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第4話

Author: あの頃の月を愛す
夕方、研嗣はキッチンに立ち、豚の角煮を作る。何度も味見をしたあと、最後に少しだけ蜂蜜を加える。私が甘めの味つけを好むことを、彼は覚えている。

皿に盛りつける時も、形のきれいな肉を選んで一番上に並べる。

「安奈が帰ってきてから食べよう」

食卓についた怜花が、お腹を押さえる。

「でも、私、お昼からほとんど何も食べてなくて……」

研嗣は時計に目をやる。午後6時40分、私はまだ帰っていない。

「じゃあ、お前は先に食べろ」そう言って、皿を怜花の前へ押し出した。

「安奈が帰ってきたら、また作ればいい」

怜花が一切れ取ると、煮汁がネックレスのペンダントについた。研嗣はすぐにティッシュを取り出し、彼女の首元へ手を伸ばしてそれを拭き取る。

ペンダントの裏側には、私と研嗣が付き合い始めた記念日が刻まれている。それを見ると、研嗣の手が、ふと止まる。怜花も視線を落とした。

「二人の思い出の品だったのね。今外すから」留め具に手をかける怜花を、研嗣が制す。

「そのままでいい」たった一言で、わずかに揺らいだ気持ちを押し込めてしまう。

食事を終えて、リビングのローテーブルを片づけていると、研嗣は引き出しの奥から空になった薬瓶を見つけた。

ラベルには、心臓の治療に使われる薬の名前が印刷されている。瓶には、服用時間を書き留めた付箋も貼られている。

研嗣はそれを手に取り、眉をひそめる。

「また変なサプリでも買ったのか……本当に手がかかるやつだな」

そのままゴミ箱へ放り込んだ。硬い音を立て、薬瓶がゴミ箱の内側にぶつかる。

薬を隠していたのは、結婚前の検査で心臓に問題があると分かったからだ。今はまだ仕事を優先して、落ち着いてからきちんと検査を受けようと思っていた。

それに、研嗣に知られたら、結婚をやめると言われるのが怖かった。

けれど私は、勘違いしていた。私を死に追いやったのは、最後まで言い出せなかった病気だけではない。助けを求めたとき、研嗣がそれを嘘だと決めつけたことだ。

研嗣はソファに戻り、スマホのアルバムを開く。画面の中で、私は彼の肩にもたれながら、目を細めて笑っている。写真を拡大し、研嗣の指先がそっと私の頬をなぞる。

「どれだけ拗ねようと、俺の妻になるのはお前だけだ」

その呟きと重なるように、スマホが鳴り響く。管轄の警察署からの電話だ。相手は本人確認をしたあと、すぐに本題を告げる。

「進藤安奈さん、女性、28歳です。所持品から身元はすでに確認されています。病院側から何度もご家族へ連絡を試みましたが、つながりませんでした」

研嗣はソファに深く身を預けた。声には、まだ余裕がある。

「安奈は、ただ俺と喧嘩しているだけです。

警察の方々まで巻き込んでしまって申し訳ありませんが、安奈が帰ってきたら、俺からきちんと注意します」

電話の向こうの声が低くなる。

「悪ふざけではありません。所持品から、深沢さんの連絡先が見つかりました。病院での処置記録と死亡診断書も、すでにこちらへ引き継がれています。

今すぐお越しください。ご対応いただけない場合は、進藤さんの家族へ連絡を入れます」

研嗣の顔から、わずかに笑みが消えた。

「……死亡診断書?」

「ええ。直ちにお越しください」

一方的に電話が切れる。家の中が静まり返った。研嗣はしばらくスマホを見つめていたが、やがて立ち上がり、上着を手に取る。

怜花も後を追うように立ち上がる。「本当に行くの?」

「どうやら、警察まで巻き込んで大騒ぎしているらしい」

研嗣はエアコンの設定温度を調整しながら、疲れたように息をつく。

「迎えに行ってくる。退屈なら安奈の部屋で休んでいろ。ベッドサイドの引き出しにタブレットがある」

そこは、私に残された最後のプライベートな空間だった。引き出しの中には結婚式の進行表も、検査結果も、そして長い間大切に取っておいた、研嗣からの謝罪のメモもある。

彼はそこまで、怜花に開け渡してしまった。

警察署へ向かう途中、研嗣は花屋に立ち寄り、バラの花束を買った。

「これを見れば、さすがに機嫌も直るだろ」

ネクタイを整え、わがままを言って家を飛び出した婚約者を迎えに行く男そのものの顔をしている。

署内の遺体安置所で、警察官が遺品袋を差し出す。スマホ、マンションのカードキー、婚約指輪、そして社員証……

研嗣は指輪を手に取り、じっと見つめてから口元を歪めた。

「小道具までずいぶんと手が込んでるな」

警察官の眼差しが冷たくなる。「深沢さん。故人に対して、そのような言い方は控えてください」

「安奈は死んでない!」指輪を強く握り込む。

「先週だって健康診断を受けたばかりだ。あいつは昔から丈夫だった。熱を出すことも滅多にない。

喧嘩するたびに、あいつはいろんな悪ふざけで俺を困らせて、言うことを聞かせようとしてきた……」

「ご遺体は、この奥にあります」警察官が冷ややかに研嗣の言葉を遮る。

「本人かどうか、自分の目で確認してください」

霊安室の扉がゆっくり開くと、中から冷気が足元を這うように流れ出してくる。研嗣は一瞬だけ足を止め、それでも花束を抱えたまま、中へ入っていく。

最奥には、白いシーツを頭から足先までかけられた私が横たわっている。手首には、身元確認用のタグが結ばれている。

研嗣はベッドのそばまで歩み寄り、赤いバラを置いた。そして身をかがめ、白いシーツの下にある私の肩を軽く叩く。

「安奈、もうやめろ」その声は、泣き出しそうなほど優しく、どこまでも甘やかだ。

「こういう悪ふざけも、たまになら可愛いが、何度もやられたら、もう面白くもないぞ。

もういい。俺は怒ってないから、起きて一緒に帰ろう」

白いシーツの下から、返事はない。彼はもう一度、優しく肩を揺する。

「外はまだ雨が降ってる。こんな寒い場所は嫌いだろ。連れて帰ってやるから」

警察官が、ついに堪えきれなくなったように白いシーツを一気にめくり上げる。蛍光灯の冷たい光が、血の気を完全に失った私の顔を容赦なく照らし出す。

研嗣の顔に張り付いていた微かな笑みが、凍りつく。

握っていた婚約指輪が甲高い音を立てて床に落ち、そのままストレッチャーの車輪へぶつかって止まる。

「進藤さんは亡くなりました。これは悪ふざけでも芝居でもありません」

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