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第2話

Author: 閑雲
陽咲は、聞こえないふりを突き通した。

どれほどの時間が過ぎた頃だろうか。怜央のスマホが震え、彼はベッドを抜け出すと、ドアの外で通話に応じた。

ドア越しに、彼が相手を慈しむような甘い声が漏れてくる。

「悠里、大丈夫だ。ただの悪夢だよ、怖がることはない。

そこで待っていてくれ。すぐに行くから」

ベッドに横たわったまま、陽咲は鼻の奥がツンとし、熱いものが込み上げてくるのを感じた。

結婚して二年。自分に対しては常に冷ややかな態度だった彼が、これほどまでに優しい声を出すことがあっただろうか。

唯一の例外は、一年前、彼女が妊娠した時に彼が放った言葉だけだった。

当時の怜央は、妊娠の事実を知らされても、父親になる喜びなどその瞳のどこにも宿してはいなかった。

陽咲はただ、彼にまだ心の準備ができていないだけなのだと自分を納得させようとしていた。しかし、彼から告げられたのは、あろうことか「おろしてくれ」という、あまりに残酷な一言だった。

その時の怜央のとろけるように優しい声と、情愛に満ちた眼差しを、陽咲は今でも鮮明に覚えている。

「陽咲、今は会社が急成長している大事な時期なんだ。俺も手が離せない。この子は……今回は諦めてくれないか?君は聞き分けのいい子だろう。落ち着いたら、また改めて授かればいいんだから」

それが、彼が自分に見せた唯一の「優しさ」だった。陽咲はその甘い毒に絆され、同意してしまったのだ。

翌日、怜央は彼女を病院へ連れて行き、子供を堕ろさせた。

その一度の手術で彼女の体は深く傷つき、再び子供に恵まれることは、もはや叶わぬ夢に近いほど難しくなってしまった。

妊娠の事実は二人だけの秘密だった。

義母である安部明美(あべ あけみ)から「子供も産めないのか」と陰に嘲笑されても、怜央はそれを聞き流し、一度として彼女を庇うことはなかった。

思考が現実に引き戻されると、胸がぎゅっと締め付けられるような痛みに、涙がこぼれそうになった。

電話を切った怜央が、探るように彼女を呼んだ。「陽咲、寝たのか?」

返ってきたのは、陽咲の静かな寝息だけだった。

やがて、傍らで衣擦れの音が響く。

ドアが閉まる。部屋には再び静寂が戻ってきた。

陽咲は起き上がり、カーテンを開けた。夜の闇の中に、怜央の車が走り去っていくのが見える。

それはまるで、囚われの姫君を救いに行く騎士のようだった。

長い間抑え込んでいた惨めさが決壊し、彼女はもう耐えきれず、頬を涙で濡らした。

怜央は一晩中戻らなかった。

翌朝、目が覚めるとスマホにメッセージが届いていた。

長年の友人である木下栞奈(きのした かんな)が訪ねてくるという。

身支度を整えた頃、チャイムが鳴った。

ドアを開けた陽咲は、そこに立つ人物を見てわずかに眉をひそめた。

栞奈の後ろに、怜央と悠里が立っていたのだ。

陽咲がドアを開けると、栞奈は心配そうに彼女を見つめた。家に入るなり、声を潜めて尋ねてくる。「陽咲、どうして怜央があの女と一緒に帰ってきたの?」

悠里は勝ち誇ったような笑みを浮かべてリビングに足を踏み入れると、挑発的な視線を陽咲にぶつけた。「お姉さん、久しぶりね。お父さんとお母さんが、お姉さんは元気にしているか、様子を見てくるように言ったの」

「お父さん、お母さん」という言葉を、悠里はことさら強調した。

血のつながった真の令嬢は陽咲であっても、両親に最も愛されているのは自分なのだと見せつけるかのように。

陽咲は彼女の挑発には乗らず、ただ怜央を見上げ、説明を求めた。

「朝食を買いに出たら、偶然悠里に会ったんだ。君に会いたいと言うから連れてきた」

怜央はそう言って、朝食の入った紙袋を持ち上げて見せた。

栞奈が冷笑を浮かべる。「陽咲に会いに来ただって?よくもまあ、そんな白々しいことが言えるわね。どうせろくな下心じゃないわ!」

悠里がどれほど陽咲を目の敵にしているか、栞奈にはすべてお見通しだった。悠里がわざわざここへ足を運ぶ理由が、純粋な「お見舞い」であるはずがない。

栞奈は陽咲を案じるように見つめると、声を潜めて耳打ちした。「陽咲、あの女には気をつけなさい。怜央に対して、絶対によからぬことを企んでいるわ」

その言葉が耳に入ったのか、悠里は栞奈を鋭く睨みつけた。

しかし栞奈はそんな視線を冷ややかに一蹴し、相手にさえしなかった。

陽咲はただ微笑んだ。実は怜央のほうも悠里を狙っているのだとは言えなかった。

そんな事実を聞かされたら、正義感の強い親友がどれほどショックを受けるか――そう考えると、陽咲は言葉を飲み込むしかなかった。

陽咲がテーブルに置かれた老舗おむすび店の紙袋から、特選ズワイガニのおむすびを取り出そうとした、その時だった。怜央が素早く動き、パシッと乾いた音を立てて彼女の手を叩いた。

