「彼が何の意味もないって言うのを信じるつもり?唯花、今きっとお互いに気持ちがあるのよ。このチャンスをしっかり掴まなくちゃ。私あなた達の本当の結婚式に参加してブライズメイドをしてあげるからね」牧野明凛は親友をからかって言った。「そう考えるにはちょっと早すぎると思うけど」「私はそんなことないと思ってるけどね、ははは。唯花、琉生を呼び止めてあるの。あの子と一緒にコーヒーを飲んでくるわ。あなた、何が飲みたい?帰って来る時にテイクアウトしてくるわ」内海唯花は少し考えてから言った。「キャラメルラテでいいわ」「わかった」牧野明凛はこころよくそれに応えた。「店番頼んだわよ。私コーヒー飲んでくるね」「いってらっしゃい」どのみち今は店にお客は少ない。普段、この時間帯には彼女はレジの奥で休憩しているか、ハンドメイドを作っているのだ。牧野明凛は出かけて行った。金城琉生は外で待っていた。牧野明凛は店から出てくる時、笑顔を消して真面目な顔つきになった。「行きましょ」彼女は直接金城琉生の車に乗った。金城琉生は従姉の表情が厳しくなったのを見て、なぜだか心細さを感じていた。ちょうどこれと同時刻の結城グループにて。結城理仁は気分上々でエレベーターに入って行った。アシスタントの木村がある封筒を持ってやって来た。「社長、この手紙なんですが、九条さんが必ず社長に直接渡すようにと言付かってきたものです。なんでも社長の奥様に関係があるとかで」会社の中で社長が結婚していると知っているのは、数人程度しかいない。木村はラッキーなことにその中の一人だ。結城理仁はその封筒を受け取り、何も言わず、直接彼の社長オフィスへと入って行った。黒の社長椅子に座り、結城理仁はその封筒を開けて、中から一枚の手紙を取り出した。それを開いて見てみると、それは匿名の者からで、内容は非常に簡潔だった。彼に神崎姫華がしつこく彼に付き纏っているのは、裏で内海唯花が手を引いているからだというものだ。結城理仁はすぐに九条悟に電話をかけた。人の噂話が大好物である九条悟は上司からの電話をまだかまだかと待っていたのだった。「これは誰が書いた手紙だ?」九条悟が内海唯花と関係あるものだと言っていたのだから、彼は絶対にこの手紙を誰が書いたのか知っているはずだ。「
彼は内海家のクズな人間達を乞食にさせようとしても難しいと言っていた。九条悟は笑って言った。「一度に決着付けちゃったらさ、面白いもんが見られなくなるじゃんか」結城理仁の顔が暗くなった。「こういう人間にはさ、焦らずゆっくりじわじわと迫っていかないとダメなんだよ。すこーしずつ彼らが持っているものの全て奪っていくんだ。どうにかしてそれを取り戻そうと足掻くのに、それが消えていくのを指をくわえて見ているだけしかできないあの苦しみを与えてこそ、ああいう奴らにでかいダメージを与えられるんだから」九条悟は自分が確かに手を緩めていると認めていた。あの内海家のクズどもをすぐには地獄に叩き落さなかったのだ。「だけど、安心してくれよボス。最終的には君の満足いく結果になるだろうからさ。今や内海智文はすでに会社から解雇されている。あの時ネットで大炎上してたからな、あいつのビジネス界での評判はだだ下がりなんだ。これから良い仕事を見つけようったってなかなか簡単にはいかないぞ」内海智文が完全に職を失ったと聞いて、結城理仁の顔はようやく少し和らいだ。「この件に関しては、神崎さんに感謝しないといけないぞ。神崎さんが彼女の兄さんに頼んで内海智文をクビにさせたんだから。神崎さんが君の奥さんのために色々やってくれてると言わざるを得ないだろう」結城理仁は冷たく二度鼻を鳴らした。内海唯花は事情が複雑であることなどまったく知らない。神崎姫華に彼を落とすテクニックを教えているのだから、彼女が唯花に良くしてくれているのは当然のことだ。内海唯花はそれを聞けば、神崎さんが追いかけているのは結城家のあの御曹司であって、あなたではないでしょ?と言うことだろう。結城理仁「……」神崎姫華が彼こそ内海唯花の夫であることを知っても、彼女が内海唯花に依然として良くしてくれて、守ってくれるのであれば、彼は神崎姫華が本当に唯花を友達だと思っていると信じるだろう。結城理仁はあのゴールドの指輪をまた取り出し、左手の薬指にはめた。内海唯花の店に行った時は、彼はその指輪を外していたのだ。「あ、そうだった。内海智文の野郎、俺ら結城グループに入ろうとしているらしく、うちの面接官に連絡してきたみたいだぞ。彼はアーロン基板株式会社で長年働いていて、平社員から管理職になり、仕事の経験が豊富であ
