Mag-log in潜伏先の星墨山から区役所までは、少し距離があった。飛鳥が指定した「三十分」には間に合わず、星歌が到着するまでに五十分近くかかってしまった。車を降りると、少し離れた場所に停められたマイバッハに寄りかかる飛鳥の姿がすぐに目に入った。眩しい陽射しに照らされたその顔は、一睡もしていないせいか、ひどく青ざめて憔悴しきっている。姿を現した星歌を見て、飛鳥の胸中には笑い出したいような、怒り狂いたいような、ドロドロとした感情が渦巻いた。一体いつからだろうか。自分たちは「離婚」という餌をぶら下げなければ、顔を合わせることすらできない関係に成り果ててしまったのは。そして――彼女を送り届けてきた運転手の顔を見た瞬間、飛鳥の瞳に鋭い殺意が宿った。以前も星歌の傍で見かけた、あの屈強な外国人の男だ。やはり、啓介の野郎が裏で手配した人間だったか……あいつが星歌を匿っていたんだ!飛鳥の歪んだ思い込みは、限界まで膨れ上がっていた。星歌は小さなハンドバッグを手に、飛鳥の目の前まで歩み寄ると、氷のように冷たい声で言い放った。「行きましょう」その声音には、わずかな躊躇いも、未練の欠片すら滲んでいない。今の彼女にとって、彼との結婚生活など、ただ冷徹に清算すべき過去の汚点でしかなかった。飛鳥はギリッと奥歯を噛み締め、目を細めた。「……そんなに、俺と別れたいか?」星歌は沈黙したまま、無表情に彼を見つめ返した。言葉を発する気すら起きない。彼女にしてみれば、離婚に関して、今さら彼と議論することなど何一つ残っていないのだ。自分の意志がどれほど固いか、ここ数日の容赦ない行動で、すでに十分に思い知らせてきたはずなのだから。星歌が何も答えないのを見て、飛鳥の瞳にはさらに冷たい怒りが宿った。「……薄情な女だ。俺がこれまで、お前を大事にしてこなかったとでも言うのか?」「今さらそんなことを言って、何の意味があるの?」星歌の口調は淡々としていた。確かに、かつては優しかった。だが、結婚生活とはそれだけで成り立つものではない。彼と夏蓮の異常な距離感、そして冴島家全体との泥沼のようなしがらみ。彼一人が少しばかり優しくしてくれたからといって、すべてを「我慢」して彼に添い遂げることなどできるはずがなかった。人の心は自由なのだ。「耐え忍ぶ」ことだけで埋め尽
夏蓮も深く頷いた。「そうよ。本当に高峰さんと結婚したいなら、完璧にやり遂げるのよ!」星歌の反撃によって、状況は最悪のところまでかき回されていた。今や冴島家の全員、そして陽子でさえも、亜季が一刻も早く啓介と結婚することだけを唯一の希望として縋っているのだ。彼らの中では、『啓介が星歌のバックから手を引けば、自分たちが直面している危機はすべて解決する』という都合の良い方程式が出来上がっていた。ついに。都子の厳しい視線に射すくめられ、亜季は腹を括って頷いた。「分かったわ、やってやる!星歌のやつ、後で絶対に泣き見せてやるんだから」高峰さんの力を借りていい気になっているんでしょう?私が高峰さんの妻になった時、あんたが誰に泣きつくのか見物だわ!......飛鳥は昨晩から一睡もせず、血眼になって星歌の行方を捜し続けていた。だが、夜が明けても一向に見つかる気配はない。その上、最悪なタイミングで、夏蓮が星歌の企画案を盗作したというスキャンダルまで世間に暴露されてしまった。今や本港市のネット上やメディアは、夏蓮に対する苛烈なバッシングで溢れ返っている。飛鳥もようやくはっきりと理解した。今の星歌は、持てる力のすべてを振り絞って、自分たち一族を容赦なく潰しにかかっているのだと。そして、夫である自分に対する信頼など、もはや微塵も残っていないということも。「……まだ見つからないのか?」一真が書類を抱えて社長室に入ってくるなり、飛鳥は耐えきれずに問い詰めた。一真は重々しく首を横に振った。「申し訳ありません。いまだ手がかりは……」飛鳥はズキズキと痛む眉間を指で強く揉みほぐした。俺はあいつの夫だぞ……妻がひどく傷つき、身を隠してしまったというのに、自分は彼女の居場所すら突き止められないでいる。「啓介が持っているバイオ企業の方には?あそこにも現れた形跡はないのか?」「はい。そちらも確認しましたが、姿を見せていないようです」星歌が過去に足を運んだことのある場所には、一真の指示ですべて見張りを配置してある。少しでも動きがあれば、即座にこちらへ報告が入る手はずになっていた。にもかかわらず、現在に至るまで、かすかな情報一つすら上がってきていない。飛鳥の呼吸が荒く、重くなった。行方はおろか、電話すら着信拒否で繋
