LOGINバレンタインの夜、私・進藤安奈(しんどう あんな)は救急外来で息を引き取った。 婚約者の深沢研嗣(ふかざわ けんじ)はその頃、同じフロアの突き当たりにある病室で、私の親友、江口怜花(えぐち れいか)に付き添っていた。 3日間、休みなく働き続けた結果、急性心不全を起こした。懸命な処置もむなしく、私はそのまま帰らぬ人となった。 一方の怜花は、食べすぎた魚介類が原因で胃腸炎になっただけだった。それでも泣きながら、研嗣にそばにいてほしいと頼んだ。 「研嗣さん、ごめんなさい。せっかくのバレンタインなのに、安奈を置いて私のところに来てもらっちゃって……」 研嗣は優しく掛け布団を整えながら、少し困ったように言う。 「気にするな。安奈は普段から体が丈夫だからな。 さっきも電話で胸が苦しいって言ってたが、どうせ俺が一緒にいないのが気に入らなくて、また嘘をついてるだけだろ」 そう言ってスマホを手に取り、私へ音声メッセージを送る。 「安奈、いい加減にしろ。いつまで拗ねてるんだ? 上着を持って来い。今夜のことは、もうなかったことにしてやる」 それから30分後、病室の前を、看護師に押されたストレッチャーが通り過ぎていく。 遺体には白いシーツが頭までかけられている。その端から力なく垂れ下がった青白い手の薬指には、研嗣とお揃いの婚約指輪が冷たく光っている。 怜花がわざとらしく口を押さえ、驚いたように言う。 「研嗣さん、見て……あの人の指輪、安奈のとそっくりじゃない?」 返信のないトーク画面を見つめたまま、研嗣は低い声で言う。 「そんなはずない。あいつは先週、健康診断を受けたばかりだ。 まだ怒ってるんだろ。だからわざと返信しないだけだ」 …… 研嗣はまだ知らない。 白いシーツの下に横たわっているのが、10年間、ただひたすら彼を愛し続けてきた安奈だということを。
View More研嗣が薬を飲み込んだ瞬間、私は数歩離れた場所に立ったまま、すぐには去らなかった。舞い散る雪は次第に勢いを増していく。やがて研嗣の呼吸が乱れ、両手で胸元を強く押さえる。同じ薬を飲んだからといって、あの日の私と同じようになるわけではない。けれど、長い間治療を拒み、何度も無理を重ねてきた体は、ついに限界を迎えた。研嗣は墓石のそばに倒れ込み、私の名が刻まれた冷たい石肌に額を押し当てる。「こんなにも……苦しかったのか」息をするたびに苦しげに胸を上下させながら、喘ぐように言葉を絞り出す。「あの夜……お前は、今の俺よりもっと苦しかったのか?」答える声はない。ぼんやりとしていた視線が、ふいに私のいる方へ向いた。「……安奈?」私は、自分の姿を見下ろす。今度だけは、彼にも本当に私が見えているようだ。研嗣は最後の力を振り絞って身を起こし、傷だらけになった手を伸ばしてくる。かつての余裕などどこにも残っていない。「やっと、来てくれた」目尻からこぼれた涙が、白い雪の中に吸い込まれていく。「怜花は追い出した。ネックレスも取り返した。お前のウェディングドレスも……3年かけて直してもらった。でも、どうしても跡が消えなくて……会社も、家も、金も、もう何も要らない」途切れ途切れの声で必死に重ねる言葉は、あまりにも遅すぎる償いばかりだ。「安奈、俺は償いに来たんだ」震える指が、すがるように空をさまよう。「もう一度……やり直せないだろうか?」降り積もる雪の中、立ち尽くしたまま彼を見つめ返す。高熱を出した私を背負って病院まで駆けてくれたこともある。誰もが反対する中で、私の手を離さなかったこともある。私の些細な癖をすべて覚え、これから先の人生にも、当たり前のように私がいるものだと思っていた。あの優しさは嘘ではなかった。だからこそ、10年もの間、彼を愛していた。けれど、バレンタインの夜、私からの電話を何度も切ったことも事実だ。他の女に私のウェディングドレスを着せたことも、私の薬をゴミ箱に捨てたことも、紛れもない事実だ。過去にどれほど愛されていたとしても、その後に受けた傷が消えるわけではない。研嗣は雪の上を、こちらへ向かってわずかに這い進んだ。指先が、あと少しで私のスカートの裾に届きそうになる。「安奈、俺が悪かった。ち
