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暁万里
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Novels by 暁万里

「君は俺の花だ」妹に婚約者を奪われた私を、冷徹華道家が溺愛して離してくれません

「君は俺の花だ」妹に婚約者を奪われた私を、冷徹華道家が溺愛して離してくれません

妹に婚約者を奪われた。 家族のために働き続け、妹の学費も生活費も負担してきたのに。 それでも、妹を責めることができなかった。 交際記念日の夜、白石澪はホテルの前で信じられない光景を目にする。 婚約者とキスをしていたのは、最愛の妹だった。 すべてを失った雨の夜。 絶望の中で出会ったのは、華道界の若き天才家元・神宮寺綾人。 冷徹で他人に興味がないと噂される彼は、澪を見るなりこう告げた。 「やっと見つけた」 「君は俺の花だ」 どうして私なの? なぜそんな目で見つめるの? 愛されたことのない花屋の女性と、孤高の天才華道家。 これは、誰にも選ばれなかったはずの女性が、世界でただひとりの人に溺愛される物語。
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Chapter: 第158話 幸せな日々、ずっと。【最終話】
 結婚式から数ヶ月後。 初夏の柔らかな陽射しが、神宮寺家の庭を優しく照らしていた。 庭に咲く紫陽花は少しずつ色づき始め、風が吹くたびに木々の葉が心地よい音を奏でている。 離れにある華道室では、綾人と澪が並んで花を生けていた。 誰かへ披露する作品ではなく、ただ、今日も屋敷へ飾る花を二人で生ける。 それが、今では当たり前の日常になっていた。「この高さならどうでしょう?」 澪が一本の花を差し込みながら尋ねる。 綾人は少しだけ角度を変えながら作品全体を見つめ、「ああ、いい」 と、小さく頷いた。 その返事に澪は嬉しそうに笑う。「最近、綾人くんに『いい』って言ってもらえることが増えましたね」「そうか?」「はい。昔も確かに褒めてくださっていましたけど。でも、そのときは『悪くない』ばかりだったから」 以前ひまわりに教えてもらった綾人語録を思い出しながら、澪はくすくすと笑い花を整える。「あのころは、褒めることにあまり慣れてなかった」 綾人は少しだけバツが悪そうに苦笑いを浮かべる。「今は?」「……澪が素直だからな」 綾人は静かに作品を見つめる。それは答えになっていなくて、澪は首を傾げた。「夫婦は似てくるって言うだろ」 澪はその言葉に目を丸くしてから、頬をほんのりと赤く染めた。 素直に褒めるようになった理由を、まさかそんな風に綾人が言うと思っていなかった。 澪は照れたように笑って、隣に座る綾人にそっと寄りかかった。綾人は、ふっとちいさく微笑むと澪の肩をそっと抱き寄せた。     ◇「澪さまー!」 華道室の外から元気な声が響く。 勢いよく障子が開き、ひまわりが顔を覗かせた。「ワークショップへ参加された皆さまから、お手紙が届きました!」「本当ですか?」 澪は嬉しそうに受け取る。 封筒の中には、何枚もの便箋が入っていた。『お花を飾って食卓が明るくなりました』『娘と一緒に花屋さんへ行くのが楽しみです』『主人と花を選ぶ時間ができました』 一枚一枚、丁寧に目を通していく。 どの手紙にも、花のある暮らしが綴られていた。「……嬉しい」 自然と笑みがこぼれる。「花って、本当にすごいですね」 誰かの日常へ寄り添って、笑顔を増やして、家族の時間まで優しく彩ってくれる。 澪は大切そうに手紙を胸へ抱きしめた。     ◇ 昼過
Last Updated: 2026-10-02
Chapter: 第157話 初夏の風に包まれて
