Mag-log in「竜星さん、圭です」鳴り続けていたスマートフォンを手に取り、通話ボタンを押した瞬間、受話器の向こうから聞こえてきたのは南條圭の落ち着いた声だった。その声を聞いた竜星は、一瞬だけ露骨に嫌そうな表情を浮かべる。(今は……こいつと話している場合じゃない)だが、すぐにその表情を消し、声だけは平静を装って応じた。「ああ、久しぶりだな。こんな夜更けにどうしたんだ?」努めて落ち着いた口調。しかし、その内側では苛立ちが燻り続けている。圭はすぐには本題に入らず、わずかに間を置いた。その沈黙が、かえって不穏さを増幅させる。そして、静かに切り出した。「櫻羅のことなんだけど……」その言葉を聞いた瞬間――竜星の中で何かが弾けた。(またか……また櫻羅か……)なぜだ。なぜ誰も彼も、櫻羅のことばかり口にする。自分の会社は崖っぷちに立たされている。融資は途絶え、次の一手も見えない。その焦燥と苛立ちが、すべて櫻羅という存在に向けられていた。「櫻羅に何の用だ?」先ほどまでの平静な声とは打って変わり、刺すような口調だった。その変化に、圭はわずかに戸惑う。しかし、ここで引くわけにはいかないと気を取り直し、言葉を続けた。「櫻羅を颯太が連れ出したと聞いた。事情は聞いたが、あのレオンの嫁に出すのはちょっとやり過ぎだろう?」あくまで穏やかに、だが核心に触れる問いかけだった。――その瞬間だった。竜星の中に溜まりに溜まっていた怒りが、一気に堰を切ったように溢れ出す。「櫻羅をどこへ嫁にやろうと、あんたに何の関係があるんだ?」怒声が書斎に響き渡る。「どいつもこいつも櫻さくらさくらって、俺のやることにいちいち文句は言わせないぞ!!」もはや理性の欠片もなかった。会社の窮地、資金繰りの焦り、そして何より――長年心の奥底に押し込めてきた疑念。櫻羅の存在そのものが、自分を追い詰めている。そう思わずにはいられなかった。電話越しに、その異様な激高ぶりを受け止めた圭は、言葉を失っていた。(……これは、ただ事じゃない)櫻羅について少し問いただすつもりだっただけだ。それなのに、この反応はあまりにも過剰すぎる。竜星の精神状態が、明らかに常軌を逸していることを感じ取った。これ以上話しても無駄だ――そう判断し、圭は静かに通話を切った。スマートフォンを見つめたまま、しばらく動けない。
翌朝――。ほとんど眠れないまま夜を明かした五人は、重い空気をまとったままホテルを出ていた。誰もが口数少なく、それぞれが自分の考えに沈み込んでいる。向かう先は、一ノ瀬重工グループの関連会社――DNA鑑定を依頼した研究機関だった。本来であれば、結果を受け取るだけなら英士一人で十分だった。実際、最初はそうするつもりだった。しかし――英士を一人で行かせることへの不安、そして何より櫻羅を一人でホテルに残すことへの不安が、全員の中にあった。結局、誰もその案に賛成せず、五人で行動することになったのだ。研究所の建物は無機質で静まり返っており、外観からして一般人を寄せ付けない空気を纏っていた。入口で身元確認を求められ、英士が代表して手続きを行う。厳格なチェックの末、入館が許可されたのは英士一人だけだった。「すぐ戻る」短くそう言い残し、英士は建物の中へと消えていく。残された四人は、研究所に併設されたテラスの休憩スペースへと案内された。ガラス張りの明るい空間だったが、その場の空気はどこか重苦しい。それぞれがコーヒーや飲み物を頼んだものの、誰も積極的に口をつけようとはしない。叶翔は無言でカップを見つめ、颯真は腕を組んだまま落ち着かず足を揺らしている。悠臣だけが普段と変わらぬ様子でオレンジジュースを手にしていたが、その目はどこか鋭く、状況を見据えていた。櫻羅は、両手でカップを包み込むように持ちながら、ただじっとテーブルを見つめている。その指先がわずかに震えているのを、叶翔は見逃さなかった。(大丈夫だ……)心の中でそう呟くが、確証などどこにもない。時間がやけに長く感じられた。そして――。しばらくして、研究所の扉が開き、英士が姿を現した。手には、一通の封筒。白く無機質なその封筒は、やけに重たい意味を持っているように見えた。英士はゆっくりと歩み寄り、四人の前に立つ。そして何も言わず、テーブルの上に封筒を置いた。封は厳重に閉じられている。まだ、未開封のままだ。その存在だけで、場の空気がさらに張り詰めた。英士は静かに視線を上げ、他の四人の顔を順に見渡す。「誰が開ける?」悠臣が、ストローでオレンジジュースを飲みながら、軽い口調でそう言った。だが、その声音とは裏腹に、視線は鋭い。颯真は無言で英士を見つめ、櫻羅も同じように視線を向けている。その目には、不
