LOGIN叶翔たちがタクシーの中で息を殺すように前方を見つめていた頃、車窓の向こうには、ロンドン・ウェストミンスター地区でもひときわ異彩を放つ巨大な建造物が姿を現していた。漆黒の外壁に黄金の装飾。昼間であってもどこか夜の気配を纏うその建物――インペリアル・ノクティス・グランドホテルは、まさにレオン・クロフォードの城そのものだった。一般の宿泊客など寄せつけないような威圧感。入口にはスーツ姿のドアマンが何人も並び、周囲には高級車が何台も停まっている。タクシーの運転手でさえ、その建物を前にして思わず息を呑んでいた。「着いたぞ……」運転手が小さく呟いた瞬間、叶翔は料金の精算すら待たず、勢いよくドアを開けて飛び出した。颯太、英士、悠臣もすぐにその後を追う。四人がホテルの正面玄関でタクシーを降りた時、ちょうどレオン・クロフォードもホテルの裏口へ着いたところだった。同じ建物の中で、運命が交差しようとしていた。運転席のドアが開き、レオン・クロフォードがゆっくりと車から降り立つ。いつものように高価なスーツを身に纏い、その表情には余裕すら浮かんでいた。櫻羅が自分の手の中にある――そう思っていたからだ。だが、次の瞬間。レオンの視界に、異様な光景が飛び込んできた。何台もの黒塗りの車が、次々とホテルの裏口へ横付けされていく。ドアが一斉に開き、中から屈強な男たちが何人も降りて来るのが視界に入った。全員が無駄のない動きで、真っすぐレオンの方へ歩いてくる。レオンは足を止めた。細い目が鋭く細められる。男たちは一定の距離まで近づくと、そこで立ち止まった。その中の一人が、一歩前に出て口を開いた。「九条玲司の部下です。九条がどうしてもレオン様と今すぐに話し合いたいと言っています。すぐに参りますので、ここでお待ちいただけませんか」レオンは怪訝そうに男を見た。だが、その一瞬で相手の意図を察したのだろう。口の端がゆっくりと吊り上がった。「九条玲司がここへ?また何の用事があって、私の足を止めるのだ?」その声音には、苛立ちよりも面白がるような響きが混じっていた。しかし、九条の名が出たことで、わずかに警戒も滲んでいる。ボディーガードたちは、レオンを先へ行かせないよう、自然な動きで周囲を囲んだ。逃げ道を塞ぐように。しかし、決して敵意を露わにはしない絶妙な距離感だっ
玲司と圭は、その場で力なく立ち尽くしていた竜星の腕を掴むと、半ば引きずるようにして車へと連れて行った。抵抗する気力すら失っていた竜星は、されるがまま後部座席へ放り込まれ、そのままシートに身体を沈めた。ドアが乱暴に閉められる音が響く。玲司もすぐに運転席へ乗り込み、圭が助手席へ滑り込んだ。エンジンが唸りを上げた次の瞬間、黒塗りの車は勢いよく発進した。圭が先ほど叶翔たちへ連絡を入れていたおかげで、彼らもすでにレオン・クロフォードを追っていることはわかっていた。だが、それでも玲司はアクセルをさらに踏み込んだ。フロントガラスの向こうで、ロンドンの街並みが流れるように後方へ消えていく。玲司の脳裏には、たった一つの確信があった。――レオン・クロフォードの向かった先には、きっと一条櫻羅が居る。その確信が、玲司の胸を重く締め付けていた。もしも――。もしも、レオンが櫻羅に手を掛けたその瞬間に、叶翔が踏み込んでしまったら……。玲司は無意識に奥歯を噛み締めた。自分の息子である。あの叶翔が、惚れた女に何かされたと知った時、冷静でいられるはずがない。まして相手が、レオン・クロフォードのような男ならなおさらだ。きっと、叶翔はレオンを許さない。そして、何が起こるかもわからない。それだけは避けなければならない。レオンが櫻羅に何かする前に。叶翔が到着する前に。自分たちが先に、その場へ辿り着かなければならなかった。玲司は前だけを見据えたまま、低い声で言った。「圭、レオンは今どこに居る?」南條圭はすぐにスマホを取り出し、GPS画面へ視線を落とした。衛星地図の上を動く赤いマーカーを見つめながら、険しい顔で答える。「ロンドン・ウェストミンスター地区辺り。もうすぐレオンが経営するインペリアル・ノクティス・グランドホテルだ」その返事を聞いた瞬間、玲司の瞳が鋭く光った。「そうか」短く答えると、玲司はまたもアクセルを踏み込んだ。エンジン音が一段高くなる。シートに身体が押し付けられるほどの加速に、後部座席の竜星が小さく呻いたが、誰も気に留めなかった。玲司は片手でハンドルを握りながら、もう片方の手でスマホを取り出す。すぐにボディーガードへ電話を掛けた。数秒後、相手が出る。「レオン・クロフォードの姿は見えているか?」玲司の声は極めて落ち着いていた。
