神崎夫人はそれを聞いて驚いた。「結城さんに彼女ができたの?」「結婚しているの。しかも奥さんにとても優しくて、溺愛してるみたい。お兄ちゃんでもその奥さんが一体誰なのか調べてもわからないんだから、情報が漏れないようにしっかり守っているんでしょうね」神崎夫人「……彼が結婚しているのなら、もう諦めなさいね。彼はそもそもあなたのものではないんだし、ずっとあなたの片思いだったし」神崎夫人は結城理仁のことを高く買っていたが、彼が自分の娘のことをまったく好きではないことがわかっていた。ただ娘自身が彼にアタックしてみたかったのだ。壁にぶち当たったのなら、他の道を探すまで。「お母さん、ちょっと話があるのよ」姫華は母親とこれ以上結城理仁の話をしたくなかった。彼の話題になると、ぎゅっと心が締め付けられる。長年好きだった男性が、ある日突然、結婚していると知ったのだ。彼女は危うく人の恋路の邪魔をする第三者になってしまうところだった。そしてその瞬間から彼のことを諦めなければならず、辛くないと言えば嘘になる。今の彼女は自分の気持ちを保つために、できるだけ結城理仁の話題は避けようとしていた。「なぁに?お母さん、もうすぐ家に着くわよ。それからじゃだめなの?」「あのね、聞いたら喜ぶと思って、叔母さんの新しい手がかりが掴めたのよ」それを聞くと、やはり神崎夫人は真剣な表情になり、驚きと喜びに溢れた。「姫華、手がかりが掴めたって?叔母さんは今どこにいるの?」「あの友達の唯花が、えっと、あの、この間『不孝者の孫娘』って炎上した子がいたじゃない?お母さんと叔母さんが小さい頃の写真を彼女に送って心に留めておいてもらおうと思って見せたんだけど、さっき彼女に電話した時、その写真をよく見たらなんだか彼女の甥っ子の陽ちゃんと叔母さんが似てるような気がするって言っていたの」それを聞いた神崎夫人の顔色は喜びの色から一転し、少し青ざめた。この間の炎上の件では、騒ぎは結構大きくなり、彼女は内海家が削除してしまった写真を見てはいなかったが、娘の口から大体のことを聞いていて知っていた。内海姉妹といえば、二人の両親はすでに他界しているはずだ。もし、唯花の甥が彼女の妹に似ているのであれば、それは唯花の母親が彼女の妹であるということで、その妹はすでに十五年前に亡くなっている
もし、唯花姉妹が神崎夫人の姪なのだとしたら……神崎夫人は二人の姪っ子が今までに味わって来た苦難を思うと、さらに心が締め付けられて苦しかった。「もうすぐ家に着くわ。待っててちょうだい、あなたと一緒に陽君に会いに行くから」これが最も可能性の高い手がかりだ。彼女は絶対に自ら妹に似ているという子供に会いに行くと決めた。……その頃、柏木家では。「お父さん、お母さん、引っ越さないでちょうだい。私、唯花に賠償金は払わせないって約束するから、これでいいでしょ?」英子は両親が家から出て行こうとするのを必死に止めていた。昨日、両親は帰るとすぐに荷物の整理を始めた。しかし、娘から泣きながら二度とあんな真似はしないと訴えられて、二人は一夜はなんとかここに留まっていたのだ。一晩もすれば、両親の怒りは収まると考えていたのだった。それがまさか今、やはり引っ越して出て行くと言われるとは思っていなかった。特に父親のほうの気がどうしても収まらないようだ。英子の夫である柏木輝夫も一緒に二人をなだめた。「義父さん、義母さん、英子の言うとおりです。引っ越してお二人の家に戻ったって、誰も世話をする人がいないのに、僕たちは安心できないですよ。僕たちと一緒に住んでいたほうが、家族一緒にわいわい楽しく過ごせるじゃないですか。義父さん、智哉も間違いを反省していますから。後で英子とあの子を連れて陽君に謝罪してきます。