ふと、静まり返った部屋の中に、コンコン、と控えめなノックの音が響いた。叶翔はベッドに横になったまま、その音にゆっくりと目を開ける。こんな時間に訪ねてくる相手など、限られている気がした。ゆっくりと体を起こし、ドアの方へと歩いていく。ドアノブに手を掛け、一瞬だけ躊躇したあと、静かに扉を開けた。すると、そこにはパジャマ姿の櫻羅が立っていた。柔らかな照明に照らされて、どこか頼りなげなその姿が、叶翔の胸を不意に締めつける。櫻羅は叶翔を見上げると、少しだけ迷うようにしてから「少しいいかな」と言った。その声は小さく、どこか震えていた。叶翔は何も言わずにドアを大きく開け放ち、体を横にずらして道を作る。櫻羅は静かに部屋の中へと足を踏み入れた。ドアを閉めたあと、叶翔はベッドに腰掛けると、自分の横を軽く叩いた。「座れよ」言葉にはしなかったが、その仕草で十分だった。櫻羅は一瞬だけ戸惑うような表情を見せたが、やがてそっと近づき、叶翔の隣に腰を下ろした。ただし、ほんの少しだけ距離を置いて。その距離が、今の二人の関係をそのまま表しているようで、叶翔は少しだけ苦笑しそうになる。やがて、櫻羅がぽつりと口を開いた。「ごめんなさい」その言葉に、叶翔はすぐに櫻羅の方へ顔を向ける。「何でお前が謝るんだ?」自然と出た言葉だった。櫻羅は俯いたまま、小さな声で続ける。「みんなを巻き込んでしまってごめんなさい。しかも、叶翔くんのお父さんを疑うようなことをさせてしまって……ホントにごめんなさい」その声には、これまで抱え込んできた負い目や罪悪感が、すべて滲み出ていた。そして――その頬を、一筋の涙が静かに伝った。その瞬間、叶翔の胸の奥で何かが弾けた。気づいたときには、もう動いていた。叶翔はたまらず櫻羅を抱きしめていた。突然の行動に、櫻羅の体がビクッと固くなるのが分かる。それでも叶翔は腕を緩めることなく、むしろ力を強めて、櫻羅を自分の胸の中へと引き寄せた。「お前は何も悪いことをしたわけじゃないだろう」低く、しかしはっきりとした声だった。そして、そっと櫻羅の頭に自分の頭を乗せる。「俺たちの親世代の因縁を、お前一人が背負わされてるだけじゃねーか。子どものころからずっと、冷たくされたんだろ?俺の親父と櫻羅のおふくろのことを疑って」その言葉は、優しさと怒りが入り
「私がレオンの元に戻れば、颯太が捕まることはないんでしょ?」静まり返ったリビングに、櫻羅の声が静かに落ちた。その声は決して大きくはなかったが、五人の胸に重く響いた。櫻羅は申し訳なさそうな顔で、皆の様子を窺っている。その視線の奥には、覚悟と諦めが混じっていた。五人はソファに座り、テーブルの上に置かれたコーヒーを前にしていた。眠気覚ましに淹れたはずのそれは、誰一人手をつけることなく、すでに冷め切っている。誰も口を開けない。ただ重苦しい沈黙だけが流れていた。櫻羅の言葉に、最初に反応したのは颯太だった。顔を上げ、何かを言おうとする。だが、その言葉が形になる前に――「俺は、お前を行かせたくない」叶翔の声が、その場を断ち切った。迷いのない言葉だった。櫻羅はその声に驚いたように、ゆっくりと叶翔の顔を見る。二人の視線が交差する。その空気を読まないように、あえて崩すように――悠臣がヒューっと軽く口笛を吹いた。「叶翔、カッコイイ」場違いとも思える軽さだったが、どこか張り詰めた空気を和らげるものでもあった。叶翔はすぐに悠臣を睨みつける。「ごめん。やっぱ叶翔はカッコイイなと思っただけだよ」悠臣は悪びれる様子もなくそう言い、テーブルの上の冷めたコーヒーに手を伸ばした。そして一口、何事もなかったかのように飲み込む。その様子に、一ノ瀬英士は呆れたような顔を向けたが、すぐに真顔に戻ると、改めて叶翔を見た。