「はあ!?私が、あの女から男を誑かすテクニックを学べって!?」亜季はそれを聞いた途端、顔を真っ赤にして激怒した。「冗談じゃないわ!孤児院上がりで、男の気を引くためならどんな下品な手でも使うような女よ!?あんな底意地の悪い下劣なやり方、誰が真似なんかするもんですか!」星歌の真似をするなど、プライドが許さない。かつて星歌が飛鳥と結婚できたのは、彼女が飛鳥をあの手この手で丸め込み、完全に骨抜きにしたからだと、冴島家の人間は皆そう信じている。親族全員の猛反対を押し切ってまで、飛鳥に彼女を選ばせたのだ。その手腕が相当なものであることは事実だろう。「だとしても、私は絶対にお断りよ。あんな気持ち悪い媚び売りなんか、死んでもごめんだわ!」亜季は嫌悪感を丸出しにして吐き捨てた。「じゃあ、あなたは高峰さんと結婚したくないの?」都子が冷ややかな声で窘めた。今の冴島家にとって、啓介をこちら側へ引き込むことは一刻を争う最重要課題なのだ。啓介が星歌の後ろ盾として立ちはだかっている現状は、冴島家にとってあまりにも危険すぎる。「結婚したいわよ!でも、だからって星歌の真似しろなんて理不尽じゃない!」あのクソ女、本当にどこまで私たちをコケにすれば気が済むのよ……!一昨日は陽子おばさまの豪邸を燃やし、昨日は墨霞邸を丸焼けにして、今日は今日でネットの世論を扇動して夏蓮義姉さんを叩き潰そうとしている。次から次へと休む間もなく仕掛けてくるあの底知れぬ執念は、一体どこから湧いてくるというのか。その上、あんな女の男遊びの真似をしろだなんて、屈辱にもほどがある。飛鳥兄様とまだ離婚すらしていないくせに、裏で高峰さんとコソコソ繋がりやがって。今すぐ星歌を引きずり出して八つ裂きにしてやりたいのに、啓介の影に隠れて出てこないのが、亜季には何よりも腹立たしかった。「嫌だと言ってもやってもらうわよ。いいこと、今日から毎日、高峰さんの会社に手作りのお弁当を届けに行きなさい」都子が有無を言わさぬ口調で命じた。「お母様、いくらなんでも……!」亜季は悲鳴のような声を上げた。確かに啓介のことは好きだが、なぜ自分からそこまで惨めな安売りをしなければならないのか。名家の令嬢である自分には、とても受け入れがたい屈辱だった。「高峰さんの会社だけじゃないわ
「昨日、佐々木夫人が仲人として高峰の本家へ挨拶に行ったそうよ。名家同士の政略結婚となれば、話がまとまるのも早いはず」夏蓮は少しだけ声のトーンを上げて言った。双方の親族が合意にさえ至れば、亜季が高峰家に嫁ぐ日もそう遠くはない。「なら、亜季にもっと発破をかけなさい。高峰さんの女性を見る目は相当厳しいわよ」「ええ、分かってる。亜季も高峰さんのことが大好きみたいだから」惚れているのなら、他人がとやかく言わずとも、自分から必死で彼にすがりつくはずだ。「男っていうのはね、結局のところ従順で優しい女に弱いものよ。以前の星歌の大人しい振る舞いを思い出せばわかるでしょう。亜季に、どうやって高峰さんの機嫌を取るか、星歌のやり方をしっかり真似させなさい」陽子は悪知恵を授けるように言った。彼女自身も、亜季と啓介の縁談が成就することを心から願っていた。陽子から見れば、今の星歌のあの異常なまでの強気な態度は、すべて背後にいる啓介のおかげでしかない。だが、所詮は『人妻』なのだ。しかも、冴島家の嫁である。高峰家の長老たちが正気を失っていない限り、星歌のような札付きの女を身内に受け入れるわけがない。ただ……啓介という男は、飛鳥とは決定的に違う部分がある。飛鳥のように情に流されることがなく、徹底して冷酷なのだ。