僕も昨日はしっかりと智哉にしつけてやりましたから」佐々木父はソファに腰かけてタバコをふかし、何も言わなかった。彼の横には荷物を整理したスーツケースが置かれていた。佐々木母は夫を見つめながら、何か言いたげだったが、言葉に出せないようだった。佐々木俊介に関しては、一言も発言することができないようだった。彼は昨日姉の家に着いて、甥が姉の旦那にひどくしつけられているのを見て、彼も怒りがほとんど消えてしまった。「お父さん」「黙っとれ」佐々木父は冷ややかに一喝し、顔を上げて娘をぎろりと睨みつけた。そして、彼の息子のほうはというと、一言も発せず隣に黙って立っているのを見て、彼はさらに怒りが込み上げてきた。それから、孫の智哉は娘婿にひどくしつけられたようだった。しかし、智哉の顔は氷で冷やした後、すぐに腫れが引いた。確かにまだ青あざは少し
「あんたら何しに来たんだい?」英子は彼らにきつい口調で尋ねた。彼女は唯花たちを中へ入れる気はなかったが、一人では力不足で彼らを止めることができなかった。彼女の夫はそんな彼女と真逆の態度で、腰を低くし唯花たちを中へと通した。智哉は唯花たちを見ると、怒りで目を大きく見開き睨みつけていた。それを父親に見つかり、捻られてしまった。「後できちんと謝罪しろよ」輝夫は小声で息子に注意した。「この人たちは、手に負えるような相手じゃない」柏木家の中をめちゃくちゃに破壊しても、彼らは何のお咎めなしなのだから。昨日警察は、まったく柏木家のほうに味方しようとはしなかったのだ。輝夫は結城家に何か並々ならぬものを感じ、逆らってはならない一家だと不安になり、自分たちの負けを認め息子には誠心誠意彼らに謝罪するよう注意した。実は輝夫は考えすぎだった。警察は監視カメラを見て、智哉がさすがにやり過ぎだと判断し、家の中が壊されたことには目を伏せることにしただけなのだ。他人の子供を病院送りにまでしておいて、相手に腹を立ててはいけないと言えるか?まだ子供を持っていない人なら、両親のその怒りと心を痛めることを理解することは難しいだろうが、子供がいる人なら、誰でもその映像を見れば怒りを爆発させることだろう。智哉は口を尖らせて、黙っていた。彼は自分が悪いとは全く思っていない。恭弥が陽に殴られたんだと主張していたからだ。智哉は恭弥の兄なのだから、弟が殴られたらもちろん弟の代わりに仕返しをするだろう。陽が先に手を出さなかったら、こんなことにならなかったくせに。それに別に陽が死ぬまで殴ることはしていないというのに、どうして大人たちの世界では、自分が大罪を犯した極悪人のようになっているのだ。智哉の考え方は彼の母親と完全に一致している。「唯花さん」佐々木父は穏やかな声で唯花に尋ねた。「陽君の様子は?」「お父さん、智哉を見てよ、この子はもうすっかり良くなったでしょ。陽ちゃんだって絶対治ってるわよ」英子は唯花が話す前に自分が話し出した。唯花は冷ややかな目で英子を睨みつけた。英子は不機嫌そうに言った。「なによその目は?唯花、昨日よくもうちの中をめちゃくちゃにしてくれたわね。被害額は……」父親に睨みつけられ、また夫から止められて、英子は結
佐々木母は陽が可哀想だと叫び、目をこする仕草を見せて、智哉を怒鳴った。「智哉、陽ちゃんはあんたの従弟なのよ。どうしてこんなひどいことができるのよ。陽ちゃんをこんなになるまで殴るだなんて」「お母さん、智哉だって自分が間違ってたってわかってるわ。この子だってまだ子供なんだから、力加減するなんてわかるわけないでしょ?」英子は息子に代わって弁解し、また唯花に向って言った。「唯花、智哉が陽ちゃんを殴ったことは、確かにこの子の間違いよ。昨日、この子の父親がしっかりしつけておいたわ。