ログイン結婚して六年。花園優里香(はなぞの ゆりか)は六年間、一途に夫と息子のために尽くしてきた。だが彼女が受け取った報いは、息子からの「新しいママがいい」という残酷な言葉だった。 夫は言った。「子供の戯言だ、悪気はない」 そのくせ、自分は息子の言う「新しいママ」の女と不倫関係を続けていた。 優里香は彼らの望みをかなえてやることにし、自ら離婚を突きつけた。 誰もが言った。「優里香は一か月も経たないうちに夫と息子に頭を下げて復縁を懇願するだろう」と。 実の両親でさえ、心のすべてを養女である花園美月(はなぞの みづき)に向け、優里香から骨の髄まで搾り取っては、ひどく蔑んだ。 幼い頃、彼女が命がけで救った従兄ですら、美月のためなら、優里香など死ねばいいとさえ思っていた。 心が完全に冷え切った優里香は、新薬開発プロジェクトのためにこの地を離れた。 最初のうち、あの恩知らずな夫と息子はまったく気にしていなかった。だが、病気になっても看病してくれる人はおらず、病床に倒れ伏して初めて、二人は目を真っ赤にした。 三年後、優里香が開発した新薬は、発表と同時に世界中に衝撃を与え、医薬界の新星となった。 夫と息子は狂ったように後悔した。 「優里香、俺が悪かった……許してくれ……」 「ママ、僕を置いていかないで……!」 かつて彼女を見下し、あからさまに美月ばかりを可愛がっていた両親も、蝶よ花よと溺愛していた偽物の娘に財産を騙し取られてからというもの、後悔のあまり、今にも優里香に土下座しかねないほどだった。 「優里香……父さんたちが間違っていた。どうか許してくれないか……?」 さらに、恩を仇で返した従兄も、自分を救った相手が優里香だったことを知り、激しく悔やんだ。 「優里香、帰ってきてくれ……許してくれるなら、この命を捧げてもいい……」 はぁ?許す?いいわよ。来世でね!
もっと見る「あなたたちが滑稽すぎて笑えるのよ」優里香は目の前の三人を押しのけ、そのまま病床へ向かうと、優希の頭をそっと撫でた。いつ目を覚ましたのだろうか。優希は泣きも騒ぎもせず、ただ涙をいっぱいに溜めた大きな瞳で、じっと優里香を見つめていた。「ママ……美月おばちゃんを怒らないで。美月おばちゃんを警察に連れていかないで。僕、ちゃんといい子にするから。泣かないし、騒がないし、もうから揚げも食べない……だから、ママ、美月おばちゃんを許して」光貴や両親の言葉よりも、息子のこの一言の方が優里香にはずっと深く突き刺さった。胸の中が、一瞬で凍りつくような感覚。まるで氷の海へ沈められたようだった。目を覚ました息子の最初の言葉が、美月を庇うものだなんて……「優希、そんなこと考えなくていいの。身体が良くなったら、ママが……」「ママ!」優希は彼女の言葉を遮った。「どうしてママは、いつも美月おばちゃんと喧嘩するの?どうして美月おばちゃんのこと嫌いなの?美月おばちゃんはあんなに優しいのに、なんで無理やり僕たちから引き離そうとするの?昨日だって、美月おばちゃんが一晩中ずっと僕のこと見ててくれた。僕が一番ママにいてほしかった時、そばにいてくれたのは美月おばちゃんだったもん。美月おばちゃんは僕を傷つけたりしない!」優里香は動きを止め、優希を見つめた。まるで知らない子を見るみたいだった。その時、警備員が病室へ入ってきた。異変に気づいていた看護師が呼んだのだろう。警備員は騒ぎ続ける優里香の両親をそのまま病室の外へ追い出した。それでも二人は廊下で怒鳴り続けている。その声を聞いた優希の目から、ぽろぽろと涙が零れ落ちた。「お前、自分が意地張るのは勝手だけど、息子まで放っておく気か?」光貴が低い声で問うた。優里香は何も答えず、ただ病室から離れると、床へ落ちていた壊れたスマホを拾い上げた。「美月を見逃してほしいなら、それでもいい」彼女は背を向けたまま続けた。「光貴。離婚届にサインして。そうしたら、私はすぐ訴えを取り下げる」優希までもが自分の反対側へ立つのなら、もう戦う意味なんてない。優里香はそう思った。光貴は彼女を見つめたまま何も言わず、唇を固く結んでいた。光貴の返事を待つことなく、優里香は真っ直ぐ病室を出ていった。その背後から、優希の弱々しい声が聞こえ
