Se connecter柊霧華(ひいらぎ きりか)は大暁(たいぎょう)の国で最も寵愛を受ける姫であった。ある不慮の事故により蓮池へと転落した彼女が次に目を覚ますと、そこは現代の世界であった。 怯えた子鹿のように恐れおののく彼女を拾い上げたのは、帝都を牛耳る桐生グループの御曹司、桐生牧野(きりゅう まきの)であった。 牧野は霧華を邸宅へと連れ帰り、電灯の使い方やスマホの扱い方を教え、見たこともない異国の料理を与えた。不慣れゆえに彼女が引き起こすあらゆる騒動を、彼はすべて寛大に受け入れ、甘やかした。 そして夜になれば、彼は彼女の身体を開発することに熱中した。広い邸宅のあらゆる場所で、口にするのも恥じらうような淫らな体勢を強い、甘く宥め、言葉巧みに誘い込んでは、幾度となく共に情欲の波間へと溺れていった。
Voir plus狂ってしまったのか。そうかもしれない。牧野にとって、現実と幻の境界線などとうに消失していた。ただ、この勾玉に向かって懺悔を語りかけている時だけ、彼はほんの僅かな虚構の慰めを得ることができた。自分が手放してしまった彼女が、実は一度も離れていなかったかのように錯覚できたのだ。命の灯火が消えかけようとしていた最後の数年間、彼はペンを執り始めた。それは事業の決裁書類などではなく、一枚一枚、彼自身の手による手記であった。彼は震える力のない筆致で、一文字一文字、記憶を絞り出すように書き綴った。あの光溢れる現代の街角で、迷子になって怯え切っていた「いにしえの少女」を拾い上げた日のこと。下心に塗れた欲望を隠しながら、彼女にこの世界への適応を教え、同時に彼女を貪欲に独占したこと。あの偽りに満ちた三年間の中で、かつての自分が鼻で笑って見下し、しかし今は命よりも尊い宝物となった数々の微細な出来事。電灯の明かりのつけ方を覚えて目を輝かせたこと。初めてアイスクリームを食べて、その冷たさに顔をしかめた愛らしい顔。俺の胸の中で、すべてを委ねて丸くなっていたその体温。しかしその大半を占めていたのは、果てのない自分への悔恨であった。それは錆びた刃物で、自らの魂を何度も切り裂くようなことであった。自分がいかに目と心を曇らせ、虚偽に満ちた偽りの女に騙され、真実の愛を無惨に踏みにじったかを書き連ねた。千年の時を超えた無力な追跡劇を書き、彼女が自分に向けた絶対零度の視線を書き、最後に彼女が絢爛たる衣装に身を包み、真の良人と共に万民の祝福を受ける姿を書いた。手記の束は日増しに厚くなり、その行間には、遅すぎた血の涙と、決して消散することのない凄絶な苦痛が深く染み込んでいった。最後のページ。最後の一行。彼は極端にゆっくりと、残された生命力のすべてをペンの先に注ぎ込むようにして、紙が破れるほど強く書き付けた。【もし……もしもこの世界に、真の輪廻転生というものがあり、来世というものがあるのなら……】【霧華。次は、俺がお前を探しに行く】【俺が、幾千の山と川を踏み越え、この世のすべての苦難を一身に引き受けてでも、お前との再会を神仏に乞い願う】【次は俺が、命を懸けてお前を愛し、お前だけを大切にするから……】【……だから、いいだろう?】最後の一句を書
それから時が流れた。現代、桐生家本邸の裏庭。古井戸は相変わらず深く暗い口を開け、その縁には歳月を感じさせる苔がびっしりと覆い茂っていた。背中が丸く曲がり、鬢に白いものが混じった初老の男が、井戸の傍らの石の腰掛けに静かに座っていた。牧野であった。彼は結局、元の世界へ戻る方法を見つけ出したのだ。別の七星直列の夜だったのか、あるいは別の数奇な縁によるものだったのか。彼は現代へと帰還していた。しかし帰ってきたのは、中身を失った空洞の抜け殻だけであった。彼は極端に無口になり、かつての傍若無人で野心に満ちた面影は完全に消え失せ、静寂だけを纏うようになった。桐生グループの総帥として復帰はしたものの、ただ組織を維持するだけであり、領土を拡大しようという野心は微塵も持ち合わせていなかった。彼は生涯独身を貫き、傍らに女を置くことは一切なかった。彼の中にあったすべての感情や情熱は、あの時、井戸に飛び込んだあの姿と共に、千年前の古き時代へ完全に埋葬されてしまったかのようであった。毎年、天文学上の計算で七星直列が現れる可能性があるとされる夜になると、彼は必ず一人でこの古井戸の傍へやって来て、夜空を見上げたまま、空が白むまでただじっと座り続けた。彼が何を考えているのか、誰にも分からなかった。おそらく、何も考えてはいなかったのだろう。ただそうすることでしか、完全に失ってしまった、骨に刻まれたあの過去を弔うことができなかったのだ。さらに歳月が流れたある年。牧野は極めて偶然な縁から、古代の歴史に関する小規模な学術シンポジウムに出席した。古代国家を専門とする学者が、新しく発見された古文書の断片について解説する中で、千年前の高凛という強盛な王朝と、伝説として語り継がれる一人の賢后について言及した。「当時の隊商の記録の断片によれば、この皇后は高凛の出身ではなく、さらに東方に位置する『大暁』という神秘的な古代国家から輿入れしてきたそうです。彼女は並外れた叡智の持ち主であり、高凛の帝を補佐して黄金時代を築き上げました。帝との夫婦仲は極めて睦まじく、二人の間に生まれた子供たちも皆、傑出した人物であったと記されています……」学者が文献の考証について滔々と語り続ける中、客席の牧野は金縛りに遭ったようにこわばっていた。手に持っていた湯呑みが微かに震え、茶がこ
