Chapter: 第14話 雅臣の取引相手 ホテルのスタッフが私の前へ飲み物を置く。「桜小路さま。お飲み物をお持ちいたしました」 一瞬、テーブルの空気が止まった。 周囲の招待客が、不思議そうに私と雅臣を見比べる。「『桜小路』というお名前なんですね」 一人の男性が穏やかに笑った。「偶然とは珍しい。もしかして、お二人はご親戚ですか?」 その問いに、雅臣の視線が私へ向く。 鋭く。 真っ直ぐに。 ――言うな。 その目だけで、十分伝わった。 空気を読め。 余計なことは話すな。 圧をかけるように、雅臣の視線がそう言っている。 けれど――私はもう、雅臣の妻でいるつもりはない。 筆談用のノートを取り出そうとして、ひとりひとりに読んでいただくのも申し訳ないと思い、私は静かに微笑んだ。 そして、小さく息を吸い込み、ゆっくりと口を開く。「……いいえ」 掠れた声が、静かな会場に溶けていく。「私たちは……夫婦でしたが、もう、離婚しております」 誰もが息を呑む気配がした。 私は続ける。「今は……旧姓に、戻っているのですが……少し連絡が行き違いになってしまったようですね。今日は、白鳥さまにご招待されて来たので、まさか彼がいるとは思いませんでした」 くすりと、軽いトーンにするためにわざと笑い混ぜる。 その言葉は確かにこの場へ落ちた。 私の言葉に、雅臣の表情が一瞬で曇るのが見えて、私は少し目を細めた。「彩羽……」 信じられないものを見るような目で私を見ている。 私はその視線を受け止めることなく、小さく頭を下げた。「皆さま、ご説明が遅くなり、申し訳ありません」 すると周囲の招待客も事情を察したのか、それ以上その話
Last Updated: 2026-09-21
Chapter: 第13話 私にできること 晩餐会が始まると、会場はさらに華やかな空気に包まれた。 グラスが触れ合う澄んだ音。穏やかな笑い声。 芸術や音楽について語り合う人々の姿が、あちらこちらに見える。 私は凛さんの隣に立ちながら、その様子を静かに見つめていた。 ほどなくして、一人の紳士が凛さんの前へ歩み寄る。「白鳥先生、お久しぶりです」 凛さんは柔らかく微笑み、両手をゆっくり動かした。凛さんは相手の口元から何を言っているかは読みとることができると教えてくれた。 だから今からの私の仕事は、凛さんの『言葉』を相手に届けること。【お久しぶりです。お元気そうで安心しました】 私はその手話を見つめ、小さく息を吸う。「『お久しぶりです。お元気そうで安心しました』と仰っています」 掠れた声ではあったけれど、相手にはちゃんと届いたようだ。男性は、「ああ」とその表情を明るくさせ、「ありがとうございます。お蔭様で」 と、嬉しそうに笑った。 それからしばらく、作品の話や海外での個展について会話が続く。 凛さんは穏やかに手話を動かし、私はその意味を丁寧に伝えていく。 すると男性は感心したように目を丸くした。「あなた、手話が分かるんですね」 私は慌てて首を横に振る。 そんな大したものではない。「私は、声が上手く……出せないので……」ただ、自分が話せなくなってから必死で覚えただけだと、できるだけ重くならないように、明るい表情を心掛けて伝える。男性は「なるほど」と感心したように頷いてくれた。そこに、私が今まで受けたような同情の色はなく少しだけ驚く。【彩羽さんは、とても素敵な通訳さんなんです】 凛さんが笑いながら手話を動かす。 男性が「今は何と?」と尋ねてくれたので、私は照れながら、その言葉をそのまま彼女の声の代わりに伝えた。 男性は大きく頷く。「いやぁ、本当ですね。こ
Last Updated: 2026-09-19
