FAZER LOGIN私・神谷澄香(かみや すみか)が切迫流産で大量出血し、手術を受けていたその時、夫・神谷駿介(かみや しゅんすけ)は隣の分娩室で、愛人・一ノ瀬結愛(いちのせ ゆあ)が彼の息子を産むのを見守っていた。 やがて隣から、赤ん坊の産声と駿介の喜びの声が聞こえてきたが、私は泣きも喚きもせず、一人で手術を終えた。 ところがその夜、駿介のほうから病室へやって来て、私を責め立てた。「空いてる病室なんていくらでもあるのに、なんでわざわざ結愛の隣にしたんだ?嫌がらせのつもりか?」 かつて愛した人の顔を見つめ、私はそっと目を閉じ、何も言わない。 駿介はその後もしばらく私を責め続け、看護師が入ってきてようやく出ていった。 理不尽だと憤る看護師をよそに、私は笑った。 その直後、携帯に16億円の入金通知が届いた。
Ver mais私は携帯をしまい、顔を上げた。水平線の光はさっきよりも明るくなり、橙色だった空が少しずつ金色へ変わっていく。その光が海面に降り注ぎ、波の一つ一つをきらきらと輝かせていた。すっかり夜が明けた。海の向こうから昇る朝日が、世界を黄金色に染めていく。私は深呼吸をして、桟橋を後にした。その時、ポケットの携帯がまた震えた。今度は駿介からだった。【澄香、今日、深津市に戻る。父さんが入院してるし、会社のことも俺が処理しないといけないんだ。でも、また来るから、待っててくれ】そのメッセージを見つめ、削除のボタンに指を置いた。ほんの一瞬だけ止まってから、そのまま押す。画面から、駿介とのやり取りが消えた。着信拒否をしたわけでも、連絡先を消したわけでもない。ただ、トーク履歴を消しただけ。心の中に残っていた過去を、一つずつ片づけていくように。恨む気持ちも怒りもない。ただ、私の中でどうでもよくなっただけのこと。時生の花屋は、少しずつ客が増えていき、それに合わせて、私が手伝う時間も長くなっていく。ある日、花材を整理していた時、時生が突然言った。「澄香さん、いっそ正式にここで働きません?ちゃんと給料も払いますよ」私は笑って尋ねた。「いくらですか?」時生は少し考える。「薔薇一輪」少し呆気に取られた。「薔薇一輪?」「一日一輪です」時生が真面目な顔で私を見つめる。999本貯まったら、一つ話したいことがあります」その目は澄んでいて、盛沢市の夜空に浮かぶ星のように明るかった。私は視線を落とし、また花材を整理し始めたが、どうしても口元が緩んだ。「分かりました」そうして日々は過ぎていった。庭の金木犀は咲いては散り、季節が巡ればまた花をつけた。花屋の前のブーゲンビリアは一年中咲き誇り、呆れるほど鮮やかだった。私は毎日花屋へ行き、店を手伝う。そして帰りには、薔薇を一輪受け取った。時生は時折、妙なことをする。ある朝は朝食を持ってきて、「間違えて二人分買っちゃったんで」と言ったり、雨が降れば、たまたま2本持っているからと私に傘を差し出したり、私がふとイチゴを食べたいと口にすれば、翌日には店頭に新鮮なイチゴが届いていたりするのだ。私だって馬鹿ではないから、その意味くらいは分かっている。ただ、すぐに答えを出したくなかった。
「手術が終わって、看護師さんに支えてもらいながら、私一人で痛みに耐えて廊下を歩いてた時は?あなたは辛かった?隣の病室からあなたの笑い声が聞こえて、結愛との子供に名前をつけてるのを聞いた時は?少しでも、辛いって思った?」私は泣きもせず、責め立てもしない。ただ、長い間胸の中にしまっていた問いを、一つずつ読み上げるように口にした。「あなたはつらいって言うけど、あなたに私がどれだけつらかったか分かる?」目の前に立つ駿介は、目を赤くし、唇を震わせながら、何も言い返せないでいた。海風が髪を乱しても、彼はそれを直そうともせず、叱られて立ち尽くす子供のように、そこに固まっている。長い沈黙の後、彼は掠れた声で言った。「澄香、俺が取り返しのつかないことをしたのは分かっている。だから、一度だけ償うチャンスをくれないか?」「いらない」私は言い切った。「償ってもらう必要なんてないから」「償わせてくれ」彼は必死に縋りついた。「お前、ここに一人なんだろ。家族もいない、友達だっていない。これからどうするんだよ?」「友達ならいる」私は答えた。「誰だ?あの花屋の男か?」その言葉に、私は思わず笑いそうになった。「駿介。私があなたなしでは生きられないとでも思ってるんじゃない?」彼は何も答えなかった。しかし、その表情が全てを物語っている。駿介はそう思っているのだ。駿介にとって私は、離婚歴があり、仕事も収入もなく、知らない街で一人きりになった女。誰かに助けてもらうのを待つしかない存在なのだ。駿介がここまで追ってきたのも、本当に私を愛しているからとは限らない。むしろ、惜しくなっただけなのかもしれない。かつて自分が何の価値もないかのように扱っていたものを、誰かが大切にしようとしている。それが気に入らないだけ。「私にとって、もうあなたは過去の人なの。駿介も、そろそろそれを受け入れてくれない?」私は背を向け、歩き出した。今度は、駿介も追ってこなかった。十数歩ほど歩いた頃、背後から声が届く。それほど大きな声ではなかったが、海風が遠くまで運んできた。「澄香、俺はあきらめないからな」私は振り返らなかった。花屋の前まで戻ると、ちょうど時生が店の戸締まりをしていた。彼は私に気づき、にっこりと微笑んだ。「今日は早じまいなんです。少し寄って
