息子が新年に願ったのは、新しいママだった

息子が新年に願ったのは、新しいママだった

作家:  雨宮結衣たった今更新されました
言語: Japanese
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概要

現代

おやこの追悔

後悔

財閥

離婚

結婚して六年。花園優里香(はなぞの ゆりか)は六年間、一途に夫と息子のために尽くしてきた。だが彼女が受け取った報いは、息子からの「新しいママがいい」という残酷な言葉だった。 夫は言った。「子供の戯言だ、悪気はない」 そのくせ、自分は息子の言う「新しいママ」の女と不倫関係を続けていた。 優里香は彼らの望みをかなえてやることにし、自ら離婚を突きつけた。 誰もが言った。「優里香は一か月も経たないうちに夫と息子に頭を下げて復縁を懇願するだろう」と。 実の両親でさえ、心のすべてを養女である花園美月(はなぞの みづき)に向け、優里香から骨の髄まで搾り取っては、ひどく蔑んだ。 幼い頃、彼女が命がけで救った従兄ですら、美月のためなら、優里香など死ねばいいとさえ思っていた。 心が完全に冷え切った優里香は、新薬開発プロジェクトのためにこの地を離れた。 最初のうち、あの恩知らずな夫と息子はまったく気にしていなかった。だが、病気になっても看病してくれる人はおらず、病床に倒れ伏して初めて、二人は目を真っ赤にした。 三年後、優里香が開発した新薬は、発表と同時に世界中に衝撃を与え、医薬界の新星となった。 夫と息子は狂ったように後悔した。 「優里香、俺が悪かった……許してくれ……」 「ママ、僕を置いていかないで……!」 かつて彼女を見下し、あからさまに美月ばかりを可愛がっていた両親も、蝶よ花よと溺愛していた偽物の娘に財産を騙し取られてからというもの、後悔のあまり、今にも優里香に土下座しかねないほどだった。 「優里香……父さんたちが間違っていた。どうか許してくれないか……?」 さらに、恩を仇で返した従兄も、自分を救った相手が優里香だったことを知り、激しく悔やんだ。 「優里香、帰ってきてくれ……許してくれるなら、この命を捧げてもいい……」 はぁ?許す?いいわよ。来世でね!

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第1話

第1話

花園優里香(はなぞの ゆりか)が警察署を出た頃には、すでに夜九時を過ぎていた。

スマホを開くと、心配してくれるメッセージが大量に届いていた。

どれも同僚や友人からのものだった。

だが夫の森下光貴(もりした こうき)からは、一通もない。

疲れ切った表情に、さらに寂しさが滲んだ。

家のドアを開けると、使用人は彼女の姿を見て一瞬固まった。「奥様、どうして……あ、いえ、その、大丈夫ですか?」

優里香は、どこか後ろめたそうな使用人の視線を見つめ、唇を引き結んだ。

何も言わず、そのまま二階へ向かった。

息子の部屋の扉を開けた瞬間、中から電話の声が聞こえてきた。「ねえ、ちゃんと言われた通りにやったよ!本当にママ、おまわりさんに捕まっちゃうの?」

弾んだ声だった。楽しそうに身振り手振りを交えながら話していて、ドアの隙間に立つ優里香にはまったく気づいていない。

優里香は静かに耳を傾けた。

そこで初めて知った。森下優希(もりした ゆうき)は自分がピーナッツアレルギーだと知っていながら、こっそり昼食に砕いたピーナッツを入れたこと。そのあと警察に通報し、「ママがわざと入れた。自分を殺そうとした」と嘘をついたことを。

全部、母親である優里香を警察に捕まらせるため。そうすれば、パパと新しいママと一緒に遊びに行けるし、三人で誕生日を過ごせるから。

花園美月(はなぞの みづき)との電話を終え、嬉しそうに振り返った優希は、ようやく優里香の存在に気づいた。幼い顔が硬直した。

その目に浮かんだのは、はっきりとした驚きと不満の色だった。

そして第一声、「なんでおまわりさん、ママを捕まえなかったの?」と言った。

優里香は喉が詰まり、悲しみを堪えながら尋ねた。「……そんなにママに捕まってほしかったの?」

五年間、全身全霊で育ててきた息子が、こんなにも自分を嫌っていたなんて。

「ママが僕とパパと美月おばちゃんが一緒に誕生日を過ごすのを邪魔しないなら、おまわりさんに捕まえさせないよ」優希は幼い顔に「特別に許してあげる」とでも言いたげな表情を浮かべた。