研嗣が目を覚ましたとき、病室には生体情報モニターの規則正しい音だけが響いている。枕元には、すでに傷んでしまった雑炊が置かれている。長い間、天井を見つめていた研嗣は、やがてかすれた声で呟く。「夢の中でさえ、俺とは話したくないのか」退院後、研嗣は私とよく似た声を持つ女性を雇った。リビングで録音に合わせ、その女性が「研嗣」と名を呼んだ瞬間、彼の手が止まった。女性はゆっくりと近づき、乱れた襟元を整えようと手を伸ばす。「こう呼んでほしかったんでしょう?」けれど、研嗣は突然、その女性の首元をつかんで突き放した。指先に力が入ったのはほんの一瞬で、すぐに手を離す。「その声で喋るな」ソファの脇に倒れ込んだ女性は、怯えた目で彼を見上げる。研嗣は報酬を支払い、彼女を帰らせた。扉が閉まったあと、壁にもたれたまま、ゆっくりと床へ座り込む。「違う……あいつじゃない」声も、服も、仕草も、何ひとつ私の代わりにはならないと、彼はようやく悟ったのだ。……研嗣は、自分名義の不動産や預金、保有する株式を処分し、そのすべてを私の両親に渡そうとした。けれど父は、そのすべてを送り返した。「安奈は商品じゃない。金で許しを買えると思うな」結局、その金は私の名前を冠した支援基金として残した。それ以上両親に押し付けるのをやめた。その後、研嗣は山あいの寺を訪れる。険しい参道を登り続ける。足が傷ついても、僧侶に止められても、石段を這い上がっていく。「安奈を生き返らせてほしいなんて言いません」本堂の外で膝をつき、声を絞り出す。「もう一度だけでいい、彼女に会わせてください。どんな対価でも払います」僧侶はしばらく彼を見つめ、それから静かに言う。「亡くなった方の心は、すでにあなたから離れている。夢にさえ現れない者を、無理に引き留めることはできない」研嗣は石段で、一晩中座っていた。山を降りると、街にはまた雨が降り始めていた。向かったのは、私たちが初めて出会ったあの交差点だ。10年前、私はそこで、雨に濡れていた見知らぬ彼に傘を差し出した。研嗣はあとになって、あの日の雨が私を連れてきたのだと、何度も口にしていた。今、彼は車の行き交う交差点で、何度も私の名前を呼ぶ。けれど、応じる人はいない。雨の中に立ち尽くし、信号が赤から青へ、青から赤へと移り
研嗣は、会社の会議で一連の出来事をすべて公にした。怜花はただ怖かっただけだと取り繕おうとするが、研嗣はネックレスの箱を彼女の前へ放り投げる。「怖かったから、安奈のものを奪ったんだろ。安奈が助けを求めたときも、俺はただ意地を張ってるだけだと思った」そこで言葉を切る。声はひどく低く、かすれている。「俺のほうが死ぬべきだった」怜花は解雇された。さらに、研嗣の署名を勝手に利用して結んでいた保証契約や借入金についても、責任を問われることになる。これまで研嗣の特別扱いによって手にしてきたものは、あっという間に彼女のもとから消えていった。けれど、胸のすく思いなど微塵も湧かない。怜花を罰すれば私が戻ってくるのなら、研嗣はきっと、彼女をどこまでも追い詰めただろう。けれど、本当に裁かれるべきなのは、私が決して自分のもとを去らないと、疑いもなく信じていた研嗣自身なのだ。