レオン・クロフォードの黒い高級スポーツセダンは、昼間の街を切り裂くように高速道路を走り抜けていた。低く唸るエンジン音。窓の外では、高層ビル群が流れるように後方へ消えていく。ハンドルを握るレオン・クロフォードの口元には、普段めったに見せることのない笑みが浮かんでいた。冷酷無比。血も涙もないと言われる男。金のためなら他人を踏みつけることなど何とも思わず、敵対した相手は徹底的に潰し、逆らう者には容赦しない。そんなレオンが、今は明らかに機嫌が良かった。理由はひとつ。一条櫻羅が、自分の手の中に戻ってきたからだ。レオン・クロフォードはホテルへ向かう道すがら、櫻羅を捕まえているボディーガードに電話をしていた。片手でハンドルを握りながら、Bluetooth越しに命令を下す。その声は、いつも以上に愉悦に満ちていた。「私が着くまでに、娘を裸にして縛り付けておけ。後は私が楽しむまで、お前たちは待機だ」短く、冷たく、当たり前のように言い放つ。電話の向こうから「イエス・サー」と返事が聞こえると、レオンは通話を切った。車内に再び静寂が戻る。電話を切ったレオン・クロフォードは、珍しく上機嫌だった。普段のレオンなら、気に入った女がいれば金で買う。モデル。女優。政治家の愛人。果ては他国の王族関係者まで。金で手に入らない女などいない。そう信じて疑わなかった。そして手に入れた女たちを、自分の欲望のままに弄び、飽きれば札束を投げつけて終わりにする。いつもは金で買った女たちを痛めつけ、散々弄んだ挙句に金ですべてを解決してきた。だが櫻羅は違う。レオンの脳裏に、一条櫻羅の顔が浮かぶ。怯えたような大きな瞳。白い肌。従順そうな性格。しかも、名家の血筋。使い道はいくらでもある。レオンは、ふっと笑みを深めた。この女が気に入れば、籍くらいは入れてやろう。そうすれば一条竜星も、しばらくはおとなしく言う事を聞くだろう。櫻羅に飽きたら、離婚という形で竜星から全てを取り上げ、櫻羅はどこかの国に売り飛ばしてしまえばいい。闇のオークションで、どこかの国の金持ちの変態に売りつけてもいい。東洋人は若く見えるため、人気があることをレオンは思い出して笑った。その笑みには、人間らしい温度など一切ない。ただ、利益と支配だけを求める獣のような笑みだった。「一条は
レオン・クロフォードが所有する高級ホテル――。その最上階のさらに奥、一般の宿泊客はもちろん、ホテル関係者でさえ許可なく近づくことのできない専用フロアへ、櫻羅は無理やり連れて来られていた。エレベーターを降りた時から、櫻羅は一言も口を開かなかった。両脇を屈強なボディーガードたちに固められ、逃げ道など最初から存在しないことを理解していたからだ。長い廊下には、厚みのある絨毯が敷き詰められ、歩いても足音ひとつ響かない。壁には高価そうな絵画が飾られ、間接照明が淡く廊下を照らしている。だが、櫻羅の目には、そんな豪華さなど一切映っていなかった。ただ、自分がどこへ連れて行かれるのか。その先に何が待っているのか。それだけが頭の中を支配していた。やがて、ボディーガードの一人が重厚な扉を開く。次の瞬間――。櫻羅の背中を強く押された。「きゃっ……!」体勢を崩し、そのまま部屋の中へ押し込まれる。そして――。ドサッ。勢いのまま、ベッドの上へ投げ出された。レオン・クロフォードが所有するホテルの、レオンの宿泊用に用意してある部屋に押し込まれた櫻羅は、ゆっくりと体を起こした。乱れた髪を耳へかけながら、恐る恐る部屋を見回す。そこは、異様なほど無機質な空間だった。広さは十分にある。天井も高い。だが、そこには装飾らしい装飾がほとんどなかった。