典薬寮が持てるすべての秘薬と霊草を注ぎ込み、死の淵を彷徨っていた牧野の命は辛うじて繋ぎ止められた。しかし負傷の度合いはあまりにも凄まじく、背骨は砕け、神経はずたずたに断ち切られていた。一命を取り留めたとはいえ、彼には生涯治ることのない重い身体障害が残された。かつての強靭な肉体と身につけた多少の護身術はすべて失われ、今や自力で歩くことさえままならない病弱な廃人となってしまったのだ。帝は姫の命を救った功績に免じ、彼が典薬寮の片隅で療養を続けることを特例として許した。身分は依然として最下層の衛士のままであったが、もはやいかなる職務に就くことも不可能であった。時は流れ、霧華と淵の婚儀の日が予定通りに訪れた。その日、都中には五色の幡が翻り、通りは祝賀の民衆で埋め尽くされた。見渡す限り続く華やかな迎えの列。雅楽の調べが天に響き、祝砲の音が轟く。霧華は、最高位の姫にのみ許される絢爛豪華な十二単を身に纏い、鳳凰を戴いた豪奢な輿に乗って、百官の祝福と万民の歓呼の中、大内裏の正殿へとゆっくりと進んでいった。牧野は、洗いを重ねて色褪せた古い衛士の衣を羽織り、弱り切った身体を引きずりながら、宮壁の最も目立たない陰から遠くその光景を見つめていた。天を衝くような高い楼閣の上。高凛の東宮としての威風堂々たる束帯に身を包んだ淵が立ち、その傍らに霧華が寄り添っている。冠の下から覗くその美貌は息を呑むほどに眩く、何よりも彼女の顔には、彼がこれまで一度も見たことのない、心の底からの安寧と至上の幸福の輝きが満ち溢れていた。万民の朝拝を受ける二人の姿は、まるで天上の神々のように完璧な番であった。その瞬間、牧野の胸に心臓を素手で握り潰されるような激痛が走り、喉の奥から込み上げた血を堪えきれずに吐き出した。冷たい宮壁にすがりつき、光り輝く二人の姿を見つめながら、彼はようやく、骨の髄から理解した。自分は完全に、永遠に彼女を失ったのだと。それは彼女が他の男に嫁いだという表面的な理由からではない。彼女が真の幸福を見つけ出したからだ。そしてその幸福は、自分が生涯をかけても決して彼女に与えることのできないものであったからだ。心は、この瞬間、完全に死に絶えた。盛大な婚儀は丸一日続いた。夜の帳が下りても、宮中は煌々と明かりが灯され、喜びに満ちていた。牧野は夜
霧華は言葉を区切り、決して揺らぐことのない明瞭な声で紡いだ。「桐生牧野。世には、骨の髄まで達し、二度と癒えることのない傷というものがある。そして、一度道を違えれば、生涯交わることのない縁というものがある。そなたがかの女の言葉を信じ、妾を疑い罰したあの瞬間に、我らの間にある縁は絶たれたのじゃ」彼女は冷ややかに彼を見据えた。「今や、そなたは大暁の底辺を這う一介の衛士であり、妾は高凛へ嫁ぐ東宮妃。互いに自分の身の丈に合った場所で静かに生きる。それが最も良き結末であろう」言い残すと、彼女はもはや彼に一瞥もくれることなく、女房たちに「戻るぞ」とだけ命じて背を向けた。牧野はその場に縫い付けられたように立ち尽くした。決然と遠ざかっていく彼女の背中を見つめながら、最後に残されていた細い希望の糸さえも彼女自身の手で断ち切られ、全身の血が完全に凍りつくのを感じていた。季節は巡り、天高く空が澄み渡る秋。皇室主催の大規模な巻狩の日が訪れた。見渡す限りの野に幔幕が張られ、駿馬がいななき、皇族や公卿、武官たちが広大な狩り場に集結していた。高凛の東宮妃となることが決まっている霧華も、高台に設けられた桟敷席からその様子を眺めていた。狩りが佳境に入り、一行が立派な角の雄鹿を追って深い森へと足を踏み入れた時のことである。突如として、森の奥から人々の恐慌に満ちた叫び声と、耳を劈くような獣の咆哮が響き渡った。いずこから現れたのか、巨大な黒熊が狂乱して護衛の陣を突破し、桟敷席へ向かって一直線に突進してきたのである。その血走った視線の先には、前列に座る霧華の姿があった。あまりに突然の出来事に、周囲の護衛たちも反応が遅れた。熊の剛腕が、凄惨な血の臭いと共に霧華の頭上へ振り下ろされようとしたその刹那。「危ない!」一本の矢のような人影が側面から猛然と飛び出し、渾身の力で霧華の身体を激しく突き飛ばした。牧野であった。彼はいつの間にか監視の目を逃れ、この狩り場に潜り込んでいたのだ。ドシャッ、という生々しい音と共に、熊の剛腕が彼の背をもろに打ち据えた。背骨が砕け散る、身の毛のよだつような鈍い音が響く。立て続けに、熊の鋭い牙が彼の肩口に深く食い込み、血肉を大きく引きちぎった。牧野が絶叫し、鮮血が舞い上がる。しかし彼は決して熊の脚から手を離そうとせず