LOGINいつから待っていたのだろう。金城麗華と帰ったはずでは……。
それに、どうして、この場所が分かったのだろう。私はこのマンションの場所を雅臣にも雅臣の会社の人にも教えていないのに……。
雅臣は少し疲れたような顔をしているのに、その瞳を鋭くギラつかせていた。
――怒っている。
ゆっくり私へ歩み寄ってくる雅臣に、私は思わず一歩後ろへと足を退いた。
「ようやく見つけた。どうして逃げるんだ」
その言葉に、私は首を横へ振る。
心臓がバクバクとうるさい。私は手に持っている鍵をぎゅっと強く握りしめた。
雅臣が小さく溜め息を吐く。
「どうしてあんなことをした。麗華が、どれだけ恥をかいたと思ってる」
雅臣から吐き出される低い声。そして私を睨むように見つめる瞳。私は乾く喉に、唾を飲み込んだ。
(ああ……この人が怒っている理由は…&hellip
新しい部屋へ引っ越したのは、珠理奈が帰国してから三日後のことだった。 奏介くんが管理会社と引っ越し業者に掛け合ってくれて、とても早く移り住むことができた。 奏介くんの住むマンションの、彼の部屋のすぐ隣。以前の部屋よりも少し広いそこは、窓から柔らかな陽射しが差し込む、明るい部屋。「先輩、この段ボールはどこに置きますか?」 玄関から大きな段ボールを抱えて入ってきた奏介くんが、私を振り返る。【それは寝室にお願い】「分かりました」 奏介くんは軽々と段ボールを持ち直すと、寝室へと向かっていった。 引っ越し業者が大きな家具を運び終えたあとも、奏介くんと珠理奈は残って荷解きを手伝ってくれている。 私も小さな段ボールを持ち上げようとすると、すぐに奏介くんが戻ってきた。「あ、それも俺が運びますよ」【大丈夫。これくらいなら私にも持てるよ】 そう伝えると、奏介くんは一瞬だけ困ったような顔をしたあと、ふっと笑った。「……そうですね。じゃあ、俺はあっちの重いほうを運びます」 私は頷き、段ボールを抱えた。 奏介くんは、いつも私を気遣ってくれる。 でも、私が自分でやりたいと伝えたことを、無理に取り上げたりはしない。 そんな何気ないことが、今はとても嬉しかった。「ねえ、彩羽。この食器はどこにしまう?」 キッチンから珠理奈の声が聞こえる。【上の棚にお願い】「了解!」 珠理奈は手際よく食器を片付けながら、楽しそうに鼻歌を歌っていた。 その姿を見ていると、なんだか私まで楽しくなってくる。 新しい部屋。 新しい生活。 まだ不安がなくなったわけではないけれど、こうして二人と一緒にいると、少しずつ前を向ける気がした。◇ 午後になり、ようやく段ボールの数が減ってきた頃。「じゃあ、私はそろそろ行くわね」 珠
玄関の扉が閉まってから、どれくらいの時間が経ったのだろう。 私はリビングのソファに座ったまま、膝の上で両手を握り締めていた。 雅臣と金城麗華はもう帰ったのか、とても静かだった。 それなのに、今にも玄関のチャイムが鳴るのではないかと思うと、落ち着かなかった。「……彩羽先輩」 名前を呼ばれ、顔を上げる。奏介くんが、私の前に膝をつき、心配そうな顔で私を見つめている。「頭、まだ痛みますか?」 私は小さく首を横に振る。けれど、奏介くんは険しい顔を崩さなかった。「さっき、頭を打っていましたよね。念のため、病院へ行きましょう」【でも……】「大丈夫だと思っていても、あとから症状が出ることがありますから」 穏やかな声だったけれど、その表情は真剣だった。 私は少し迷ってから、頷いた。◇ 病院で診察を受け、大きな異常は認められないと説明された頃には、すっかり夜も更けていた。 奏介くんに送ってもらい、再び部屋へ戻る。 玄関の鍵を閉めた途端、ほっとしたはずなのに、ドアノブから手を離せなかった。 またあのふたりが来るかもしれない。 そう思うだけで、息苦しくなってしまう。「彩羽先輩。やっぱり、ここを離れませんか」 靴を脱ごうとしていた奏介くんが、静かに口を開いた。 私は驚いて顔を上げた。「今日みたいなことが、また起きないとは限りません」 奏介くんは一度言葉を切り、私を見つめ、続ける。「俺の住んでいるマンションで、隣の部屋が空いているんです。よかったら、そこへ移りませんか」【……隣?】「はい。何かあっても、すぐに駆けつけられますから。一緒に住むことは難しくても……せめて」【……それでも、奏介くんに、迷惑が……】 私は躊躇いがちに手を動かす。「迷惑だったら、こんな提案しませんよ」すぐに返ってきた言葉に、私は手を止めた。