 やわらかな初夏の風に深緑が揺れる朝。 今日は特別な日。綾人と澪が、新しい人生を歩み始める日だった。     ◇「澪さま、こちらを向いてください」 芹香が襟元を丁寧に整える。 白無垢に身を包んだ澪は、鏡の前で静かに息をついた。 真っ白な打掛に綿帽子。 胸元には、ずっと身に着けてきたあのお守りがそっと忍ばせてある。「……澪さま。本当に、お綺麗です」 芹香が目を細める。隣では桜が感極まったように目元を押さえていた。「す……すごく、お綺麗です……」 その声は少し震えている。「桜さん、泣かないで」 澪が困ったように笑うと、「だ、だって……澪さまが、本当に綾人さまと結ばれるのだと思ったら……」 桜は涙をこぼさないよう必死に瞬きを繰り返した。 その言葉に、澪も胸が熱くなる。 神宮寺家へ来たばかりの頃の右も左も分からず、不安でいっぱいだった自分を思い出す。 そんな自分を、みんなが家族のように迎え入れてくれた。 だからこそ今日、この日を迎えられたと言っても過言ではない。 そっと桜の頭を澪が撫でようとした瞬間。「澪さまーーっ!」 と言う大きな声とともに、勢いよく襖が開く。 ひまわりが仕度部屋へ入ってきた瞬間、その場で口を押さえた。「き、綺麗すぎますぅぅぅ……!」 ボロボロと涙をこぼしながら澪を見つめている。「ちょっと、やだ。ひまわりさんまで……!?」「むりですぅ……っ」 ぶんぶんと首を振る。「今日という日を、私たちがどれほど楽しみにしていたか……! 嬉しすぎます!」「それは、ひまわりに同感ですね」 澪の隣に立っていた芹香が優しく微笑みながら頷いた。「でも。ひまわりも桜も、まだ式も始まっていないんですよ? 泣きすぎです」「そういう芹香だって、昨日は部屋で大号泣だったじゃない」「ちょっと、ひまわり……!」 わたわたと芹香がひまわりの口を塞ぐ。その様子がおかしくて、澪は小さく吹き出した。部屋の空気がほんのりと解けるように和らいでいく。     ◇ 一方その頃。 別室では、綾人が紋付袴へと袖を通していた。 鏡の前に立つその姿は、いつも以上に凛としている。 父親が静かに歩み寄り、羽織の襟元をほんの少し整えた。「少し曲がっていた」「ありがとう」 綾人は短く礼を言う。 父親は一歩下がり、息子の姿を見つめた。
Last Updated: 2026-10-02
Chapter: 第156話 もう離さない
 公園をあとにした車は、夜の帳が下り始めた街をゆっくりと走っていた。 車内は静かだった。けれど、その沈黙は気まずいものではない。 助手席に澪は、何度も何度も左手を見つめてしまう。 薬指には、小さく輝く婚約指輪。 夕陽を受けるたび、まるで春の花へ降りた朝露のように優しく光を返していた。「……」 思わず口元が緩む。 そんな自分に気付き、照れくさくなって窓の外へ視線を向ける。 その様子を、綾人は横目で静かに見ていた。「喜んでもらえてよかった」 穏やかな声。 澪は少し恥ずかしそうに笑う。「はい」 素直に頷いた。「まだ夢みたいで……」 左手を胸の前へ寄せる。「現実、なんですよね」 その言葉に、綾人は少しだけ目を細めた。「ああ」 短い返事。 澪は安心したように笑い、もう一度だけ指輪へ目を落とした。     ◇ やがて車は神宮寺家へ到着した。 玄関前に停まると、綾人が先に降り、助手席のドアを開ける。「ありがとう」 澪は嬉しそうに微笑みながら車を降りた。 そして二人並んで玄関へ向かい、扉が開いた、その瞬間だった。「お帰りなさいませ」 佐伯の穏やかな声が響く。 玄関には、いつも澪の身の回りをお世話してくれる使用人たちだけでなく、屋敷に勤めている全ての使用人が揃っている。 そして綾人の父と母まで――。「え……?」 澪は思わず立ち止まる。 どうして皆さんがこんなに綺麗に並んでいるのだろう。 不思議そうに瞬きを繰り返していると、佐伯が柔らかく微笑んだ。「綾人さまより、ご報告を受けておりましたので」「……ご、ご
Last Updated: 2026-09-30
Chapter: 第155話 ずっと隣に
