LOGINそうして、飛行機の予定時刻まで、ふたりはラウンジでゆっくりと会話を楽しむことにした。テーブルには、それぞれ好きなものをビュッフェから持ってきており、音川は一口サイズのケーキをいくつか、泉は数種類のコールドサラダに牛肉の煮込みと、アメリカンなセレクトだった。音川は泉の帰国便を自分と同じフライトに変更し、イーサンには「彼を連れて帰る」とだけメールで知らせておいた。彼が社に対して行ったことと同じような通達のみになるが、泉が残っても、イーサンに利用されるだけであると判断した。そもそも、本来の研修内容はすでに修了しており、会社間において実害は何もなければ、文句を言われる筋合いも無かった。「かわいいね」音川は塊肉をもぐもぐと頬張る恋人を見つめながら、そう呟いた。「リスみたいで、ですか」「ううん。きみが。可愛くてたまらない」「んぐ」泉は急いで水を飲み、むせそうになった呼吸を整える。「どうしたんです?急に……」「もう口をつぐんでおく必要がないのであれば、言いたい時に言う」「……それ、僕も同じことしていいですか?」音川はそう返され、視線を合わせたまま微かに首を傾げた。「俺に可愛い要素があるならな」「眼の前に甘いものを並べてニコニコしている音川さん、可愛い要素しかないです」今度は音川が声に詰まる番だった。「……ただの甘党です」泉がクスクスと笑い、「音川さんはかっこよくて可愛いです」とまっすぐに目を見つめたまま言うと、音川は小さく唸り声を上げて、後頭部に手をやった。その照れる様子がめずらしく、泉は目を細める。まもなくして、搭乗ゲートが開いたとアナウンスがあった。「そうだ」並んで機上の人となって幾時間も経たずに、音川は思いついたように、自分の左手首から腕時計を外すと、「俺だと思って持ってて」と泉の手首に巻き付けた。ブレスレットの留め具を抑える衝撃に少し顔を
部屋に入りドアを後ろ手に閉めるなり、音川は泉を抱きしめた。頭に顎を軽く乗せ、ふわりと柔らかな髪の毛に顔を埋めて軽く深呼吸をする。 その上下する肺に、泉は頬を寄せた。「メールありがとう。とても嬉しかった。何度も、読み返したよ」泉は、胸部に響く深い声に身体を震わせる。 このままずっとこうしていたいと思ったが、ふっと足が地面から浮いて、音川に持ち上げられるようにしてベッド脇まで押され、その場に座らされる。 床から天井まで伸びるガラス窓に沿って置かれたベッドは、まるでマンハッタンの夜景の中心に浮いているかのようだ。 泉は少しだけ足がすくむのを感じた。 それは、高所にいるための本能的な恐怖だけでなく、これから起ころうとしていることへの、期待と——少しの不安も混じっていた。 泉は油断すると震えそうになる身体にきゅっと力を入れ、歯を食いしばる。「どうした?神妙な顔して」音川はそんな泉の様子を少し気にして、ジャケットを脱ぎながら尋ねた。 そんな仕草ですら、泉の目線を捉えて離さない。「あ……いえ。音川さんが、いつもより素敵で……スーツ姿、初めてだなと」「ああ、うん」「仕事のついで、とか……?」音川は鼻で笑い、向かいに布張りの椅子を引っ張ってくると、どかりと腰を下ろした。「なわけねぇだろ」音川は、泉の手をそっと持ち上げて、自分の両手を重ねた。「……あんなメール貰って、家でじっとしてられるかよ。きみが欲しいと言ってくれたものを、持ってきたんだ」肺を空気で満たし、たくましい胸が上がる。「泉。遅くなって、本当に申し訳ないと思っている。……俺は、上司であることを理由に、気持ちを抑え込んで……愚かなことだった。告白してもらうまで、そんなことにすら気が付かなかった。こんな男でよければ……俺は、きみの恋人になりたい」泉の身体を、歓喜の波が覆った。 全身が湧き立つような熱に包まれて、何も考えられなくなる。 ただ、嬉しい。それだけが、身体の奥から溢れ出して止まらない。 微かに震える身体で音川の手をしっかりと握り返し、グリーンに輝く瞳に目線を合わせる。 目元は情熱をはらんで力強く、しかし瞳の奥には微かな不安の影が揺れているようにも見えた。 泉は、握った手を自分の口元に持っていき、音川の手の甲に口づけた。「はい……。これからは恋
