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第108話

Author: marimo
last update publish date: 2026-04-05 20:20:48

深夜の静寂の中、叶翔の頭の中では、父・玲司の言葉が何度も繰り返されていた。

――「一条はもうダメだ」

その一言は、まるで現実を突きつけるように重く、鋭く胸に残っている。

そして玲司は、さらに続けてレオン・クロフォードについて語った。

「お前たちが叶うような相手じゃない。本当に、一条の娘をレオンが要らないと言ったのか?」

叶翔は、あのパーティーでレオン・クロフォードが口にした言葉を、そのまま玲司に伝えた。冷酷で、侮蔑に満ちたあの態度。櫻羅をまるで価値のないもののように扱った言葉。

それを聞いた玲司は、意外にも小さく息をついた。

「そこまで言うのなら、レオン・クロフォードの方は一条を切りたいんだろうな。しかし、レオン・クロフォードという男は、一筋縄でいくような男じゃないんだ。お前たちは、できるだけ接触しないようにしろ。アイツは裏の業界にも顔が利く。攫われたりしたら、もう二度と戻って来られないぞ」

その声は低く、警告というよりも確信に近かった。

「一条の娘を何とかしたいなら、一条竜星と話をしろ。それから言っておくが……」

玲司は一度言葉を切り、わずかに考えるような間を置いた。

「俺は、惚れ
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