綾人の車は、夕暮れの市街地を抜け、小さな公園の前で静かに停まった。「ここは……?」 澪は窓の外を見つめ、小さく息を呑む。 見覚えのある遊具。少し古びたベンチ。色とりどりの花が咲く花壇。 胸の奥が、懐かしさで静かに震えた。「降りよう」 綾人が車を降りる。 澪もそのあとへ続いた。 春風が頬を撫でる。 花壇には、季節の花々が穏やかに咲いていた。「……ここ、知っています」 澪はゆっくり辺りを見回す。 そして、一つのベンチを見つめた瞬間、小さく目を見開いた。「思い出したか」 綾人が静かに尋ねる。 澪はゆっくり頷いた。「……はい」 少しだけ涙ぐみながら笑う。「綾人くんと、初めて会った場所」 幼い綾人が、一人で座っていた場所。 分厚い花の本を抱えて、どこか寂しそうだった男の子。 ただ笑って欲しくて、話しかけ続けたあの日。 それだけの時間だった。 けれど、あの日があったから、今の自分たちがいる。「綾人くんも覚えていてくれたんですね」 澪がそう言うと、綾人は静かに笑った。「忘れられるはずがない」 短い言葉。けれど、その声には何年もの想いが込められていた。「お前は、少し忘れてしまっていたようだけれど」「はい」 澪は少しだけ照れたように笑う。「でも、今は全部思い出しましたよ? あの日々のこと」 あの日の風も。花も。笑顔も。 綾人に会うのが楽しみで教室に通っていたことも。 全部。全部。 綾人はゆっくりとベンチへ腰掛ける。 澪もその隣に座った。 しばらく二人は何も話さない。 ただ、春風だけが静かに流れていく。「昔の俺は、毎日がつまらなかった」 綾人がぽつりと口を開く。 神宮寺の跡取りらしくなるために、稽古漬けの日々。 勉強や礼儀も徹底的に叩きこまれた。今ならそれが全部大事なことだったと分かる。 でも。「誰も、俺自身を見てくれた気がしなかった」 澪は静かに耳を傾ける。以前、綾人が両親のことを話してくれた日のことも思い出していた。「でも、あの頃、澪だけが違った」 綾人は花壇を見つめた。「神宮寺家の跡取りじゃなくて、俺を見てくれていた」 だから不思議だった。初めて、一緒にいて苦しくない人だと思えた。「……ありがとう」 綾人のその一言に、澪はゆっくり首を振る。「違います。お礼を言うなら、私のほう
Last Updated: 2026-09-29
Chapter: 第154話 花カゴのワークショップ
 春風が柔らかく吹く休日。 神宮寺家の離れにある教室には、朝からたくさんの人が集まっていた。 子ども連れの家族や、年配の夫婦。友人同士で参加した女性たちもいる。 華道経験のない人ばかりだったが、その表情は期待に満ちている。 教室の中央には、色とりどりの春の花と、フローラルフォームの入った小さな籐の花かごが人数分並べられていた。 澪は教室の前へ立つと、小さく深呼吸をする。「本日は、ご参加いただきありがとうございます」 少しだけ緊張した声。何度登壇しても人前に立つのは緊張する。 それでも、集まった参加者たちは優しく微笑みながら耳を傾けてくれていた。「えっと……今日は、上手に生ける日ではありません」 澪が講師をやる日、決まって最初に紡がれる言葉。 その一言に、教室のあちこちで「え?」という小さな声が上がる。 澪は優しく目を細め微笑み、頷き返す。「今日は、お家へ連れて帰りたくなる花を作る日です」 そう言って、目の前の花かごを優しく持ち上げる。「玄関でも、食卓でも、お部屋でも。皆さんが『ここへ飾りたいな』と思う場所を想像しながら、楽しんで作っていただけたら嬉しいです」 その言葉に、参加者たちは嬉しそうに瞳を輝かせ、そして頷いた。     ◇「じゃあ、このお花はここ!」「いいねぇ」「お母さん、これでどう?」 教室には、すぐに賑やかな声が広がり始めた。 澪は一人ひとりの間をゆっくり歩く。「素敵ですね」 澪がそう声をかけると、年配の女性が少し照れながら笑う。「色を入れすぎちゃったかしら」 澪は優しく首を横に振った。「春らしくて、とても温かい雰囲気です」「本当?」「はい。見ているだけで元気になります」 その言葉に女性は嬉しそうに頬を緩めた。 少し先では、小さな男の子が真剣な顔で花を挿している。「先生!」 元気な声に振り向く。「これ、お母さんにあげるんだ!」 少し曲がったチューリップが花かごの真ん中で揺れていた。 澪はしゃがみ込み、その花かごを見つめる。「うん、とっても可愛い」「ほんと?」「はい」 澪は笑顔で頷いた。「お母さん、きっと喜びます」 男の子は照れくさそうに笑った。「先生」 今度は若い夫婦が澪を呼ぶ。「すごく楽しくて、毎週お花を飾ってみたくなりました」「ぜひおうちでも作ってみてくださ