大きなキングサイズのベッド。ガラス張りの浴室。それだけ。ソファもなければ、テーブルもない。花も絵もない。人が寛ぐための空間というより――。まるで、何かのためだけに用意された檻のようだった。櫻羅の喉が、ごくりと鳴る。そしてベッドの上に放り投げられた櫻羅は、そこで自分の人生がこの後どうなるのかを、改めて認識した。逃げられない。もう、後戻りはできない。叶翔の顔が脳裏に浮かぶ。昨夜、夜景を見ながら、自分の手を握ってくれたあの温もり。――『俺が守ってやる。一緒に日本に行こう』櫻羅は唇を噛んだ。あの時、素直に頷いていれば。そう思った瞬間、目の奥が熱くなる。だが、涙を流す資格すら、自分にはないような気がした。櫻羅はぎゅっとシーツを握りしめた。一方その頃――。ノヴァ・テクノロジーズ本社ビルの地下駐車場。黒塗りの高級車の中で、九条玲司と南條圭は、静かに周囲を観察していた。玲司は腕を組み、鋭い視
ノヴァ・テクノロジーズ本社ビル――。街の中心部にそびえ立つその巨大な超高層ビルは、朝の陽光を浴びて鈍く輝いていた。ガラス張りの外壁は空の青さを映し出し、まるでこの街そのものを見下ろしているかのような威圧感を放っている。その最上階へ向かう専用エレベーターの中で、一条竜星は何度も乾いた唇を舐めていた。額には脂汗が浮かび、握り締めた拳にはじっとりと汗が滲んでいる。これまで財界人として数え切れないほどの交渉の場に立ってきた竜星だったが、これほどまでに恐怖を感じたことはなかった。耳の奥で、自分の鼓動だけが異様に大きく響いている。――レオン・クロフォードを怒らせた。その事実だけが、竜星の頭の中を支配していた。やがてエレベーターが最上階へ到着し、静かな電子音とともに扉が開く。竜星は一度だけ大きく息を吸い込み、ふらつく足取りで廊下を歩いた。分厚いカーペットが敷かれた静かな廊下。壁には現代アートが飾られ、一般人では決して近づけない世界が広がっている。しかし竜星には、それらを眺める余裕など一切なかった。秘書に案内されるまま、重厚な扉の前まで来る。ノックの音が響き、扉が開いた。その瞬間――。竜星の喉がゴクリと鳴った。広大な執務室の中央。巨大な窓を背に、一人の男が立っていた。レオン・クロフォード。圧倒的な存在感。何も語らずとも、人を屈服させるような冷気が、その場全体を支配していた。竜星はその視線を受けた瞬間、抗うこともできず、その場に膝をついた。そして、床に額がつくほど深く頭を垂れる。ノヴァ・テクノロジーズの最上階に着いた一条竜星は、レオン・クロフォードの前に跪いていた。レオン・クロフォードはそんな一条竜星を冷たい目で見下ろしていた。まるで虫でも見るような視線だった。一向に頭を上げようとしない一条竜星を見ながら、レオンは冷たく言い放った。「お前たち日本人は、そうして跪けば何でも許されると思っているのか?しかし私は、金でしか解決しないと決めているのだ。お前たちが大切にしている『情』などというモノは、私にとってはどうでもいい。許して欲しければ、私の要求した物を早く持って来い」その言葉は、氷の刃のように竜星の胸に突き刺さった。竜星は震える手を床につきながら、少しだけ頭を上げた。顔色は真っ青で、唇は小刻みに震えている。それでも、こ
「櫻羅!! 櫻羅居るか!?」叶翔は女性用トイレの入口の前に立ったまま、中へ踏み込むこともできず、焦りを隠せない声で何度も櫻羅の名前を呼び掛けた。病院の静かなフロアに、その切羽詰まった声だけが不自然に響き渡る。しかし――。返ってくるはずの櫻羅の声は、どこにもなかった。叶翔の額には、じわりと冷たい汗が滲む。まさか。そんなはずはない。ほんの数分前まで、確かにここにいたのだ。自分がこの目で、櫻羅がトイレへ入っていく後ろ姿を見送ったのだから。「櫻羅!!」もう一度叫ぶ。だが、やはり返事はない。その時だった。個室の方からゆっくりと年配の女性が歩いてきて、怪訝そうな顔で叶翔を見た。「どうしたんですか?」叶翔は女性を見ると、焦ったように聞いた。「すみません、中に若い女性……長い髪の女性、居ませんでしたか?」年配の女性は首を傾げながら言った。