――私、妊娠してるの。 麗華から告げられたその言葉が、雅臣の頭の中で何度も繰り返されていた。「妊娠……?」 雅臣は、麗華の細いお腹へと視線を向けたきり、黙り込んでしまっている。「……雅臣?」 不安そうに名前を呼ばれ、雅臣はハッと我に返った。「……ああ。すまない。とにかく、ここを出よう」 麗華の背中を支えながら、マンションの廊下へと出る。 彩羽の部屋の扉は、固く閉ざされたままだった。その向こうに、彩羽と白鳥奏介がいる。 先ほど見た光景が、脳裏をよぎる。白鳥の腕に抱き上げられた彩羽。自分には見せたことのないほど、無防備に身を預けていた姿。 麗華のお腹に宿っている小さな命よりもなぜか彩羽のほうが気になり、胸の奥がひどくざわついた。「雅臣……。お腹が、まだ少し痛いの」 麗華が小さく呟き、雅臣に体を預けるように寄りかかった。「病院へ行かなくて大丈夫なのか?」「大丈夫よ。少し休めば落ち着くと思うから」「……分かった。すぐに車を回す。今日は俺の家で休もう」 雅臣は、扉が開けられることのない彩羽の部屋をもう一度振り返ったが、すぐに麗華へと視線を戻し、彼女の体を支えながらマンションを後にした。◇ 自宅へ戻ると、雅臣は麗華をリビングのソファへ座らせた。「少し待っていろ。温かいものを持ってくる」「ありがとう」 麗華は嬉しそうに微笑んだ。 その笑顔に見送られながら、雅臣はキッチンへと向かう。 しかし、そこで足が止まった。「……どこだ?」 戸棚を開ける。皿やグラスは整然と並んでいる。別の引き出しには、調理器具が収められていた。 だが、茶葉が見当たらない。 紅茶くらい、どこかにあるはずだ。 雅臣は次々と戸棚を開けていくけれど、それでも、見つからない。「……ちっ」 小さく舌打ちが漏れた。 こんなとき、彩羽がいれば。 いつもなら、帰宅してソファへ腰掛ける頃には、温かい飲み物が用意されていた。 胃が弱い雅臣のために、刺激の少ないものを選んで。 仕事で疲れているときには、蜂蜜を入れた飲み物を出してくれたこともある。 だが、それがどこにしまわれているのか、雅臣は知らなかった。「……まったく。彩羽はいつまで意地を張るつもりなんだ」 彩羽が家を出てから、何もかもが面倒になった。 食事も、洗濯も、身の回りの細かなことも、今まで気にす
扉を開けた先に立っていたのは、雅臣と金城麗華だった。 心臓が大きく脈打つ。「……どうして」 掠れた声が漏れる。雅臣は私を見るなり、小さく息を吐いた。「彩羽、迎えに来たぞ。そろそろいいだろう。一緒に帰ろう」 その声は、まるで何事もなかったかのようだった。「麗華も彩羽と仲直りしたいそうだ。だからこうやって一緒に来てくれた」雅臣が麗華を見て微笑む。私は二人を交互に見てから、ゆっくり首を横に振った。「……帰らないわ」 掠れた声で短くそう答えた、そのときだった。「彩羽先輩?」 部屋の奥から奏介くんの声が響く。 その声が聞こえた瞬間、雅臣の表情が一瞬にして険しくなる。 リビングから姿を現した奏介くんは、玄関先に立つ雅臣と金城麗華を見ると、一瞬だけ目を見開いた。「……桜小路さん」 雅臣は奏介くんを見据えたまま、低く呟く。「……どうして、お前がここにいるんだ」 その場の空気が、一瞬で張り詰めた。奏介くんは落ち着いた様子で私の隣に立つと、「今日は、リハビリセンターから彩羽先輩を送ってきただけです」 それだけを淡々と告げる。雅臣は眉間に深い皺を寄せた。「送る?」「はい」「送るだけで、部屋の中まで上がるのか?」 その言葉には、あからさまな疑念が滲んでいた。 私は慌てて首を振る。「……私が、お礼に、お茶を……」 けれど、うまく声にならない。 その様子を見て、麗華が口元へ手を添え、小さく笑った。「あら……ごめんなさい」 申し訳なさそうな表情。しかし、その瞳だけはどこか楽しそうに弧を描いていた。「雅臣。どうやら私たち、お邪魔し