Last Updated: 2026-09-29
Chapter: 第153話 新しい風
 神宮寺流大展が閉幕して数日後。 神宮寺家の客間には、春の柔らかな陽射しが差し込んでいた。 テーブルには湯気の立つほうじ茶と、佐伯が用意した季節の和菓子。 綾人と澪、そして綾人の両親が向かい合って座っている。「今年の大展は、例年以上に一般のお客様が多かったな」 父親が湯呑みを置きながら静かに口を開く。「ああ、そうだな」 綾人も小さく頷いた。「一般公開の日数を増やした効果もあったのでしょうね」 母親も穏やかに微笑む。 澪は会場の様子を思い出し、頬を緩めながら湯呑みを持ち上げた。「皆さん、とても楽しそうでした」 あの会場で交わした笑顔が自然と思い浮かぶ。「『家でも飾ってみたい』って言ってくださる方がたくさんいて嬉しかったです」 その言葉に、父親は静かに澪へ視線を向けた。「澪さん。そのことについてなんだが……」「はい?」「理事会でも話題になったんだ」 『理事会』という言葉に、澪は思わず姿勢を正した。あまりよく思わない人がいらっしゃったのだろうか、と澪は息を呑み込む。 その澪の緊張に気付き、父親はふっと表情をほころばせた。「君の花カゴは、一般のお客様の滞在時間が最も長かった作品だったそうだ」「え……」 思わず目を丸くする。「作品の前で会話が生まれ、足を止め、質問が続いた」 父親は穏やかな表情のまま続ける。「『飾ってみたい』『作ってみたい』という声も多かったと報告を受けている。だから一つ、提案がある」 父親は湯呑みを静かに置く。「神宮寺流で花カゴのワークショップを開いてみないか」「……花カゴのワークショップ、ですか?」 澪の思考が止まる。「ああ」 父親は静かに頷いた。「神宮寺流の門下生だけではなく、地域の方々にも参加していただき、花をもっと身近に感じてもらう催しとしてな」 澪は何度も瞬きを繰り返した。「で、でも……神宮寺流の雰囲気とは、全然違いますし……」 澪は助けを求めるように、思わず綾人を見る。「澪」 綾人は静かに澪の名前を呼ぶと、そっと澪の手に自分の手を重ねた。「あれも立派な神宮寺流の作品だ」 あまりにも迷いのない声だった。「全く問題ない。だからこそ、大展へもあれでいいと送り出したんだ」 その言葉を聞いて、澪の瞳が大きく揺れる。 そう言ってもらえたことは、とても嬉しい。けれどまだ少しだ
Last Updated: 2026-09-29
九十九の贈り物は初恋の呪い~声を失った償い妻は世界の歌姫となり、元夫の復縁を拒む

九十九の贈り物は初恋の呪い~声を失った償い妻は世界の歌姫となり、元夫の復縁を拒む

かつて「十年に一人の逸材」と呼ばれ、世界的オペラ歌手を夢見ていた彩羽。だが五年前、愛する夫・桜小路雅臣をかばって毒入りの酒を飲み、声と夢を失った。それでも雅臣を愛し、五年間尽くし続けてきた。しかし結婚記念日、夫が忘れられなかった女性の存在を知る。毎年贈られた九十九個のサファイアは、すべてその女性が手掛けたブランドのものだった――。絶望の中で再会したのは、世界的ピアニストとなった後輩・白鳥奏介。もう償いの妻は終わり。これは、声を失った女性が世界最高の歌姫となり、自分の人生を取り戻す逆転ラブストーリー。
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Chapter: 第26話 お礼をさせて?