Chapter: 第12話 奏介くんのお姉さん 私は奏介くんに優しく背中に手を添えられながら、奏介くんと絃ちゃんとともに会場の中へと足を踏み入れた。 天井には幾重にも輝くシャンデリアが眩い光を放っている。 壁には国内外の画家による絵画が飾られ、柔らかなクラシックの生演奏が静かに流れていた。 まるでお伽噺の舞踏会にでも来た気分だ。あまりに美しい光景に、口からは感嘆の溜息が零れる。「絃、今日はお前が彩羽先輩についてやっててくれ。俺は少し挨拶で色々回らなくちゃいけなくて、ずっとはいられないから」「うん、もちろん。任せて!」 そう言うと、奏介くんは私に「それじゃあ、またあとで」と微笑み離れていく。 絃ちゃんに案内されながら、会場を見渡せば、テレビや雑誌で見たことのある芸術家や企業家の姿があった。 本当にすごい場だと、社交界にそこまで詳しくない私でも分かる。緊張で自然と背筋が伸びた。「彩羽さんの席は、こちらです」 絃ちゃんが私を案内した席は、会場の最前列。そして、中央に近い場所だった。私は思わず足を止めた。私なんかがこんな素敵な場所に座っていいのだろうか。周りに座っている方たちも皆、招待客の中でも特に重要そうな方たちばかりだ。 戸惑いおろおろとしてしまう私に、絃ちゃんが私の心の中を理解してくれたようで、くすりと笑った。「当然ですよ!」 そう言って私の腕を軽く引く。「彩羽さんは白鳥家の大切なお客様なんですから!」(大切……) 私は心の中でその言葉を繰り返す。 さっき、奏介くんも雅臣たちに同じことを言ってくれていた。 胸の奥が、くすぐられるような感覚。(社交辞令だったとしても、嬉しいわ……) 私はそっと噛み締めるように微笑み、絃ちゃんに促されながら静かに席についた。落ち着かない心地だけれど、それもまた悪くないかもしれないと思いながら。◇「来てくださってありがとう。」 優しい声に振り返る。
Last Updated: 2026-09-17
Chapter: 第11話 どうしてここに? どうして雅臣と金城麗華が、この場所に――。 その瞬間、不意に金城麗華がこちらへ顔を向ける。 そして、私を見つけると、勝ち誇ったように雅臣の腕へさらに身体を寄せた。艶やかな赤いルージュが光るその唇が、ゆっくりと弧を描き、私の心臓は大きく脈打った。「……彩羽?」 そんな金城麗華の仕草に気付いたのだろう。雅臣が振り返り、私の姿に気付いた途端、その目が大きく見開かれた。 驚いたように私を見つめたあと、その視線は私のドレス姿へと移った。雅臣の目が、頭の先から足の先までを見るように動く。そして、普段とは違う装いに、一瞬だけ言葉を失ったように見えた。「彩羽。どうしてここにいるんだ?」 雅臣が声をぐっと潜めるように低くし、問い掛けてくる。その響きには驚きと困惑が混ざっていた。 奏介くんは、誰かに呼ばれて先に会場の中に入ってしまった。簡単に雅臣に説明して、私も早く中に。 そう思い、手話を使おうと手を軽く上げたときだ。 私の『言葉』を遮るように、麗華が柔らかな笑みを浮かべながら一歩私に詰めた。「彩羽さん、ごめんなさいね」 細められる瞳。私は、その言葉の意図がすぐには分からず、自分の眉が少しだけ寄せた。「今日、雅臣は、大切なお客様とお会いする予定なの」 麗華は困ったように微笑む。「お相手の方だって、同席する女性がまともにお話できたかったら……お困りになるでしょう?」 申し訳なさそうな表情と声のトーン。「だから、私が少しだけ付き合っているだけなの」それなのに、私に向けられるその瞳だけは愉しそうで……。「少しだけお借りしているだけだから、そんな風に怖い顔なさらないで?」 麗華は私の両手を包み込むように取った。「だって今日、雅臣は大切なお仕事で来ているのよ? こういう場所で揉めてしまったら、雅臣も困ってしまうわ」 そう紡ぐ麗華の声のボリュームが少しだけ上がった。まるで、周りにわざと全てを聞かせるように。麗華の高い声はよく通る。そのせいで、周囲の視線が私たちに向けられ始めている。「そそんな大切なお仕事の日に、わざわざ追いかけていらっしゃるなんて……。奥様である彩羽さんのお気持ちも分かりますけれど……」 その言葉を聞きながら、私は静かに息を吐いた。「私はただ、声が出ない彩羽さんの代わりに雅臣の力になりたくて来ただけなのに……」 まるで、私が
Last Updated: 2026-09-15