「中には私以外、居ませんでしたよ」その言葉を聞いた瞬間――。叶翔の中で、何かが音を立てて崩れた。「……っ!」叶翔は素早くスマホを取り出した。指先が震え、何度か画面を押し間違えながらも、颯太へ発信する。ワンコールもしないうちに電話が繋がった。『どうした!?』「颯太……櫻羅が居ない……!」一瞬の沈黙。そして次の瞬間、電話の向こうで颯太が声を荒げた。『何だって!? すぐ行く!!』電話が切れると同時に、叶翔はその場で立ち尽くした。頭の中が真っ白になる。どうして。どうして、ほんの数分目を離しただけで――。病院の受付係や看護師たちも、何事かとざわつき始めていた。それから十分もしないうちに、颯太を先頭に、英士、悠臣、そして綾乃までもがヴァルハイト国際医療センターへ駆け込んできた。「叶翔!!」颯太の声に、叶翔がゆっくり振り返る。その顔色は、血の気が失せるほど青ざめていた。綾乃は事情を聞くより先に、迷うことなく女性用トイレへ入っていった。個室。洗面台。掃除用具入れ。非常口まで。隅から隅まで確認する。しかし――。どこにも、櫻羅の姿はなかった。綾乃が静かに外へ出てくる。その表情を見た瞬間、叶翔は全てを悟った。「……そんな……」力が一気に抜け、その場に膝から崩れ落ちる。「叶翔!」悠臣と英士が慌てて駆け寄り、倒れかけた叶翔の身体を支えた。「しっかりしろ!」「まだ決
和真と別れた帰り道。夜風は思いのほかやわらかく、ビルの谷間を抜けていく空気さえ、どこか軽やかに感じられた。綾乃は、自分でも驚くほど足取りが軽くなっていることに気づいた。ヒールの音が、いつもより高く、規則正しく響いている。(……気を抜きすぎね)小さく息を吐き、わざと歩幅を落とす。だが、胸の奥に広がる解放感までは抑えきれなかった。頭の中では、彼の言葉が何度も反芻されていた。――「神崎グループとして、裏から情報を集めることもできる」表で動けない今の自分にとって、それは、あまりにも都合のいい申し出だった。九条ホールディングスの立場上、彼女は不用意に動けない。一歩間違えば、政治的
九条ホールディングス本社。最上階の大会議室には、異様な緊張が漂っていた。取締役全員。主要株主。法務、内部監査、情報セキュリティ責任者。玲司は、会議の中央席に座り、資料も見ずに静かに口を開いた。「本日は、九条ホールディングスに対して行われた組織的な信用毀損行為について、事実確認と、対応方針を決定するための場です」スクリーンが点灯する。最初に映し出されたのは――音声データの解析結果だった。「こちらは、外部に流出した“九条に不正献金を示唆する音声”です」専門部署の責任者が説明を引き継ぐ。「改ざんは、非常に高度です。単なる切り貼りではありません」波形が拡大される。「実際には
九条ホールディングス本社。役員フロアの一室で、玲司は無言のまま音声を聞いていた。――『資金は、海外口座を通せ』――『表の契約書は、後で差し替えればいい』低く、落ち着いた声。自分のものだ。「……もう一度」玲司の指示で、音声は巻き戻される。法務顧問、内部監査責任者、情報セキュリティ部門の責任者。誰も、口を挟まない。三度目の再生が終わったところで、玲司はようやく口を開いた。「この音声、違和感がある」「違和感、ですか?」法務顧問が慎重に言葉を選ぶ。「内容自体は、確かに問題がありますが……声紋解析でも、ご本人と高い一致率が出ています」「声の“質”じゃない」玲司は、静
異変は、朝の定例報告から始まった。神崎財閥本社――高層ビルの上層階、いつもと同じ時刻、同じ顔ぶれ。役員たちはコーヒーを手に、形式的な数字の確認をするだけのはずだった。だが、経営企画部の若い社員が、資料を手に硬直したまま立っている。視線は泳ぎ、唇はわずかに震えていた。「……九条ホールディングスからの契約解除通知です」その一言で、会議室の空気が変わった。ひとつではない。資料をめくるたびに、ページの端に並ぶ「解除」「終了」「見直し」の文字。資本提携、共同開発、物流ライン、海外ファンドを介した取引――一斉に、しかも例外なく。理由はどれも同じ文言だった。《経営判断による契約見直