病室の中では。警察は一通り確認し、やがてきれいに片づけられたゴミ箱へ目を向けた。「ゴミ袋、交換されましたか?」優里香は首を横に振った。優希の状態を見るだけで、もう心身ともに限界だった。「……気づきませんでした」「分かりました」警察官は数枚写真を撮ると、手帳を閉じた。「大体の状況は把握しました。今後もしばらく、病院側には調査協力をお願いすることになります」優里香は静かに頷いた。警察を見送ったあと、病院着姿の光貴がこちらへ歩いてくるのが見えた。顔を見るだけで吐き気がし、優里香は無言で病室の扉を閉めた。光貴も無理に入ってはこなかった。ただガラス越しに、病床のそばで優希を見守る彼女を一瞥し、そのまま自分の病室へ戻っていった。優希があんな状態では、仕事どころではない。優里香は午前休を取り、そのまま病室に残って付き添っていた。しばらくして、突然、病室の扉が乱暴に開かれた。優里香は体温計の数値を確認していたが、振り返る間もなく、強い力で腕を掴まれると、そのまま壁へ叩きつけられた。そしてバランスを崩し、床へ倒れ込んだ。「どうしてこんなに性格が悪いの!?母親としての責任も果たせず、優希を危険な目に遭わせた挙げ句、今度は妹まで巻き込んで警察沙汰にする気!?」優里香の母親は優里香を見下ろし、指を突きつけながら怒鳴り散らした。優里香は壁へ手をつきながら立ち上がると、冷え切った目で両親を見渡した。「ここで騒がないで。優希は、まだ回復してないの」「あなたに優希を心配する資格があるの!?どうして私は、こんな意地悪な娘を産んでしまったのかしら!」喚き散らす母親の姿に、優里香は頭痛を覚えた。深く眉を寄せながらスマホを取り出し、警備を呼ぼうとしたが、父親がすぐにその手を叩き落とした。「今度は自分の親まで警察に突き出す気か!?この恩知らず!実の息子にまで嫌われるわけだ!」その言葉に、優里香の胸がぎゅっと締め付けられた。冷たいものが全身を駆け巡る。彼女が何か言い返すより先に、病室の外から光貴が入ってきた。そのまま彼は、優里香と両親の間へ割って入った。「光貴さん、ちょうどよかった!あなたも病気なのに、本当は頼りたくなかったの。でも美月が警察に連れて行かれてしまって……もう私たち、どうしたらいいか分からなくて……」母親は一瞬で態度
こんな状況になってなお、彼が気にしているのは、そんな見当違いなことだけだった。優里香はようやく理解した。光貴は、実の息子にすらそこまで執着していないのだと。そうだ。彼の心の中で本当に大切なのは、美月ただ一人なのだ。優里香は光貴の顔を見つめると、手にしていた検査結果を思い切り彼へ叩きつけた。「そういうことじゃない。親権を変更するって言ってるの。優希は私が引き取る。それから、美月がやったことについても、私は警察に通報する。きちんと調べてもらうから!」そう言い切ると、彼女は振り返ることなく歩き去った。その背中には、一切の迷いがなかった。だが、どれほど優里香が怒っていても、光貴には別の意味にしか見えていなかった。彼女は何を望んでいるのか。離婚でも、全てを壊すことでもないはずだ。細く痩せた背中を見つめながら、光貴はゆっくり視線を伏せた。