Chapter: 第10話 晩餐会 朝日がレースのカーテンを柔らかく透かしていた。 私はまだ荷物の片付けが終わっていない部屋を見渡す。 段ボール箱は壁際に積まれたままで、家具は最低限しかない。 それでも、この部屋は不思議と居心地がよかった。 誰かのためではなく、自分のための場所。 それだけで、胸の奥のおもりが減って、少しだけ軽くなる。 テーブルの上に置いていたスマートフォンが何かの通知で震えた。 画面を開くとそこには、私が家にいないことに気付いた雅臣からのメッセージが何十件も並んでいた。――どこにいる?――帰ってこい。――話をしよう。――今日中には戻れ。 最初はそんな内容ばかりだった。 けれど、時間が進むにつれて、その文章は少しずつ変わっていく。――まだ怒っているのか?――もう十分だろう。――荷物まで持ち出して……いい加減にしろ。――いつまで子どもみたいな真似をするつもりだ。 私は静かに画面を閉じた。 胸はもう痛まない。返信しようとも思わなかった。 もう、伝えるべきことは全部伝えた。 届かなかっただけだ。 テーブルの隅には、昨日、奏介くんのご実家でお母さまからいただいた研究センターの資料が置かれている。 それから、珠理奈が送ってくれた英語試験のためのスクーリングや入学手続きの資料。半年後の留学へ向けたスケジュール。 私は資料を一枚ずつ確認し、小さく息を吐いた。(少しずつでいいから、前に進もう) そのときだった。スマートフォンがもう一度震える。 また雅臣だろうか、とおそるおそる画面を見ると、『白鳥奏介』の文字が表示されていた。 私は慌てて通話を取った。『彩羽先輩、おはようございます』 画面はすぐにビデオ通話へと切り替わった。穏やかな笑顔が画面に映る。 私の頬も自然と緩んだ。
Last Updated: 2026-09-11
Chapter: 第9話 ようこそ 珠理奈から指定されたカフェは、ホテルから十分ほど歩いた場所にあった。 ガラス張りの落ち着いた店。 開店したばかりなのか、店内に人はまばらで、穏やかな音楽が流れている。 私は入り口から、ぐるりと店内を一度見回した。(まだ来ていない……?) パッと見た感じでは、誰かを待っていそうな人は店内にいないようだった。窓際の席に座っていたら分かりやすいだろうかと、足を進めようとしたときだった。「彩羽先輩」 背後から聞こえた懐かしい声に、私の心臓が小さく跳ねた。 ゆっくり振り返ると、そこには、数日前、街で偶然再会した後輩――白鳥奏介くんが立っていた。 学生時代より少し大人びた笑顔。けれど、学生時代から感じていた穏やかな雰囲気は、今日も健在だった。「お待たせしました。今日の約束の相手は、俺です」 しばらく日本にいる予定だとは聞いていたけれど……。 まさか珠理奈が言っていた相手が奏介くんだったなんて。 私は驚きでただただ目を丸くするしかない。「びっくりしました?」 悪戯っぽく笑う奏介くんに、私は何度も頷く。 本当に、驚いた。 すると、奏介くんのスマートフォンが鳴った。奏介くんは通話を取ると、私にも画面が見えるようにスマートフォンをこちらに向けてくれる。『ふふふ。成功だったかしら?』 画面の向こうでは珠理奈が愉快そうに笑っている。「大成功です」 奏介くんも満足気に笑いながら頷いた。『でしょ? 日本にいるなら奏介しかいないと思ったの』「でもこの人、俺から彩羽先輩には絶対言うなって言ってたんですよ」 奏介くんは呆れたように言う。けれどその顔は、なんだかとても楽しそうだ。 そんな二人のやり取りを見ているうちに、思わず私も笑ってしまった。 久しぶりに自然と零れた笑顔だった。『彩羽』 珠理奈が優
Last Updated: 2026-09-10
