LOGINその日の夜――。壮真は珍しく自宅へと直行していた。いつもなら、仕事を終えれば玲子の待つ場所へ向かう。玲子と酒を飲み、他愛もない話をしながら、仕事や神崎家のことを忘れる。それが、ここ最近の壮真にとって当たり前になっていた。しかし、今日は違った。昼間、康太との親子鑑定の結果を見た。自分と康太の間に、明確な答えは出なかった。それは壮真にとって、安堵すべき結果だったはずだ。和真の子どもだと証明されることもなかった。自分の子どもだと証明されることもなかった。なのに――。胸の奥には、妙な高揚感が残っていた。それが何なのか、自分でも分からない。だからこそ、今日は玲子と一緒に居る気にはなれなかった。車を降りる。夜の冷たい空気が頬を撫でた。壮真はコートのポケットに手を入れながら、神崎家の玄関へ向かって歩き出した。その途中――。ふと、足が止まった。「…………」視線の先には、見慣れた庭。何度も歩いた場所。何年も暮らしてきた、自分の家。なのに今夜は、そこに立っていることが妙に息苦しく感じられた。そして、脳裏に浮かんだ。あの日――。振り返って見た、雪乃と康太の姿を………。雪乃。そして、その隣にいた小さな少年。なぜかその光景だけが鮮明に残っている。(……俺は、何を考えているんだ)壮真は小さく息を吐いた。美玲とは政略結婚だった。もちろん、結婚した当初からそのことは分かっていた。神崎家にとっても、鳳条家にとっても必要な結婚。愛情よりも家と家との関係。利益と利益。互いの立場を理解した上で結ばれた関係だった。けれど――。壮真は雪乃を愛していた。あの頃の自分は、本気だった。神崎の家など、どうなってもいい。雪乃と一緒になれなければ、生きている意味がない。そんなことを考えもした。今思えば、あまりにも青臭い考えだったのかもしれない。それでも――。あの頃の壮真には、それが偽りのない気持ちだった。しかし、現実は残酷だった。当時の神崎の財政状況。神崎家を取り巻く事情。父・正蔵からの懇願。そして、神崎ホールディングスの取締役たちからの圧力。「お前が神崎家を背負うんだ」そんな無言の重圧が、壮真の肩にのしかかっていた。家を捨てる。それは、自分一人の問題ではなかった。神崎家で働く多くの人間。取引先。社員。
神崎グローバルトレーディング――。社長室には、重苦しい沈黙が漂っていた。壮真は落ち着かない様子で玲子の顔を見た。玲子が持っているはずのDNA鑑定の結果。それさえ分かれば、すべてが動き出す。和真なのか――それとも、自分なのか。もし康太が和真の子どもだと証明されれば、和真に責任を負わせることができる。そして、その先には鷹宮家からの支援も見えてくる。壮真はそう考えながらも、胸の奥には言葉にできない不安が渦巻いていた。「玲子、結果はどうだったんだ!?」思わず声が裏返りそうになった。それほどまでに、結果を待ち焦がれていたのだ。玲子はその焦ったような声に笑いながら、壮真に歩み寄ると、手に持っていた紙を壮真の目の前にかざした。その瞬間、壮真の視線が紙に吸い寄せられる。「……!」壮真はひったくるようにその紙を手に取ると、食い入るように見つめた。何度も文字を追う。一行ずつ、慎重に。しかし――。そこに書かれていた結果を理解した瞬間、壮真の肩から力が抜けた。「……ハァー……」大きく息を吐く。そしてソファに崩れ落ちるように座ると、玲子を見上げて聞いた。「結局、どう検査しても、明確な答えは出ないということなんだな?」その声には、安堵とも失望ともつかない複雑な響きが混じっていた。玲子は壮真の隣に腰かけると、壮真の手を取って言った。「そうよ。あの、一条が誇る『一ノ瀬生命科学総合研究所』で検査をしても、兄弟では結果は同じになるということよ。だから、あの子どもの父親は、あなたなのか和真なのか、永久にわからないナゾということになるわね」玲子は壮真の手を撫でながら、ニッコリと笑った。その笑顔は優しげだった。けれど――。その瞳の奥には、壮真には決して見せることのない計算が潜んでいた。壮真は複雑な表情で玲子を見つめていた。自分の子どもだと証明されなかったことに、少々がっかりした気持ちがある。本当なら、自分の血を引いた子どもなのだと、はっきり証明されてほしかったのかもしれない。だが同時に――。和真の子どもだという証明ができなかったことを、少なからず「良かった」と思っている自分もいた。その感情に気づいた瞬間、壮真は眉を寄せた。(……なぜだ―――?)自分でも自分の気持ちがわからなかった。雪乃との関係など、とっくの昔に終わったはずだった