「ママってほんとわかんない。美月おばちゃんもおばあちゃんとおじいちゃんの娘なのに、なんでママは何にもできないの?仕事して、ご飯作るだけで、全然優雅じゃないし。

美月おばちゃんはママと全然違うよ。美月おばちゃんと出かけるとね、みんな僕のこと羨ましがるんだ。美月おばちゃんは綺麗で、おしゃれで、優しくて……パパだってママより美月おばちゃんの方がいいって思ってるもん。

ママ、仕事に戻ってよ。僕の誕生日会には来ないで?」

優希は延々と美月を褒め続けたあと、ようやく本音を口にした。

優里香は胸が息苦しくなった。

「……だから、ママが捕まっても、平気だったの?」

「別に、ずっと閉じ込められるわけじゃないし」

優希は不機嫌そうに唇を尖らせた。「また僕を叱るつもり?美月おばちゃんはそんなことしないよ。僕が何かしても、ぐちぐち言わないし。ママみたいにうるさくないもん」

優里香はもう何も言わなかった。

ただ、息子を長い間見つめたあと、一言も発さず部屋を出ていった。

背後から、優希の不安そうな声が追いかけてくる。「明日、僕とパパが美月おばちゃんと誕生日過ごすの、邪魔しないよね?もし邪魔したら、もう二度と口きかないから!また警察呼んでママを捕まえてもらうからね!」

