざまにキッチンのガラス扉に鍵をかけた。「お前のことなら、よく知ってるさ。嘘をつくのが一番得意だろうが。俺を家に呼び戻すために、治らない病気のふりまでしたじゃないか?」私はその場に崩れ落ち、力なく笑った。竜也が記憶を取り戻してからというもの、四六時中、遥に付きっきりだったから。私は病気のふりをしたり、気を失ったふりをしたりして、竜也に少しでも振り向いてほしかったんだ。でも、今回だけは、本当に違った。体から流れ出る血はどんどん増えていって、あっという間に床にまぶしいほどの赤い血だまりができた。息が苦しくなって、最後の力を振り絞ってドアを叩き、助けを求めて泣き叫んだ。でも、ドアの向こうから聞こえてきたのは、竜也が遥をなだめる声だった。「いい子だから、外で食べよう。あいつに毒でも盛られたら大変だからな」二人の楽しそうな笑い声が、私の苦しみに満ちたうめき声をかき消していった。意識が遠のく最後の瞬間、玄関のドアが閉まる音が聞こえた。……高級レストランで遥と食事をしていた竜也は、上の空で何度もスマホに目をやっていた。その様子に気
Read more
第5話
竜也は家に走って帰った。部屋はがらんとしていて、私のものがすべて消えていた。リビングの壁に飾ってあった、私が一番大事にしていた、自分で加工までしたウェディング写真も、外されていた。残されていたのは、真っ白な壁だけ。竜也はキッチンに駆け込んだ。すると、ほのかな血の匂いが鼻をついた。彼は家にいた使用人の腕を掴み、私の居場所を問い詰めた。使用人はおどおどして、怯えて言葉も出ないようだった。竜也は焦りで気が気でなく、その日の防犯カメラの映像を再生した。画面の中では、私が苦しそうに血の海に倒れて、か弱い声で何度も助けを求め、泣きながら彼にドアを開けてと懇願していた。床一面に広がる鮮血は、目に焼き付くほど赤かった。竜也はスクリーンに映る、絶望してなすすべもない私の姿を見て、ふらついて立っているのもやっとのようだった。その時、玄関のドアが開いた。竜也は私だと思ったのだろう。目にぱっと希望の光を宿して、ドアの方に向かって大声で叫んだ。「絵美、帰ってきたのか!」しかし、そこに現れたのは、うんざりした顔の穂花だった。竜也の目に宿った期待は、一瞬で消え去った。穂花の視線は、竜也の手元にある防犯カメラの動画に落ち、すべてを察したように言った。「どうせ絵美のこと、好きでもなかったんでしょ。子供もいなくなったんだし、ちょうどきっぱり縁を切れるじゃない」穂花は写真の束をテーブルに投げつけ、有無を言わせぬ口調で言った。「これを見て、一人選びなさい。早く柴田さんとは別れなさい。あんな女は遊びで十分よ。まさか本気だったわけ?私が手切れ金を渡したら、喜んで受け取ってとっとと海外へ消えたじゃない?そんな女のどこがいいの?絵美の方が、よっぽどあなたのことを真剣に想っていたわよ」……竜也の頭の中が真っ白になり、まるでハンマーで殴られたかのような衝撃が走った。遥を追い出したのは、絵美ではなかったのか?自分の母が?自分はすべての罪を、絵美一人に押し付けていた。ありもしない罪で、長年彼女を苦しめてきたのだ。「絵美をどこへやったんだ?彼女には優しくしてやれって、言ったはずだろ!」どうであれ、竜也は離婚するつもりなんて全くなかった。妻は絵美だけでいいと思っていたのだ。バシッ――乾いた平手打
Read more
第6話
竜也は考えているうちに、胸のなかの得体の知れない怒りが、また燃え上がってきた。母が絵美を無理やり追い出したに違いない。絵美はあんなに自分を愛してたのに、自分からいなくなるなんて、ありえるはずがない。だから、なんとしても絵美を見つけ出して、直接問いたださなければ気が済まない。……1月のE国は、想像していたほど寒くはなかった。湿った空気には、草や土の匂いが混じっていた。からっと乾燥した国内の冬とは、全然ちがう。ここへ来たばかりの頃は、どうも馴染めなかった。注文する時は言葉に詰まるし、電車も乗り間違えたりした。それに、時々夜中に、どうしようもない孤独感に襲われることもあった。でも、このまったく知らない場所で、だんだん気持ちが楽になっていくのを感じた。もう誰も私を「松浦さん」とは呼ばない。