Chapter: 第144話 両親 玄関へ飾られた冬の花を眺めながら、綾人は静かに息を吐いた。 しばらく黙っていたが、やがて口を開く。「親父は、厳しい人だった」 澪は黙って耳を傾ける。「朝から晩まで稽古だった」 姿勢。 礼儀。 花。 書。 茶。 神宮寺の跡取りとして必要なことは、幼い頃からすべて叩き込まれた。「遊んだ記憶は、ほとんどない」 綾人は小さく笑う。その笑みには、どこか懐かしさが混じっていた。「昔、一度だけ屋敷を抜け出したことがある」「えっ?」 澪が思わず目を丸くする。「そんなこと、綾人くんが?」「ああ」 短く頷く。「公園へ行った」 ベンチに座って。 花の本を開いて。 でも、一文字も読めなかった。「……つまらなかったからな」 その一言で、澪は自分の記憶の引きだしを開け、幼い綾人の姿を思い浮かべた。 誰にも甘えられず。 誰にも弱音を吐けず。 小さな背中で、一人抱えていた男の子。 あのときの綾人は、そんな風に生きていたのかと、胸が締め付けられた。「お母さまは……?」「優しい人だ」 綾人は即答した。「だが、親父には逆らえなかった。だから母も、『お父さんの言う通りにしなさい』ってそう言うしかなかった」 綾人は静かに続ける。「今なら分かる。二人とも、神宮寺を守ることに必死だった」 跡取りを育てる責任。 伝統を守る責任。 その重さを背負っていた。「だから、恨んではいない」 澪は静かに綾人を見る。 責めるでもなく。 美化するでもなく。 ただ事実として受け止めている横顔だった。
Last Updated: 2026-09-21
Chapter: 第143話 綾人の家族って? 朝食を終えた澪は、窓辺に飾られた花へ新しい水を注ぎながら、小さく微笑んだ。 穏やかな朝に、ほっと心がほどけていく。「澪さま、ご報告がございます」 そのとき、相良が一通の封筒を手に、静かにリビングへと入ってきた。 澪は水差しを両手で抱えながら、ゆっくりと相良へ向き直る。「白石家の件でございます」 その言葉だけで、澪は内容を察した。少しだけ息を整え、小さく頷く。「はい、教えてください」 相良は静かに封筒を開き、落ち着いた声で続けた。「ホテルでの件につきましては、防犯カメラの映像も含め、事実関係が確認されました」 澪は静かに耳を傾ける。「神宮寺家の顧問弁護士を通じ、白石家には今後、澪さまへの直接の接触を一切お断りする旨を正式に通知しております」 相良は一度言葉を区切った。「また、今後は白石家から何らかの接触があった場合も、すべて弁護士を通して対応いたします」 もう澪が一人で向き合う必要はない。 そういう意味だった。 澪はしばらく黙っていたが、やがて小さく息を吐く。「……終わったんですね」「ああ」 同じ部屋でソファに座り、新聞を読んでいた綾人が、短く答えた。 弁護士については綾人が決めたことなのだろう。特に大きな驚きもない様子だった。 澪は窓の外へ目を向ける。すっかりと冬の色を濃くした空は、どこまでも高く澄んでいる。 胸の奥へ残っていた最後の重苦しさが、その青空へ溶けていくようだった。「行くぞ」 不意に綾人が立ち上がった。「え? どこに?」「花を替える」 綾人のその言葉に、首を傾げていた澪はすぐに表情を和らげた。「はい」 そう頷いて、綾人の後ろをついていく。 ◇ 離れにある華道室には、すでに今日使う花材が並べられていた。 椿に、
Last Updated: 2026-09-20
Chapter: 第142話 綾人くんのお迎え 夕暮れの陽射しが、アンジェリケの店内を窓ガラス越しに優しく照らしていた。 店内には花の香りが漂い、閉店時間が近づくにつれ、お客様の姿も少しずつ少なくなっていく。「ありがとうございました」 澪は最後のお客様を見送り、店の入口に「CLOSE」の札を掛けた。「ふぅ……」 エプロンの紐をほどき、小さく息をつく。「今日もあっという間だったなぁ」 花日和をきっかけに来店してくれるお客様は今日も多かった。 花を一本だけ抱えて嬉しそうに帰っていく姿を見るたび、心が温かくなる。「澪ちゃん、そろそろじゃない?」 店長が時計をちらりと見て笑った。「え?」 澪が首を傾げた、そのときだった。 店の外に、一台のボルドーカラーの車がゆっくりと停まる。 澪が綾人の車だと気付くのと同時に、窓際で花を片付けていたスタッフが外を見て、小さく笑った。「あ、神宮寺先生だ」「今日もぴったりですね」「本当に時間が正確」 誰も驚かない。いつの間にか綾人の車のことをみんなが覚えている。むしろ、どこか微笑ましそうだった。 澪はちょっとだけからかうようなスタッフたちの声に頬を染めた。「澪ちゃん、お迎えだよ」 店長がくすりと笑う。