そして、自分が間違ってたって認めたの。後でこの子を連れて果物を買って、陽ちゃんのお見舞いに行くわ。しっかり陽ちゃんに謝るからさ。どうせ親戚同士だし、今回の件であんたらがうちの中を壊したことだって、お咎めなしにしてあげるから。だからそっちも、うちの子がやったことはもう言わないでちょうだい。子供同士で殴り合いの喧嘩をするなんてよくあることでしょう。私ら大人が出てきたらいけないんだよ。それに、恭弥が言うには陽ちゃんが先に手を出してきたらしいじゃないの。智哉はお兄ちゃんなんだから、そりゃ弟を守って当然でしょう。今あんたが姉を庇ってるのと同じことだよ」唯花は冷ややかに笑った。「英子、あんたってまったく物事が見えないようね。一体どっちが先に手を出したかって?監視カメラに本当のことがはっきりと映ってますけど」英子は言葉を詰まらせた。彼女はまた心の中で夫は使い物にならないと罵っていた。先に監視カメラの映像を消すのを忘れ、それが警察の手に渡ってしまったのだから。その監視カメラ映像が証拠となり、彼女が口で上手いこと言って、責任の矛先の向きを変えようと思っても、説得力の欠片もなくなってしまう。「今日あんたたちがここに来た目的は?言いな」陽のほうに責任を押し付けることができなくなり、英子は話題を変え、唯花たちにここまでやって来た目的を尋ねた。彼女は結城家側のほうへ目線を向けた。彼らは特別に何かをする必要などなかった。このようにそこに座っているだけで、ものすごい威圧感で、心臓まで震え上がってしまう。彼女の実家側の人間は見るまでもない。みんな肝っ玉が小さく怯えて何も言えない。一家揃って全く役に立たない!英子は心のうちで自分の家族を罵っていた。おばあさんと目が合うと、英子
英子は父親に睨みつけられ、何も言えなくなり、弟のほうに目線を向けて何かを訴えていた。俊介は姉からの救難信号を受け取り、ゴホンと咳をして唯花に言った。「唯花、姉ちゃんに智哉を連れて陽に謝罪させに行くだけで十分だろ。その、俺は陽の父親だ、あの子の保護者であるわけだし、俺に決定権があるはずだろう」唯花は俊介のその口ぶりにカチンと来て、皮肉を返した。「あんた、陽ちゃんの父親だって自覚あったんだ?他所の家庭の父親は自分の息子がいじめられたと知ったら、竹刀でも持って相手の家に殴り込みに行くでしょうけどね。あんたも人の父親だっていうのに、なるべく事を荒立てないようにしたいなんて、甥って自分の息子よりも大事なんだ?」そういい終わると唯花は輝夫に言った。「陽ちゃんは緊急で手術室に運ばれて、全身の検査もしたわ。全部で数万円はかかった。病院から領収書はもらって来てる。あんたたちに私が余分に金をだまし取ろうとしてるなんて言われないようにね。今日私が来たのは、まずはあんた達が子供を連れて姉と陽ちゃんに謝罪に行ってもらうため、そして今後は二度と陽ちゃんに近づかないと約束してもらうためよ。次に、慰謝料についてよ。陽ちゃんは心に大きなダメージを負ってるわ。今後彼の心の傷を癒すためにどれほどお金がかかるかわからないけど。これははっきりといくら賠償してと、今ここで言うことはできないわ。とりあえず先に治療費を払ってちょうだい。今後も治療費が必要になるなら、それは全部あんた達に出してもらうわ。栄養をつけて早く回復させるための栄養補填のための食費や、精神的ダメージを癒すのにかかる費用も、そんなに高い金額を請求したりしないわ。昨日の治療費と合わせて、今はとりあえず、陽ちゃんに対して百万円慰謝料として渡してちょうだい」英子はそれを聞くと飛び上がった。「あんた、いっそのこと銀行強盗でもやってくれば?陽ちゃんは一体いくつよ?栄養をつけるための食費に、精神的なダメージを受けたことへの賠償もだって?だったらうちの智哉も殴られたんだから、それの賠償もしなさいよ」唯花は彼女に聞き返した。「あんたの息子は誰に殴られたんだっけ?」英子「……」「その息子を殴った相手に慰謝料を請求しなさいよ。どのみち私たちは誰一人としてあんたの息子を殴ってないし」英子「……」暫くして、彼女は恨めしそ