出発時刻とほぼ同時刻にJFK空港に降り立った音川は、時差のせいでこのフライト時間がゼロになることに少々不満を覚えた。運良くビジネスクラスに空席があったが、あまり眠れないたちだから長時間のフライトはそれなりに辛い。入国手続を通過し、タクシーに乗り込んで行き先を指定する。地図によれば、泉が滞在しているホテルまで30分程度で着くはずだ。高屋から入手した研修計画書によれば、すでに今日の行程は1時間以上前に終わっている。ホテルに到着した音川は、周りには目もくれずにつかつかとレセプションに向かい、自身の予約を告げてチェックインを申し出た。対応の女性スタッフは端末を確認しながら、「NYCをたった1泊で終わらせるなんて」と笑顔で冗談を投げかける。それに微笑を浮かべて、「しかも、1泊3日で東京NYの往復だと言ったら?」と返すと、彼女は「オーマイゴッド!」とアメリカ文化のステレオタイプさながらに大きな反応を見せてくれ、音川は笑みを強めた。カードキーで部屋をアンロックし、とりあえずシャワーを浴びて冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出した。非常によく冷えた液体が、頭の芯から身体を巡ってリフレッシュを促すようだ。しかし、それは音川の内心に付いた火を消すには至らない。ここまで突き動かされたのは一重に、堪えきれないほどの泉への恋心だった。音川はフライトの疲れが顔に出ていないか確認しながら身繕いをし、持参したスーツに着替えた。ノーネクタイだが、上質なシルクは引き締まった長駆と相まって品位を高める。鏡に、泉のために整えられた音川の姿が映る。無頓着な美貌に本人の意図が加えられたことで、その姿には、神々の彫像にも似た威厳が与えられていた。ゆるいウェーブがかった前髪は後ろへ撫でつけられ、カラスの羽のように艷やかで、白いドレスシャツから覗く喉元からは男の色香が立ち上る。肩幅は広く、腰は引き締まり、衣の下に潜む彫刻のような肉体を容易に想像させる。瞳は新緑のグリーンに輝き、視線を向けられた者はその鋭さに息を呑むだろう。だが音川の美は、冷たく遠いものではない。美貌というには生々しく、肉体というには洗練されていて&m
音川は遅い夏季休暇を申請し、副業であるAI開発に昼夜を忘れて没頭していた。泉がNYに発って1週間が過ぎようとしていた。 結局、出張について本人から聞かされていないままであったが、音川はそれを責める気など皆無で、ただ事実を受け入れていた。——平静なのか、と尋ねられれば、決してそうではない。 だから、休暇を申請してまで開発に没頭しているのだ。彼が音川に知らせなかった意味について、考える隙を自分に与えないために。リビングの窓を開け放し、どこか哀愁をはらんでいる夕暮れの風に吹かれながらソファに身体を沈め、視線は、コーヒーテーブルに置いたノートパソコンの画面に落とされていた。傍らには愛猫のマックスが背中をぴたりとくっつけて眠っている。 ようやく、泉が帰って来ないことを学習したようで、最近はドアの方向を向いて待ち続けることも少なくなった。音川は画面から視線を外して窓の外を見てみるが、どうしてもすぐにまた目が戻る。——そこには泉から届いたメールが、未読のままでおかれてあった。公私問わず返信を引き伸ばさない習慣を持つ音川であるが、今朝、個人のアドレス宛に届いたこのメールだけは、まだ開くことができずにいる。 しかし——読まずに削除する、という選択肢はありえない。音川はことさら大きく息を吸い込んで、ゆっくりと吐き出してから、そのメールにカーソルを滑らせ、クリックした。メールを開いた瞬間、音川の心臓が、ゆっくりと軋むように動いた。 息をするのも忘れて、指先がわずかに震える。 読み終えるまで数分かける。 一行ずつ、噛みしめるように読んで、読み終えた頃には、もう一度最初から読み返していた。 ——画面の光が滲んで、文字が霞む。 音川さん今、ホテルの部屋で、このメールを書いています。やっぱり言っておけばよかったと、いまさら後悔しています。 出張のことも、僕がそれを話せなかった理由も、全部。 ですが…… 音川さんの目に、独りで突き進んでしまっている自分がどう映るのか。 どこまで、音川さんの過
