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第6話

Auteur: 閑雲
写真に写っているのが蒼空だと分かると、怜央は安堵の息を吐き、悠里に事情を説明した。

悠里の瞳の奥に、一瞬だけ落胆の色がよぎった。

だが彼女はすぐに白々しいほど安堵した表情を作り、陽咲を気遣うふりをした。

「よかった、ただの誤解だったのね。でも、もしお姉さんが本当に質の悪い男に絡まれてたらと思うと、ぞっとするわ」

その言葉に含まれた「不幸になればよかったのに」という本音を敏感に察知し、陽咲は冷ややかに鼻で笑った。

「余計なお世話……それより、自分の心配でもしたら?こんな夜更けに姉の夫の家へ上がり込むなんて。世間に知られたら、『お里が知れる』って後ろ指を指されるだけよ」

悠里の顔から血の気が引いた。彼女は唇を噛み締め、潤んだ瞳で怜央を見上げた。「怜央さん……私、そんなつもりじゃない……お姉さん、何か誤解してるみたい……」

その姿に、怜央の胸が締め付けられる。彼は悠里を庇うように声を荒らげた。「陽咲、悠里になんて口を利くんだ。これでも君の妹だろう」

陽咲は冷たい目で彼を見返した。「血の繋がりもないのに、どこの誰が私の妹だって言うの?」

怜央が怒りで顔を赤くし、さらに怒鳴り散らそうとする気配を察して、陽咲は会話を打ち切った。これ以上相手にするのは時間の無駄でしかない。彼女は二人に背を向け、さっさと二階へ上がっていった。

悠里をひとしきり慰めた後、怜央は理玖に命じて彼女を送り届けさせた。

その夜、怜央はまたあの日の夢を見た。

十歳の冬。彼は拉致され、山中へと連れ去られた。犯人たちの要求は身代金十億円。

当時、両親は海外出張中で連絡が取れず、指定口座への入金が期限に間に合うことはなかった。

「親に見捨てられた」と判断した犯人たちは、怜央の始末を決めた。だが、直接手に掛けて殺人の罪を背負うのを恐れた彼らは、怜央の片足を無残にへし折ると、そのまま雪山に放り出したのだ。

――ここで野垂れ死ね。そう言い捨てて。

怜央は砕かれた足を引きずり、凍てつく山林を一晩中彷徨った。

体温は奪われ、指先の感覚はとうに消えている。極限の飢えと激痛の中、彼は死を悟り、雪の上に力なく倒れ込んだ。

絶望が彼を飲み込もうとしたその時。一人の少女が現れた。

ガタガタと痙攣する彼を見るなり、少女は迷うことなく自分の上着を脱ぎ、凍えきった怜央の体にそっと被せた。

朦朧とする意識の中、月明かりが少女の背中を青白く照らし出す。ふと、彼女の腰のあたりに、一つの痣があるのが見えた。それは、荒波を泳ぐ鯨の形に似ていた。

意識は深い闇に沈み、次に目を覚ました時、怜央が見たのは病室の天井と、傍らで泣き崩れる両親の姿だった。

あの事件のショックによるものか、彼の記憶には欠落が生じていた。当時の状況をかろうじて断片的に思い出せるだけで、肝心な部分は忘却の彼方へと消え去っていた。

その後、彼は自分を救ってくれたあの少女を必死に探し続けたが、行方は一向に掴めなかった。

ようやく「恩人」に再会できたのは、彼が十六歳の時。悠里が自ら名乗り出たのだ。彼女が語る当時の状況は怜央の僅かな記憶と合致しており、彼は彼女こそが命の恩人だと確信した。

だが、今夜の夢はいつもと違っていた。

月明かりの下で振り返った少女の顔は、悠里ではなく……あろうことか、陽咲の顔だった。

怜央は全身に冷や汗をかき、弾かれたように目を覚ました。

翌朝。陽咲はすでに身支度を整え、ダイニングで朝食を摂っていた。向かいに座った怜央は、明らかに寝不足の様子で、目の下には濃い隈が刻まれている。

陽咲はその姿を冷めた目で一瞥したが、何も言わずに食事を続けた。

怜央はトーストを口に運ぶ陽咲の横顔をじっと見つめながら、昨夜の夢を反芻していた。

「昔、雪山で遭難した男の子を助けたことはないか?」と喉元まで出かかったが、彼は必死にそれを飲み込んだ。

今さらそんなことを聞くなんて、あまりに突拍子もない。何より、悠里が自分の恩人であることは疑いようのない事実のはずだ。夢を見たからといって悠里を疑うなんて、あってはならない背信行為だ。