カフェにて。牧野明凛は店の目立たないところの席を選んで座った。金城琉生は彼女の向かいに座っている。「琉生、あなた何飲む?」「なんでもいいよ。明凛姉さんが頼むのと同じのでいいから」牧野明凛は店員に言った。「ブラックコーヒーを二つください」「明凛姉さん、ブラックは美味しくないよ」牧野明凛が横目で彼を睨むと、金城琉生は身を縮こませて言った。「やっぱブラックでもいい」二人が頼んだブラックコーヒーが来てから、牧野明凛はストレートに尋ねた。「琉生、ちょっと聞きたいことがあるんだけど、あんたってもしかして唯花のこと好きなの?」金城琉生は驚いた。彼は驚いた眼で牧野明凛を見つめた。「明凛姉さん……」「正直に答えなさい!」牧野明凛は命令口調で言った。金城琉生の顔はだんだん赤く染まっていった。バレてしまったのか?「姉さん、お……俺、俺は唯花さんのことが好きです」「いつからなの?」金城琉生は小声で答えた。「いつからだったかは、はっきりわからないよ。たぶん14、5歳の恋愛に興味を持ち始めた頃じゃないかな。もしかしたら17、8歳くらいだったかもしれないけど」牧野明凛の顔色は暗くなった。「唯花にそんなに長く片思いしているのね」長い間よく隠してきたものだ。彼女と内海唯花はこのことを全く知らなった。彼女たちは金城琉生のことを完全に弟としてしか見ていなかったからだ。実際、金城琉生は彼女たちよりも三歳年下であるから、弟でしかない。金城琉生の顔は真っ赤になっていた。「琉生、諦めなさい。唯花はあんたを好きになることはないわ。彼女はずっとあんたを弟として見ているのよ。それに以前、彼女がまだ独身だった頃ならまだしも、今は結婚しているのよ……」「明凛姉さん、この間唯花さんと旦那さんは契約結婚だって言ってたじゃない?半年後に離婚する予定なんだって」牧野明凛は冷ややかな顔つきで言った。「彼らがどんな結婚なのかなんてあんたに関係ないのよ。唯花はもう既婚者なの。人妻なのよ。あんた、他人の妻に幻想を抱いて、浮気相手にでもなろうっての?」金城琉生は不機嫌そうに言った。「俺の方が先に唯花さんと知り合ったんだ」「愛ってのは別に先に知り合ったほうが有利だなんてもんでもないでしょ。この間唯花があんたにご馳走した時、あんたが好き
「私があんたの従姉だから、わざわざここまで来て直接あんたに話してるんでしょうが。唯花があんたを好きじゃなくて、もし好きだったとしても、私はあんた達二人が一緒になるのは反対よ」「なんで?」「だって、あんたの家よ。あんたの母親はどんな人?私はよくわかってるんだからね。おばさんがもしあんたが唯花を好きだって知ったら、彼女が喜んで唯花を受け入れるとでも思ってんの?彼女は絶対にどんな手を使ってでも、あんた達が接近するのを邪魔するはずよ。それに唯花に極端な行動に出る可能性だってあるわ。おばさんは上流社会という世界に二十数年間住んでいるのよ。かなり前から目を肥やしてるわ。あんたは彼女のたった一人の息子で、彼女の希望だし、金城家の後継者よ。彼女のあなたに対する期待は相当なものに決まってるでしょう。あなたには絶対に名門のどこかのお嬢様と結婚させたいと思ってるはず。唯花はとっても優秀な女性よ。だけど、彼女の出身を考えるとそれが大きな足枷になってあんたの相手としては考えられないのよ。おばさんは私のことを考慮してくれて、唯花のことを自分の姪っ子のように喜んで可愛がってくれているけど、あんたのこととなると話は別。手のひらを返したかのように唯花に冷たくなるわ。だから、おばさんの目には唯花はあんたのお嫁さん候補に映っていないのよ」牧野明凛のこの話は急所をずばりと言い当てていて、情け一つなかった。「琉生、あんたの唯花に対する気持ちは、彼女に幸せじゃなく、ただ災いをもたらすだけよ。私はあんたの従姉のお姉さんだから、愛のために傷ついてほしくないの。私は唯花の親友だから、私の家族のせいで彼女に傷ついてほしくないのよ。琉生、諦めて。唯花はあんたには合わないの。彼女だって絶対にあんたを好きになることはないんだから。あんた達が知り合って十数年、彼女は私と一緒にあんたが大きくなるのを見守ってきたわ。彼女がもしあんたを好きになるんだったら、十数年のこの時間でどうして心を動かさなかったの?十数年もの時間、彼女はずっとあんたを弟としてしか見てこなかった。お姉さんが自分の弟に恋愛感情を抱くようなことはないでしょ。ここで諦めず、このまま唯花を好きでい続けたら、苦しむのはあんた自身なのよ」金城琉生の顔色が更に青ざめていった。彼は唯花のことが好きで、自分の母親も唯花をとても気に入ってい