 新しい部屋へ引っ越したのは、珠理奈が帰国してから三日後のことだった。 奏介くんが管理会社と引っ越し業者に掛け合ってくれて、とても早く移り住むことができた。 奏介くんの住むマンションの、彼の部屋のすぐ隣。以前の部屋よりも少し広いそこは、窓から柔らかな陽射しが差し込む、明るい部屋。「先輩、この段ボールはどこに置きますか?」 玄関から大きな段ボールを抱えて入ってきた奏介くんが、私を振り返る。【それは寝室にお願い】「分かりました」 奏介くんは軽々と段ボールを持ち直すと、寝室へと向かっていった。 引っ越し業者が大きな家具を運び終えたあとも、奏介くんと珠理奈は残って荷解きを手伝ってくれている。 私も小さな段ボールを持ち上げようとすると、すぐに奏介くんが戻ってきた。「あ、それも俺が運びますよ」【大丈夫。これくらいなら私にも持てるよ】 そう伝えると、奏介くんは一瞬だけ困ったような顔をしたあと、ふっと笑った。「……そうですね。じゃあ、俺はあっちの重いほうを運びます」 私は頷き、段ボールを抱えた。 奏介くんは、いつも私を気遣ってくれる。 でも、私が自分でやりたいと伝えたことを、無理に取り上げたりはしない。 そんな何気ないことが、今はとても嬉しかった。「ねえ、彩羽。この食器はどこにしまう?」 キッチンから珠理奈の声が聞こえる。【上の棚にお願い】「了解!」 珠理奈は手際よく食器を片付けながら、楽しそうに鼻歌を歌っていた。 その姿を見ていると、なんだか私まで楽しくなってくる。 新しい部屋。 新しい生活。 まだ不安がなくなったわけではないけれど、こうして二人と一緒にいると、少しずつ前を向ける気がした。◇ 午後になり、ようやく段ボールの数が減ってきた頃。「じゃあ、私はそろそろ行くわね」 珠
Last Updated: 2026-10-30
Chapter: 第25話 幸せになるために
 玄関の扉が閉まってから、どれくらいの時間が経ったのだろう。 私はリビングのソファに座ったまま、膝の上で両手を握り締めていた。 雅臣と金城麗華はもう帰ったのか、とても静かだった。 それなのに、今にも玄関のチャイムが鳴るのではないかと思うと、落ち着かなかった。「……彩羽先輩」 名前を呼ばれ、顔を上げる。奏介くんが、私の前に膝をつき、心配そうな顔で私を見つめている。「頭、まだ痛みますか?」 私は小さく首を横に振る。けれど、奏介くんは険しい顔を崩さなかった。「さっき、頭を打っていましたよね。念のため、病院へ行きましょう」【でも……】「大丈夫だと思っていても、あとから症状が出ることがありますから」 穏やかな声だったけれど、その表情は真剣だった。 私は少し迷ってから、頷いた。◇ 病院で診察を受け、大きな異常は認められないと説明された頃には、すっかり夜も更けていた。 奏介くんに送ってもらい、再び部屋へ戻る。 玄関の鍵を閉めた途端、ほっとしたはずなのに、ドアノブから手を離せなかった。 またあのふたりが来るかもしれない。 そう思うだけで、息苦しくなってしまう。「彩羽先輩。やっぱり、ここを離れませんか」 靴を脱ごうとしていた奏介くんが、静かに口を開いた。 私は驚いて顔を上げた。「今日みたいなことが、また起きないとは限りません」 奏介くんは一度言葉を切り、私を見つめ、続ける。「俺の住んでいるマンションで、隣の部屋が空いているんです。よかったら、そこへ移りませんか」【……隣?】「はい。何かあっても、すぐに駆けつけられますから。一緒に住むことは難しくても……せめて」【……それでも、奏介くんに、迷惑が……】 私は躊躇いがちに手を動かす。「迷惑だったら、こんな提案しませんよ」すぐに返ってきた言葉に、私は手を止めた。
Last Updated: 2026-10-29
Chapter: 第24話 麗華の妊娠