かなり大きな声だった。使用人にも聞こえていたらしい。

使用人は困ったように近づいてきて言った。「奥様、坊ちゃんはまだ幼く、物事がわかってないんです。どうかお気になさらないでください」

優里香は小さい声で返事をした。

部屋へ戻ると、光貴に電話をかけた。この件を彼が本当に知っていたのか、確かめたかった。

長くコール音が続いた末、ようやく電話は繋がった。光貴の声は淡々としていた。「今ちょっと大事な用事があって、お前……」

「光貴、終わった?」

美月の声が聞こえた。

優里香はスマホを握る手に力を込めた。

「……忙しいならいいわ」光貴が何かを言い終える前に、通話を切った。

結婚して六年。だが夫婦として本当に一緒に過ごした時間は、実は僅かだった。光貴はいつも忙しいと言って、国内外を飛び回っていた。

そして彼女自身も医者で、不規則な勤務を続けていた。

休みを取るたび、彼女は光貴と優希に合わせてきた。

けれど、いつからだろう。彼女の「思いやり」は、いつしか彼らにとっての「負担」になっていた。夫も息子も、彼女に休暇を取ってほしくないとさえ思うようになっていた。

本当は、とっくに気づくべきだったのだ。

以前の彼女なら、きっと問い詰めていた。どうしてこんな遅くまで美月と一緒にいるのか。彼にとって、「美月に関すること」はすべて重要なことなのか、と。

そして、どうしても答えを求めていただろう。

優希がわざとピーナッツを食べたのは、彼が黙認していたからなのか、と。

けれど今日は、もう疲れ果てていた。

何もかも、どうでもよくなってしまった。

翌朝。彼女は休暇を取り消し、出勤の準備をした。

同僚は彼女を見るなり驚いた。「優里香さん、今日はご家族で誕生日会じゃなかったんですか?どうして急に出勤を?」

「そうですよ、喧嘩したからって、誕生日も祝わないつもりじゃないですよね?」

「子供なんてそんなもんですよ!」

ある同僚は苦笑しながら言った。「うちなんて、この前、息子の宿題で腹立って大きい声を出したら、警察に通報されたんですよ。帰ったあと、怒りましたけどね」

周囲の同僚や患者たちが笑い出し、優里香も合わせて笑った。

優希も、ただ一時の反抗だったならよかったのに。

昼前。同僚が何を食べるか聞いてきた。ついでに買ってこようかと言われたが、彼女は首を振った。

優希はまだ子供だから忘れても仕方ない。

でも光貴なら、今日は彼女の誕生日でもあることを覚えているはず。

もしかしたら……サプライズを用意しているのかもしれない。

けれど、午後になっても光貴からメッセージは一通も来なかった。

そして美月のSNS投稿を見た瞬間、彼女の中に残っていたわずかな期待は完全に消え去った。

動画は高級レストランで、キャンドルの灯りが優希の幼く愛らしい顔を照らしていた。彼は目を閉じ、願い事を口にした。

【これから毎年の誕生日に、ママが来ませんように。

美月おばちゃんがずっと僕のそばにいてくれますように。パパと美月おばちゃんが、ずっとずっと仲良しでいられますように】

そのあと優希が何を言ったのかなど、優里香には聞こえなかった。

息子は彼女が手塩にかけて育ててきた。だが今年の後半から、ずっと忙しかったはずの光貴が、急に頻繁に息子を連れ出すようになった。

そして、たった半年で、息子の心は完全に光貴側へ傾いた。

嫉妬していないと言えば嘘になる。

それでも彼女は、父と子の絆が深まることを喜んでいた。

光貴がようやく父親としての自覚を持ったのだと思っていた。だが後になって、半年前に美月が帰国していたことを知った。

息子はただ二人が頻繁に会うための口実だったのだ。

彼女は何度も光貴に抗議した。けれど返ってきたのは、「考え方が汚い」という非難だけだった。

本当に汚れていたのは、彼女なのだろうか?

優里香は、息子を悲しませたくなく、光貴と美月の怪しい関係を知りながらも、離婚を考えたことはなかった。

息子に幸せな家庭を与えられるなら、自分は何だって耐えられると思っていた。

でも今になって気づいた。息子を不幸にしていた存在は、自分だったのだと。

「優里香さん、院長がお呼びです」

ぼんやりしていた彼女に、同僚が声をかけた。優里香は慌てて涙を拭い、院長室へ向かった。

「優里香、本当に決めたのか?今回の研修の機会を諦めるのか?このチャンスは二度と巡ってこないぞ」そう言って、院長はため息をついた。

「君はうちの病院が重点的に育成している若手医師だ。この機会を逃せば、今後のキャリアアップにも大きく響く」

院長は大学時代から彼女を気にかけてくれていた恩師だった。研修の通知が来た時も、真っ先に彼女を呼び出して推薦してくれた。だがその時の彼女は、光貴と優希のために迷うことなく断った。

