Chapter: 第104話 境界線 神宮寺家の離れにある華道教室。 大きな窓から柔らかな陽射しが差し込み、季節の花々が静かに並べられている。「それでは今日は、『夏の風』をテーマに生けてみましょう」 澪が穏やかな笑顔で声を掛ける。 綾人が用意してくれた、初心者で、子どもの門下生を対象にした講習会。 自分もまだ初心者で、教えられる立場ではないかもしれない。 けれど、まずは『花を好きになってもらう』。その気持ちは、私でも教えることができる。「花の向きや形に正解はありません。皆さんが感じた『夏らしさ』を、お花で表現してみてください」「はーい」 門下生たちが一斉に花へ向き合う。 教室には花ばさみの小さな音だけが心地よく響いていた。 澪は一人ひとりの作品を見て回る。「こちらのお花、少しだけ角度を変えてみましょうか」「……あっ」「ふっと軽くなったような感じがしませんか?」「わぁ……」 澪と子どもたちの間に自然と笑顔が広がる。 その様子を部屋の後方から綾人が静かに見守っていた。 腕を組み、何も口を出さない。 ただ澪が教える姿を見つめている。 そんな綾人の隣では、花材出しの手伝いをしていたひまわりも穏やかに微笑んだ。「皆さま、とても楽しそうですね!」「ああ」 綾人は短く頷く。 澪は、誰の作品も否定しない。 その人らしさを見つけて言葉にする。 幼い頃、宗一郎が子どもたちに向き合っていた姿とよく似ている気がした。――おじい様がこの姿を見たら、きっと喜ぶだろうな。 綾人はその瞳を懐かしそうに細めた。 ◇ その頃、一台のタクシーが神宮寺家の門前へ停まった。 美羽は降車すると、目の前に広がる立派な屋敷を見上げる。「すごぉい……」 思わず感嘆の声が漏れる。(やっぱり、素敵) ここが、綾人の家。 未来の自分が暮らす場所。 そう思うだけで胸が高鳴った。 美羽はスカートの皺を整え、髪を軽く直す。 そして、大きな門の横にあるインターホンを押した。 しばらくして、スピーカーから声が聞こえてきた。『どちら様でしょうか』 落ち着いた女性の声。それは佐伯の声だった。 美羽はカメラに向かってぱっと笑顔を作る。「こんにちはぁ、白石美羽ですっ」 可愛らしく小首を傾げる。『……白石美羽さまでございますね』 佐伯の声は変わらず、落ち着いていた。「はい
Last Updated: 2026-08-06
Chapter: 第103話 お姉ちゃんと妹 週末の朝。 鏡の前で、美羽は髪をゆるく巻き、淡いピンク色のリップを丁寧に重ねた。 白いブラウスに、ふんわりと揺れるスカート。 鏡へ向かってくるりと一回転すると、満足そうに微笑む。「よしっ」 バッグを肩へ掛けた、そのときだった。「美羽、あんた、今日は大学どうしたの?」 リビングから母の声が飛ぶ。「休む」「また?」 母は眉をひそめた。「あんたねぇ、澪がお金を入れてくれなくなって、誰が大学の学費払ってると思ってるの?」 その言葉に、美羽は笑顔のまま、心の中で小さくため息をつく。(はぁ~……うるさいなぁ) 今まで散々、美羽を甘やかしていた母親は、澪がいなくなった途端、現実的なことばかり言い始めるようになった。「今、大学より大事なことしてるの」「はぁ?」 母が怪訝そうな顔をする。 美羽は肩をすくめ、少し困ったような笑顔を作った。「私ね、拓真さんと別れたの」「……え?」 母の目が大きく開く。「ちょっと、どういうこと!?」「だってぇ……」 美羽はため息混じりに眉を下げる。「拓真さん、やっぱりお姉ちゃんのことが好きなんだって」 母は絶句した。「でもね、あの二人もうまくいかなかったみたい」 そう付け加えると、母は力が抜けたようにソファへ座り込む。「そんな……これからの生活が……。いやでも、まだ澪が神宮寺さんと……」 小さくぶつぶつと呟く母を見て、美羽は口元だけで笑った。(結局、お母さんもそこなんだ) 私じゃなくて、お金。 昔から何も変わっていない。(それに、綾人さんはお姉ちゃんとじ
Last Updated: 2026-08-05