牧野明凛は彼を見つめ、顔色が段々厳しくなり、冷たい声で言った。「まさか、本当に唯花と結城さんの間に無理やり割って入ろうなんて考えてないよね?琉生、そんなことしたら、私あんたを見下すわよ」 金城琉生は自分が内海唯花を諦めきれないと思っている。しかし、彼女を傷つけさせることもしたくない。酷いことを言っていたが、やはり自分の従弟だ。今の彼が可哀想だと思って牧野明凛は顔色を和らげ、ため息をついて言った。「琉生、聞くに堪えない言葉だけど、言えることは全部言ったつもりだよ。まずは頭を冷やしてちょうだい。お姉ちゃんの店には暫く来ないように努力して。唯花に会わなかったら、自然にその感情は去って行くものよ」言い終わると、彼女は椅子から腰を上げた。「コーヒーを奢るから、気にしないでね。私は先に店に帰るから、琉生も早く会社に戻るのよ。今経験を積んでいる重要な時期でしょ。誰よりも頑張らないと。金城家の今の世代には、あなたしかいないわけじゃないということを肝に銘じるべきよ。努力しないと、あなたのものもなくなっちゃうんだから」言い終わると、牧野明凛は彼に背を向けて、店を出ていった。金城琉生はぼんやりとそこに座っていた。彼は自分が内海唯花に恋をしていると気づいた時、勇気を出して告白することが出来なかったから、そのチャンスを逃がしてしまったのではないだろうか。牧野明凛は店に戻った時、佐々木陽はもう起きていた。内海唯花はハンドメイドをしていて、佐々木陽が大人しく彼女の隣でおもちゃで遊んでいた。牧野明凛は静かに自分の親友を見つめた。親友は整った顔をしていて、かなり美人だった。こうやって自分が好きなことに専念している時、特に美しい。金城琉生が彼女に恋をしても、別に不思議なことではない。「明凛、何を見ているの?まさか見惚れている?」牧野明凛は笑った。「私が男だったら、絶対あなたに恋に落ちるよ。唯花、自分がとても魅力的な存在だという自覚がないの」「魅力的な存在なんて大袈裟だよ。結婚する前に、彼氏もいなかったって知っているでしょ」「それは唯花が彼氏を作りたくなかっただけでしょ」牧野明凛は自ら椅子を引いてレジの前に座り、内海唯花に聞いた。「ネットショップはかなり順調なの?ここ最近、時間があればいつもハンドメイドしているね」「結城さんと彼の弟
内海唯花は笑った。「結城さんがこんなことをするなんて、何か私に言いたいことがあるの?」結城理仁は少し躊躇い、口を開けた。「……今日は接待とかがなくて、早く帰れるから、もし君がよければ、一緒にドライブや散歩とかしないかと」初めて花束を贈った時、結城理仁は何も言わず逃げていったが、後になって思い返してみると、自分から相手に距離を縮めることは、思ったより難しくなかった。他就厚着脸皮,约老婆晚上去逛街。それなら、彼は一旦プライドを捨てて、デートしないかと妻を誘ってみた。内海唯花は少し考えて言った。「後で陽ちゃんを連れてお姉ちゃんを迎えに行きたいと思ってるの。もしよかったら、一緒にお姉ちゃんを迎えに行って、晩ご飯を食べてからどこかへ散歩しに行こうか」「義姉さんは今日残業する?」「さっきメッセージを送ってきたよ。今日は初日だから、残業する必要がないんだって。五時半に退勤できるらしいわ」結城理仁は少し考えてから返事した。「わかった。じゃ後で先に君のところへ行って、一緒に義姉さんを迎えに行く。それから、ご飯を奢らせてくれ」「わかった」「じゃ、電話を切るよ」「うん、後でね」しかし、結城理仁はすぐに電話を切らず、内海唯花から甘い言葉でも囁いてくれるんじゃないかと密かに期待していた。しかし残念だが、返ってきたのは甘い言葉じゃなくて、ただ妻の何の変哲もない疑問だった。「結城さん、また何か用事でも?」「ないよ。切るぞ」内海唯花はうんと返事して、電話を切った。携帯を置くと、親友が笑って彼女を見つめているのに気づいて、内海唯花は親友の額を突いた。「何を笑っているの」「唯花、今結城さんと結構いい雰囲気じゃない?相手もその気になったんじゃないの。もう少し頑張ってね、私は唯花の結婚式に参加するのが待ち遠しいの」婚姻届けは出したが、結婚式もないし、公にすることもない。二人が夫婦だということは最も親しい、極少ない人しか知らないのだ。「私は自然の成り行きに任せるつもりだよ」内海唯花は自ら結城理仁を追いかけるつもりはないが、もし結城理仁が積極的に一歩進んでくれるなら、彼女は逃げるつもりはなかった。もし彼女が先に一歩進んで、結城理仁に全くその気がなかったら、傷つくのは彼女自身だから。もし結城理仁が距離を縮めてくれるなら、彼女も
結城理仁は自分から妻に夜のデートを誘い、オッケーをもらうと、目に見えるほど機嫌がよくなって、仕事をサクサクこなしていった。ドアをノックして、彼の返事を聞いた人なら誰でも、結城理仁の機嫌がいいことがわかるだろう。九条悟はドアを開けて入ってきた。彼一人だけじゃなく、伊集院善も後ろについてきた。伊集院善のボディーガード達はオフィスの外で待機していた。「社長、伊集院さんがお見えになりました」結城理仁は手元の仕事を一旦置いて、腰を上げ、伊集院善の前に来て右手を出しながら言った。「伊集院さん、こんにちは」二人が握手してから、結城理仁は伊集院善をソファに座らせた。さっきアシスタントの木村は伊集院善が来たと知らせてきたが、九条悟と一緒に入ってくるとは思わなかった。たぶん来る途中で偶然に会ったのだろう。九条悟は伊集院善にお茶を出した。