かなりの力で叩かれたため、陽咲の手の甲は瞬く間に赤く腫れ上がった。

「陽咲、君……君は天むすが好物だっただろう?特別に海老天むすを買ってきたんだ」怜央は、海老の天ぷらが包まれたおむすびを彼女の前に押しやったが、その声には、隠しきれない後ろめたさが滲んでいた。

陽咲は赤く腫れ上がった自分の手の甲を呆然と見つめた。そこでようやく理解した。あの特選ズワイガニのおむすびは、彼が悠里のために特別に買ってきたものだったのだ。

栞奈が見るに見かねて声を上げた。「ちょっと、怜央!忘れたの?陽咲は重度の海老アレルギーなのよ!」

陽咲は椅子に座ったまま、唇をきつく噛み締め、静かに怜央を見上げた。

本来、怜央は彼女の些細な好みまで完璧に把握している男だった。かつては「あなたの記憶力には、とても敵わないわね」と、陽咲が彼を茶化したことさえあった。

だが、悠里を前にすると、彼の脳内からは他の記憶がすべて消去され、悠里のことだけで埋め尽くされてしまうらしい。

怜央の顔色が変わった。テーブルの上の海老天むすを見て苦渋の表情を浮かべ、バツが悪そうに陽咲に視線を移した。

「……すまない、陽咲。どうかしていた。君が海老アレルギーだったことを、うっかり失念していた」

陽咲は力なく目を伏せ、「……いいえ、大丈夫」と消え入るような声で答えた。

長い睫毛が蝶の羽のように震え、その儚げな姿が怜央の胸をざわつかせた。彼は理由のわからない苛立ちを覚えた。

食事は重苦しい沈黙の中で終わった。

食後、怜央は「悠里を送っていく」という口実を作り、逃げるように家を出て行った。

ダイニングには陽咲と栞奈の二人だけが残された。

「ねえ陽咲、私の陶芸工房に来ない?」

栞奈は瞳を輝かせて彼女を見つめたが、同時に、また断られるだろうという覚悟もしていた。

これまで何度も誘ってきたが、陽咲はそのたびに首を横に振ってきたからだ。

理由はいつも同じ。「家庭と仕事を優先したいから」、そして「怜央を支えたいから」

栞奈は今回も、淡い期待さえ抱いてはいなかった。

ところが、陽咲は彼女をまっすぐに見つめ、静かに言った。

「……少し、考えてみるわ」

「えっ?」

栞奈はぽかんとして、耳を疑った。

聞き間違いではないと確信するなり、栞奈は弾かれたように椅子から立ち上がると、陽咲を力いっぱい抱きしめ、その頬に熱烈なキスを落とした。

「陽咲!信じられない、本当に?愛してるわ、あなたは私の幸運の女神よ!

七日後に陶磁器の鑑評会があるの。著名な陶芸家の周防蒼空(すおう あおぞら)も来るのよ。その時に会わせてあげるわ」

周防蒼空の名を聞き、陽咲は珍しく興味を惹かれた。

彼が何者か、知らない者はこの業界にはいない。国内随一の鑑定眼を持つ陶磁器研究家であり、器に指先で触れるだけで、その制作年代から焼成時の絶妙な火加減までをも完璧に見抜くという伝説の持ち主だ。

興奮を隠せない栞奈に対し、陽咲はまず「釘を刺す」ことも忘れなかった。「栞奈、そんなに早くから喜ばないで。返事は三日後まで待ってちょうだい」

「喜ばずにいられるわけないじゃない!私がどれだけ口説いたと思ってるの?あなたは、あの伝説の陶芸家、正雄先生の唯一の直弟子なんだから!夢なら覚めないでほしいわ!」

陽咲の祖父正雄は、数年前に引退した伝説的な陶芸の名工だ。

唯一の孫娘である陽咲は、幼い頃からその技を叩き込まれ、彼の技術を継承していた。

陽咲さえ来てくれれば、自分の工房は間違いなく次のステージへ上がれる――栞奈はそう確信していた。

笑顔で栞奈を見送った後、陽咲はソファに座り、オンラインで会社の業務をこなした。

気づけば日は落ち、夜になっていた。

夜、怜央が帰宅する時間に合わせて、陽咲は家政婦の山田幸子 (やまだ さちこ)に夕食の準備を頼んだ。

食事の最中、怜央のスマホが鳴った。

その会話を耳にした瞬間、陽咲の箸を持つ手がぴたりと止まった。

「……ああ、どんな対価を払っても構わない。いくら金を積んででも、必ず正雄先生をこちらへお迎えするんだ」
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