Chapter: 第102話 澪のための場所 ワークショップを終え、神宮寺の屋敷へ戻る頃には、空は茜色に染まり始めていた。 玄関の扉を開けると、佐伯が穏やかに一礼する。「お帰りなさいませ、澪さま」「ただいま帰りました」 その声に澪は笑顔で返す。 今日も無事に終わった。 参加者たちも笑顔だった。 田中にも感謝された。 美羽も、誰から見てもよく働いていた。 それなのに、どうしてだろう。 胸の奥だけが、少しだけ重い。 澪はそっと自分の胸元に下がるお守りを握り締めた。 ◇ 夕食を終えたあと、綾人はリビングに飾るための花を生けていた。 静かな空間。 佐伯たちも別の作業をしていて、今、この場には澪と綾人しかいなかった。 花ばさみの小さな音だけが響いている。 澪はその様子を少し離れた場所のソファから見つめていた。「……綾人くん」「どうした」 手は止めないまま、静かな返事が返ってくる。 澪は少しだけ躊躇ってから、口を開いた。「今日も、ワークショップ、楽しかったです」「ああ」「皆さん、とても喜んでくださって……」 そこまで言って、言葉が止まる。 綾人はようやく花から視線を外し、澪を見る。「何かあったな」 その一言だけで、胸の奥に隠していたものが少しだけ揺れた。「……美羽が」 ぽつりと零す。「ボランティアで来ていました。その前は、受講者として」 綾人は静かに、澪の言葉の続きを待つ。驚いた様子はない。「すごく頑張っていて……皆さんにも好かれていて、だから何も言えないんです」 澪は苦笑する。 花を好きになることは悪いことじゃない。 誰かの役に立ちたいと思うことだって。 だからこそ。「私が我慢すればいいだけなのかなって……。お仕事には、私の感情は関係ないですし……」 実家でのこと。これまでのこと。 拓真と美羽の関係。全部、華道には関係がない。 そう紡ぐ澪の声は、少しだけ寂しそうだった。 綾人はしばらく黙っていた。 花器へ一本の枝を添え、角度を整える。 そして、やがて、小さく口を開いた。「楽しめているか」「……え?」「今のワークショップだ」 澪は少しだけ目を伏せた。 考える。 そして、小さく笑う。「……楽しいです。でも、少しだけ……」 少しだけ、前みたいには、笑えていない。 綾人はその答えを聞くと、小さく頷いた。「分かっ
Last Updated: 2026-08-04
Chapter: 第101話 一歩、一歩 二週間後の地域文化センターでは、次のワークショップの準備が進められていた。 澪はいつものように花材を並べ、ひとつつひとつ丁寧に状態を確認していく。「白石先生! おはようございます」 田中が嬉しそうに澪に手を振った。「おはようございます」 澪も笑顔で頭を下げる。「今日は、新しくボランティアスタッフさんが来てくださるんですよ」「そうなんですか?」「はい。人数が増えると準備も片付けも助かりますから」 そう話していると、入口のほうから明るい声が聞こえた。「おはようございまーすっ」 澪の肩がぴくりと震えた。聞き慣れた甘い声。嫌な予感に、振り返る体が強張った。「……美羽」 今日も柔らかなワンピース姿の美羽が、にこにこと手を振っていた。「あ、お姉ちゃん! じゃなくって、澪先生」 まるで、ここにいることが当たり前であるかのような笑顔。 田中が嬉しそうに二人を見比べる。「驚きました? 美羽さん、自分からお手伝いしたいって来てくださったんですよ」「本当に助かりますよねぇ」と、無邪気に続けた田中に、澪は小さく笑顔を作った。「……そうですか」 美羽は嬉しそうにバッグの中からエプロンを取り出すと、それを身に着けた。「今日はいっぱい頑張りますね!」 その小首を傾げるように笑った美羽の笑顔から、澪はそっと目を逸らした。 ◇ イベントが始まると、美羽は驚くほどよく動いた。「受付はこちらです」「名札はこちらになります」 笑顔。気配り。丁寧な言葉遣い。 子どもが転びそうになれば駆け寄り、高齢の参加者には椅子を引く。「美羽さん、本当に助かります!」 田中が何度も笑顔になる。「そんな、全然です」 美羽は照れくさそうに
Last Updated: 2026-08-02