九条家では―――。朝の陽射しが、広々とした九条本邸のダイニングルームへと差し込んでいた。今朝は九条本邸に、叶翔と櫻羅、そして雪乃と康太も一緒に朝食の食卓を囲んでいた。昨夜は遅くまで話し合いをしていたため、雪乃と康太も九条別邸に泊まってもらっていた。本来なら、雪乃は何度も遠慮して帰ろうとした。こんな大きな屋敷に、自分と康太が泊まるなんて――。そう考えるだけで恐縮してしまう。だが、昨夜から康太がすっかり櫻羅を気に入ってしまっていた。「さくらお姉ちゃんと一緒がいい!」何度「帰るわよ」と言っても、康太は櫻羅から離れようとしない。雪乃も困ってしまっていたが、そんな康太を見ていた叶翔が、穏やかな口調で言った。「ゲストルームでよかったら用意しますよ」その一言で、康太は飛び上がって喜んでいた。雪乃はますます恐縮したものの、康太の嬉しそうな顔を見れば、強く断ることもできない。「それではお願いします」そう言って、結局、泊まってしまったのだった。そして翌朝。こうして、九条家の家族が集う朝食の席に、雪乃と康太の姿もあった。しかし――。雪乃と康太は、こんな大きな屋敷で食事をするのは初めてだった。目の前に並べられた料理の数々を見ているだけで、どうしていいのか分からない。美しく盛り付けられた料理。焼きたてのパン。色とりどりの果物。温かなスープ。どれも自分たちが普段目にする朝食とは、あまりにも違っていた。康太は食べたい気持ちを抑えながら、ちらちらと料理を見ている。けれど、勝手に手を伸ばしていいものなのか分からない。雪乃も同じだった。――こんなにたくさん……。どれに手をつければいいのかすら、迷ってしまう。すると、その様子に気づいた綾乃が席を立った。綾乃は優しい笑顔を浮かべながら、康太と雪乃の前に食材を並べてくれた。まるで二人の緊張を解くように、明るい声で言う。「バイキングみたいで楽しいでしょう?どれでも好きなものを好きなだけ食べていいのよ」康太に微笑みかける。その瞬間、康太の表情がぱっと明るくなった。「……わぁ……」目の前に並べられた料理を見つめ、目をキラキラさせている。さっきまでの遠慮がちな表情は、どこかへ消えていた。雪乃はそんな康太を見て、胸の奥が温かくなるのを感じた。――この子がこんな顔をするのを、久しぶりに見
鷹宮家では―――。朝の柔らかな光が、カーテンの隙間から寝室へ差し込んでいた。けれど和真は、そんな朝の気配を感じながらも、なかなかベッドから出ようとはしなかった。昨夜の出来事を思い出しながら、いつまでも布団の中でグズグズしている。頭の中には、昨夜の光景が何度も蘇っていた。雪乃と康太。そして、九条家で明らかになったDNA鑑定の結果。和真自身、昨夜のことを考えると胸の奥が重くなる。雪乃が何を思っていたのか。康太はこれからどうなるのか。そして、自分はこれから何をしなければならないのか。考え始めれば、いくらでも考えられてしまう。だが――。今だけは、そのすべてから逃げるように、布団の中にいたかった。それに、和真にはもう一つ理由があった。いつものように、心春が起こしに来るのを待っていたのだ。心春なら、きっといつもの調子で自分を起こしてくれる。その声を聞けば、重たくなった気持ちも少しだけ軽くなる。そんなことを考えていると――。ドスンッ!!突然、和真が被った布団の上に、心春が笑顔で乗ってくる。「和真!!いつまでも寝てると、遅刻しちゃうよ~」布団越しに伝わる心春の重み。そして、明るく弾んだ声。和真は思わず笑ってしまった。今朝の心春はいつもよりも機嫌がいい。その理由は、和真にも分かっていた。昨夜の出来事で和真の疑惑が晴れた。そのことで、こうしていつもと変わらない朝を迎えられたこと。それだけで、心春は安心しているのかもしれない。そんな心春を見ていると、和真の胸にも温かなものが広がっていく。――やっぱり、この子といると落ち着く。どんなに面倒な問題を抱えていても、心春がそばにいるだけで、自分が自分に戻れる。和真は笑って心春を布団の中に引っ張り込んで抱きしめる。「もう少し優しく起こしてくれよ」心春の頬に軽くキスをする。心春は目を細めて肩をすくめた。「だって、和真ったら寝坊助なんだもん」そう言いながら、心春も和真の腰に巻きついた。二人の距離が近くなる。和真はまた笑って心春を力強く抱きしめた。その瞬間だった。昨夜の雪乃が言った一言が、ふいに思い出された。――「あなたは変わらず若々しいですね」あの言葉。何気ない一言だったのかもしれない。けれど、和真の心には妙に残っていた。雪乃も和真も、そして綾乃も、二十代の