「今日は残業禁止ね」「え、でも、まだ……」 少しだけやり残している業務があり、澪は戸惑う。「彼を待たせたらかわいそうでしょう?」 周りのスタッフも一斉に頷いた。「そうですよ」「今日の片付けは、私たちがやります!」「ゆっくり神宮寺先生と帰ってください」「み、みんな……」バックヤードのほうへ背中を押されて、澪は困ったように笑った。「ありがとうございます」 バックヤードでエプロンを外し、自分のロッカーからバッグを取り出して肩に掛ける。 そして表に戻ると、店長と他のスタッフたちに深く頭を下げた。「お疲れさまでした」「はい、お疲れさま。気をつけて帰ってね」 優しい声に見送られながら、澪は店をあとにした。 ◇ 自動ドアを抜けると、秋の夕風が頬を撫でた。 車のそばには綾人が立っている。 澪の姿を見つけると、静かに歩み寄ってきた。「お疲れ様」「はい。綾人くんも、お疲れさまです」 澪は柔らかく微笑む。 綾人は自然な動作で澪の肩からバッグを受け取った。「ありがとう」「気にするな」 それだけの短いやり取り。けれ
Last Updated: 2026-09-19
Chapter: 第141話 もうひとつの私の居場所 数日後の朝。 澪は鏡の前で髪を後ろでひとつにくくり、身だしなみを整えていた。服にヨレや乱れがないかをチェックして、「よし」と一声発すると、芹香がそっとバッグを差し出した。「今日はアンジェリケの日ですね」 芹香が優しく微笑む。「はい」 澪も自然と笑顔になって頷いた。 最近はキアーロとの仕事や神宮寺家の仕事も増えたため、以前と同じような出勤ではなくなっていた。店長ともしっかりと話し合いをした結果、『無理のない範囲でいいから、いつでも戻っておいで』 そう言ってくれて、アンジェリケにも澪の居場所を残してくれている。 温かく紡がれたその言葉が、澪はとても嬉しかった。出勤できる日は少なくなってしまったけれど、それでもアンジェリケは澪にとっても大切な場所であることは変わりない。 だからこそ、出勤できる日は全力で頑張ろうと思っている。澪は、もう一度小さく気合を入れ直すと、芹香からバッグを受け取った。 ◇「行ってきます」 玄関で靴を履き、見送りをしてくれる使用人たちを振り返ると、仕事へ向かう仕度を終えた綾人も玄関先へと現れた。「今日はアンジェリケか」「はい。がんばってきます」 綾人は小さく頷いた。「帰りは迎えに行く」「えっ?」 澪が目を丸くする。「でも、綾人くんのお仕事は……」「終わる」 短くきっぱりと吐かれた言葉に、澪は思わず苦笑した。「終わる」ではなく、「絶対に何がなんでも終わらせる」という顔をしているから。「じゃあ……待ってますね……?」 ダメだと言っても来るのは分かっているし、そんな綾人に甘い自覚が澪にもあった。「ああ」 綾人は澪の頭をぽんと軽く撫でると、相良と共に玄関を出て行った。「澪さまも。いってらっしゃいませ」 佐伯の言葉とともに、使用人たちの頭が一斉に下がる。澪は少しだけ背筋を伸ばすと、「はい。いってきます」 一度、深く息を吸い込んでから、にっこりと笑い屋敷を後にした。 ◇「おはようございます!」 アンジェリケの扉を開けると、店いっぱいに広がる花の香り。 そして、いつもの優しい空気。 胸がときめくと同時に、帰って来たと肩の力が抜ける。「澪ちゃん!」 店長が満面の笑みで迎えてくれた。「おかえり!」「ただいま戻りました」「発表会見たよ!」 同僚のスタッフの一人も駆け寄って
Last Updated: 2026-09-18
