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第3話

Author: あの頃の月を愛す
玄関のスマートロックが解錠された瞬間、研嗣は無意識に声をひそめる。

「安奈、ただいま」

けれど、玄関に私のスリッパはない。部屋の中から返事が返ってくることもない。しばらくその場に立ち尽くしたあと、手にしていた袋を軽く持ち上げる。

「お土産、買ってきたぞ。出てこないなら、もう機嫌直ったってことにするからな」

袋の中に入っているのは、帰る途中で買った小さなクマのぬいぐるみだ。10年前、初めて喧嘩したあと、私の機嫌を取ったときにも、研嗣は同じようなものをくれた。

それでも、私の姿が現れることはない。

研嗣は袋を靴箱の上に置くと、緊張がふっと解ける。そして振り返り、怜花のスーツケースを受け取る。

「安奈がいないなら、かえって静かでいい。

しばらくゲストルームで休め。体調が戻ったら帰ればいい」

怜花は靴を脱ぎながら、遠慮がちに言う。

「でも、いいの?安奈、私が泊まるの嫌がるし」

「この家は俺の家でもある」平坦な声には、何の迷いもない。

怜花がスーツケースをゲストルームへ運んだあと、部屋を出るときに窓辺のコチョウランの鉢植えを倒してしまった。

植木鉢が床に落ち、鈍い音を立てて砕ける。細かな破片が散らばり、土の中から細い根がむき出しになった。

その鉢植えを、私は3年間育ててきた。去年、一度根腐れを起こしたときには、夜中まで育て方を調べながら手入れを続け、半月かけてようやく持ち直させた。

研嗣もそれを知っていた。だから、家政婦にもあの鉢だけは触れないよう言っていた。

怜花は慌ててしゃがみ込み、植木鉢の破片を拾おうとする。その手首を、研嗣がとっさにつかんだ。

「触るな」

研嗣は怜花の手のひらを開かせ、傷がないか丁寧に確かめる。何もないと分かって、ようやく手を離した。

「割れたなら仕方ない。安奈だって、鉢植え一つで怒ったりしない。怪我がないのが何よりだ」

私は散らばった土のそばにしゃがみ込み、むき出しになった根を埋めようとする。けれど、手は花びらをすり抜けるだけだ。誰にも、見えない。

研嗣は家政婦に、割れた鉢も花もまとめて片づけさせた。そのあと、ふとテーブルの上に置かれたシフト表に目を留める。

そこには、3日間続けて赤い丸がつけられている。1日16時間の勤務が、3日間続いている。その横には、研嗣の会社へ提出する資料の締め切りが几帳面に書き込まれている。

それにざっと目を通したあと、研嗣は小さくため息をついた。

「……安奈は、本当に無理をしすぎる」

怜花が不思議そうに尋ねる。「3日間、ずっと働いてたの?」

「いつもそうだ。人に頼ることを知らない」

研嗣はシフト表を雑誌の下へと押し隠す。

「お前みたいに、つらい時につらいって言って、人を頼ればいいのに」

シフト表が隠れた瞬間、不意にバレンタイン前の夜を思い出す。あの時すでに胸が苦しくなっていた私は、スマホを握りしめ、迎えに来てほしいと研嗣に電話をかけた。

電話の向こうから聞こえてきたのは、一人でいるのが怖いと泣きじゃくる怜花の声だった。結局私は、「気をつけて帰ってね」とだけ言った。

そんな私を、研嗣は「本当に聞き分けがいいな」と褒めた。今になって分かる。「聞き分けがいい」というのは、優先されなくてもいい理由だったのだ。

……

午後、研嗣はソファに腰を下ろし、一枚のメモにゆっくりと何かを書き始める。

【安奈へ。

昨日は約束を破ってすまなかった。怜花の体調が落ち着いたら、改めてバレンタインの埋め合わせをする。

玄関にクマのぬいぐるみを置いてある。気に入るといい。帰ってきたら電話してくれ。

