LOGIN処置室は、急に慌ただしくなった。由佳はさっと顔色を変え、震える手で哺乳瓶をつかむと、鼻先に近づけて匂いを確かめた。「知らない……私じゃない。こんなの、入れてない……」由佳の母は赤ちゃんのベッドへ駆け寄り、声を上げて泣き始めた。「かわいそうに……この女が由佳を妬んで、ミルクにアーモンドの粉を混ぜたのよ!」言い返す気にもならず、私は黙って二人を見ていた。その最中、由佳の母が手にしていた袋を、こっそりベッドの下へ押し込んだ。見覚えのある袋だった。自然食品店で、アーモンドなどを混ぜて作ってもらった栄養補助用のパウダーだった。雅也が胃を悪くして食欲をなくしたとき、少しでも栄養が取れるようにと用意したものだった。私はベッドの下を指さした。「すみません。あそこにある袋、うちからなくなったものかもしれません。確認してもらえますか」袋を見た途端、雅也の顔色が変わった。朝食にも何度も出していたものだから、雅也が見覚えがないはずはなかった。警察官が袋を確認しようとすると、由佳が慌てて止めに入った。「待ってください!それ、私たちのものです。さっきのことは勘違いだったので、もう大丈夫です。だから触らないでください!」それでも警察官はベッドの下から袋を取り出し、確認のために預かった。雅也は何か言いかけたが、結局は黙ったまま、その様子を見ていた。由佳たちが私に罪を着せようとしていたのに、雅也は止めようともしなかった。今さら何を言っても遅いと分かっているのだろう。原因が分かると、赤ちゃんにもすぐ必要な処置が取られた。「藤井さん、ご協力ありがとうございました」あとで聞いた話では、由佳の母は、あのパウダーを高価な健康食品だと思い込み、赤ちゃんにも体にいいだろうと勝手に飲ませたらしい。私の家を出るとき、勝手に持ち出していたのだ。ところが夜中になって、赤ちゃんの全身に発疹が出た。そこで二人は、私のせいにして金を払わせようとしたらしい。まさか由佳の母が持ち出したものが、そのまま証拠になるとは、由佳も思っていなかったのだろう。事情を確認した警察官が、由佳に声をかけた。「中村さん、詳しいことは署で伺います。ご同行ください」由佳は慌てて雅也の腕をつかんだ。「雅也さん、違うの!私じゃない!私が考えたこ
私は一階をひと通り見回し、あとでハウスクリーニングを頼もうかと考えていた。その間、二階では今にも手が出そうな勢いで言い争っていた。「雅也さん、話が違うじゃない。子どもが欲しいって言ったの、雅也さんでしょ?全部うまくやるって言ったよね。香織さんとは形だけの夫婦で、愛してるのは私だって言ったじゃない。だから信じてたのに。なのに今さら、私もこの子も捨てるの?この子、雅也さんの子なんだよ!」由佳の声は、最後には叫び声のようになっていた。雅也は、いつも私をなだめるときと同じやさしい声で、由佳に話しかけていた。「そんなこと言ってないだろ。だから、もう少し待ってくれって言ってるだろ。香織が海外に行ったら、ここで一緒に暮らせばいいじゃないか。どうせ半年や1年は戻ってこないんだから……」一階で聞いているうちに、呆れてものも言えなくなった。雅也は、最初から私の海外赴任をあてにしていたのだ。私が雅也と一緒に北極圏へ行くつもりで準備をしていた頃、雅也はすでに、私がいなくなった家に由佳を住まわせるつもりでいた。あまりにも馬鹿馬鹿しかった。今回は子どもができたせいで、たまたま私にばれただけだ。由佳の前にも、同じような女がいたのかもしれない。考えたくもなかった。次の瞬間、二階から何かを叩きつける音が立て続けに聞こえた。「香織さんに知られたからって、何が変わるの?私を愛してるって言ったよね? 今さら、あれは全部嘘だったなんて言わないでよ!」雅也は少し黙ったあと、なだめるように声を落とした。「由佳、嘘じゃないって。俺が好きなのはお前だよ。香織なんか、一緒にいてもつまらないだけだ。お前のほうがずっといい」聞き間違いかと思った。けれど、二人の声は嫌になるほどはっきり聞こえていた。責任を押しつけ合っていた二人は、とうとう隠していた本音までさらけ出していた。そんな声を聞いているうちに、ふと、雅也と初めて会った頃のことを思い出した。あの頃の雅也は、身なりはいつもきちんとしていて、まだどこかあどけなさが残っていた。両親の仕事の都合で、雅也はしばらく私の家に預けられていた。一緒に暮らし始めたばかりの頃は意地っ張りで、何かにつけて私と張り合っていたのに、いつの間にか私のあとをついて回るようになった