伊集院善がお茶を飲んで湯飲みを置くと、結城理仁は笑いながら尋ねた。「伊集院さん、本日はどういったご要件でしょうか。前の契約に何か問題でも?」伊集院善のような提携するパートナーは、アポがなくてもいつでも結城理仁に会えるのだが、伊集院善はいつも九条悟と連絡を取ることが多かった。今回は初めてわざわざ会社まで直接会いに来たのだから、結城理仁は思わず両社の提携に何か問題があったのではないかと思った。伊集院善は笑った。「結城さん、ご心配なく。うちの契約は何の問題もありません。今回来たのは、兄と義姉に頼まれて、結城さんに招待状を持ってきたんです」それを聞くと、結城理仁の顔にも笑みが出た。「ようやく桐生さんの結婚式に参加できるということですか。望鷹の篠崎家のことはもう終わりましたか」「済んだばかりですね。兄夫婦は今回望鷹から帰って久保社長の結婚式に参加する予定です。兄と義姉の結婚時期はとうに決まっていましたから、義姉の実家の兄の結婚式が終わったら、今度ようやく兄夫婦の結婚式をやる番ですね。ですから、こうやって私が結城さんに招待状を持って来た次第ですよ」そう言いながら、伊集院善は兄に頼まれて持ってきた招待状を出した。他の取引先には、兄が皆速達で招待状を渡したが、結城理仁のところだけは少し違うのだ。伊集院善はたまたまA市から星城に来て、ここの子会社も彼が担当しているし、よく星城にいるからだ。兄に頼まれて、直接結
「結構前から桐生さんの噂をかねがね伺っておりました。いつかぜひお会いしたいと思っていて、今回はちょうどいい機会だと思います」伊集院善は微笑んだ。「兄も同じように思っているはずです」二人はしばらく社交辞令を交わした。伊集院善が今回来たのはただ兄の代わりに招待状を結城理仁に届けただけだ。用事がもう済んだので、これ以上残る必要はなかった。それに、今の彼は結構忙しい身なのだ。すると、彼は言った。「結城さん、九条さん、まだ用事があるので、先に失礼します。今晩もしよければ、一緒にご飯でもしませんか?私の奢りで」九条悟は笑った。「私はいつでも問題ありませんが、うちの社長はもう予定があるみたいです」結城理仁は自然に話を続けた。「また日を改めて、私から伊集院さんを招待しますよ」今晩は妻と約束があるから。伊集院善は微笑みながら言った。「わかりました、それではご連絡お待ちしております」彼は腰を上げた。結城理仁と九条悟も一緒に椅子から立ち、伊集院善を外まで送るつもりだ。「結城さん、九条さん、ここまででいいですよ」伊集院善は一旦オフィスの前で止まって、二人を止めておいた。結城理仁と九条悟はオフィスの前で伊集院善がボディーガード達に囲まれて去って行くのを見送っていた。伊集院善の姿が見えなくなるまで見送った後、九条悟は親友を手で突いて、興味津々に尋ねた。「今晩は一体何の予定が入っているんだ?ビジネスの接待全部俺に押しつけて、せっかくの伊集院さんの誘いまでも断るなんてな。理仁、俺はもしかして前世お前に何か借りでも作ってたのかな。だから今はあんたの会社で社畜のように働いで、いつ呼ばれてもすぐ駆けて来るなんてことまでするんだ」結城理仁は振り返ってオフィスに入った。「逆じゃないか?君は俺のところにいるからこそちゃんと自分の価値をはっきりできるだろう。俺が君に相応しい舞台を立ち上げてやったから、君はやっと思うように踊れるだろう」九条悟はニコニコ笑いながら、オフィスのドアを閉めた。「もしかして奥さんとデートでもしに行く?」「そうだが、なんだ?ついてきてお邪魔虫にでもなりたいか?それとも羨ましいのか?じゃ、お見合いの場を用意してあげよう。お前もスピード婚の仲間になるか」九条悟は急いで否定した。「俺はちゃんと空気読める人だぞ、お
姫華は唯花たちが引っ越し作業を終えてから、ようやく自分がそんなに面白いことを逃したのだと知ったのだった。だから彼女は明凛と唯花に不満を持っていた。明凛は唯花に姫華にも教えるよう言ったが、唯花が彼女はお嬢様だから家をめちゃくちゃにするという乱暴なシーンは見せたくないと思い姫華には伝えなかったのだ。確かに姫華は名家の令嬢であるが、神崎姫華だぞ。神崎姫華は星城の上流社会ではあまり評判が良くない。他人が彼女のことを横暴でわがまま、理屈が通じないというくらいなのだから、そんな彼女が家を壊すくらいのシーンで音を上げるとでも?逆に、彼女自身も機嫌が悪い時にはハチャメチャなことをしでかすというのに。「姉がもらうべき分はしっかりと財産分与させました。ただ内装費に関しては佐々木家が拒否したので、私たちが人を雇ってその内装を全て剥がしたんです」詩乃はそれを聞いて「それはそうすべきよ。どうして佐々木家においしい思いをさせる必要なんてあるかしら」と唯花たちの行動を当たり前だと言った。そして最後にまた残念そうにこう言った。