けれど今回は……

「院長、私、この研修に行かせていただきます」

「君は仕事より家庭を優先してきたのは知っているが……今、何て?」

「一か月後、予定通り出発いたします」

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第1話
花園優里香(はなぞの ゆりか)が警察署を出た頃には、すでに夜九時を過ぎていた。スマホを開くと、心配してくれるメッセージが大量に届いていた。どれも同僚や友人からのものだった。だが夫の森下光貴(もりした こうき)からは、一通もない。疲れ切った表情に、さらに寂しさが滲んだ。家のドアを開けると、使用人は彼女の姿を見て一瞬固まった。「奥様、どうして……あ、いえ、その、大丈夫ですか?」優里香は、どこか後ろめたそうな使用人の視線を見つめ、唇を引き結んだ。何も言わず、そのまま二階へ向かった。息子の部屋の扉を開けた瞬間、中から電話の声が聞こえてきた。「ねえ、ちゃんと言われた通りにやったよ!本当にママ、おまわりさんに捕まっちゃうの?」弾んだ声だった。楽しそうに身振り手振りを交えながら話していて、ドアの隙間に立つ優里香にはまったく気づいていない。優里香は静かに耳を傾けた。そこで初めて知った。森下優希(もりした ゆうき)は自分がピーナッツアレルギーだと知っていながら、こっそり昼食に砕いたピーナッツを入れたこと。そのあと警察に通報し、「ママがわざと入れた。自分を殺そうとした」と嘘をついたことを。全部、母親である優里香を警察に捕まらせるため。そうすれば、パパと新しいママと一緒に遊びに行けるし、三人で誕生日を過ごせるから。花園美月(はなぞの みづき)との電話を終え、嬉しそうに振り返った優希は、ようやく優里香の存在に気づいた。幼い顔が硬直した。その目に浮かんだのは、はっきりとした驚きと不満の色だった。そして第一声、「なんでおまわりさん、ママを捕まえなかったの?」と言った。優里香は喉が詰まり、悲しみを堪えながら尋ねた。「……そんなにママに捕まってほしかったの?」五年間、全身全霊で育ててきた息子が、こんなにも自分を嫌っていたなんて。「ママが僕とパパと美月おばちゃんが一緒に誕生日を過ごすのを邪魔しないなら、おまわりさんに捕まえさせないよ」優希は幼い顔に「特別に許してあげる」とでも言いたげな表情を浮かべた。「ママってほんとわかんない。美月おばちゃんもおばあちゃんとおじいちゃんの娘なのに、なんでママは何にもできないの?仕事して、ご飯作るだけで、全然優雅じゃないし。美月おばちゃんはママと全然違うよ。美月おばちゃんと出かけるとね、み
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第2話
院長はたいそう喜んだ。その日の午後は半ば強引に彼女を休ませ、「せっかくの誕生日なんだから、ちゃんと過ごしてきなさい」と送り出した。だが病院を出た優里香の胸の内は、空っぽだった。彼女は何度もスマホを確認した。光貴でも優希でもいい。たった一言、「誕生日おめでとう」と言ってくれるだけで嬉しかった。けれど、誰一人として彼女の誕生日を覚えてはいなかった。優里香は当てもなく街を歩き続けた。ピコン。スマホに通知が届き、彼女は思わず期待して画面を開いた。しかし、届いていたのは通販アプリからの誕生日メッセージだった。それを見つめるうち、優里香の目元は赤く染まった。彼女は元々、感傷的になるタイプではない。やがて気持ちを整えると、両親に電話をかけた。「お父さん、お母さん。今夜、一緒に食事しない?ホテル予約するから」電話の向こうは、長い沈黙に包まれた。やがて聞こえてきたのは、重たい溜息だった。「優里香……今日、美月と光貴さんが優希の誕生日を祝ってるからって、あんた、気分悪くしてるんでしょう。でも、美月はあなたの妹なのよ。妹を困らせたいの?そもそも考えてみなさい。当時あなたが未婚で妊娠なんかしなければ、本来光貴さんと結婚していたのは美月だったのよ……まだ分からないの?光貴さんはあなたを愛してないの。子供ができても、愛してるのはずっと美月なんだから……優里香、お願いだから……あの二人の邪魔はしないであげて」両親は、そんなふうに自分を見ていたのか。優里香はただ、一緒に食事をしたかっただけだった。誰かと誕生日を過ごしたかっただけだった。胸の奥に残っていた小さな期待が、灰のように崩れ落ちた。まるで何かが体の内側で完全に砕け散ったようだった。優里香は静かにその言葉を聞いていた。悔しいかと聞かれても……正直、よく分からなかった。いつからだろう。もう慣れてしまっていたのだ。両親は昔から美月ばかりを可愛がっていた。「お姉ちゃんなんだから」と言われ続け、二歳年下の美月に譲るのが当たり前だった。美月が不機嫌になれば、悪いのは必ず優里香。美月を喜ばせるためなら、たとえ彼女が優里香を叩こうとしても、両親は美月の肩を持った。時には優里香を押さえつけ、美月の気が済むまで殴らせたことさえある。両親は生活の面では何不自由なく与えてくれた