結局、優里香が求めているのは、自分が折れて優しく接すること。ただそれだけだ。だが、それだけは絶対にあり得ない。その時、不意に後ろから服の裾を掴まれた。美月だった。「優希があんなことになったの、私のせいだよね……昨日の夜もずっとママって呼びながら泣いてて、私、あやしてたら疲れて眠っちゃって……でも光貴、私すごく怖い……お姉ちゃん、本当に警察沙汰にするつもりなのかな?」光貴は振り返り、目を潤ませた彼女を見下ろした。「昨日の夜、優里香が家を出ていかなければ、お前がここまで疲れることもなかった。お前は子供の世話に慣れてないんだから、責められることじゃない」美月はそのまま光貴の胸へ寄りかかり、泣きながら謝った。「お姉ちゃん、あんなにも怒ってた……やっぱり私、何か間違えちゃったんだよね」光貴は彼女の肩を軽く押し戻し、病床の優希へ視線を向けた。「お前は先に帰って休め。優里香については……本気で通報なんてできるわけない」その言葉に、美月の瞳に一瞬だけ安堵が浮かんだ。彼女は鼻をすすりながら頷いた。美月が帰ったあと、光貴は病室のベッド脇へ歩み寄った。ふと、ゴミ箱に捨てられた包装袋が目に入った。そして色を失った優希の小さな顔を見て、 瞳をわずかに揺らした。しばらくして、一本の電話をかけた。三十分後。病室から出てきた光貴は、受付の前に二人の警察官が立っているのを見つけた。「……こちらに
膠着した空気を切り裂くように、優里香は病室へ駆け込むと、すぐに聴診器を当てて優希の心音を確認した。主治医よりも早く到着していた。「ショック症状が出てる……」優里香の顔色が一変した。「器具の準備をして!」指示を飛ばしたあと、彼女は振り返り、まだ睨み合っていた二人へ怒鳴った。「関係ない人は外へ出て!」その瞬間、病室には慌ただしい足音だけが響き渡った。誰一人、口を開けない空気だった。一緒に働いてきた医師や看護師たちも、優里香がここまで怒りを露わにした姿など見たことがなかった。光貴でさえ、その様子に言葉を失った。病室には、医師と看護師だけが残された。優里香は、ベッドの上で顔色を失っている我が子を見つめた。胸の奥が、ぎゅっと締め付けられた。「優希、ママの声聞こえる?目を開けて、ママを見て」彼女は応急処置を続けながら、必死に声をかけた。意識を失った息子を呼び戻そうとするように。二十分後。看護師が安堵した声を上げた。「先生、心拍が正常に戻りました!数値も安定しています!」優里香の手から、力が抜けた。緊張で小刻みに震える指先を押さえながら、彼女は優希を見つめ続けた。やがて小さな瞼がゆっくり開いた瞬間、ようやく深く息を吐いた。「しっかり経過観察して。状態が不安定なら、そのまま集中治療室へ」ベッドに寄りかかる彼女の声は、わずかに震えていた。そんな彼女に、看護師が優しく言った。「もう大丈夫ですよ、先生」優里香は小さく頷いた。額からは大粒の汗が落ちていた。周囲では安堵の声が飛び交っている。それでも彼女の胸の動悸は収まらなかった。「……ママ」病床の優希が、か細く呟いた。「痛い……」優里香は身を屈め、優しく声をかけた。「分かってるわ。優希、痛かったね。でも少し眠れば、すぐ楽になるから」看護師たちが退出した直後、光貴と美月が病室へ入ってきた。「優希は?」優里香の後ろから聞こえた光貴の声には、焦りが滲んでいた。優里香は答えず、腕の中で再び眠り始めた優希を見届けてから、ゆっくり立ち上がった。そして振り返るなり……躊躇なく、光貴の頬を平手で打った。静まり返った病室に、その音だけが鋭く響いた。光貴はその場に立ち尽くし、信じられないというように優里香を見つめた。美月は慌てて優里香を突き飛ばした。「何する