「もし伯母さんが知っていれば、あなた達の家族として、大勢で彼らのところまで押しかけて内装費を意地でも出させてあげたものを。これは正当な権利よ」この時、唯花はふいに姫華の性格は完全に母親譲りなのだと悟った。「唯花ちゃん、もうちょっとしたらお店を閉めて私たちと一緒に神崎家に帰りましょう。家族みんなで食事をするの。そうだ、あなたの旦那さんはお時間があるのかしら?彼も一緒にいらっしゃいよ」唯花は「夫は今日出張に行ったばかりなんです。たぶん暫くの間帰ってきません。彼が帰ってきたら、一緒に詩乃伯母さんのお宅にお邪魔します」と返事した。「出張に行ってらっしゃるのね。なら、彼が帰って来てからお会いしましょう」詩乃はすぐに姪の夫に会えなくても特に気にしていなかった。彼女にとって、二人の姪のほうが重要だったからだ。今、彼女は姪を見つけることができて、姪二人にはこの神崎詩乃という後ろ盾もできた。ちょうど唯花に代わってその夫が頼りになる人物なのか見極めることができよう。「あなたのお姉さんは五時半にお仕事が終わるのよね?」「ええ」神崎夫人は時間を見て言った。「お姉さんはどこで働いていらっしゃるの?」「東グループです」神崎夫人は「そ
姫華は父親である神崎航と一緒に母親を気にかけていたので、理紗が忘れずにこの鑑定結果を持ってきたのだった。唯花は理紗から渡された鑑定結果を受け取って見た。彼女はその結果を見た後、少しの間沈黙してからそれをテーブルの上に置いた。「唯花ちゃん、あなたは私の姪よ。私のことは詩乃伯母さんって呼んでね」今世では妹と再会を果たすことはできなかったが、妹の娘である二人の姪を見つけることができただけでも、神崎詩乃(かんざき しの)にとっては一種の慰めになった。彼女は唯花の手をとり、自分のことを「詩乃伯母さん」と呼ばせた。「唯月ちゃんは?それから陽ちゃんも」神崎詩乃はもう一人の姪のことも忘れていなかった。「姉は昼にはここへは来ないんです。夕方五時半に退勤したら帰ってきますよ」唯花はそう説明して、明凛のほうを見た。明凛が陽を抱っこして近づいて来て、唯花が彼を抱っこした。「神崎おば様……」唯花がそう言うと、詩乃は言った。「唯花ちゃん、私のことは詩乃伯母さんって呼んでね。私はずっとあなた達を見つけられるのを夢見ていたのよ。ようやく見つけたんだから、そんな距離感のある言い方で呼ばれると寂しいわ」唯花は少し黙った後「詩乃伯母さん」と言い直した。DNA鑑定結果はもう出てきたのだ。彼女が神崎詩乃の血縁者であることが証明されたのだから、神崎夫人はまさに彼女の伯母にあたるのだ。本当にまるでドラマのようだ。詩乃は唯花に詩乃伯母さんと呼ばれて、目をまた赤くさせた。そして姫華がこの時急いで言った。「お母さんったら、もう泣かないで。陽ちゃんもいるのよ、お母さんが泣いたりしたら、陽ちゃんを驚かせちゃうでしょ」明凛と清水はみんなにお茶とフルーツを持ってやってきた。詩乃は陽を抱っこしたいと思っていたが、陽のほうはそれを嫌がり、背中を向けて唯花の首にしっかりと抱きついた。「陽ちゃん、こちらはおばあちゃんのお姉さんなのよ」詩乃は立ち上がって、陽をなだめようとした。「いらっしゃい、おばあちゃんが抱っこしてあげる、ね」しかし陽は彼女の手を振り払い「やだ、やだ、おばたんがいいの」と叫んだ。詩乃は陽が過剰な反応をしたのを見て、諦めるしかなかった。そして少し前の出来事を思い出し、彼女はまた容赦なくこう言った。「あの最低な一家が、陽ちゃんにショックを
数台の高級車が遠くからやって来て、星城高校の前を通り過ぎ、唯花の本屋の前に止まった。隣の高橋の店で暇だからおしゃべりをしていた結城おばあさんが、道のほうに目を向けると数台の高級車がやって来ていた。そしてすぐに顔をくるりと元の位置に戻し、わざと頭を低くした。あの数台の車から降りてきた人に見られないようにしたのだ。「唯花、唯花」姫華が車から降りて、唯花の名前を呼びながら店の中へと小走りに入ってきた。その時は隣の店でおしゃべりしていた結城おばあさんを全く気にも留めていなかった。その後ろの車から降りてきた神崎夫人の夫の神崎航がボロボロに泣いている妻を支えながら、娘の後ろに続いて店の中に入ってきた。理紗はボディーガードたちに入り口で待機するように伝え、それから彼女も店の中へと入ってきた。唯花は三分の一ほどビーズ細工のインコを作り終えたところで、姫華に呼ばれる声を聞き、その手を止めて姫華のほうへ視線を向けた。「姫華、来たのね。ご飯は食べた?もしまだなら……」その時、神崎夫人が夫に支えられて入ってきて、夫人が涙で顔を濡らしているのを見て、唯花は状況を理解した。神崎夫人はDNA鑑定の結果を手にしたのだ。神崎夫人のその顔を見れば、聞くまでもなく彼女と神崎夫人には血縁関係があるのだということがわかった。「唯花ちゃん――」神崎夫人は急ぎ足で、レジ台をぐるりを回って彼女のもとへとやって来て、唯花を懐に抱きしめ泣きながら言った。