自分に逆らう者であれば、たとえそれが実の親族であろうと、決して容赦はしない――そんな危険すぎる一面を持っていた。「本当に、星歌のあの従順なやり方をしっかり真似させなさいよ」啓介という男の恐ろしさをよく知っているからこそ、陽子は重ねて夏蓮に念を押した。夏蓮は内心で舌打ちをした。どうして私たちが、あの星歌みたいな女の媚びへつらうやり方を学ばなきゃならないのよ。だが、今の状況では、亜季と啓介の縁談を無事に成立させることが最優先だ。あの女のやり方が下品だろうが何だろうが、背に腹は代えられない。「ええ、分かってるわ」短く答えると、夏蓮は陽子の病室を後にした。自分の病室へ戻るまでの道のり、夏蓮は誰にも顔を見られないように、ストールで顔をぐるぐると厳重に覆い隠していた。……クソッ、星歌のやつ!盗作問題なんて、もうずっと前のことじゃない。それを今になってまた掘り返してくるなんて、どこまで執念深いのよ。この数日、都子も星歌のネ
星歌の行方を血眼になって探し回り、関係者全員がパニックに陥っていた。そんな中、翌朝。夏蓮が手がけた『龍稲峡』のプロジェクトが、星歌のアイデアを盗用したものであるという疑惑が、再びSNSのトレンドを席巻した。ここ数日ろくに眠れていなかった夏蓮は、ネット上に溢れ返る自分への激しい誹謗中傷を目の当たりにし、その場にへなへなと崩れ落ちた。気力を振り絞って陽子の病室へ向かったが、陽子もまた、Y国でのトラブル対応に追われ、一睡もしていなかった。憔悴しきった娘の姿を見て、事の顛末を聞かされた陽子は、苛立たしげに口を開いた。「で、結局のところ、あんたはあの女の案を盗んだの?どうなの?」「それは……」母親の刺々しい問い詰めに、夏蓮の言葉は喉の奥に引っかかってしまった。これまでの母なら、こんな風に追及してくることなど絶対にあり得なかった。私が星歌に何をしようと、経緯や理由など一切聞かず、無条件で私の味方をしてくれていたのに。それが、今はどうして……?「もしあんたが盗作したって言うなら、黙ってその報いを受け入れなさい!そうじゃないなら……」陽子はそこまで言うと、ふっと言葉を区切った。『報いを受け入れろ』。その言葉を聞いた瞬間、夏蓮の瞳孔が信じられないというように収縮した。我が耳を疑った。「お母さん、今なんて言ったの?私が……黙って受け入れろって?」受け入れるって、どういう意味?今までどんなことがあっても、お母さんは必ず私のために報復してくれていたじゃない。なのに、一体どういうこと?私に、星歌から受けたこの屈辱を大人しく我慢しろって言ってるの?「じゃあ他にどうしろって言うの!今の私が、あんたの尻拭いまでできる状態に見える!?」陽子はヒステリックに叫んだ。「…………」昨日からずっと病室のベッドに横たわり、身動き一つ取れない母親の惨めな姿を見て、夏蓮は息が詰まるような絶望を覚えた。星歌……!あのお母さんにすら、泣き寝入りを強いるなんて。本当に大した身分になったものだわ。……こうなったら、一刻も早く亜季と高峰啓介の縁談をまとめなければ。もしこのままあの女が啓介の懐に入り込んでしまえば、本港市で彼女に手出しできる人間など、本当に誰もいなくなってしまう。見かねた宗大が、そっと夏蓮に歩み寄っ
飛鳥の全身から、殺気と怒りが立ち上っていた。「高峰の会社と共同で進めているプロジェクトの資料、すべて俺のデスクに出しておけ!」「と、仰いますと……?」一真は嫌な予感がして聞き返した。「すべて手を引く!」ふざけるな。長年の親友が、自分の妻と裏で繋がっているなど、一体どういう冗談だ。まだ離婚すらしていないというのに、あの二人は俺をコケにしてこんな真似をしやがって。――離婚だと?寝言は寝て言え!俺は一生、星歌と離婚などしてやらない。啓介が俺の妻の隣に立つことなど、死んでも許すものか。一真は顔を引きつらせた。「ですが、多くのプロジェクトはまだ進行の真っ只中ですよ。このタイミングで急に打ち切れば、うちの損失も計り知れません」「損を出そうが知ったことか!」飛鳥は怒りのあまり、大声で怒鳴りつけた。星歌がまたしても啓介に囲われている――その事実を想像するだけで、腸が煮えくり返り、頭がどうにかなりそうだった。