ログイン「検査の結果、神崎様は脳出血を起こされていることがわかりました」医師の説明に、壮真は息を呑んだ。「脳出血……?」思わず聞き返した声は、自分でも驚くほどかすれていた。脳出血。その言葉が頭の中で繰り返される。昨夜まで、父はいつもと変わらず、自分を怒鳴りつけていた。神崎家の将来をどうするつもりなのかと責め立て、こちらが何も言い返せずにいると、さらに声を荒らげた。あのときの父は、いつも通りの父だった。威圧的で、気が短く、自分の考えが絶対だと信じて疑わない。どれほど年齢を重ねても、その迫力が衰えることはないのだと思っていた。それなのに、今は病院のベッドに横たわり、意識すら戻らないかもしれないという。壮真は、目の前に立つ医師の言葉を聞き逃すまいと、必死に意識を集中させた。「以前から高血圧があった可能性も考えられます。ご高齢であることも含め、血管に負担がかかっていたのかもしれません。現時点では出血の影響が大きく、予断を許さない状態です」高血圧。言われてみれば、父は若い頃から仕事に没頭し、食事も酒も好きなように楽しんできた。健康を気遣うよりも、財閥を大きくすることや、自分の思い通りに物事を進めることを優先していた。周囲がどれほど心配しても、父は聞く耳を持たなかっただろう。自分の身体さえ思い通りにできると、どこかで信じていたのかもしれない。そんな父が、病気によって倒れた。壮真は、ようやく目の前にある現実を理解し始めていた。「父は……助かるんですか?」問いかけた声が震えた。医師はすぐには答えず、厳しい表情のまま続けた。「今は出血の状態と意識の回復を慎重に見ていく必要があります。残念ながら、現段階で回復の見通しをお伝えすることはできません」その言葉を聞いた瞬間、壮真の顔から血の気が引いた。回復の見通しが立たない。つまり、命が助かるかどうかさえ、まだわからないということだ。「……そんな」声にならない言葉が、喉の奥で消えた。父は、いつも自分より強い存在だった。どれほど怒鳴られても、どれほど責められても、神崎家の頂点に立つ父が倒れるなど、考えたこともなかった。父の言葉は絶対だった。幼い頃から、壮真は父に逆らうことを許されず、何かを決めるときにも、自分がどうしたいかより、父が何を望んでいるかを考えてきた。父の機嫌を損ねないように振る舞
翌朝。父・神崎正蔵が倒れ、病院に搬送されたという知らせを受けた和真は、急いで病院へ駆けつけた。昨夜、父が倒れたことは聞いていた。しかし、詳しい容体まではわからず、胸の中には不安が渦巻いていた。普段は厳格で、誰に対しても威圧的な父。和真にとっても決して気楽に接することのできる相手ではなかったが、それでも実の父親であることに変わりはない。どうか無事でいてほしい。そう願いながら、和真は足早に集中治療室へ向かった。廊下に到着すると、ガラスの向こうに、いくつもの管を繋がれた正蔵の姿が見えた。その光景に、和真の足が一瞬止まる。いつもなら、こちらを見ただけで威圧するような眼差しを向けてくる父が、今は目を閉じたまま、ベッドに横たわっている。その姿は、和真が知っている父とはまるで別人のようだった。そして、そのガラスの前に立ち、正蔵を見つめ続けている人物がいた。兄の壮真だった。「兄さん!」和真は安堵と心配の入り交じった気持ちで声を掛け、兄のもとへ駆け寄ろうとした。だが、その瞬間だった。呼びかけに反応して振り返った壮真の顔には、和真が予想していたものとはまるで違う、激しい怒りが浮かんでいた。「和真!!」次の瞬間、壮真は拳を振り上げ、和真に向かってきた。「―――!?」突然のことに驚きながらも、和真は反射的に壮真の腕をつかんだ。その勢いを利用して相手の動きを封じると、背中に腕を捻り上げた。「ッ―――」壮真が苦痛に顔を歪める。しかし、和真は手を緩めなかった。ここは病院だ。しかも、すぐ目の前には集中治療室がある。大声を出したり、暴れたりしていい場所ではない。和真は兄の動きを制止したまま、ガラスの向こうにいる父の姿へ視線を向けた。「兄さん、落ち着いてくれ」できるだけ冷静に、そう告げた。父の容体が心配なのは、壮真だけではない。和真だって同じだった。それなのに、病院へ駆けつけた弟に対して、兄は拳を振り上げてきたのだ。いったい、何を考えているのか。和真には理解できなかった。だが、その言葉を聞いた瞬間、壮真はさらに激しく抵抗し始めた。「父さんが倒れたのは誰のせいだと思っているんだ!?和真!!お前のせいだろうが!!」病院中に響き渡るような大声だった。壮真の顔は怒りで赤く染まり、目には責任を追及する相手を見つけたことへの執念さえ浮かんでいた