晩餐会から一週間が過ぎた。 桜小路家のリビングは、今日も静まり返っていた。 広い部屋に整えられた家具。 高級感のあるインテリア。 けれど、そこには人の気配がなかった。「……彩羽」 仕事から帰宅した雅臣は、ネクタイを緩めながらリビングを見回す。 当然のように返ってくると思っていた「おかえりなさい」の声はない。 キッチンにも、ダイニングにも、どこにも彩羽はいなかった。「あいつは……まだ帰っていないのか」 小さく息を吐く。 彩羽が荷物をまとめ家を飛び出してからもう何日も経っている。 そろそろ頭も冷えただろうと、晩餐会の後に彼女がいる場所を突き止めて連れ帰ろうとしたけれど、「帰らない」と言われたことを思い出し、雅臣は顔を苦々しく歪めた。「まったく……今回は意地になりすぎだ」 額へ手を当てる。 離婚だなんだと言っていたが、あれは感情的になっているだけだ。 今までは何があったって大人しく自分の傍にいてくれたじゃないか。 友人たちは軽い冗談を言っただけだし、麗華とのことだって……。 雅臣はもう一度、深くため息を吐く。 彩羽は自分の妻で、何不自由なく過ごさせてきたはずだ。それなのに、麗華に嫉妬して当たるなんてどうかしている。 けれど、それももう少し時間を置けば落ち着くだろう。 雅臣はそんなことを考えながら、ジャケットを脱いでクローゼットのある寝室へと入った。 本棚の横にある大きな棚。そこには、小さなジュエリーケースが整然と並んでいる。 一つ。また一つ。彩羽へ贈ってきた九十九個のサファイヤの贈り物。 雅臣は一番新しいベルベットのケースを取り出した。 蓋を開く。中には、深い青色のサファイア。 けれど、その表面には小さな欠けがあった。 あの日、彩
研究センターでの初めてのリハビリを終え、夕暮れの街を奏介くんの車がゆっくりと走っていた。 車内には上品で穏やかなクラシックが小さく流れている。 私は窓の外へ視線を向けながら、今日一日の出来事を思い返していた。 歌えなかったけれど、不思議と心は軽かった。 音楽はまだ、自分の中に残っている。そう教えてもらえたから。「今日は、お疲れさまでした」 信号で車が止まる。ハンドルを握る奏介くんが私のほうを見た。「初日としては、本当に良かったと思います」 私は少しだけ眉を下げながら笑って頷いた。【歌えなかったけどね】 手話でそう返すと、奏介くんは小さく首を横へ振る。「歌えなかった、じゃありません」 一拍置いて続ける。「今日は音楽に戻れた日です」 その言葉に、私は静かに目を伏せた。胸の奥が、また少しだけ温かくなる。とくとくと心臓が高鳴っている。瞼の裏に、学生時代、大きなホールで歌った日のことが昨日のことのように思い浮かんだ。◇ 車は住宅街へ入り、やがて私のマンションの前で停まった。「着きましたよ」 奏介くんは車を降りると、助手席のドアを開けてくれる。 私は「ありがとう」と唇を動かしながら車を降りた。けれど奏介くんは、すぐには歩き出さなかった。 周囲を静かに見回している。 道路の向こう。 駐車場。 建物の影。 まるで誰かがいないか確認するように視線を巡らせている。 私は不思議に思って首を傾げた。しばらくして、奏介くんはようやく安心したように小さく息を吐き出した。「……今日は、大丈夫そうですね」 私はその言葉の意味を理解して、胸が少し締めつけられた。 奏介くんは、晩餐会の後にあった出来事を考えてくれていたのだ。 雅臣が突然現れた、あの日のことを――。 奏介くんはその