赤ちゃんが大声で泣き出した。由佳はばつが悪そうに赤ちゃんを抱き上げ、慣れた手つきであやした。雅也は片手で額を押さえ、深くため息をついた。「香織、頼むから話を聞いてくれ。本当に、酔った勢いだったんだ。海外に行く前の晩、俺も由佳も飲みすぎてて……帰ってきたときには、由佳はもう臨月だった。出産のあと、由佳は体調を崩して、1か月も入院してたんだ。お前、子どもが好きだろ?だったら、この子を俺たちの子として育てればいいじゃないか」私は何も言わず、泣くのをこらえるように拳を握りしめた。帰国してから1か月も家に戻らず、届いた荷物を取りにさえ来なかったのは、入院していた由佳のそばにいたからだったのか。「それ、本気で言ってるの?」私が黙っていると、雅也は私の顔色をうかがいながら近づき、手を取ろうとした。「香織、本当に離婚する気なのか?由佳はまだ若いんだ。こんなことが知られたら、周りから何を言われるか分からないだろ。由佳が兄を亡くしてるのは、お前も知ってるだろ……」私はその手を振り払った。これ以上、由佳の事情を理由に我慢を迫られるつもりはなかった。由佳を見据え、かすれた声で言った。「5年も親友だと思ってたのに、男をその気にさせるのが、そんなに上手だったなんてね。私の夫をすっかり丸め込んで、今じゃあなたの言うことなら何でも信じ切ってるんだから」男なんて、穏やかな毎日に飽きれば、たまには違う刺激が欲しくなるものなのかもしれない。けれど、それを私が受け入れる理由にはならなかった。私が赤ちゃんに目を向けた途端、由佳は赤ちゃんを胸に抱き寄せ、雅也のそばへ寄った。「香織さん、雅也さんを責めないで。悪いのは私だから」そう言ったそばから、由佳の目に涙が浮かんだ。由佳がこんなふうにしおらしい顔をするのは珍しかった。「香織さんなら、助けてくれるよね?雅也さんには、表向きだけでもこの子の父親でいてもらえれば、それでいいの。ほかには何も望まないし、香織さんと雅也さんの間に割り込むつもりもないから」目の前にいる由佳が、知らない人に見えた。由佳は、兄にずっと大切にされてきた子だった。初めて会った頃、由佳は進学のため、兄を頼って田舎から出てきたばかりだった。家計が苦しいと聞き、私は何かと援助してきた。両
私は雅也の手を振りほどき、ついてこないでと言い、その場を離れた。遊園地を出ると、襟元から入り込んだ風が、身を切るように冷たかった。タクシーを止め、そのまま家へ帰った。スマホが何度も震えた。画面を見ると、雅也からの電話だった。待ち受けに映る、寄り添って笑う私たちの写真を見た途端、とうとうこらえきれなくなり、声を上げて泣いた。運転手がバックミラー越しにこちらを見た。「お客さん、大丈夫ですか?」私は小さくうなずくだけで、うつむいたまま涙を拭った。大丈夫。いつかは、きっと平気になる。家に着くなり、自分の荷物をまとめ始めた。5年暮らしたこの家には、雅也との思い出が詰まったものがいくつもあった。けれど、そのどれも持っていきたくなかった。自分のものだけを詰めてみると、スーツケースは半分ほどしか埋まらなかった。私はその場にしゃがみ込んで膝を抱え、声を殺して泣いていたが、やがてこらえきれずに声を上げた。心から愛せば、相手も同じように愛してくれると思っていた。けれど、そう信じていた私だけが、深く傷ついた。荷造りの途中、階下から玄関の鍵が開く音がした。雅也だった。今度こそ私が本気だと気づいたのか、雅也は由佳を連れたまま戻ってきた。由佳は雅也の後ろから顔を出し、泣き腫らした私の目を見るなり、不満そうに口を尖らせた。「雅也さん、心配しすぎだよ。ほら、香織さん、ちゃんと帰ってきてるじゃない」私は由佳を無視して、スーツケースを取りに戻った。「香織、もういいだろ。お前が急に帰るから、由佳は乗りたがってたアトラクションにも乗れなかったんだぞ。俺たちだって途中で切り上げて戻ってきたんだ。いつまで拗ねてるつもりだ?」それ以上聞きたくなくて、私は印刷したばかりの離婚協議書を手に取った。「離婚届を出す日が決まったら、私から連絡する」そう言って玄関のドアを開け、出ていこうとした。そのとき、スマホがまた震え始めた。見覚えのない番号からの着信だった。電話に出ると、女性の声が聞こえた。「藤井様でいらっしゃいますか。本日、藤井様のお母様がお子様を迎えに来られましたが、ご存じでしょうか」何かの間違い電話だと思い、私はすぐに通話を切った。スーツケースを引いて玄関へ向かうと、雅也が眉を