「伯母さんにもっと早く見つけさせてよ――」彼女はそれ以上他に言葉が出てこないらしく、ただ唯花を抱きしめて泣き続けた。唯花は彼女に慰める言葉をかけたかったが、自分もこの時何も言葉が出せなかった。「私の可哀想な妹――」神崎夫人は妹がすでに他界していることを思い、また大泣きした。唯花は彼女と一緒に涙を流した。明凛は陽を抱っこして清水と一緒に遠くからそれを見守っていた。陽は全くどういうことなのかわかっていない様子だった。姫華と理紗も目を真っ赤にさせていた。神崎航がやって来て、妻を唯花から離し、優しい声で慰めた。「泣かないで、姪っ子さんが見つかったんだ、良かったじゃないか。私たちは喜ぶべきだろう。そんなふうにずっと泣いてないで、ね」神崎夫人は夫に支えられて椅子に腰かけた。妹の不幸な境遇と、二人の
「内海のクソじじい、あんたはしっかり私から百二十万受け取っただろうが。現金であげただろう、あれは私がずっと貯めていたへそくりだったんだよ。あの金を受け取る時にあんたは唯花を説得してみせると豪語してたじゃないか。それがあんたは何もできずに、うちの息子はやっぱり唯月と離婚してしまったんだぞ。だからさっさと金を返すんだよ。じゃないと本気で警察に通報するわよ」佐々木母は内海じいさんがどうしても認めようとしないので、怒りで顔を真っ赤にさせていた。内海じいさんは冷たい顔で言った。「もし通報するってんなら、通報すりゃええだろ。俺がそんなことを怖がるとでも思ってんのか。俺はお前から金を受け取ってないし、もし受け取っていたとしてもそれが何だって言うんだ?それは唯月が結婚した時の結納金の補填だろう。うちの孫娘がお宅の息子と結婚する時に一円も出しゃあしなかったくせによ。結納金に代わって百万ちょいの補填だけで済んだんだぞ。お宅にも娘がいるだろ。その娘が結婚する時に一円も結納金を受け取らずにタダで娘を婿側に送ったのか?」佐々木母はそれを聞いて腹を立てて言った。「なにが結納金だ、お前は唯月を育ててきたのか?そうじゃないくせに結納金を受け取る資格があんたにあるとでも?彼らはもう離婚したってのに、馬鹿みたいにあんたらに結納金を今更補填してあげるわけないでしょうが。さっさと金を返すんだよ!」「金なんかねえ。命ならあるけどな。それでいいなら持って行くがいい」内海じいさんは、もはやこの世に何も恐れるものなど何もないといった様子で、佐々木母はあまりの怒りで彼に飛びかかって引き裂いてやりたいくらいだった。そこに英子が母親を引き留めた。「お母さん、あいつに触っちゃダメよ。あいつはあの年齢だし、床に寝転がりでもされちゃったら、私たちが責任を追及されちゃうわよ」「ああ、じいさんや、私はすごくきついよ。もう息もできないくらいさ。こいつらがここで大騒ぎしたせいで私まで気分が悪くなってきたみたいだ。死にそうだよ……」病床に寝ていたおばあさんが突然、気分が悪そうな様子で胸元を押さえて荒い呼吸をし始めた。内海じいさんはすぐにナースコールを押して、医者と看護師に来るように伝えた。そして、佐々木母たち三人に向って容赦なく言った。「もしうちのばあさんがお前らのせいで体調を悪化させた
唯花は笑って言った。「姫華が言ってたの、九条さんって情報一家らしいわ。彼と一緒にいたら、ありとあらゆる噂話が聞けるわよ。あなたって一番こういうのに興味があるでしょ。九条さんってまさにあなたのために生まれてきたみたいな人だわ、あなた達二人とってもお似合いだと思うけど」明凛「……」彼女が彼氏を探しているのは、結婚したいからなのか、それとも噂話を聞くためなのか。「そういえば、お姉さんの元旦那のあの一家がまた来たって?」明凛は急いで話題を変えた。親友に自分の噂話など提供したくないのだ。「お姉ちゃんと佐々木のクソ野郎が離婚して、お姉ちゃんがあの家から出て行ったでしょ。あいつらは待ってましたと言わんばかりに引っ越して来ようとしてたわけ。だけど、今は部屋を借りるかホテル暮らしするか、はたまた実家に帰るしかなくなったでしょ。あの一家は絶対市内で年越ししたいと思ってるはずよ。実家には帰らないでしょうね」佐々木一家は絶対に実家のご近所たちに、年越しは市内でするんだと言いふらしていたはずだ。だから、住む家がなくとも、彼ら一家は部屋を借りるまでしてでも、市内で正月を迎えようとするに決まっている。唯花は幽体離脱でもして佐々木家に向かい、彼らの様子を見てみたいくらいだった。「あの人たち、家の内装がなくなってめちゃくちゃになった部屋を見て、きっと大喜びして失神したことでしょうね」唯花はハハハと大笑いした。「そりゃそうね」唯花が今どんな状況なのか興味を持っている佐々木家はというと、この時、すでに内海じいさんがいる病院までやって来ていた。内海ばあさんは術後回復はなかなか順調で、もう少しすれば退院して家で休養できるのだった。佐々木母は娘とその婿を連れて病室に勢いよく入っていった。佐々木父は来たくなかったので、ホテルに残って三人の孫たちを見ていた。ただ佐々木父は恥をかきたくなかったのだ。「このクソじじい」佐々木母は病室に勢いよく入って来ると、大声でそう叫んだ。内海じいさんは彼女が娘とその婿を連れて入ってきたのを見て、不機嫌そうに眉をしかめた。彼の息子や孫たちはどこに行ったのだ?誰もこの狂ったクソババアを止めに入りやしないじゃないか。「これは親戚の佐々木さんじゃないですか、うちのばあさんはまだ病気なんで、静かにしてもら