研嗣】

書き終えると、メモをグラスの下にきちんと挟む。それだけで、きちんと謝ったつもりなのだろう。

私はそのメモを見つめながら、一瞬だけ、本当に研嗣の隣へ座りたいと思った。

以前から、私たちが喧嘩をするたび、彼はこうして置き手紙を残してくれた。短い言葉ばかりだったけれど、投げやりに書かれたものは一つもない。

私はそれを一枚ずつ取っておいた。引っ越す時も、1枚も捨てなかった。

ゲストルームから出てきた怜花の腕には、私のウェディングドレスが抱えられている。

「研嗣さん、この箱、ふたが少し開いてて……うっかり見えちゃった」

それは、私が自分の手で仕立てた、世界に一つだけのドレスだ。裾にあしらった何百粒のパールは、眠る時間を削りながら、1粒ずつ縫い付けたものだ。

来月の結婚式で、最初に研嗣へ見せるつもりだった。

怜花はドレスを胸元に当て、目を輝かせる。

「すごくきれい。一度だけ、着てみてもいい?」

研嗣の視線が、ウェディングドレスの上をゆっくりと滑る。一瞬だけ、迷ったように見える。

「……汚すなよ」

断るのかと思った。けれど怜花は満足そうに微笑む。

「大丈夫。ちゃんと気をつけるから」

怜花はそのままゲストルームへ入っていく。研嗣は止めなかった。むしろ、その背中に向かって穏やかな声をかける。

「お前にも似合うはずだ。試着するだけなら、安奈も怒らない」

私の手が、謝罪のメモの上で止まる。彼が私のために書いた埋め合わせの言葉は、この瞬間にはもう意味を失っていた。

ウェディングドレスは、怜花には少し大きかった。裾を持ち上げながら、姿見の前で一度だけくるりと回る。

研嗣が顔を上げた。ほんの一瞬、目を奪われたように見えた。

「どう?」

「悪くない」

そう答えると、すぐに視線を落とした。それでも、脱ぐように促すこともない。

そのとき、研嗣のスマホが鳴った。私の同僚・柴田千春(しばた ちはる)からだ。昨夜から私と連絡が取れないのか、その声は震えている。

「安奈が昨夜からずっと帰ってこないんです。電話にも出なくて……この三日間、ずっと顔色が悪かったんです。昨日の夜も、胸を押さえて苦しそうにしていました。安奈を見ていませんか?」

ドレス姿の怜花を眺めながら、研嗣の口元に冷ややかな笑みが浮かぶ。

「安奈から連絡があったんですか?」

「え?」

「いえ、何でもありません。ただ最近、あいつは周りまで巻き込んで、俺を家に帰らせようとするのが好きみたいで……」

電話の向こうが、一瞬黙った。次の瞬間、声が急に冷たくなる。

「深沢さん、安奈は、そんな冗談を言うような人じゃないと思いますけど」

「放っておけばいい」研嗣は落ち着いた声で続ける。

「気が済めば、自分から帰ってくる」

そう言って電話を切る。そのままスマホの電源まで落とした。

私は鏡の前に立っている。鏡の中には、私のウェディングドレスを着た怜花の姿が映っている。

彼女の手には、私のためのカイロがある。首元には、本来なら私のものだったネックレスが下がっている。

床には砕けた鉢植えの跡が残り、シフト表は雑誌の下に隠されている。

そして研嗣は、そのすべてのそばに座りながら、私が帰ってきて自分の謝罪を受け入れるのを待っている。

ゆっくりと手を上げ、鏡の中の自分へ触れようとする。そこには、何も映らない。

その瞬間、10年間にわたる想いが、静かに消え去っていく。心に残っているのは、すべてを失ったあとに訪れる、静かな虚しさだけだ。

「研嗣」私は彼を見つめ、静かに呟く。

「私はもう、帰らない」

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