インターホンが鳴り、ほどなく由佳が入ってきた。私が動かずにいると、雅也はそばに来て、私の頭をくしゃりと撫でた。「香織、信じてくれ。俺が香織を裏切るわけないだろ。帰りに香織の好きなもの、買ってくるよ。由佳、香織にちゃんと謝れ。昨日作ったあのカードで怒らせたんだから」由佳はぺろりと舌を出し、悪びれもせず私の手を取った。「私、あのデザインが好きだっただけだよ。香織さん、また焼きもち焼いてるの?お兄ちゃんに、何かあったら雅也さんを頼っていいって言われてたの。それに、香織さんより雅也さんのほうが、私に優しいんだもん」そう言って雅也の腕にぴたりと寄り添う由佳を見た瞬間、また涙がこみ上げた。由佳が本当に好きなのは、あのデザインなのか。それとも、雅也なのか。もう私にはわからなかった。「……そう。わかった」無理に口元を上げたけれど、うまく笑えているとは思えなかった。「今日、私も一緒に行きたい」雅也は一瞬眉を寄せたが、結局は断らなかった。「今日は遊園地に行くんだ。体調が悪いなら、無理して乗り物に乗らなくていい。俺たちが乗ってるあいだ、ベンチで待ってればいいから」私の返事も聞かず、雅也は由佳の服の乱れを直してやった。由佳は待ちかねたように声を上げた。「やった、やっと行ける!雅也さん、早く行こうよ」雅也は笑って由佳のバッグを受け取り、由佳の鼻先に軽く触れると、その手を引いて玄関を出た。私は自分のバッグを手に、少し遅れて二人のあとを追った。二人の背中を見ながら、ふと思った。今ここで私が引き返しても、二人はきっと気づかない。互いのことしか見えていない二人の間に、妻であるはずの私の居場所はもうなかった。遊園地に着いてからも、二人の距離の近さを嫌というほど見せつけられた。由佳が水を飲みたがれば、雅也はペットボトルの蓋を開けてから渡した。髪を結びたいと言えば、手首につけていたヘアゴムを外して渡した。由佳が何を求めているのか、雅也には言われる前からわかっているようだった。アイスが食べたいと言ったときだけは、雅也が止めた。「そろそろ生理だろ。アイスはやめとけ」それでも由佳は甘えるようにねだり、雅也の手からアイスをひょいと奪って、ひと口だけかじった。二人を見ているうちに、胸の奥が空っ
藤井雅也(ふじい まさや)と結婚して5年。妻の私――藤井香織(ふじい かおり)よりも、雅也が多くの時間を割いている相手は、親友の中村由佳(なかむら ゆか)だった。夫婦で通販アプリのアカウントを共有していたため、雅也が注文した荷物の配送通知も、いつも私のスマホに届いた。最近、雅也が女物をあれこれ買っていることに気づいた。最初は私へのプレゼントだと思った。もうすぐ誕生日だったので、きっと私を驚かせるつもりなのだと、少し楽しみにしていた。その日もまたワンピースが届いた。ところが、箱を開けてみると私のサイズではなかった。私はそのまま雅也のところへ行き、どういうことか聞いた。すると雅也は、何でもないことのように答えた。「ああ、それ?由佳に買ったんだ。あいつ、こういうのが好きだから」雅也が、亡くなった由佳の兄から妹のことを頼まれていたのは知っていたので、そのときはそれ以上追及しなかった。けれど、その後、家の中は赤ちゃん用品であふれ返り、しまいには雅也の上着のポケットから、お食い初めの記念カードまで出てきた。金箔のあしらわれた表紙を開くと、そこにはこう記されていた。【父 藤井雅也】【母 中村由佳】カードに並んだ二人の名前を、私はただ呆然と見つめていた。その名前を見た瞬間、これまでのことが次々と頭に蘇った。私が寝込んだときは、「由佳が落ち込んでいるから」と、私を置いて彼女のもとへ行った。私の誕生日には、由佳から電話が来るなり、振り返りもせずに出ていった。旅行先で私とはぐれたときでさえ、高山病で苦しみながら、由佳の手だけはしっかり握っていた。私と由佳のどちらかとなれば、雅也が選ぶのはいつも由佳だった。気づけば、こぼれた涙で記念カードの文字が滲んでいた。眠ったままの雅也を見ながら、私はスマホを取り出し、電話をかけた。「離婚協議書を作って。なるべく早く」……私は、家中に積み上がった通販の荷物を片づけ始めた。開けたものも、まだ開けていないものも、まとめて黒いごみ袋へ放り込んだ。1袋には入りきらず、結局2袋になった。その間にも、スマホには発送通知が次々と届いた。まだ届いていない荷物は、ひとつずつ受取拒否にした。最後の荷物も受取拒否にしたとき、玄関に置かれたカレンダーが目に入った。お食い