実家の体面を保て、なんて言う人もいない。私は、ただの私でいられた。あれほど毎晩私を苦しめて眠れなくした心の病も、この知らない土地に来てから、ずっと楽になったみたい。穂花は約束を守ってくれた。出国したとき、私の口座に4億円を振り込んでくれたの。でも、ただ何もしないで、お金を食いつぶすのは嫌だった。だから、大学のころにやっていた絵の腕をいかして、道端で小さな画架を立てて、人の肖像画を描き始めた。最初は、顧客なんて誰も来なかった。そのうち、イーゼルに立てかけた絵に惹かれて足を止める観光客や、学校帰りの子供がぽつぽつと現れた。一日がんばっても、大したお金にはならなかった。だけど、この穏やかな時間が、時の流れが苦痛じゃないってことを思い出させてくれた。筆と絵の具の世界に没頭していると、久しぶりに穏やかな気持ちになれた。竜也と一緒にいた日々のことも、喧嘩も、涙も、期待と絶望も、全部、まるで前世の出来事みたいに感じられた。竜也に再会するまでは……その日は天気がよくて、トラファルガー広場にはのどかな日差しが降り注いでいた。私は、ギターを抱えたストリートミュージシャンの絵を描いていた。描くことに夢中で、聞き慣れた声が、頭の上から聞こえてくるまでは、誰かがずっとそばに立っていることに、まったく気づかなかった。「絵美?」私の筆先がぴたりと止まり、紙に一本、不自然な線が入ってしまった。でも、すぐには顔を
Read more
第7話
竜也は必死になって説明した。「あの事故のこと、ちゃんと調べたんだ。お前には全く関係なかった!ブレーキの故障だった。ただの事故だ!遥に騙されてたんだ!それに高校の時のことも!遥をいじめてたなんて、全部うそだった!全部、遥が俺をだますための作り話だったんだ!あいつは俺たちを引き離したかっただけなんだ!」竜也は私の目をじっと見つめながら、後悔に満ちた声で言った。「俺がバカだったんだ!あんな女にだまされるなんて、俺はどうかしてた!」なんて、滑稽なんだろう。かつて、私が泣き叫んで説明しても、竜也は聞いてくれなかったのに。竜也の元を去った今になって、やっと信じる気になったなんて。私が無反応でいると、竜也の目にはさらに焦りの色が浮かび、その声は懇願するような響きを帯びていた。「絵美、ごめん、お前のことを信じてやれなくて……最低なことをした。もう一度、チャンスをくれないか?遥の正体はもう分かったんだ。あいつとは、もうきっぱり縁を切った!俺と一緒に国内に帰って、もう一度やり直そう。誓うよ。これからはもっと大事にする。お前が望むものは、なんだってしてやるから……」そう約束しながら、竜也の目には期待の色がかすかに光っていた。でも、私が欲しかったものは、もう竜也には与えられない。「真実がどうかなんて、私にとってはもうどうでもいいことよ。あなたが騙されたのか、それとも自分の意思だったのか。どちらにしても、もう私には関係ない。ただ、もう二度と私の前に現れないでほしい」私は、自分の手首を掴む竜也の指を、一本一本引きはがした。「そんなはずない!お前がそんなこと思ってるわけがない!絵美、意地を張るなよ!絵美、お前は子供の頃から俺の後ろばっかりついてきて、何年も俺に片思いしてたじゃないか。そんなお前が、俺をいらないなんて言うわけないだろ?」竜也はふと何かを思い出したように、慌ててコートのポケットからベルベットの小箱を取り出した。箱を開けると、中には少し不格好な銀の指輪が収められていた。私が手作りしたもので、内側には歪んだ「絵美」の文字が刻まれている。それは、竜也が記憶喪失だった頃、私を誘って手作りアクセサリーの店で、不器用ながらも二人で一日がかりで作ったものだった。これは私に贈る、世界で
Read more
第8話