「明日、DNA検査の結果が出る。もし、櫻羅が正真正銘、一条竜星の娘だという結果なら、一条竜星に婚約破棄させるしかない。しかし……」そこまで言って、英士は言葉を切った。だが、その続きを聞かなくても、叶翔には何を言いたいのかは分かっていた。万に一つ――本当に万に一つでも、櫻羅の父親が九条玲司だという結果が出た場合。その時は状況が一変する。レオン・クロフォードであっても、九条ホールディングスの九条玲司の娘に手を出すことはできない。勝手に婚約者として扱うことなど、絶対に許されるはずがない。どれほどレオンが裏社会に顔が利こうとも、どれほど恐れられる存在であろうとも――この政財界で、九条玲司を敵に回して生き残れる者がいるとは思えなかった。それほどの影響力を持つ男だ。だが――叶翔は知っていた。九条玲司という男が、どんな人間なのかを。彼は、鷹宮綾乃を裏
国内の南條財閥当主、南條圭の元に、一通の訴状が届いた。それは通常の業務書類とは明らかに異なる、重苦しい存在感を放っていた。海外から届いた正式な書類――差出人は遠くイギリス、ノヴァ・テクノロジーズ。封を切り、内容に目を通した圭の表情は、瞬時に険しいものへと変わった。そこに記されていたのは、社長レオン・クロフォードの婚約者を無断で連れ去ったとして、南條颯太を訴えるという内容だった。一瞬、思考が止まる。だが次の瞬間には、時差のことなど一切考えず、圭はすぐさまスマートフォンを手に取り、息子・颯太へと電話を掛けていた。コール音が数回鳴った後、ようやく繋がる。「……ん……」半分寝ぼけたような声が返ってくる。明らかに深夜の眠りを引きずった声だった。圭は構わず、手短に状況を説明した。その話を最後まで聞いた瞬間、颯太の意識は一気に覚醒した。「どういうことだよ!!あいつがもういらないから連れて行けって言ったんだ」怒りと混乱が入り混じった声が、受話器越しに響く。圭は小さくため息をついた。息子の言い分は理解できる。だが、相手が悪すぎる。「レオン・クロフォードというのはそういう男だ。しかも、婚約関係である櫻羅を連れ去るには、それなりの手続きを踏むべきだった」静かに、しかし諭すように告げる。その言葉を聞いた颯太は、愕然とした表情でスマホを強く握りしめた。自分たちの行動が、思っていた以上に危ういものだったと、今さらながら思い知らされる。圭はさらに続けた。「一旦、櫻羅をレオンの元へ返し、それから婚約破棄させないと、お前たちが誘拐したとみなされ兼ねない。イギリスの警察に駆け込まれたら、お前たちが逮捕されてしまう可能性も出てくるぞ」その現実的な指摘に、颯太の顔から血の気が引いた。だがすぐに、強い拒絶の感情が込み上げる。「でも、櫻羅をまたレオンの元に戻せば、今度は櫻羅の身がどうなるか………父さん!櫻羅は父さんにとっても姪だろ?何とかならないのか?」必死な声だった。その言葉に、南條圭はゆっくりと目を閉じた。頭の中で状況を整理する。だが、どこから見ても有利な要素がない。南條財閥といえど、主戦場は国内だ。海外の法制度や企業ネットワークに精通しているわけではない。海外で頼れる存在がいるとすれば――一条家。だが、その一条家自身が櫻羅を差し出した張本人である以上、
「社長、只今入った情報です」静まり返った執務室に、秘書の落ち着いた声が響いた。差し出されたタブレットの画面には、最新の内部報告と外部からの動きが整理されている。レオン・クロフォードは、ゆっくりと視線を落とし、その内容に目を通した。そして――ほんのわずか、気づく者がいれば奇跡とも言えるほどの微細な変化として、口角が上がる。「おもしろい。一条竜星は、地の底を見たいようだな」その声音には、怒りも苛立ちもない。ただ純粋な興味だけが滲んでいた。そう言うと、レオンはタブレットから視線を外し、秘書を見やる。「一条家だけではなく、南條、そして、今回のロケットプロジェクトに参戦した、九条と一ノ瀬も巻き込んでやろう」ゆっくりとした口調で告げられたその言葉は、まるで次の一手を確認するかのような軽さだった。しかし、その内容はあまりにも重い。言い終えると、レオンは目を伏せる。