怜央は頭を振って雑念を追い払うと、黙ってコーヒーに口をつけた。

ダイニングには、異様な沈黙が流れていた。

食後、陽咲は会社へ行くと告げた。

「会社へ?在宅勤務の申請は三日間だったはずだが」

怜央がいぶかしげに尋ねる。

「三日の期限は切れた。戻るだけよ」

結局、陽咲は怜央の車に同乗して会社へ向かった。

道中、怜央は後部座席でノートPCを開いて仕事に没頭し、陽咲は目を閉じて休息を取っていた。

会社の近くまで来たところで、陽咲は目を開け、運転手に車を停めるよう指示した。ここからは歩いて出社するためだ。

怜央はそんな彼女を深々と見つめたが、口を挟むことはなかった。

社内で二人が夫婦であることを知るのは、琉生と理玖だけ。残りの社員は、誰一人としてその事実を知らない。

結婚当初、陽咲は公表を望んでいた。だが、怜央が「職場は恋愛をする場所ではない」という理由で頑なに拒んだのだ。

その結果、結婚して二年が経つ今も、二人の関係は闇の中にある。

今となっては、陽咲はそのことに感謝したいくらいだった。

私たちが夫婦だと知られずに済んで、本当に良かった。

離婚した後に、同僚たちの「格好の噂の種」にされるなんて、想像するだけで御免よ。

溜まっていた業務を片付ける頃には、二時間が経過していた。

陽咲は一息つくと、栞奈とのチャット画面を開いた。

【栞奈、決めた。あなたの陶房に入る。ただ、身辺整理のために三日ほど時間をくれない?】

栞奈からは即座に返信が届いた。

【やった!陽咲ちゃん、海棠陶房へようこそ!一ヶ月くらいかけていいから、急がなくて大丈夫!】

陽咲は短く【了解】と返し、スマホを置いた。

午前中の仕事が落ち着くと、彼女は以前ネットに投稿していた陶芸に関するメモを見返した。

粘土の特性や釉薬の基礎知識を復習しながら、近いうちに実際にろくろを回して、指先の感覚を取り戻そうと計画を立てる。

十一時過ぎ、給湯室へ水を汲みに行くと、そこで昨夜会ったばかりの蒼空と鉢合わせた。

彼もまた、まさか陽咲が会社にいるとは思わなかったらしい。彼女が手にしているカップを見て、すべてを察したように笑みを浮かべた。

「これは奇遇ですね。清水さん。またお会いできるとは」

昨夜の「不審者扱い」が頭をよぎり、陽咲は気まずさを感じながら、自ら頭を下げた。

「申し訳ありません、周防さん。昨夜は周防さんの身分も存じ上げず、大変失礼なことを……どうかお許しください」

蒼空は軽く微笑むと、気にする様子もなく陽咲の手元にあるカップに視線を落とした。

「清水さん、そのカップ、とても良い色ですね。どこかでお揃いのものは手に入りますか?」

彼がわざと話題を逸らし、助け舟を出してくれたことに気づき、陽咲は頷いた。

蒼空は満足げに笑みを深めた。漆黒の瞳の中で、星のような光が優しく揺れる。

「それは嬉しいな。では、連絡先を交換しませんか」

陽咲は一度デスクに戻ってスマホを手に取ると、QRコードを表示して彼の申請を承認した。

蒼空のアイコンは黒猫のイラストで、名前はシンプルに「周防」の二文字だけだった。

二、三言の社交辞令を交わした後、陽咲は自分の席へと戻り、仕事を再開した。

その一部始終を、一階に用件を伝えに来ていた琉生が偶然目撃していた。

琉生は報告すべきか迷った挙句、業務報告のついでに恐る恐る口を開いた。「社長。先ほど給湯室で、周防様をお見かけしました」

怜央は書類にサインを走らせながら、顔も上げずに答えた。

「ああ。そんな些末な報告はいらない」

「……ですが、奥様と周防様がご一緒で。ずいぶんと楽しそうに談笑されていたように見受けられましたが」

琉生が顔色を窺いながらそう告げた瞬間。怜央の手がピタリと止まった。

握りしめた万年筆のペン先が、もう少しで書類を突き破るところだった。

なぜ、またあいつなんだ。

怜央はビジネスで蒼空と渡り合った経験がある。だからこそ知っている。蒼空の笑顔の下には、底知れない計算高さと深淵のような闇があることを熟知している。

男としての本能が警鐘を鳴らしていた。あいつが、陽咲に対してただの善意で近づくはずがない。

怜央は深く息を吐き出すと、ファイルを閉じて机に放り投げた。苛立ちを隠すように、指先でデスクを不規則に叩く。「……陽咲を呼べ」

陽咲がドアを開けて社長室に入ると、怜央はデスクに座ったまま、氷のような冷たい視線を向けてきた。

「何か用?」

陽咲はデスクの前に立ち、感情のない声で尋ねた。

怜央は答えなかった。

静まり返ったオフィスに、怜央がキーボードを叩く音だけが響く。カチャカチャという怒りを込めた打鍵音が、陽咲の耳に痛いほど突き刺さる。

三十分もの間、陽咲は立ったまま放置された。ようやく怜央が仕事の手を止め、顔を上げた。

彼は陽咲を睨み据え、二人きりにしか聞こえない低い声で警告した。

「陽咲、契約結婚とはいえ、俺の妻であることに変わりはない。不倫して俺の顔に泥を塗るような真似は、絶対に許さない」

その身勝手な言い分に、陽咲は冷ややかな声で答えた。

「……そんなこと、しない。そっちこそ、自分の言葉を忘れないで。不倫なんて、しないで」
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