「そうね、姫華にも彼女のプライドっていうものがあるんだもの。神崎家の娘は条件も整ってるから結婚に悩む必要もないし」神崎夫人は娘のことをやはりよく理解しているのだった。姫華が諦めると言えば、必ず諦めるのだから。その時、外から車の音が聞こえてきた。理紗が立ち上がり、外のほうへと歩いていき言った。「きっと姫華ちゃんが帰ってきたんです」彼女が外に出ると、やはり義妹が帰ってきたのだった。姫華は車を降りて義姉のほうへとやって来ると、キラキラと輝く笑顔を見せて言った。「お義姉さん、お母さんはまだ家にいる?」義妹が輝くような笑顔を送ってきたので、それを見た理紗は心がとても痛んだ。彼女は義妹がつらい気持ちを吐き出すために、このように無理して笑うより、泣いたほうが良いと考えていた。姫華がこんな笑顔を見せるたびに、彼女の心が傷ついているというのは明らかだからだ。ああ。自分を愛してくれない男を好きになってしまうのは、こんなにもつらいことなのだ。その相手が結婚したばかりだと知ったら、その苦しみはもっと深くなるだろう。「お義母さんは家にいるわよ。姫華ちゃん、あなた大丈夫?」「お義姉さんったら、そんなふうに見える?心配しないで、私は大丈夫だから。ただ過去と決別してきただけよ」姫華はもう吹っ切れたような言い方だったが、それでもあまり理仁のことについては話したくなかった。彼女は親しそうに義姉の手を引っ張って言った。「お義姉さん、さあ、中に入りましょうよ」姫華が帰って来ると、神崎夫人はさらに居ても立ってもいられなくなった。それで、神崎夫人は家族に付き添われて、鑑定機関へと赴いた。神崎夫人がとても緊張しているのと比べて、唯花のほうはとても落ち着いていた。彼女はレジの後ろでハンドメイドをしていた。陽と一緒に遊ぶおばあさんと清水をちらりと見て、明凛に言った。「うちの理仁さんは出張に行ったわ。ここ数日なにか面白いことがあって、私も参加できそうなら一声かけてよね」最近嫌なことが多すぎて、日々は張り詰めた空気に包まれていた。だから親友と一緒に遊んで、気分を上げる必要があるのだ。その時は姉と陽の二人も一緒に連れ出そう。明凛は笑って言った。「それなら、ショッピングか、美味しい物を食べるか、唯花が好きなことって他に何があるかしら?社交界のパ
それを聞いて姫華は笑った。笑ってはいたが、手で瞳に滲んだ涙を拭きとり顔をそむけて遠くの方を見つめていた。そして少ししてから、ようやくまた顔を理仁のほうへと向けて、落ち着いた表情になりまた笑って言った。「理仁、あなたからそんな言葉が聞けて、それだけでもよかったわ。何年もあなたに片思いしてた甲斐があったっていうものよ」彼女はおおらかにも理仁のほうへ手を差し出し、理仁も同じようにして彼女と握手を交わした。「理仁、奥さんと年を取るまで、いつまでも幸せでいてちょうだいね」「ありがとう、神崎さん」「あなた達が結婚式を挙げるなら、私も参加させてもらえたら嬉しいわ」理仁は手を引っ込め、優しく言った。「良い日取りを決めて、結婚式を挙げる時は、神崎社長と、君に招待状を送るよ」「じゃ、あなた達をお祝いできる日を楽しみにしているわね」姫華は笑って言った。「結城社長は忙しいでしょうから、貴重な時間の邪魔はもうしないわ。さようなら」彼女は理仁に手を振り、背中を向けて彼女のスポーツカーに乗り、すぐに結城グループの前から去っていった。さようなら、はじめて深く愛した人。今後は二度と彼女がここに現れることはない。彼女は傷を癒したら、また新たに自分の人生を歩んでいくのだ。理仁が車に戻ると、運転手は急いで車を出した。運転手はこの二人がまた揉めるのかと思っていたが、まさか神崎家の令嬢が祝福を送りに来るとは思わなかった。神崎お嬢様は正直に人を愛し、また憎み、そしてすぐに決断してスカッと自分の気持に区切りがつけられる性格の持ち主なのだ。運転手にしろ、ボディーガードたちにしろ、みんな神崎姫華への考えを改めた。少なくとも、彼女が引き続き彼に纏わりつくことはなくなったのだ。姫華は唯花のところに行こうと考えていたのだが、行く途中でまた考えを変えた。彼女は家に帰って母親と一緒にDNA鑑定機関に赴き、その結果を取りに行かなければならない。それで、姫華はUターンできるところで引き返し、家へとルート変更して車を走らせていった。家に到着した時には、すでに午前九時過ぎだった。神崎夫人は早く出かけて結果を知りたがっていたが、夫に「まだ早いだろう。そんなに焦らないで。結果が出るのは出るんだから、誰もそれを取って行ったりなんかしないって」と繰り返し諭して