車の走り去る音が、少しずつ遠ざかっていった。薔薇の棘を切り落とした時、手が僅かに震えていることに気づく。時生が近づいてきて、温かいお茶を差し出してくれた。「お茶でも飲んでください」声は穏やかだった。私はコップを受け取り、一口飲んだ。「大丈夫ですか?」「大丈夫です」時生は私の目を見つめたかと思うと、しばらくしてふっと笑う。「澄香さんって、思ってたより強いんですね」「強いわけではありません」テーブルにコップを置き、続けた。「一度死にかけると、怖いものが減るだけですから」その夜、私は一人で長いこと庭に座っていた。金木犀の枝が夜風に揺れ、甘い香りが時折こちらまで流れてくる。頭上には、都会では見られないほど明るい星が瞬いていた。大学の頃、こんな暮らしに憧れていたことを思い出す。小さな庭のある家に、金木犀を植え、愛する人と一緒に暮らすこと。後に駿介と出会ったとき、彼こそがその人だと信じていた。でも、駿介はその人ではなかった。その時、携帯が何度か震えた。手に取って見ると、駿介からのメッセージだった。【澄香、お前は俺に会いたくないだろうし、今はそれでいい。でも、俺は待つから。無理強いするつもりはない。ただ、本気だってことだけは分かってほしくて。盛沢市に住むことにした。それも、お前の家からそう遠くないところだ。お前が話してもいいと思える日まで待つから】次々と届くメッセージは、いつも読み飛ばしていたニュースの通知と大差なかった。返信はせず、携帯をマナーモードに切り替えて裏返す。翌朝、食材を買いに市場へ向かっていると、街角にあの黒いマイバッハが停まっていた。車のそばに立つ駿介が、袋を提げてこちらに駆け寄ってくる。「澄香」彼が紙袋を差し出してくる。「これ、お前が好きだったパン、深津市から空輸させたんだ。焼きたてでまだ温かいぞ」私は受け取らず、そのまま立ち止まって彼を見つめた。紺色の薄手のニットにベージュのパンツで、今日は随分とラフな格好をしている。いつものように髪をきっちり撫でつけず、前髪も自然に下ろしていた。大学時代を思い出すようなその姿。だけど、もう私たちはあの頃には戻れない。「いらない。そのくらい自分で買えるから」「澄香……」「駿介」私は言葉を遮った。「
「澄香」駿介が私の名前を呼んだ。声が少し震えている。店の奥で花材を整理していた時生が、声に気づいて一度こちらを覗いたが、すぐに何も見なかったかのように奥へ引っ込んでいった。私は手にしていた鋏を置き、手を拭いて店先へ向かった。「どうしてここが分かったの?」「探偵を使った」彼が私を見つめる。その目には、今まで一度も見たことのない感情が滲んでいた。「澄香、痩せたな」「何の用?」私はその言葉には答えなかった。彼はそこに立ち、唇を噛み締めていた。何か言いたそうに、言葉を探している。しばらくして、彼が口を開いた。「どこかで少し話せないか?」「ここで話して」駿介は店内へ目を向けた。背を向けて、黙々と花材を整理している時生は、こちらへ来る気はないようだった。「澄香」駿介が大きく息を吸った。「俺が悪かった」私は扉の枠に軽くもたれ、黙って続きを待つ。「あの投稿を流したのは、結愛だったんだ。神谷家を追い込んで、少しでも多く財産を取ろうとしたらしい。父さんはあの騒ぎで倒れて入院したし、神谷グループの株価も3割近く下がった」そして顔を上げる。「澄香、戻ってきてくれないか?」一瞬、聞き間違えたのかと思った。「何て?」「戻ってきてほしい」彼は繰り返した。「神谷家の妻の座は、今でもお前のものだ。結愛とはもう切れたし、子供のことも俺がきちんと片づける。お前には迷惑をかけない。だから、戻ってきてくれ。前みたいにやり直そう」前みたいに?彼の顔を見ていたら、おかしくて笑えてきた。「駿介」私は背筋を伸ばして立った。「私が神谷家を出たのは、結愛が原因だと思ってるの?」少し戸惑う駿介。「じゃあ、何が原因なんだ?」「あなたが、私を一人の人間として扱わなかったからだよ」駿介の表情が固まった。「私たち、結婚してからは2年だけど、全部合わせれば6年一緒にいたよね?あなたが不倫するたびに、あなたのお父さんが私にお金を振り込んで、あなたは私に大事にするなって言った。それで全部終わったことにしてきたでしょ?でも、私が傷ついたか、つらかったか、泣きたかったかって一度でも聞いてくれたことある?あなたが気にしてたのは、いつだって外に知られるかどうかだった。神谷家の評判に傷がつくか、それだけ。私が大量出血して、ストレッチャーで