今や『啓介』という名前を聞いただけで、飛鳥の精神状態は完全に非常事態へと陥ってしまう。かつては無二の親友だったはずなのに、どうしてこんなことになってしまったのか。「いいから全部白紙に戻せ!」怒りの収まらない飛鳥は、さらに言葉を続けた。「それに、今あいつの会社が単独で進めている事業のリストも全部洗い出せ」「そ、それは……いくらなんでもマズいのでは?」一真は思わず冷や汗を拭った。事業リストを洗い出せなど、目的は火を見るより明らかだ。飛鳥は、啓介を相手に全面戦争を仕掛ける気なのだ!だが、それは冴島グループにとっても決して得策ではない。なにせ、高峰啓介という男は、本気で敵に回せばどれほど恐ろしいか知れない相手なのだから。しかし、完全に理性を失っている飛鳥の耳に、そんな忠告が届くはずもない。「何がマズいんだ!あいつは俺の妻を堂々と奪おうとしてるんだぞ!俺があいつの事業のいくつかを奪い返したところで、何が悪い!」「…………」事業の横取りだけで済む話ではないだろう。啓介は大人しくやられっぱなしになるような男ではない。飛鳥が喧嘩を売れば、当然向こうからも苛烈な反撃が来る。そうなれば、両陣営が血で血を洗う泥沼の争いになるのは目に見えている。高峰啓介という男の冷酷さと手段を選ばない手腕は、裏社会で
江里子は自分の家へ連れて帰るつもりだったが、星歌は頑なにそれを拒んだ。向かった先は、三ヶ月前に彼女が密かに購入していたマンション、星河レジデンスだった。この半年、彼女がどれほどの覚悟で飛鳥との別れを準備してきたかが、その決断から痛いほど伝わってきた。「私の家に来ればいいのに。今は誰かに付き添ってもらうべきよ。で、この部屋はいつ買ったの?」江里子は愚痴をこぼしながらも、手際よく毛布を持ってきて星歌の肩に掛けた。そのまま台所へ向かい、粥を作り始める。星歌は毛布の端を握りしめ、体を小さく丸めた。「翼さんが亡くなって、二ヶ月経った頃よ」「そんなに早くから?じゃあ、その時には
二人の間に流れる空気は一瞬にして凍りつき、静寂が痛いほど肌を刺した。一触即発の緊張が部屋を満たしていく。星歌は逃げようとする飛鳥の背中に向けて、足元の椅子を思い切り蹴り飛ばした。激しい衝撃音が、静まり返ったリビングに響き渡る。全身から剣呑な覇気を立ち昇らせ、星歌は飛鳥を鋭く射抜いた。「お義母様に教えなさいよ。私がいつ、潮汁なんて作れるようになったのかを」言葉の一つひとつが、研ぎ澄まされた刃のように飛鳥に突き刺さる。「夏蓮さんが私の作ったものを飲みたいですって?そんな見え透いた嫌がらせ、あなたには分からないの?それとも、私が料理なんて一度もしたことがないことすら、もう忘れたの
病院独特の、鼻をつく薬液の臭い。それが胃の腑を締め上げ、こみ上げる吐き気をこらえるだけで精一杯だった。冴島星歌(さえじま せいか)は、蒼白な顔でベッドに横たわり、浅い呼吸を繰り返している。スマートフォンの呼び出し音が途切れ、通話がつながった。星歌は乾ききった唇を、ようやく開く。「……流産の手術、同意書にサインが必要なの。病院に来てちょうだい」受話器の向こうで、一瞬の沈黙が落ちた。やがて響いたのは、夫である冴島飛鳥(さえじま あすか)の低く、不機嫌な声だった。「妊娠?いったいいつの話だ。俺が知らないはずがないだろう。星歌、気を引きたいからって、嘘や芝居も大概にしろよ」「……来
一方、同じ病院内にある陽子の病室。見舞いに駆けつけた夏蓮は、車椅子の上で震えていた。母が尋常ではない怪我を負ったと聞き、半狂乱になって連れてこさせたのだ。ベッドの上で身動き一つできず、包帯ぐるみの無惨な姿を晒す母親を目の当たりにして、夏蓮の瞳には業火のような憎悪が渦巻いていた。「星歌のクソ女……よくもこんな真似を!それに、どうして高峰啓介が突然あんな女に肩入れしてるのよ!?」母親を半死半生にしたのが啓介の部下だと聞き、夏蓮の顔は夜叉のように歪んだ。ぼろぼろと大粒の涙をこぼす娘を見て、陽子は厳しい眼光を放ち、すかさず怒鳴りつけた。「その涙を引っ込めなさい!」怒号を上げ