電話を切った後、理仁は七瀬に指示を出した。「俺がいない間、しっかりと妻の警護にあたってくれ」「若旦那様、ご安心ください。私がしっかり若奥様をお守りしますので」若奥様はもともと強いお方だ。そんな彼女を警護する仕事なら楽勝だ。さらにさらに、ボーナスが倍に!七瀬はそれを考えただけで顔がほころんだ。これこそ若奥様とお近づきになる最大のメリットなのだ!「もし妻が何か困って助けが必要な時には、ばあちゃんに言えば解決方法を指示してくれるだろう。それか、辰巳に相談してくれてもいい」「若旦那様、ご安心を。若奥様が何かお困りになられたら、おばあ様がすぐにおわかりになることでしょう」おばあさんはもはや、神的存在だ。そんな彼女の孫たちは神の掌の上で泳ぐしかない。理仁は祖母の能力を考え、それ以上は何も言わなかった。それから、理仁にある意外な出来事が起こった。暫くの間、会社の前に現れなかった神崎姫華がこの日また現れたのだ。彼女は自分の赤いスポーツカーに寄りかかっていて、理仁の専用車の列がゆっくりと近づいてくるのを見ていた。それを見て運転手が言った。「若旦那様、神崎お嬢様がまたいらっしゃったようです」理仁は少し黙って、運転手に言いつけた。「神崎さんの前で車を止めてくれ」それを聞いた運転手と七瀬はとても意外だった。確かに神崎家の令嬢と若奥様は仲のいい友人同士である。しかし、今まで若旦那様は一度も神崎家の令嬢には優しくしたことはなかった。少しだけ彼が優しくしているのは牧野家のお嬢さんだ。彼女は若旦那様と交友関係にあるからだ。それに、牧野家のお嬢さんは若奥様と一緒に本屋を経営している。理仁にそう指示されて、運転手は言われた通りにした。姫華はその時どうしようか迷っていた。以前と同じように死ぬ気で彼の車を妨害しようかと思っていたところ、理仁が乗ったあのロールスロイスのほうから彼女の前に止まってくれた。車のドアが開き、理仁が車から降りてきた。暫くの間会っていなかったが、彼は彼女の瞳には依然として超絶な美形に映っていた。姫華は暫くじいっと彼に見惚れていたが、すぐに自分自身にそれを止めるよう言い聞かせた。彼はすでに他の女性の夫なのだから。「結城社長、あまり警戒しないで、今日私がここに来たのは、あなたに付き纏うためじゃないから
顔をあげて彼を暫く見つめ、唯花は仕方なく彼の首に手を回し、自分のほうへ引き寄せて甘いキスを彼に捧げた。理仁は妻のほうからキスをしてもらい、上機嫌になって、片手でスーツケースを引き、もう片方の手で唯花の手を繋いで一緒に家を出ていった。おばあさんは一階でこの二人を待っていた。その時、おばあさんと一緒にいて話をしていたのは七瀬だった。唯月の引っ越しを手伝った時、唯花は七瀬も手伝いに来てくれたことに気づき、彼はきちんと報酬がもらえれば、どんな仕事でも請け負うと言っていた。そして、また唯花に会った時、七瀬はもうわたわたと焦ることはなかった。正当な理由をようやく見つけて堂々とできるという感じだ。「結城さん、内海さん、おはようございます」七瀬のほうから挨拶をしてきた。唯花はそれに微笑んで、ついでに「お名前は?あの日、すっかり名刺をいただくのを忘れていました」と言った。七瀬はその時、素早く主人である理仁のほうをちらりと確認し、彼の表情が変わらないのを見て何も恐れることなく彼女に答えた。「私は七瀬と申します」そして、ポケットから一枚の紙を取り出して唯花に渡し、申し訳なさそうに言った。「家に帰って名刺がもう切れていることに気づいたんです。まだ印刷しに行っていないので、携帯番号を紙に書いておきました」唯花は彼の電話番号が書かれた紙を受け取り、自分の横にいる夫に言った。「七瀬さんがどんな仕事でも受けてくれるらしいわ。今後自分でできないことは七瀬さんにお願いしようと思って」こう言って理仁がまたヤキモチを焼き始めるのを阻止しようとしたのだ。理仁は低い声で言った。「七瀬さんはとても頼りになるからね。何か力仕事があれば、彼に頼むといい」七瀬は素直に笑った。「はい、その通りです。きちんとお金をいただければ、どんな仕事だっていたしますよ。ところで、結城さん、出張ですか?」理仁は「ええ」とひとこと言った。「では、私はこれで」七瀬は夫婦二人に挨拶をしてからおばあさんに手を振り、自然にその場を離れた。今回、若旦那様は出張に半分のボディーガードしか連れて行かない。その中に七瀬は含まれておらず、ここに残って若奥様の護衛をするのだった。自分の主人の出張について行けないことを七瀬は少しも残念には思っていなかった。なぜなら、女主人にゴマすりで