私がいなくなったあと、研嗣の会社では、私が担当していた仕事を引き継げる者が現れず、重要なプロジェクトが完全に止まった。取引先からは責任を追及され、社員たちも次々と会社を離れていく。かつて彼を一途な男だと持ち上げていた人たちも、いつしか距離を置くようになる。婚約者を間接的に死に至らしめたという噂が広まるが、研嗣は、何ひとつ否定しなかった。報道陣に囲まれたときも、ただ一言だけ静かに返した。「すべては噂通りだ」すべての責任を、自分一人で背負う。そうして、築き上げてきたものが少しずつ崩れていっても、止めようとはしなかった。夜になると、研嗣はまた私の墓の前へやってくる。額を伝う雨をぬぐうこともなく、壊れたカイロを墓石のそばにそっと置いた。「安奈……もう、誰も俺のそばにいない」自嘲するような笑い声が、雨音の中に溶けていく。「前に言ってただろ。俺が振り返れば、いつだってそこにいるって」墓石の向こう側から、雨に打たれ続ける彼を見つめていた。けれど、人は死んだあと、もう戻ることなんてできない。……研嗣は、私たちの新居をまるで祭壇のように変えてしまった。玄関に置いた私のスリッパを片づけることもなく、私が使っていたカップにも誰も触れさせない。毎日、夕方になると、豚の角煮を作り、私の席に置く。「安奈、今日は誰にも食べさせなかったぞ」そう
研嗣は怜花の横をすり抜け、ウェディングドレスを両手で抱え上げる。壊れ物を扱うように、ひどく慎重で愛おしそうな手つきだ。「待って、研嗣さん。ちゃんと説明するから……」怜花が研嗣の腕をつかもうとする。「鍵を置いていけ」研嗣は振り返りもしない。「二度と、この家に入るな」「でも、昨日は研嗣さんが泊まっていいって」そこでようやく、研嗣は顔を上げる。冷え切った目が、怜花を見据えた。「ここから出ていくべきなのは、お前だけじゃない。俺も同じだ」怜花の顔から、さっと血の気が引いた。研嗣は彼女のスーツケースをつかみ、そのまま玄関の外へ引きずっていく。そして、カイロもネックレスもコートも、怜花から私のものを一つ残らず取り上げた。ネックレスの留め具が怜花の髪に絡まっても、手を貸そうとはしない。ただ、自分で外せと低く言い放つだけだ。ドアが閉まると同時に、研嗣はリビングのゴミ箱へ駆け寄る。すでにゴミは家政婦によって袋にまとめられている。床に膝をつき、袋を引き裂いて中身を掻き回す。割れた植木鉢の破片が手のひらを傷つけても、気にする様子はない。やがて、汚れた空き瓶を見つけ出した。袖口で何度も何度も汚れを拭き取る。薬の名前が、もう一度はっきり見えるようになるまで……スマホの電源を入れると、通知が一斉になだれ込んでくる。千春から送られてきたのは、私の勤務記録と、まだ提出されていなかった報告書だ。3日間、休む間もなく働き続けたのは、意地を張っていたわけではない。研嗣の会社の書類に重大な不備が見つかり、バレンタインまでに修正できなければ、彼の会社に大きな損失が出ると知ったからだ。私はそのことを彼に言わなかった。本来なら三人で分担するはずだった確認作業を、一人で引き受けた。報告書の最後のページには、私の署名が残されている。研嗣はテーブルの端に手をつき、そのままゆっくりと床へ崩れ落ちた。続いて、通話履歴を開く。2月14日、午後9時52分。そこには、私からの不在着信が一件だけ残っていた。意識を失う直前、胸の激痛に息も絶え絶えになりながら、最後にかけたのは、研嗣の番号だった。しかしそのとき、彼は怜花の布団を整えていた。その後、私のタブレットを手に取る。メモを開くと記録が一つ残っていた。2月14日、8時13分。【胸の痛みが、どんどん