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五年の遠距離婚の間に、夫はよそで家庭を作っていた
五年の遠距離婚の間に、夫はよそで家庭を作っていた
Author: 兜ちゃん

第1話

Author: 兜ちゃん
私、鷹司華怜(たかつかさ かれん)と夫の宝生統真(ほうしょう とうま)は、遠距離婚になって五年目だった。

ある日、私は何も言わずに休みを取り、海都行きの切符を買った。

三年ぶりだった。

彼は海都中央病院の外科医で、私はわざわざ彼の診察を予約した。

診察室で彼の前に座って、マスクを外し、彼が呆然とする顔を見たかった。

待合には人が多く、私は受付票を握りしめながら、胸の内で緊張と期待が入り混じるのを感じていた。

隣にいた若い看護師が私をちらりと見て、ふっと笑った。その声には、見慣れたものを見るような軽蔑が混じっていた。

「また宝生先生に言いがかりをつけに来た人がいるわ」

彼女はあからさまに嫌そうな目を向け、わざと私に聞こえるような声で言った。

「やめときなよ。宝生先生と奥さんはすごく仲がいいんだから。奥さんは三年かけて、やっと宝生先生を射止めたのよ。院長令嬢で、若くて綺麗だし。そのお年じゃ、無駄なことはしないほうがいいわ」

私は一瞬、呆然とした。

何か勘違いしていませんか、と言いかけたそのときだった。

けれど看護師は顎を少し上げて、廊下の先を指さした。

「ほら、あの人が宝生先生の奥さんよ」

伊藤櫻(いとう さくら)が私の前まで歩いてきた。

「あなたも、うちの夫に診てもらいに来たんですか?」

全身が冷えきった。

まるで氷水の中に突き落とされたみたいに冷たくて、骨の髄まで震えていた。

夫?

でも、統真と婚姻届を出したのは、間違いなく私のはずだった。

五年前、彼は海都中央病院に採用された。

あの日、私は一晩中泣いて、翌朝には真っ赤な目で仕事を辞めてついていくと言った。

彼は私の手を握り、親指の腹でそっと手の甲を撫でた。

「華怜、君はようやくここまで来たんだ。俺のせいで、その全部を手放してほしくない」

彼は少し間を置いて、私の目をまっすぐ見た。

「先に海都へ行くよ。チャンスを見つけたら、必ず戻ってこられるようにする。だから、いい子でここで待っていてくれ」

私はそれを信じた。

この五年、私は日を数えるようにして生きてきた。

彼はずっと海都で忙しくしていた。

三年前から、彼は急に私への連絡を減らしていった。

胸騒ぎがして帰ってきてほしいと頼んでも、彼は忙しいことを理由にいつも断った。

私が会いに行こうとしても、彼はそのたびに諦めるように説得した。

まさか、彼はとっくにここにもうひとつの家庭を作っていたなんて。

櫻はまだ私を値踏みするように見ていた。

彼女は首をかしげた。

「あなた、見た感じもう若くないし、まさかうちの夫を狙って来たわけじゃないですよね。どうしたんですか?よかったら私が代わりに受付しましょうか?」

私はようやく我に返った。

深く息を吸い込み、喉の奥に込み上げる血の味を無理やり押し込め、自分でも嘘くさいと思う笑みを作った。

「勘違いしてるわ。ほんとうに心臓が痛くて、診察を受けに来ただけよ」

櫻はまばたきをして、急に愛想よくなると、私の手を取って、そのまま隣の椅子に座らせた。

彼女の手はとても柔らかかった。

「気にしないでくださいね」

彼女は私の隣に腰を下ろし、甘い香水の匂いをまとったまま、猫なで声のような口調で言った。

「馨さんは私のために怒ってくれてるだけなんです。統真は腕がいいから、恥知らずな女がすぐ寄ってくるんですよ。私の知らないところで横取りされないようにって、心配してくれてるだけで」

横取り。

私はうつむき、自分の荒れた指先を見つめた。

櫻の、若さがあふれる張りのある顔を見ていると、ただただ惨めだった。

問いただす気持ちなんて、ほんの少しも湧いてこなかった。

年齢はずっと私の傷だった。

誰も知らない。統真は、もともと父が援助していた苦学生だった。

彼は私より三歳年下だった。

父の会社が倒れたあの年、父は統真の手を握り、どうか私を大切にしてほしいと頼んだ。

統真が私を愛していないことは知っていた。それでも私は、何年も彼に片想いしていた。

そうして私は、彼と結婚した。

けれど私はずっと、自分なんかでは彼にふさわしくないと思っていた。

今、こんな櫻を目の前にして、私には問い詰める気持ちなんて少しも湧かなかった。

どうして統真は心変わりしたのかと聞けばいいのか。

それとも、どうして私にこんな仕打ちをするのかと聞けばいいのか。

心臓が大きな手でぎゅっと握りつぶされるみたいで、あまりの痛みに顔色が真っ白になった。

私の異変に気づいて、櫻は慌てて立ち上がった。

「具合悪いんですか?どうしてそんなに顔色が悪いの?」

私は口を開いた。けれど喉を締め上げられたみたいで、言葉が一つも出てこなかった。

心臓がいきなり激しくひきつるように痛み、誰かの手に握り潰されるみたいだった。

痛い。

苦しすぎた。

私は胸を押さえ、血の気を失った顔は見ていられないほど真っ白だった。

櫻はぎょっとして、すぐに立ち上がった。

「ちょっと待ってて!うちの夫に先に診てもらえるよう頼んでくるから!」

隣の看護師が慌てた。

「櫻、宝生先生は順番を飛ばしたりしないわ。それが先生の決まりなのよ」

櫻は振り返り、目元を細めて笑った。その声には、隠しきれない甘さと誇らしさがにじんでいた。
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