私は、「竜也、ほら見て。本当は私のこと、愛してるんでしょ。ただ、忘れちゃっただけなのよ」と言った。でも、竜也はどうしたと思う?竜也は指輪をひったくると、一瞥もせずに、ゴミ箱に投げ捨てた。そして私の顎を掴んで、軽蔑するような冷たい目で言ったわ。「絵美、二度とこんなものを俺に見せるな。あの頃の話も、二度と俺の前でするな。さもないと、お前を俺の妻でいられなくしてやっても構わないぞ」その日、外はひどい雨だった。私は雨の中へ飛び出し、徹夜で歩き続けた。なのに今、竜也はこの指輪を持って、覚えているかと私に尋ねた。なんて皮肉なの。「お、俺は……絵美、俺は……」竜也は口ごもり、唇を動かしたけど、一言も説明できなかった。その時、甲高いスマホの着信音が、この気まずい空気を切り裂いた。竜也はまるで救いの船を見つけたかのように、慌ててスマホを取り出した。画面が光って、着信表示には「遥」という名前があった。竜也は思わず電話を切ろうとしたけど、一瞬、その動きがためらった。私は竜也を見つめて、冷たく言ったわ。「出ればいいじゃない。後悔しないようにね」竜也は私の言葉にカチンときたみたいで、画面を消した。そして私の手を掴むと、必死に自分の気持ちを訴えてきた。「絵美、聞いてくれ、遥とは本当にもう何もないんだ!今、俺の心にはお前しかいない、お前だけが欲しいんだ!」その言葉が終わらないうちに、スマホがまたしつこく鳴り響いた。今度は、知らない番号からだった。竜也はその番号を見て、眉をひそめて、ためらっていた。彼がまた電話を切る前に、私は手を伸ばして、代わりに通話ボタンを押して、ついでにスピーカーフォンにした。あまりに素早い動きだったから、竜也は反応できなかった。電話の向こうから、冷静で真剣そうな男の人の声が聞こえた。「松浦竜也さんでいらっしゃいますか?柴田遥さんが、星見ヶ丘プラザから飛び降りようとしています。柴田さんは精神的に不安定になっており、あなたに会いたいと指名しています。至急こちらへ来ていただけますか?」竜也はかっとなって、電話に向かって怒鳴ったわ。「死なせておけ!あいつが死のうが生きようが、俺の知ったことか!」次の瞬間、強い風の音に混じって、電話から遥の甲高い泣き声が聞こえて
Read more
第9話
おせっかいな人はどこにでもいるもので、様々なルートで竜也と遥のニュースを送ってきた。【絵美、聞いた?松浦さんは、本当に柴田さんを助けに行ったんだって。屋上で揉み合ってる写真がネットで話題になってるよ!】【信じられない、柴田さんって、本当にやり方が汚いわよね。助けられた直後、すぐ気絶して、松浦家が経営する病院にまんまと入院したんだから】【最新情報だ!松浦さんの母親が、わざわざ病院まで柴田さんのお見舞いに行ったらしいぞ。どうやら、腹の子を認めたようだな】そんな知らせが、耳障りなノイズのように頭の中でこだました。最初はイライラしたけど、そのうち何も感じなくなった。竜也と遥の物語は、大げさで、別れたりより戻したりを繰り返して、まるで終わりのない昼ドラを見ているようだった。私はただ、途中で席を立った観客にすぎない。それから半年後、私はS国を旅していた。その日、雪山のふもとで絵を描いていると、スマホが一度震えた。送られてきたのは、一枚の写真だった。そこには、竜也と遥がぴったりと寄り添っている顔写真が写っていた。どうやら二人が入籍した時の写真らしい。写真の下には、遥からの挑発的なメッセージが添えられていた。【絵美さん、見た?何年も争ってきたけど、最後に勝ったのは私。あなたは負け犬よ】私がそれを消す間もなく、今度は竜也からメッセージが届いた。十数件も立て続けに送られてきて、あっという間に画面が埋まった。【絵美、誤解しないでくれ!俺は脅されたんだ!】【遥が子供を盾に母さんを脅してきて……母さんは心臓が弱いから、ショックで入院してしまったんだ】【これは一時しのぎなんだ!信じてくれ!】【もうしばらく海外にいてくれ。遥が子供を産んだらすぐに離婚するから!そしたら、すぐに迎えに行く!】【絵美、返事をしてくれないか?頼むから……】私は無表情で、二人の電話番号をまとめてブロックした。それから一年、私は国内との連絡を一切断って、絵に集中した。現地でささやかな個展を開くまでになった。個人的な事情で、一時帰国せざるを得なくなるあの日までは、竜也たちのことも、かつての出来事も、すべて永遠に時の流れの彼方へ置き去りにしたつもりだった。飛行機が着陸した瞬間、スマホがネットに繋がり、溜まっていたニュース通知
Read more
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status