翌朝。神崎家では、壮真がそわそわとしながら、朝食の席についていた。目の前には、いつもと変わらない朝食が並んでいる。焼き魚に味噌汁、炊き立ての白いご飯。神崎家の朝食としては、何一つ変わったところはない。それなのに、壮真には味がほとんど感じられなかった。頭の中を占めているのは、昨夜のことだった。昨夜、壮真の弟である和真と、雪乃の息子である康太のDNAの鑑定報告書が、九条の家で公開されたことまでは知っていた。問題は、その結果だった。鑑定結果がどう出たのか。玲司がそれをどう受け止めたのか。そして――和真が康太をどうするつもりなのか。壮真は何度も時計へ視線を向けた。「……まだか」思わず小さく呟いてしまう。玲子から報告が来るはずだった。今回のDNA鑑定でも、先回と同じようにあいまいな結果になっていればいい。いや――。壮真にとっては、それが最も都合がよかった。もしも和真との親子鑑定が、完全に否定も肯定もできない結果になっていれば、康太と和真の親子関係を追及することができる。そして、もし和真がそれを認めれば――。康太を認知すれば――。神崎家にとって、再び鷹宮財閥との繋がりを利用する道が開ける。「……そうなれば」壮真は、無意識に拳を握った。鷹宮財閥。その名前が持つ信用と資金力は、今の神崎家にとって、神崎グローバルトレーディングにとって、喉から手が出るほど欲しいものだった。和真が鷹宮の後継として正式に動くようになれば、神崎家との関係も無視できなくなる。その時は、康太を利用すればいい。そう考えた瞬間、壮真の胸の奥に、わずかな罪悪感が生まれた。――康太は俺の息子なのに。その思いが一瞬だけ浮かぶ。だが、壮真はすぐにその感情を押し込めた。今はそんなことを考えている場合ではない。会社を守ることが先だ。神崎家を守ることが先なのだ。「玲子なら、うまくやる……」自分に言い聞かせるように呟く。だが、その結果を玲子が報告してくるハズが、昨夜は連絡がなかった。それが壮真には妙に引っかかっていた。玲子は、何かあるとすぐに連絡を寄越してくる。それなのに昨夜は何もなかった。――まさか。悪い結果だったのか?それとも、何か別の問題が起きたのか。壮真は箸を置くと、フーっと息を吐き出した。考えれば考えるほど、不安が膨らんでいく。
和真は玲司の顔を見ると、神妙な顔で頷いた。その表情には、戸惑いと覚悟が入り混じっていた。つい先ほどまで、自分が鷹宮の当主になるなど、現実のこととして考えてはいなかった。心春との子供が生まれ、その時が来たら――。それくらいに考えていたはずだった。だが、綾乃の言葉はあまりにも突然だった。今日から、自分が鷹宮を背負う。その重みが、じわじわと胸の奥に沈んでいく。けれど、玲司の目を見れば分かった。そこには反対する意思はない。むしろ、父親としてではなく、一人の男として自分に鷹宮を託そうとしている。和真は小さく息を吐き、もう一度、しっかりと頷いた。玲司はそれを見ると、今度は美玲の方を見た。美玲は玲司を一瞥すると、雪乃の方へ向き直った。その目には、先ほどまでの怒りとは違う、強い決意が宿っていた。雪乃は何を言われるのか分からず、緊張した面持ちで美玲を見つめる。そして、美玲は静かに口を開いた。「私は壮真と離婚するわ。雪乃、あなたはどうしたい?」その言葉に、雪乃は息を呑んだ。まさか、壮真の妻である美玲自身から、そんな言葉を聞くことになるとは思ってもいなかった。離婚――。その一言の重さに、雪乃の胸が締め付けられる。自分が望んだわけではない。それでも、壮真との過去が、そして康太の存在が、これほど大きな問題になってしまったことへの罪悪感が消えることはなかった。雪乃はすぐに答えることができず、ただ美玲を見つめていた。その頃。ホテルのスイートルームのような自宅で、和真と康太のDNA鑑定の結果報告を待っていた。広々とした部屋。高価な家具。大きな窓から見える夜景。どれも玲子が手に入れてきた華やかな生活の象徴だった。けれど今の玲子には、そのすべてが落ち着かない。一ノ瀬生命科学総合研究所が出した鑑定結果。それを壮真の目に触れる前に握りつぶさなければならない。もし、壮真と康太の親子関係が証明されてしまえば――。玲子がこれまで築き上げてきたものが、一瞬で崩れてしまう。玲子は少し焦っていた。壮真がまた雪乃を選んでしまうのではないか。そして今度こそ、康太を自分の子供として認知すると言い出すのではないか。そんな不安を、どうしても拭い去ることができなかった。「そんなこと……絶対にさせない……」小さく呟きながら、玲子は部屋の中を行ったり