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第3話
騒がしい音で目を覚ました優里香は、一瞬だけ頭が真っ白になった。だが意識がはっきりした瞬間、反射的にこう思った。「朝の五時半か。光貴と優希の朝食を作らないと……」光貴は胃腸が弱く、優希は食べ物にうるさい。だから毎朝の食事は、ずっと彼女が作ってきた。夜勤の日は、朝六時まで勤務が続くこともあった。そんな日は病院では朝食が出るのにも関わらず、光貴と優希がちゃんと食べないのではないかと心配で、自分は空腹のまま急いで帰宅していた。六年間、ずっと。けれど彼女は忘れていた。人の心は変わるのだと。昔の夫と息子は、彼女を心配してくれていた。抱きついてきて、「ママ、お疲れさま」と言ってくれていた。それがいつしか当たり前になり、やがて煩わしさへ変わり、最後には嫌悪へと変わっていった。二人はフライドチキンやハンバーガーを好むようになり、タピオカやお菓子ばかり口にするようになった。そして、彼女の作る食事を嫌がることも覚えた。本当は、このアラームはもう必要なかった。ただ、自分だけがその場に立ち止まり、手放せずにいただけだった。優里香は自嘲しながらアラームを削除すると、そのままスマホの電源を切って再び眠りについた。一方その頃、優希は大喜びで光貴の腕に飛びついていた。「パパ、早く行こ!外で食べようよ!僕、フライドチキンが食べたい!じゃないと後でママ帰ってきたら、またママのご飯食べなきゃいけなくなる!」光貴は、この六年間の優里香の献身を知っている。だが毎日同じことの繰り返しで、彼自身も退屈さを感じていた。だから優希の頼みを断らなかった。朝七時。まだ優里香は帰っていない。残業かもしれない。光貴は特に気にも留めず、そのまま優希を連れて車へ向かった。すると使用人が慌てて追いかけてきた。「旦那様、胃腸が弱いんですから。坊ちゃんも体が弱いですし、やっぱり家で召し上がった方が……外の物は体によくありませんよ」「ママみたいなこと言わないでよ!」優希は車に飛び乗りながら、使用人に向かって嫌な顔をした。「パパに言ってクビにしてもらうよ?」ママはいつもケチばっかり。外のご飯を食べさせたくないのも、お金を使いたくないだけだ。自分が子供だからって騙されると思わないでほしい。だって、美月おばちゃんがそう教えてくれたもん。ふん!優里香が海外へ行く
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第4話
でも、もう全部どうでもよかった。優里香は自嘲気味に笑い、ピーナッツを口へ運び続けた。香ばしい匂いの中に、少し塩気を帯びた涙の味が混ざり合い、口の中いっぱいに広がっていく。苦くて、息が詰まりそうだった。光貴と優希が帰宅した頃、家の中はまだ真っ暗だった。以前なら、どれだけ帰りが遅くなっても、優里香は必ずリビングに小さな灯りを残して待っていた。けれど今日は……光貴は眉をひそめ、明かりをつけると二階を見上げた。使用人が慌てて降りてきて、今にも眠りそうな優希を抱き上げた。それから何か言いたげに何度も光貴を見たあと、ようやく口を開いた。「旦那様……奥様、まだお戻りになってないんです。よければ、お電話でもされてみては……?」「帰ってない?」光貴は意外そうな顔をした。「はい。昨夜から一度も……奥様、今までこんなこと一度もありませんでしたから……」使用人は小さく溜息をついた。優里香の苦しさも悔しさも、彼女はずっと見てきた。けれど、それを口にできる立場ではなかった。うとうとしていた優希がその会話を聞き、目を擦りながら口を開いた。「パパ、ママもう帰ってこないの?だったらよかった!明日、美月おばちゃんをおうちに呼ぼうよ?」「優希を連れて上がっててくれ」光貴は低い声でそう言うと、そのまま再び外へ出ていった。車に乗り込んだ光貴は、優里香へ電話をかけた。「まだ病院か?」「……うん」電話越しの声は、どこか疲れ切っていた。光貴は、彼女が何か説明するものだと思っていた。だが待っても、優里香は何も言わない。次第に苛立ちが滲んだ。「お前、昨日夜勤だっただろ」「だから?」眠っていたところを起こされたせいか、優里香の声にはまだ少し柔らかさが残っていた。けれどその言葉は、いつもよりずっと鋭かった。彼女は淡々と続けた。「机の上の離婚届、サインした?終わったら、誰かに届けさせて。私、しばらく病院に泊まるから」「……離婚届?」光貴は一瞬、意味が理解できなかった。「また何を騒いでるんだ?」「私は今まで離婚を使って駆け引きしたことなんてないでしょ」優里香の声は驚くほど静かだった。「光貴。私たちの結婚は、最初から事故みたいなものだったでしょう。だから、もうあなたと美月の邪魔はしない。優希はあなたに。お金も、自分で稼い
