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第8話

Author: 魔王君
翌朝の紺野家。

涼介はすでに目覚めていた。彼は隣で眠る未鈴の布団の端を丁寧に直し、その眼差しには愛おしさが満ちている。

未鈴は薄目を開き、涼介を見つめて、この束の間の温もりを噛み締めていた。

当時の彼女は、あまりに傲慢だった。自分にはもっと相応しい男がいると信じ込み、涼介を単なる「保険」扱いしていたのだ。

たとえ百回プロポーズを断ったとしても、彼だけはいつまでも自分を待ち続けてくれる、そう高を括っていた。

だが、彼女は知らなかった。己の強欲がいつまでもまかり通るほど、人の心は甘くないということを。

二人が別れた後、次に涼介の消息を聞いた時、彼はすでに結婚していた。

彼女は「どうせ当てつけでしょう」と思い、自分も当てつけのように富豪と結婚した。

海外で六年の歳月を過ごし、ようやく気づいた。涼介ほど自分に尽くしてくれる人間はいないのだと。

プライドを保つため、夫である富豪から五億円近くを騙し取り、逃げるように帰国して涼介を探した。

帰国して初めて知った。涼介と妻の間には、すでに五歳の子供がいることを。

でも、全てを捨てて帰国したのだ。このまま引き下がれるはずがない。

涼介は昔、あれほど自分を愛していた。きっと自分に無関心ではいられないはずだ。

案の定、彼女が意図的に近づくと、涼介が自分への想いを断ち切れていないと察した。

息子の海斗くんも、自分のことを特別気に入ってくれている。

今度こそ、この男をしっかり掴み取る!

「涼介、明世さんが私のファンのことをまだ気にしてたら、私が謝罪するわ。全部私のせいで……」

未鈴は甘い声で言いながら、一粒の涙を零してみせる。

涼介は手を伸ばして、彼女の目尻の涙を優しく拭った。

「君は悪くない。あれは彼女が受けて当然の罰だ。もう少し眠っていてくれ」

未鈴はコクリと頷いたが、手は涼介の袖を離さない。

「こんなに時間が経っても、私たち、まるで恋人同士のようでいられるなんて……」

涼介は彼女の手を布団の中に戻し、その口調にわずかな硬さを滲ませた。

「俺たちは友人だ。君の世話をするのは当然だが、昨夜のことは……」

言葉が落ちると、未鈴の表情が一瞬凍りつき、瞳の奥に嫉妬と憎しみが走った。

何か言おうとしたその時、小さな影がドアから飛び込んできた。

「未鈴さん!」

海斗は心配そうに彼女を見つめる。

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