部屋のドアをノックする音がしたのは、泉が今日の研修の内容を整理し終えたちょうどそのときだった。「……どなたですか?」ドア越しに声をかけると、陽気な英語の返事が返ってくる。「Dinner delivery from a concerned colleague. Open up, Izumi.」泉は一瞬、言葉を失った。わざわざ届けに……?訝しげにドアを開けると、昼間と同じスーツ姿のイーサンが紙袋を片手に、にこやかに立っていた。「ちょうどこの時間、小腹が空く頃だと思ってね。 日本と違って、こっちは夜の始まりが早いから」彼は勝手知ったる様子で部屋に一歩踏み込もうとし――泉が無言で体を一歩引く。その動きを見て、イーサンは立ち止まり、苦笑いのような表情を浮かべた。「そんなに警戒しなくても」「……夜、部屋に男性を入れるなと言ったのはあなただったように思いますが」「うかうか訪れて行くのを止したほうがいい、と忠告したまで」イーサンは近くの高級デリで購入してきたラップサンドとクラフトビールが入った紙袋をテーブルに置きながら、まるでジョークのように肩をすくめた。「その気なら、こんな仕事帰りの姿でビールぶら下げて来たりしないさ。きちんと花束を持って、良い店に誘いに来るよ。それに、オトカワから遠く離したことを利用して、手を出そうなんて思っちゃいない」「それなら……いいです。でもわざわざ……」泉は眉をひそめながら、内心では、自分の居場所を気にかけてくれる存在が今、ここにいることに気づいていた。「近くを通ったんでね。それに正直に言うと——君に会わずに、今日を終わらせたくなかった」その言葉に、泉の心は小さく波立った。どう返せばいいのか、わからない。ストレートな言葉が、胸に踏み込んでくる。イーサンはビールの蓋を開け、泉のグ
「ふーん。悶々としてるのは、格好つけて帰ってきたからか」ヒューゴは目を細め、カウンター越しにからかうような声を投げかけた。「うるさい」音川はラムのボトルをおろして、カウンターの端でヒューゴ相手に飲んでいた。 高屋から誘われてヒューゴの店に夕飯がてら飲みに来てみたら、根堀葉掘りとあれこれ聞かれ、週末に東京へ足を運んだことや、泉との心の交流について洗いざらい吐かされてしまった。 ヒューゴが寡黙なバーテンダーでいられるのは、どうやら一般客に対してだけらしい。元々はかなりの話好きで、水商売の聞き上手も兼ね備えている。 音川はポーランドの大学に居た頃に知り合ったスウェーデン人たちを思い出していた。周辺国と比べると北欧人らしさは薄いが、物事の捉え方や価値観の傾向については、ドイツやフランスといった中央の人々よりヨーロッパ的思考の持ち主が多い印象だ。論理や理屈を重視し、平等と透明性を尊重する音川にとって、彼らとの付き合いは心地の良いものだった。 しかし、個人よりも周囲との調和を保とうとする日本人としては、時に行き過ぎた個人主義に出会うと疑問を抱くこともあった。それでも、同調圧力に屈するより遥かにマシだが。 その点、ヒューゴは日本育ちのためか協調性と個人主義のちょうどよいバランスを保っており、同じくどちらも理解できる音川は、彼との会話に並々ならぬ気安さを感じていた。「あのね、クバ。君みたいな顔なら、これまでは誰かを口説く必要なんてなかったんだろうけど……今の状況を考えるとね」「分かってるよ。泉が部下じゃなければ……あの場で抱いてる」「いいねぇ。そうやって苦悩しながら独りで飲んでくれていると、クバ目当ての客が増える一方だ。最高のロックフォーゲルとしてチップを渡さなければいけないな」「『サクラ』っつーんだよ日本語では。君ら狩猟民族と違ってこっちは情緒があるだろ」「50%だけのくせに、言うね」音川は向かいでグラスを拭いている北欧貴族のようなバーテンダーに目をやり、薄く笑った。礼儀正しい日本人相手では出てこないジョークだ。「俺もお前も、心は100%日本人だよ」