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第5話
丸一日、優里香は疲れ切った体を支えながら診察を続け、ようやく退勤時間まで持ちこたえた。少しだけ食事を取り、仮眠室へ戻ると、そのまま倒れ込むように眠った。一日分の疲労は深い眠りの中で洗い流され、夕方にスマホが震えても、彼女が目を覚ますことはなかった。一方、光貴は繋がらない電話番号を見つめ、顔色をこれ以上ないほど険しくしていた。「パパ、今日は美月おばちゃんを迎えに行くって言ってたよね?」優希は澄んだ大きな目を瞬かせながら、すがるように彼を見上げた。「さっき美月おばちゃんからも電話があったんだよ。今日は一緒に寝てくれるって」叔母である美月でさえ、自分が一人で寝るのを怖がっていると分かってくれるのに、ママは「自立させるため」なんて理由をつけて、一人で寝るように強いる。光貴はじくじくと痛む胃を押さえ、眉をひそめたまま適当に答えた。「明日にしよう」そしてキッチンにいる使用人へ声をかけた。「田中さん、胃薬とぬるま湯を持ってきてくれ」使用人は慌てて手元の作業を止め、薬箱を持ってきたものの、しばらく探しても見つかったのは鎮痛剤だけだった。「旦那様、以前に期限切れの胃薬を処分してから、家にはもう胃薬を置いていないんです。奥様がずっと旦那様と坊ちゃんの食事を管理していらしたので、旦那様の胃病もしばらく出ていませんでしたし……」光貴の表情が一瞬固まった。だがすぐに苛立ったように言った。「そんなことを言ってどうする。薬がないなら買いに行けばいいだろう」使用人は立ち上がったが、出ていく前に、心配そうに優希の方を見た。「坊ちゃんは今夜もお風呂に入らないといけませんし、私が戻るのは少し遅くなるかもしれません」「一晩くらい入らなくても問題ない」光貴の胃を押さえる指に、じわじわと力がこもっていく。胃の痛みはさらに強くなっていた。使用人が出ていったあと、光貴は額に冷や汗を浮かべながら、鎮痛剤を取り出して飲み込んだ。優里香不在で、知識がない彼は、胃痛の時に鎮痛剤を飲んではいけないことすら知らなかった。だから胃が絞られるように痛み始めても、自分が薬を間違えたのだとは気づかなかった。一方の優希は、今夜お風呂に入らなくていいことを喜んでいたが、苦しそうな父親の様子を見ると心配そうに尋ねた。「パパ、お腹すごく痛いの?」彼はソファから飛び降り、アイ
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第6話
光貴は何も言わず、だらりと腕を垂れ下げていた。その腕を美月は離そうとせず、そのまま自然に自分の腕を絡めた。「光貴、大丈夫?ごめんね、来るの遅くなっちゃった。今夜は私が光貴と優希の面倒を見るね」その優しく甘い声は、優里香の冷ややかな表情とは対照的だった。光貴は優里香の顔を見つめた。胸の奥に、針で刺されたような痛みが一瞬だけ走った。けれど、それ以上に込み上げてきたのは苛立ちだった。以前の優里香は、自分が少し眉をひそめただけで駆け寄ってきた。なのに、いつからこんなふうになった?「別に平気だ」短く吐き捨てると、光貴は冷たく視線を逸らした。「母親の責任を果たす気がないなら、ここに来て目障りな真似をするな」彼にとって、優里香の行動は全部、自分の気を引くための駆け引きにしか見えていなかった。だから、そんな思惑に乗るつもりはなかった。その言葉を聞き、美月は優里香へ視線を向けた。口元には、わずかに笑みが浮かんでいた。「お姉ちゃんってずっと自分のこと、いい奥さん、いいママだって言ってきたよね?まさか光貴の言うような人じゃないよね?」まるで二人で息を合わせているみたいだった。優里香の冷静な仮面を剥がし、取り乱す姿を見たいのだ。けれど優里香は何も言わなかった。そのまま光貴の横を通り抜け、二人を一瞥することすらなく、まっすぐナースステーションへ向かった。完全に無視された光貴は、一瞬息を詰まらせ、顔つきを僅かに硬くした。美月はその様子を見て、自責したように唇を噛んだ。「お姉ちゃん、きっと私を見て嫌な気持ちになったんだよね。でも私、本当に心配だったの。光貴と優希が病気だって聞いて……」大きな瞳に涙を浮かべ、声まで少し震わせていた。光貴は我に返り、視線を落として柔らかい声で言った。「お前のせいじゃない。あいつが神経質で、器が小さいだけだ。優希だって、ああいうのは嫌がってる」大きな声ではなかった。それでも、静まり返った長い廊下では、一言一句がはっきり優里香の耳に届いた。薬剤票へサインしていた彼女は手を止めた。手に力が入り、ペン先から滲んだインクで紙が汚れてしまった。看護師は慌てて新しい用紙を印刷し直し、そっと彼女の前へ置いた。「先生、大丈夫ですよ。お子さんのこと、こちらでもしっかり注意して見ておきますから」優里香は薬