唯花がすぐに息子の嫁にお金を送金したのを見て、佐々木父は小さくホッと息をついた。お金は息子の嫁に渡ったのだから、自身の孫に使われるのだ。赤の他人の手に渡ったわけではない。もし息子に渡していたら、それはまた自分の娘の財布の中に戻ってきてしまう。柏木家から出ると、結城家の一番年下である結城蓮は兄の車に乗ると言って聞かなかった。車に乗った後、彼は唯花に言った。「お義姉さん、昨日喧嘩しに来た時、どうして俺の事も呼んでくれなかったんですか。兄さんたちが俺だけ除け者にしたんですよ」唯花は後ろを振り返り、一番年の若い義弟を見て言った。「あなたはまだ未成年だもの。私たち大人は未成年を守らないといけないでしょ」「……確かに俺は未成年ですけど、智哉だって未成年じゃないですか。俺とあいつが喧嘩すれば、未成年同士の喧嘩になるでしょ」「私たちが手を出す必要はないわ。あちらの父親に子供の教育をしっかりさせればいいの。さっき佐々木英子っていうあの子の母親が言った話は聞こえてたでしょ。私たちに賠償を要求しようとしていたわ。あの子は自分の父親に殴られたんだから、英子は私たちに請求することができなかったのよ」「おばあちゃんが、俺を連れて来たのは数を稼ぐためだって」蓮は不満そうに口を尖らせた。「来てみたら、まさか本当にただの数合わせ役だなんて」理仁は低い声で言った。「お前は何がしたかったんだ?」蓮はすぐに口を閉じた。実際、彼らが今日柏木家に一緒に来たのは、義姉のサポートをするためだ。話し合いは全部義姉自ら行い、兄は何も口出ししなかった。義姉は陽の叔母だから、彼女はここに来た彼らの中で一番陽のために仕返しをする資格を持っているのだ。唯花は夫が蓮をビビらせたのを見て、彼に代わって言った。「理仁さん、蓮君を脅かさないであげて、彼だって良かれと思って来てくれたんだから」「そうだよ。兄さんはいっつも俺を脅してくるんだ。お義姉さん、兄さんはうちの父さんよりも厳しいんですよ。毎回家に帰って来て俺に会ったら、大箱いっぱいに練習ドリルを持ってくるんです。ずっとその問題をさせられて、休むことも許してくれないんですからね」蓮は初めて唯花に会った時、唯花に媚びを売っておこうと決めていた。彼の兄は今後、絶対に彼女の尻に敷かれることになると確信したからだ。それ
唯花はかなりの衝撃だった。当時、彼女が高校生の時、必死に頑張って勉強して、やっと良い大学に合格できたのを思い出していた。結城家の兄弟たちは軽々と良い大学に合格したうえに、飛び級までしていたなんて。「お義姉さん、そんなショックを受けて自分の人生を疑うような顔しないでくださいよ。一番ダメージ受けてるのは俺のほうなんですからね」唯花は考えてみると、確かにその通りだと思った。蓮が最も可哀想だ。彼女は笑って「蓮君、そんなふてくされないで、良い大学に合格できるわよ、きっと。頑張ってね!」と言った。「俺は絶対兄さんたちが行った大学に合格してみせますよ。もし受からなかったら、俺……浪人します」彼は受からなかったら自分で自分を殴ると言おうと思ったが、よく考えて、そんなことをするのはやっぱり良くないと思い、言葉を改めた。理仁は振り向いて弟をちらりと見ると、また車の運転に専念した。「もし合格できなかったら、俺の弟だと絶対に言うなよ」結城蓮「……」「理仁さん、弟さんにそんなにプレッシャーかけないほうがいいわよ」「こいつゲームするのに夢中で、全然緊張感がないんだよ。