壮真が俯いたまま、何も言わずにいる。その態度を目の当たりにした正蔵の怒りは、ついに沸点へと達した。最初は、落ち着いて息子の言い分を聞いてやろうと思っていた。どれほど腹立たしい失態であろうとも、まずは本人の口から事情を説明させる。それが神崎家の当主として、そして父親としての自分の役目だと考えていたのだ。だが、目の前の壮真は一向に口を開こうとしない。視線を落とし、両手を膝の上で落ち着きなく動かすばかり。まるで叱責が過ぎ去るのを、ただひたすら待っているかのようだった。もともと気の短い正蔵にとって、その沈黙は耐え難いものだった。「壮真!!いつまで言い訳を考えているつもりだ!?言い訳なら聞いてやるから、早くお前の口から離してみろ!!」正蔵は目の前のテーブルを、手でバンバンと叩きながら怒鳴った。激しい音が部屋中に響き渡る。壮真の肩がビクッと跳ねた。反射的に背筋を伸ばしかけたものの、父親の鋭い視線を感じた途端、再び身体を縮こまらせてしまう。「……っ」何か言わなければならない。頭ではわかっていた。けれど、喉が詰まったように声が出てこない。何を話せばいいのか。どこから説明すればいいのか。そもそも、自分の口から何かを説明したところで、父が納得するとは思えなかった。幼い頃から、壮真は父親の顔色を窺って生きてきた。神崎家の長男として生まれ、いずれは家を継ぐ者として育てられた。勉強も、習い事も、交友関係も、将来の進路さえも、正蔵の意向が最優先だった。自分が何をしたいのか。何を望んでいるのか。そんなことを口にする機会は、ほとんどなかった。父の命令に従い、父が望む結果を出す。それが長男である自分の務めなのだと、いつしか疑いもせずに受け入れていた。逆らえば怒鳴られる。反論すれば、さらに厳しく責められる。何かを決めるときでさえ、自分の考えを貫くより、父が望んでいる答えを探す方が確実だった。そうしているうちに、壮真は自分自身の意思を表に出すことが、ひどく苦手になっていた。五十歳を超え、神崎家の長男として会社の経営を任される立場になった今でさえ、父の前に座ると、心の奥底に押し込めてきた恐怖が蘇る。目の前にいるのは、会社の後継者としての自分を責める父親であると同時に、幼い頃から一度も逆らえなかった絶対的な存在だった。その姿を見た正蔵は、さらに激昂した。
夜更けの神崎本邸に、一台の車が滑り込んできた。車から降りた壮真は、出迎えた使用人の言葉も聞かず、玄関を通り抜けると、父親の部屋へ向かって足早に歩き始めた。その表情には、疲労と苛立ちが色濃く浮かんでいた。鷹宮財閥の当主交代パーティーで受けた屈辱は、時間が経っても消えるどころか、思い出すたびに怒りとなって込み上げてくる。和真の態度。美玲の嘲笑。そして、何もかも見透かすような九条玲司の冷たい眼差し。思い返すだけで、奥歯を噛みしめたくなった。だが、今の壮真には、それらの怒りをぶつける相手がいなかった。美玲には相手にされず、和真には拒絶され、玲司の前では言い返すことすらできなかった。その鬱憤を抱えたまま、壮真は父親のもとへ向かっていた。自分を呼びつけたのは、ほかでもない父・正蔵だ。夜遅くにわざわざ呼び出したのだから、何か言いたいことがあるのだろう。そう考えながらも、壮真の胸には、幼い頃から染みついた緊張が少しずつ広がっていた。父の前では、いつだってそうだった。どれほど自分が大人になろうと、会社の社長という立場を得ようと、正蔵の前に立てば、結局は息子としての自分に戻されてしまう。「壮真様!! 大旦那様はすでにお休みになっています。呼べと言われたのは大旦那様ですが、今夜はもう遅いですし………」後ろから追いかけてきた使用人が、困り果てた様子で声を掛けた。しかし、壮真は振り返りもしなかった。「うるさい!わかっている!!」使用人の言葉に、そう怒鳴りつけ、ただ歩き続ける。父に呼ばれた以上、行かないわけにはいかない。それが神崎家の長男として、幼い頃から叩き込まれてきた習慣だった。やがて、父親の部屋の前にたどり着いた壮真は、ためらうことなくドアを大きな音を立ててノックした。「お父さん! 起きてください!!」廊下に響き渡る声。使用人が慌てて止めようとした、そのときだった。ドアが、スッと開いた。そこに立っていたのは、ローブを羽織った正蔵だった。「お父さ―――!?」壮真が言いかけた瞬間。バチンッ!!乾いた音が、静まり返った廊下に響き渡った。正蔵の平手打ちが、壮真の頬を容赦なく打ち据えたのだ。顔が横を向くほどの勢いだった。壮真は何が起きたのか理解できず、しばらくその場に立ち尽くした。頬がじんじんと熱を持ち、遅れて痛みが広がって