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第7話
膠着した空気を切り裂くように、優里香は病室へ駆け込むと、すぐに聴診器を当てて優希の心音を確認した。主治医よりも早く到着していた。「ショック症状が出てる……」優里香の顔色が一変した。「器具の準備をして!」指示を飛ばしたあと、彼女は振り返り、まだ睨み合っていた二人へ怒鳴った。「関係ない人は外へ出て!」その瞬間、病室には慌ただしい足音だけが響き渡った。誰一人、口を開けない空気だった。一緒に働いてきた医師や看護師たちも、優里香がここまで怒りを露わにした姿など見たことがなかった。光貴でさえ、その様子に言葉を失った。病室には、医師と看護師だけが残された。優里香は、ベッドの上で顔色を失っている我が子を見つめた。胸の奥が、ぎゅっと締め付けられた。「優希、ママの声聞こえる?目を開けて、ママを見て」彼女は応急処置を続けながら、必死に声をかけた。意識を失った息子を呼び戻そうとするように。二十分後。看護師が安堵した声を上げた。「先生、心拍が正常に戻りました!数値も安定しています!」優里香の手から、力が抜けた。緊張で小刻みに震える指先を押さえながら、彼女は優希を見つめ続けた。やがて小さな瞼がゆっくり開いた瞬間、ようやく深く息を吐いた。「しっかり経過観察して。状態が不安定なら、そのまま集中治療室へ」ベッドに寄りかかる彼女の声は、わずかに震えていた。そんな彼女に、看護師が優しく言った。「もう大丈夫ですよ、先生」優里香は小さく頷いた。額からは大粒の汗が落ちていた。周囲では安堵の声が飛び交っている。それでも彼女の胸の動悸は収まらなかった。「……ママ」病床の優希が、か細く呟いた。「痛い……」優里香は身を屈め、優しく声をかけた。「分かってるわ。優希、痛かったね。でも少し眠れば、すぐ楽になるから」看護師たちが退出した直後、光貴と美月が病室へ入ってきた。「優希は?」優里香の後ろから聞こえた光貴の声には、焦りが滲んでいた。優里香は答えず、腕の中で再び眠り始めた優希を見届けてから、ゆっくり立ち上がった。そして振り返るなり……躊躇なく、光貴の頬を平手で打った。静まり返った病室に、その音だけが鋭く響いた。光貴はその場に立ち尽くし、信じられないというように優里香を見つめた。美月は慌てて優里香を突き飛ばした。「何する
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第8話
こんな状況になってなお、彼が気にしているのは、そんな見当違いなことだけだった。優里香はようやく理解した。光貴は、実の息子にすらそこまで執着していないのだと。そうだ。彼の心の中で本当に大切なのは、美月ただ一人なのだ。優里香は光貴の顔を見つめると、手にしていた検査結果を思い切り彼へ叩きつけた。「そういうことじゃない。親権を変更するって言ってるの。優希は私が引き取る。それから、美月がやったことについても、私は警察に通報する。きちんと調べてもらうから!」そう言い切ると、彼女は振り返ることなく歩き去った。その背中には、一切の迷いがなかった。だが、どれほど優里香が怒っていても、光貴には別の意味にしか見えていなかった。彼女は何を望んでいるのか。離婚でも、全てを壊すことでもないはずだ。細く痩せた背中を見つめながら、光貴はゆっくり視線を伏せた。結局、優里香が求めているのは、自分が折れて優しく接すること。ただそれだけだ。だが、それだけは絶対にあり得ない。その時、不意に後ろから服の裾を掴まれた。美月だった。「優希があんなことになったの、私のせいだよね……昨日の夜もずっとママって呼びながら泣いてて、私、あやしてたら疲れて眠っちゃって……でも光貴、私すごく怖い……お姉ちゃん、本当に警察沙汰にするつもりなのかな?」光貴は振り返り、目を潤ませた彼女を見下ろした。「昨日の夜、優里香が家を出ていかなければ、お前がここまで疲れることもなかった。お前は子供の世話に慣れてないんだから、責められることじゃない」美月はそのまま光貴の胸へ寄りかかり、泣きながら謝った。「お姉ちゃん、あんなにも怒ってた……やっぱり私、何か間違えちゃったんだよね」光貴は彼女の肩を軽く押し戻し、病床の優希へ視線を向けた。「お前は先に帰って休め。優里香については……本気で通報なんてできるわけない」その言葉に、美月の瞳に一瞬だけ安堵が浮かんだ。彼女は鼻をすすりながら頷いた。美月が帰ったあと、光貴は病室のベッド脇へ歩み寄った。ふと、ゴミ箱に捨てられた包装袋が目に入った。そして色を失った優希の小さな顔を見て、 瞳をわずかに揺らした。しばらくして、一本の電話をかけた。三十分後。病室から出てきた光貴は、受付の前に二人の警察官が立っているのを見つけた。「……こちらに
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第9話