プレッシャーを与えないとだめなんだ」結城蓮「……みんなが兄さんみたいに自分を律していると思わないでよ」自分を律しすぎて、もしおばあさんが心配して行動を起こしていなければ、彼に義姉と呼ばれる存在は一生現れないことだったろう。理仁は冷たく、フンッと鼻を鳴らした。蓮はそれ以上何も言う度胸はなかった。「ピピッ――」理仁の携帯に新しいメッセージが届いた。彼は少し車のスピードを落として、そのメッセージを確認した。それは清水からのメッセージだった。清水が言うには「若旦那様、神崎夫人がお嬢さんを連れていらっしゃいました。若奥様を送って来られた後は上にあがってこないほうがよろしいですよ」ということだ。理仁は清水から送られて来たメッセージを確認すると、すぐにそれを削除した。姫華たち母娘二人の行動がこんなに早いとは。こんなにすぐ唯月と陽に会いに来た。彼は引き続き、何事もなかったかのように車を走らせた。暫くして、彼は九条悟にメッセージを送った。「後で十分おきに俺に電話をかけてくれ」九条悟はそのメッセージを受け取った後、最初は事態をよく把握できていなかったが、少し考
しかし、おばあさんは彼女自身、実は楽しんでいるのを決して認めないのだ。唯花は一晩寝ておらず、朝コーヒーを一杯飲んで目を覚ましただけで、今眠気に襲われていた。彼女は「ちょっとお姉ちゃんに電話して陽ちゃんは今どうなのか聞いてみるわね」と言った。電話をかけると、神崎親子が手土産を持って陽に会いに来ていることを知った。その目的は唯花はよくわかっていた。「お姉ちゃん、神崎夫人は何か言ってた?」このことを唯花はまだ姉には伝えていなかった。「特に何も言ってなかったわよ。ただ陽ちゃんがひどい目に遭って、辛いわって。姫華ちゃんが三十分ほどずっと柏木家の文句言ってたわよ」妹の友人、それから嫁ぎ先の家族、そのみんなが彼女の夫とその家族たちよりも優しく頼りがいがあるので、唯月はなんだか悲しく心が冷たく感じた。昔の彼女は人を見る目がなく、馬鹿だったのだ。佐々木俊介のようなクズと結婚なんかしてしまったのだから。俊介のような父親が、彼女と息子の陽の親権争いをしようだなんて、どんな了見なのだ?離婚訴訟の裁判に突入したら、彼女は陽が虐待された写真を一緒に裁判官に渡すつもりだ。裁判官が陽のためを考えて、きっと親権は彼女に渡してくれると信じていた。「神崎夫人はちょっと……体調が優れないご様子だったわよ。顔色が真っ青になってびっくりしちゃった。そんなに長い時間ここにはいなくて、姫華ちゃんが急いでお母様を支えて帰って行ったわ」唯月がただ一つ気になったのは神崎夫人の様子がおかしかったことだった。神崎夫人の顔がどんどん青くなっていくので、彼女はとても驚いてしまった。姫華も同じように驚いていて、急いで母親を支えながら帰っていったのだ。唯花は姉のその話を聞いて、少し黙ってから姉に告げた。「お姉ちゃん、私たちのお母さん、もしかしたら、神崎夫人が数十年捜していた妹さんなのかもしれない」「げほっごほっ――」後部座席に座っていたおばあさんは唯花のその言葉を聞いて、急に猛烈に咳をし始めた。唯花は後ろを振り返り、心配して尋ねた。「おばあちゃん、どうしたの?エアコンの風が強すぎたかしら?」「ええ、そうね。エアコンの風は乾燥してるから、咳が出やすくって」おばあさんはもちろん唯花の話に驚かされたとは言えない。理仁は落ち着いて車を運転し、ついでに車のエアコ