――私、妊娠してるの。 麗華から告げられたその言葉が、雅臣の頭の中で何度も繰り返されていた。「妊娠……?」 雅臣は、麗華の細いお腹へと視線を向けたきり、黙り込んでしまっている。「……雅臣?」 不安そうに名前を呼ばれ、雅臣はハッと我に返った。「……ああ。すまない。とにかく、ここを出よう」 麗華の背中を支えながら、マンションの廊下へと出る。 彩羽の部屋の扉は、固く閉ざされたままだった。その向こうに、彩羽と白鳥奏介がいる。 先ほど見た光景が、脳裏をよぎる。白鳥の腕に抱き上げられた彩羽。自分には見せたことのないほど、無防備に身を預けていた姿。 麗華のお腹に宿っている小さな命よりもなぜか彩羽のほうが気になり、胸の奥がひどくざわついた。「雅臣……。お腹が、まだ少し痛いの」 麗華が小さく呟き、雅臣に体を預けるように寄りかかった。「病院へ行かなくて大丈夫なのか?」「大丈夫よ。少し休めば落ち着くと思うから」「……分かった。すぐに車を回す。今日は俺の家で休もう」 雅臣は、扉が開けられることのない彩羽の部屋をもう一度振り返ったが、すぐに麗華へと視線を戻し、彼女の体を支えながらマンションを後にした。◇ 自宅へ戻ると、雅臣は麗華をリビングのソファへ座らせた。「少し待っていろ。温かいものを持ってくる」「ありがとう」 麗華は嬉しそうに微笑んだ。 その笑顔に見送られながら、雅臣はキッチンへと向かう。 しかし、そこで足が止まった。「……どこだ?」 戸棚を開ける。皿やグラスは整然と並んでいる。別の引き出しには、調理器具が収められていた。 だが、茶葉が見当たらない。 紅茶くらい、どこかにあるはずだ。 雅臣は次々と戸棚を開けていくけれど、それでも、見つからない。「……ちっ」 小さく舌打ちが漏れた。 こんなとき、彩羽がいれば。 いつもなら、帰宅してソファへ腰掛ける頃には、温かい飲み物が用意されていた。 胃が弱い雅臣のために、刺激の少ないものを選んで。 仕事で疲れているときには、蜂蜜を入れた飲み物を出してくれたこともある。 だが、それがどこにしまわれているのか、雅臣は知らなかった。「……まったく。彩羽はいつまで意地を張るつもりなんだ」 彩羽が家を出てから、何もかもが面倒になった。 食事も、洗濯も、身の回りの細かなことも、今まで気にす
Last Updated: 2026-10-28
Chapter: 第23話 疑心の目
 扉を開けた先に立っていたのは、雅臣と金城麗華だった。 心臓が大きく脈打つ。「……どうして」 掠れた声が漏れる。雅臣は私を見るなり、小さく息を吐いた。「彩羽、迎えに来たぞ。そろそろいいだろう。一緒に帰ろう」 その声は、まるで何事もなかったかのようだった。「麗華も彩羽と仲直りしたいそうだ。だからこうやって一緒に来てくれた」雅臣が麗華を見て微笑む。私は二人を交互に見てから、ゆっくり首を横に振った。「……帰らないわ」 掠れた声で短くそう答えた、そのときだった。「彩羽先輩?」 部屋の奥から奏介くんの声が響く。 その声が聞こえた瞬間、雅臣の表情が一瞬にして険しくなる。 リビングから姿を現した奏介くんは、玄関先に立つ雅臣と金城麗華を見ると、一瞬だけ目を見開いた。「……桜小路さん」 雅臣は奏介くんを見据えたまま、低く呟く。「……どうして、お前がここにいるんだ」 その場の空気が、一瞬で張り詰めた。奏介くんは落ち着いた様子で私の隣に立つと、「今日は、リハビリセンターから彩羽先輩を送ってきただけです」 それだけを淡々と告げる。雅臣は眉間に深い皺を寄せた。「送る?」「はい」「送るだけで、部屋の中まで上がるのか?」 その言葉には、あからさまな疑念が滲んでいた。 私は慌てて首を振る。「……私が、お礼に、お茶を……」 けれど、うまく声にならない。 その様子を見て、麗華が口元へ手を添え、小さく笑った。「あら……ごめんなさい」 申し訳なさそうな表情。しかし、その瞳だけはどこか楽しそうに弧を描いていた。「雅臣。どうやら私たち、お邪魔し