Chapter: 第140話 デートの報告 神宮寺家に戻ってくると、玄関には、柔らかな灯りがともっていた。 澪はその明かりを見つめ、小さく微笑む。「皆さん、まだ起きていらっしゃるんですね」「待っているんだろう」 そのとき、そっと玄関扉が開いた。現れた相良が丁寧に頭を下げる。「お帰りなさいませ、綾人さま。澪さま」「はい。ただいま戻りました」 澪がそう返しながら、玄関へと一歩足を踏み込んだ、その瞬間だった。「澪さまっ!! お帰りなさいませ!」 勢いよく飛び出してきたのは、ひまわりだった。「ひ、ひまわりさん!」 まるで小型犬のように抱き着いてくるひまわりと澪は困惑しながら受け止める。 その後ろで佐伯が苦く笑い「ひまわり」と嗜める。「落ち着きなさい」「無理ですー」 澪から体を離したひまわりは両手を胸の前で握り締める。「今日のこと、ずーっと気になってたんですから!」 瞳をキラキラとさせて、今日の話を今すぐにでも聞かせて欲しいと言わんばかりのひまわりに、澪も苦笑した。嫌な気持ちではないけれど、何だか照れくさい。 佐伯の隣で、芹香と桜が穏やかに頭を下げた。「お帰りなさいませ、澪さま」「お、お帰りなさい……」 そのふたりの笑顔と、改めて同じように頭を下げたひまわりと佐伯を見て、澪の肩から力が抜ける。「……ただいま」 いつの間にか、自然とそう口にできるようになっていた言葉。最初は「おかえりなさい」と言われることさえぎこちなかったのに。 自分の場所はここなのだと改めて実感して、澪はゆっくりと息を吸い込んだ。 ◇ リビングに入ると、温かいお茶が用意されていた。「どうぞ」 芹香が澪の前に湯呑みを差し出す。「ありがとうございます」 澪が受け取るや否や、ひまわりがぐいっと身を乗り出した。「それで、澪さま!」「えっ?」 ひまわりの顔が近く、澪は軽く顎を引いた。ひまわりの大きな目に、困惑した澪が映っている。「どうでした!?」「な、なにが?」「植物園です! 夜ご飯です! 今日の、デートです!!」 一気に三連発。澪は思わず目をぱちぱちさせる。「で、デートじゃ……」「違うんですか!?」 ひまわりが食い気味に聞き返す。 澪は真っ赤になった。「そ、それは……」 どう答えようか困っていると、隣にいた綾人が静かに口を開いた。休日に一緒に出掛けた。ふたりきりの
Last Updated: 2026-09-17
Chapter: 第139話 ふたりきりの時間 植物園をあとにした車は、夕暮れに染まり始めた街を静かに走っていた。 オレンジ色の光が流れていく街並みを鮮やかに照らしている。「今日は本当に楽しかったです」 信号待ちで止まった車の中、助手席で澪は嬉しそうに笑った。「ありがとうございました」 その笑顔を横目で見ながら、綾人は小さく頷く。「ああ」 それだけ答えると、一度だけ腕時計へと視線を向けた。「まだ時間があるな」「うん?」 澪が首を傾げる。「帰る前に寄る」「どこにですか? お買い物?」「予約してある」 その一言で、澪の思考が止まった。「よ、予約……ですか?」「ああ」「えっと、どこに? お店を予約しているなんて聞いてません!」 思わず運転席のほうへ軽く身を乗り出す。信号が青に変わる。綾人は表情を変えないままゆっくりとアクセルを踏んだ。「言ってないからな」「そ、そうですけど……!」 澪は困ったように笑うしかない。「それで、どこに行くんですか?」「着けば分かる」「また秘密なんですね」「ああ」 短い返事。けれど今日は、そのぶっきらぼうささえ少しだけ愛おしく思えた。 ◇ 車は中心地を抜け、少し静かな街並みへと入っていく。 澪は窓の外を眺めながらも、落ち着かない様子で何度も座り直した。(予約って……どんなお店なんだろう) 高級なお店だったらどうしよう。 マナー、大丈夫かな。 服装もこれで良かったのかな。 そんなことばかり考えてしまう。 すると、ふと朝の出来事を思い出した。『夜は素敵なディナーかもしれませんね』 佐伯の穏やかな笑顔。「あ」と気付き、澪は肩を軽く竦め笑った。「……佐伯さん、知ってたんですね」「ああ、相談したからな」 綾人の返事に、澪は目を丸くした。「相談したんですか……? 綾人くんが?」 思わずそう口にすると、綾人は少しだけ苦く笑う。「俺だって相談くらいする」 そう続けて、綾人は短く息を吐いた。「お前が緊張しない店を選んでもらった」 その言葉に、澪はしばらく何も言えなかった。そんなところまで考えてくれていたなんて。頬も胸も熱い。口元が自然と緩んでしまう。「……ありがとうございます」 小さな声でそう言うと、綾人は前を向いたまま静かに頷いた。 ◇ 三十分ほどして車は一軒の和食店へ到着した。 暖簾をく
Last Updated: 2026-09-16