姫華は唯花たちが引っ越し作業を終えてから、ようやく自分がそんなに面白いことを逃したのだと知ったのだった。だから彼女は明凛と唯花に不満を持っていた。明凛は唯花に姫華にも教えるよう言ったが、唯花が彼女はお嬢様だから家をめちゃくちゃにするという乱暴なシーンは見せたくないと思い姫華には伝えなかったのだ。確かに姫華は名家の令嬢であるが、神崎姫華だぞ。神崎姫華は星城の上流社会ではあまり評判が良くない。他人が彼女のことを横暴でわがまま、理屈が通じないというくらいなのだから、そんな彼女が家を壊すくらいのシーンで音を上げるとでも?逆に、彼女自身も機嫌が悪い時にはハチャメチャなことをしでかすというのに。「姉がもらうべき分はしっかりと財産分与させました。ただ内装費に関しては佐々木家が拒否したので、私たちが人を雇ってその内装を全て剥がしたんです」詩乃はそれを聞いて「それはそうすべきよ。どうして佐々木家においしい思いをさせる必要なんてあるかしら」と唯花たちの行動を当たり前だと言った。そして最後にまた残念そうにこう言った。「もし伯母さんが知っていれば、あなた達の家族として、大勢で彼らのところまで押しかけて内装費を意地でも出させてあげたものを。これは正当な権利よ」この時、唯花はふいに姫華の性格は完全に母親譲りなのだと悟った。「唯花ちゃん、もうちょっとしたらお店を閉めて私たちと一緒に神崎家に帰りましょう。家族みんなで食事をするの。そうだ、あなたの旦那さんはお時間があるのかしら?彼も一緒にいらっしゃいよ」唯花は「夫は今日出張に行ったばかりなんです。たぶん暫くの間帰ってきません。彼が帰ってきたら、一緒に詩乃伯母さんのお宅にお邪魔します」と返事した。「出張に行ってらっしゃるのね。なら、彼が帰って来てからお会いしましょう」詩乃はすぐに姪の夫に会えなくても特に気にしていなかった。彼女にとって、二人の姪のほうが重要だったからだ。今、彼女は姪を見つけることができて、姪二人にはこの神崎詩乃という後ろ盾もできた。ちょうど唯花に代わってその夫が頼りになる人物なのか見極めることができよう。「あなたのお姉さんは五時半にお仕事が終わるのよね?」「ええ」神崎夫人は時間を見て言った。「お姉さんはどこで働いていらっしゃるの?」「東グループです」神崎夫人は「そ
姫華は父親である神崎航と一緒に母親を気にかけていたので、理紗が忘れずにこの鑑定結果を持ってきたのだった。唯花は理紗から渡された鑑定結果を受け取って見た。彼女はその結果を見た後、少しの間沈黙してからそれをテーブルの上に置いた。「唯花ちゃん、あなたは私の姪よ。私のことは詩乃伯母さんって呼んでね」今世では妹と再会を果たすことはできなかったが、妹の娘である二人の姪を見つけることができただけでも、神崎詩乃(かんざき しの)にとっては一種の慰めになった。彼女は唯花の手をとり、自分のことを「詩乃伯母さん」と呼ばせた。「唯月ちゃんは?それから陽ちゃんも」神崎詩乃はもう一人の姪のことも忘れていなかった。「姉は昼にはここへは来ないんです。夕方五時半に退勤したら帰ってきますよ」唯花はそう説明して、明凛のほうを見た。明凛が陽を抱っこして近づいて来て、唯花が彼を抱っこした。「神崎おば様……」唯花がそう言うと、詩乃は言った。「唯花ちゃん、私のことは詩乃伯母さんって呼んでね。私はずっとあなた達を見つけられるのを夢見ていたのよ。ようやく見つけたんだから、そんな距離感のある言い方で呼ばれると寂しいわ」唯花は少し黙った後「詩乃伯母さん」と言い直した。DNA鑑定結果はもう出てきたのだ。彼女が神崎詩乃の血縁者であることが証明されたのだから、神崎夫人はまさに彼女の伯母にあたるのだ。本当にまるでドラマのようだ。詩乃は唯花に詩乃伯母さんと呼ばれて、目をまた赤くさせた。そして姫華がこの時急いで言った。「お母さんったら、もう泣かないで。