パーティー会場を怒りに満ちた様子で後にする壮真の姿を、雪乃は静かに見送っていた。先ほどまで、壮真は大勢の招待客の前で声を荒らげ、美玲に詰め寄っていた。和真に掴みかかり、玲司に制止され、最後には周囲の視線から逃げるように会場を去っていった。かつて、自分が愛した男。そして、康太の実の父親。それなのに、今の雪乃の心には、壮真に対する未練も、会いたいという思いもなかった。ただ、あの男が再び自分たちの生活に入り込んできたら―――。そんな不安が、一瞬だけ胸をよぎった。けれど、雪乃はすぐに小さく首を振った。もう、過去に縛られる必要はない。そう思えるようになったのは、先日、九条ホールディングスの会長室で起こった出来事があったからだった。「美玲さんの申し出を受けるとすると、私と康太はそれ以降、親子の縁が切れてしまうのでしょうか?」震える声で問いかけた雪乃を、美玲は九条ホールディングスへと連れて行った。当時の雪乃は、美玲から康太を養子に迎えたいと告げられ、頭の中が不安でいっぱいだった。康太の将来を考えれば、美玲の申し出は願ってもない話だった。名門の神崎財閥で育つことができれば、今までとは比べものにならないほど恵まれた環境を与えられるだろう。けれど、それと引き換えに、康太を失うことになるのではないか。十年間、苦労しながら育ててきた、かけがえのない息子。たった二人で必死で生きて来た、かけがえのない息子。自分のすべてと言ってもいい存在だった。その康太と、二度と一緒に暮らせなくなるのだとしたら―――。雪乃には、到底、受け入れられることではなかった。九条ホールディングスの会長室で、雪乃は法務部に所属する弁護士、樋口から、今回の「美玲と康太の養子縁組」について説明を受けた。専門的な内容も多かったが、樋口は雪乃の不安を一つずつ解きほぐすように、丁寧に話してくれた。そして、玲司からも助言があった。「康太の将来を守ることと、雪乃が母親でなくなることは、必ずしも同じではない」そのことを理解したとき、雪乃の心を覆っていた暗雲が、少しずつ晴れていった。さらに、自分も康太と離れて暮らす必要はないと告げられた瞬間、雪乃はとうとう堪えきれなくなった。張り詰めていたものが、一気に切れたのだ。涙が溢れ、声を上げて泣き崩れた。康太を手放さなくてもいい。あの子の母
鷹宮財閥の当主交代パーティーで起きた騒ぎは、その日のうちに政財界へと広まっていた。会場に居合わせながら騒動に気づかなかった者たちも、パーティーが終わる頃には、その詳細を耳にすることになった。何しろ、鷹宮財閥の当主交代という一大行事である。政財界の有力者たちが一堂に会するこのパーティーには、業界でも名の知られた記者たちも招かれていた。会場の入り口を通った者なら、誰もが気づいていたはずだ。正面玄関付近には、招待客を出迎えるスタッフに交じり、政財界御用達の記者やカメラマンたちの姿があった。もちろん、彼らも最初からゴシップ記事を書くために来たわけではない。今日の主役は、長年にわたり鷹宮財閥を率いてきた鷹宮正隆と、新たに当主の座を引き継ぐ鷹宮和真だ。財界の勢力図にも影響を及ぼす可能性のある世代交代。その背景や、今後の鷹宮財閥の経営方針について、どのような発言が飛び出すのか。記者たちは、それぞれの取材目的を胸に会場へ入っていた。ところが―――。パーティーが始まり、和真が正式に当主就任を発表したあと、会場の一角で思いがけない騒ぎが起こった。最初に異変に気づいたのは、会場内を見渡していたカメラマンだった。「……おい、あそこ。神崎社長じゃないか?」カメラマンは、グラスを手にしたまま、会場前方の中央付近へ視線を向けた。神崎壮真が、何やら険しい顔で和真に詰め寄っている。その周囲には、鷹宮家や九条家の人々、そして壮真の元妻である神崎美玲の姿もあった。「何か揉めてるのか?」隣にいた記者も、すぐにそちらへ目を向けた。最初は、親族間のちょっとした意見の食い違いだと思った。だが、壮真の表情は明らかに険しく、和真も一歩も引いていない。周囲の招待客たちも談笑をやめ、二人の様子を窺っている。これは、ただ事ではない。記者の胸の内で、取材者としての勘が働いた。「ちょっと待て……。鷹宮、神崎、それに九条までいるぞ」記者は、会場の奥に立つ九条玲司の姿を確認した。財界でも別格の存在感を持つ玲司が、わざわざ騒ぎの場に姿を現している。つまり、単なる兄弟喧嘩では済まない何かが起きている可能性があった。「おい、カメラ。撮れるか?」「もちろんだ」カメラマンは、すでにカメラを構えていた。普段なら、こうした公式行事で無闇にシャッターを切ることはしない。主催者側との関係も