病室の中では。警察は一通り確認し、やがてきれいに片づけられたゴミ箱へ目を向けた。「ゴミ袋、交換されましたか?」優里香は首を横に振った。優希の状態を見るだけで、もう心身ともに限界だった。「……気づきませんでした」「分かりました」警察官は数枚写真を撮ると、手帳を閉じた。「大体の状況は把握しました。今後もしばらく、病院側には調査協力をお願いすることになります」優里香は静かに頷いた。警察を見送ったあと、病院着姿の光貴がこちらへ歩いてくるのが見えた。顔を見るだけで吐き気がし、優里香は無言で病室の扉を閉めた。光貴も無理に入ってはこなかった。ただガラス越しに、病床のそばで優希を見守る彼女を一瞥し、そのまま自分の病室へ戻っていった。優希があんな状態では、仕事どころではない。優里香は午前休を取り、そのまま病室に残って付き添っていた。しばらくして、突然、病室の扉が乱暴に開かれた。優里香は体温計の数値を確認していたが、振り返る間もなく、強い力で腕を掴まれると、そのまま壁へ叩きつけられた。そしてバランスを崩し、床へ倒れ込んだ。「どうしてこんなに性格が悪いの!?母親としての責任も果たせず、優希を危険な目に遭わせた挙げ句、今度は妹まで巻き込んで警察沙汰にする気!?」優里香の母親は優里香を見下ろし、指を突きつけながら怒鳴り散らした。優里香は壁へ手をつきながら立ち上がると、冷え切った目で両親を見渡した。「ここで騒がないで。優希は、まだ回復してないの」「あなたに優希を心配する資格があるの!?どうして私は、こんな意地悪な娘を産んでしまったのかしら!」喚き散らす母親の姿に、優里香は頭痛を覚えた。深く眉を寄せながらスマホを取り出し、警備を呼ぼうとしたが、父親がすぐにその手を叩き落とした。「今度は自分の親まで警察に突き出す気か!?この恩知らず!実の息子にまで嫌われるわけだ!」その言葉に、優里香の胸がぎゅっと締め付けられた。冷たいものが全身を駆け巡る。彼女が何か言い返すより先に、病室の外から光貴が入ってきた。そのまま彼は、優里香と両親の間へ割って入った。「光貴さん、ちょうどよかった!あなたも病気なのに、本当は頼りたくなかったの。でも美月が警察に連れて行かれてしまって……もう私たち、どうしたらいいか分からなくて……」母親は一瞬で態度
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第10話
「あなたたちが滑稽すぎて笑えるのよ」優里香は目の前の三人を押しのけ、そのまま病床へ向かうと、優希の頭をそっと撫でた。いつ目を覚ましたのだろうか。優希は泣きも騒ぎもせず、ただ涙をいっぱいに溜めた大きな瞳で、じっと優里香を見つめていた。「ママ……美月おばちゃんを怒らないで。美月おばちゃんを警察に連れていかないで。僕、ちゃんといい子にするから。泣かないし、騒がないし、もうから揚げも食べない……だから、ママ、美月おばちゃんを許して」光貴や両親の言葉よりも、息子のこの一言の方が優里香にはずっと深く突き刺さった。胸の中が、一瞬で凍りつくような感覚。まるで氷の海へ沈められたようだった。目を覚ました息子の最初の言葉が、美月を庇うものだなんて……「優希、そんなこと考えなくていいの。身体が良くなったら、ママが……」「ママ!」優希は彼女の言葉を遮った。「どうしてママは、いつも美月おばちゃんと喧嘩するの?どうして美月おばちゃんのこと嫌いなの?美月おばちゃんはあんなに優しいのに、なんで無理やり僕たちから引き離そうとするの?昨日だって、美月おばちゃんが一晩中ずっと僕のこと見ててくれた。僕が一番ママにいてほしかった時、そばにいてくれたのは美月おばちゃんだったもん。美月おばちゃんは僕を傷つけたりしない!」優里香は動きを止め、優希を見つめた。まるで知らない子を見るみたいだった。その時、警備員が病室へ入ってきた。異変に気づいていた看護師が呼んだのだろう。警備員は騒ぎ続ける優里香の両親をそのまま病室の外へ追い出した。それでも二人は廊下で怒鳴り続けている。その声を聞いた優希の目から、ぽろぽろと涙が零れ落ちた。「お前、自分が意地張るのは勝手だけど、息子まで放っておく気か?」光貴が低い声で問うた。優里香は何も答えず、ただ病室から離れると、床へ落ちていた壊れたスマホを拾い上げた。「美月を見逃してほしいなら、それでもいい」彼女は背を向けたまま続けた。「光貴。離婚届にサインして。そうしたら、私はすぐ訴えを取り下げる」優希までもが自分の反対側へ立つのなら、もう戦う意味なんてない。優里香はそう思った。光貴は彼女を見つめたまま何も言わず、唇を固く結んでいた。光貴の返事を待つことなく、優里香は真っ直ぐ病室を出ていった。その背後から、優希の弱々しい声が聞こえ
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