秘書はその一瞬の仕草だけで、すべてを理解した。これ以上の指示は不要だった。彼の思考を先読みすることこそが、この場にいる者の役割である。一礼もそこそこに、秘書はすぐにドアを開けて外へ出ていった。レオン・クロフォードともなれば、部下にいちいち指示を出す必要はない。自分の望む結果を、言葉にしなくても周囲が整えてくる。そういう環境を築き上げてきたし、そういう人材だけを側に置いている。それが当然の世界だった。レオンはデスクの引き出しから葉巻を一本取り出すと、無駄のない動作で端を切り落とした。ライターの火を近づけ、ゆっくりと煙をくゆらせる。そのまま窓際へと歩み寄り、ガラス越しに広がる夜の街を見下ろした。無数の光が輝くその景色は、まるで巨大な盤上のようにも見える。――この街を仕切るのは自分だ。そう言わんばかりに、レオンはわずかに笑みを浮かべた。一方、その頃――。一条竜星は、レオン・クロフォードに冷たくあしらわれた後、逃げるようにして別の道を選んでいた。彼が向かったのは、ノヴァ・テクノロジーズの競合相手である企業だった。すでに資金繰りは限界に近く、一条家は破綻寸前。その状況を知った企業側は、表向きは救済の手を差し伸べる姿勢を見せながら、内心では別の思惑を抱いていた。――またしても、一条を利用しようとしていたのだ。だが、追い詰められた一条竜星には、それを見抜く余裕はなかった。自分を助けてく
空港から直行したそのビルは、夜の街に溶け込むように静かに佇んでいた。 高層ビルが立ち並ぶ通りの中では、決して目立つ建物ではない。外観はごく普通のオフィスビルで、ガラス張りの壁面に周囲のネオンが淡く映り込んでいるだけだ。 人通りも多くはなく、夜更けのオフィス街特有の、乾いた静けさが漂っている。 表向きは投資会社の支社。 海外資本を扱う小さな拠点という、いかにもありふれた看板が掲げられている。 だが、この場所が“裏の交渉”に使われていることを、九条玲司は最初から承知していた。 表に出せない資金の流れ。 企業同士の裏取引。 表向きの契約とは別に交わされる、もう一つの約束。 この街
富裕層、超富裕層のみが名を連ねる社交界では、噂はいつも静かに、だが確実に広がる。 そして今、九条家と鷹宮家――若き夫婦の不仲説が、ささやき声の裏で育ち始めていた。 パーティーの前日、九条玲司は鷹宮財閥の邸宅を訪れていた。 綾乃の父、鷹宮正隆に呼び出されたのだ。 驚くほどの広さを誇るリビングに通され、執事から差し出されたワイングラスを受け取る。 玲司は一口でそれを飲み干した。「……もっと味わって飲みたまえ」 低く、重みのある声が背後から響く。 振り返ると、正隆がワインボトルを指していた。「これはシャトー・ムートン・ロートシルト 1990年だよ。 せっかく婿殿が来たから、も
和真と別れた帰り道。夜風は思いのほかやわらかく、ビルの谷間を抜けていく空気さえ、どこか軽やかに感じられた。綾乃は、自分でも驚くほど足取りが軽くなっていることに気づいた。ヒールの音が、いつもより高く、規則正しく響いている。(……気を抜きすぎね)小さく息を吐き、わざと歩幅を落とす。だが、胸の奥に広がる解放感までは抑えきれなかった。頭の中では、彼の言葉が何度も反芻されていた。――「神崎グループとして、裏から情報を集めることもできる」表で動けない今の自分にとって、それは、あまりにも都合のいい申し出だった。九条ホールディングスの立場上、彼女は不用意に動けない。一歩間違えば、政治的
その男と再会したのは、あまりにも偶然を装った場所だった。東亜リンクス商事本社ビル近くの、昼時には少し遅いカフェ。「……綾乃?」声をかけられ、顔を上げた瞬間、胸の奥が微かにざわついた。「久しぶりだな」柔らかく笑うその顔を、綾乃は忘れていなかった。神崎 和真(かんざき かずま)三十三歳。神崎財閥の御曹司で、現在は関連投資会社の専務。そして――幼い頃から、同じ世界で育った男。「……驚いたわ。こんなところで」「本当は、連絡しようか迷ってた」そう言って、和真は向かいの席に腰を下ろした。(迷ってた、ね)昔から、彼はいつもそう言う。距離を測るように、一歩だけ近づいて、相手が拒