Last Updated: 2026-10-15
Chapter: 第22話 当然のこと
 晩餐会から一週間が過ぎた。 桜小路家のリビングは、今日も静まり返っていた。 広い部屋に整えられた家具。 高級感のあるインテリア。 けれど、そこには人の気配がなかった。「……彩羽」 仕事から帰宅した雅臣は、ネクタイを緩めながらリビングを見回す。 当然のように返ってくると思っていた「おかえりなさい」の声はない。 キッチンにも、ダイニングにも、どこにも彩羽はいなかった。「あいつは……まだ帰っていないのか」 小さく息を吐く。 彩羽が荷物をまとめ家を飛び出してからもう何日も経っている。 そろそろ頭も冷えただろうと、晩餐会の後に彼女がいる場所を突き止めて連れ帰ろうとしたけれど、「帰らない」と言われたことを思い出し、雅臣は顔を苦々しく歪めた。「まったく……今回は意地になりすぎだ」 額へ手を当てる。 離婚だなんだと言っていたが、あれは感情的になっているだけだ。 今までは何があったって大人しく自分の傍にいてくれたじゃないか。 友人たちは軽い冗談を言っただけだし、麗華とのことだって……。 雅臣はもう一度、深くため息を吐く。 彩羽は自分の妻で、何不自由なく過ごさせてきたはずだ。それなのに、麗華に嫉妬して当たるなんてどうかしている。 けれど、それももう少し時間を置けば落ち着くだろう。 雅臣はそんなことを考えながら、ジャケットを脱いでクローゼットのある寝室へと入った。 本棚の横にある大きな棚。そこには、小さなジュエリーケースが整然と並んでいる。 一つ。また一つ。彩羽へ贈ってきた九十九個のサファイヤの贈り物。 雅臣は一番新しいベルベットのケースを取り出した。 蓋を開く。中には、深い青色のサファイア。 けれど、その表面には小さな欠けがあった。 あの日、彩
Last Updated: 2026-10-13
Chapter: 第21話 心配なんです
 研究センターでの初めてのリハビリを終え、夕暮れの街を奏介くんの車がゆっくりと走っていた。 車内には上品で穏やかなクラシックが小さく流れている。 私は窓の外へ視線を向けながら、今日一日の出来事を思い返していた。 歌えなかったけれど、不思議と心は軽かった。 音楽はまだ、自分の中に残っている。そう教えてもらえたから。「今日は、お疲れさまでした」 信号で車が止まる。ハンドルを握る奏介くんが私のほうを見た。「初日としては、本当に良かったと思います」 私は少しだけ眉を下げながら笑って頷いた。【歌えなかったけどね】 手話でそう返すと、奏介くんは小さく首を横へ振る。「歌えなかった、じゃありません」 一拍置いて続ける。「今日は音楽に戻れた日です」 その言葉に、私は静かに目を伏せた。胸の奥が、また少しだけ温かくなる。とくとくと心臓が高鳴っている。瞼の裏に、学生時代、大きなホールで歌った日のことが昨日のことのように思い浮かんだ。◇ 車は住宅街へ入り、やがて私のマンションの前で停まった。「着きましたよ」 奏介くんは車を降りると、助手席のドアを開けてくれる。 私は「ありがとう」と唇を動かしながら車を降りた。けれど奏介くんは、すぐには歩き出さなかった。 周囲を静かに見回している。 道路の向こう。 駐車場。 建物の影。 まるで誰かがいないか確認するように視線を巡らせている。 私は不思議に思って首を傾げた。しばらくして、奏介くんはようやく安心したように小さく息を吐き出した。「……今日は、大丈夫そうですね」 私はその言葉の意味を理解して、胸が少し締めつけられた。 奏介くんは、晩餐会の後にあった出来事を考えてくれていたのだ。 雅臣が突然現れた、あの日のことを――。 奏介くんはその
Last Updated: 2026-10-11
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