Chapter: 第100話 妹の善意 ワークショップから数日後。 地域文化センターでは、田中が次回イベントの準備を進めていた。「受付名簿は……これで大丈夫ですね」 資料へ目を通していると、受付から声が掛かる。「田中さん、お客様です」「はい」 顔を上げると、そこには見覚えのある女性が立っていた。「あの……こんにちは」 柔らかな笑顔。 白いブラウスに淡いピンク色のスカート。 先日のワークショップへ参加していた女性だった。「あっ!」と、それが誰かを思い出して、田中は嬉しそうに立ち上がる。「白石先生の妹さん!」「覚えていてくださったんですね」 美羽は照れたように笑うと、丁寧に頭を下げた。「この前は、本当にありがとうございました」「こちらこそ、ご参加ありがとうございました」「すごく楽しかったです」 そう微笑む姿は人当たりがとてもよく、また、礼儀正しかった。「私、お花って難しいものだと思ってたんです。でも、お姉ちゃ……じゃなくて、澪先生のお話を聞いてたら、もっと知りたくなっちゃって」 田中は嬉しそうに微笑む。「きっと白石先生も喜びますよ」 美羽は少しだけ頬を染める。「昔から、お姉ちゃんに憧れてたんです。何でもできて、優しくて。だから私も、少しでも近付きたくて」 その言葉を聞いた田中は、自然とその口元を緩めた。(本当に仲のいい姉妹なのね) そう思った、そのときだった。「実は……」 美羽が少しだけ遠慮がちに口を開く。「何か、お手伝いできることってありませんか?」「え?」「受付でも、お掃除でも、荷物運びでも」「澪先生のお役に立てたら嬉しいなって」 田中は思わず目を丸くする。「ボランティアって、募集されていますよね?」「はい。していますけど……」 最近は参加者が増え、受付や会場設営を手伝ってくれる人が足りなくなっていた。 正直、とても助かる。「もしご迷惑じゃなければ……ぜひ、お手伝いさせてくださいっ」 美羽は勢いよく深く頭を下げた。 田中は少しだけ考えたあと、ぱっと笑顔になる。「はい。白石先生の妹さんなら、こちらも安心ですし、ぜひお願いします!」「本当ですか?」「もちろんです!」 美羽は嬉しそうに両手を合わせ、愛らしく飛び跳ねた。「ありがとうございます!」「白石先生も、妹さんがお手伝いしてくれるって知ったらきっと喜びますよ」
Last Updated: 2026-08-02
Chapter: 第99話 彼女が見ているもの ワークショップが始まると、会場には穏やかな空気が流れ始めた。「今日は、皆さんそれぞれが『好き』と思ったお花を選んでください」 澪が優しく声を掛ける。「正解はありません。皆さんが『きれいだな』、『好きだな』と思った気持ちを大切にしてくださいね」 参加者たちは笑顔で頷き、それぞれ花材の並ぶテーブルへ向かっていく。「先生、このお花使ってもいいですか?」「もちろんです」「先生、この葉っぱも一緒にしてみたいんだけど……」「素敵だと思います。それなら、ここにこうやって……」 会場には自然と笑顔が増えていく。 そんな中、美羽は誰よりも熱心な生徒だった。「澪先生、このお花とこのお花なら、どっちが合いますか?」「澪先生、この高さで大丈夫ですか?」 次々と質問を重ねてくる美羽に、澪は他の生徒と接するときと同じように、ひとつひとつ丁寧に答えた。 ふっと湧いて出て来そうになる「どうして?」という疑問を、押し殺しながら。「どちらも素敵ですよ。美羽……美羽さんが好きだと思うほうを選んでみてください」「わかりました!」 美羽は嬉しそうに微笑む。 その姿を見ていた参加者の一人が、感心したように口を開いた。「妹さん、とても熱心ですね」「ええ、本当に」 前回から引き続いて、今回のワークショップも担当してくれている田中も嬉しそうに頷いた。「お姉さんのこと、尊敬されているんですね」「はい! 私、お姉ちゃんみたいになりたくってぇ」 美羽がにっこりと微笑む。 澪も、小さく笑顔を作った。「……ありがとうございます」 胸の奥は、少しだけ苦しかった。 それでも今日だけは先生でいなければならない。 誰に対しても平等に。 誰に対しても優しく。 そう心に決めて、一人ひとりの作品を見て回った。 ◇「それでは最後に、皆さんの作品を見せていただきましょう」 完成した作品が机の上へ並ぶ。「わぁ、素敵!」「みんな違って面白いですね」 拍手が起こる。 子どもも大人も、自分だけの花を嬉しそうに見つめていた。「今日は本当にありがとうございました!」 参加者たちが笑顔で頭を下げる。「白石先生、また参加したいです」「すごく楽しかったです」「花がもっと好きになりました」 その言葉を聞いて、澪も自然と笑顔になった。「こちらこそ、ありがとうござい
Last Updated: 2026-08-01