陽ちゃんもいるのよ、お母さんが泣いたりしたら、陽ちゃんを驚かせちゃうでしょ」明凛と清水はみんなにお茶とフルーツを持ってやってきた。詩乃は陽を抱っこしたいと思っていたが、陽のほうはそれを嫌がり、背中を向けて唯花の首にしっかりと抱きついた。「陽ちゃん、こちらはおばあちゃんのお姉さんなのよ」詩乃は立ち上がって、陽をなだめようとした。「いらっしゃい、おばあちゃんが抱っこしてあげる、ね」しかし陽は彼女の手を振り払い「やだ、やだ、おばたんがいいの」と叫んだ。詩乃は陽が過剰な反応をしたのを見て、諦めるしかなかった。そして少し前の出来事を思い出し、彼女はまた容赦なくこう言った。「あの最低な一家が、陽ちゃんにショックを
数台の高級車が遠くからやって来て、星城高校の前を通り過ぎ、唯花の本屋の前に止まった。隣の高橋の店で暇だからおしゃべりをしていた結城おばあさんが、道のほうに目を向けると数台の高級車がやって来ていた。そしてすぐに顔をくるりと元の位置に戻し、わざと頭を低くした。あの数台の車から降りてきた人に見られないようにしたのだ。「唯花、唯花」姫華が車から降りて、唯花の名前を呼びながら店の中へと小走りに入ってきた。その時は隣の店でおしゃべりしていた結城おばあさんを全く気にも留めていなかった。その後ろの車から降りてきた神崎夫人の夫の神崎航がボロボロに泣いている妻を支えながら、娘の後ろに続いて店の中に入ってきた。理紗はボディーガードたちに入り口で待機するように伝え、それから彼女も店の中へと入ってきた。唯花は三分の一ほどビーズ細工のインコを作り終えたところで、姫華に呼ばれる声を聞き、その手を止めて姫華のほうへ視線を向けた。「姫華、来たのね。ご飯は食べた?もしまだなら……」その時、神崎夫人が夫に支えられて入ってきて、夫人が涙で顔を濡らしているのを見て、唯花は状況を理解した。神崎夫人はDNA鑑定の結果を手にしたのだ。神崎夫人のその顔を見れば、聞くまでもなく彼女と神崎夫人には血縁関係があるのだということがわかった。「唯花ちゃん――」神崎夫人は急ぎ足で、レジ台をぐるりを回って彼女のもとへとやって来て、唯花を懐に抱きしめ泣きながら言った。「伯母さんにもっと早く見つけさせてよ――」彼女はそれ以上他に言葉が出てこないらしく、ただ唯花を抱きしめて泣き続けた。唯花は彼女に慰める言葉をかけたかったが、自分もこの時何も言葉が出せなかった。「私の可哀想な妹――」神崎夫人は妹がすでに他界していることを思い、また大泣きした。唯花は彼女と一緒に涙を流した。明凛は陽を抱っこして清水と一緒に遠くからそれを見守っていた。陽は全くどういうことなのかわかっていない様子だった。姫華と理紗も目を真っ赤にさせていた。神崎航がやって来て、妻を唯花から離し、優しい声で慰めた。「泣かないで、姪っ子さんが見つかったんだ、良かったじゃないか。私たちは喜ぶべきだろう。そんなふうにずっと泣いてないで、ね」神崎夫人は夫に支えられて椅子に腰かけた。妹の不幸な境遇と、二人の
「内海のクソじじい、あんたはしっかり私から百二十万受け取っただろうが。現金であげただろう、あれは私がずっと貯めていたへそくりだったんだよ。あの金を受け取る時にあんたは唯花を説得してみせると豪語してたじゃないか。それがあんたは何もできずに、うちの息子はやっぱり唯月と離婚してしまったんだぞ。だからさっさと金を返すんだよ。じゃないと本気で警察に通報するわよ」佐々木母は内海じいさんがどうしても認めようとしないので、怒りで顔を真っ赤にさせていた。内海じいさんは冷たい顔で言った。「もし通報するってんなら、通報すりゃええだろ。俺がそんなことを怖がるとでも思ってんのか。俺はお前から金を受け取ってないし、もし受け取っていたとしてもそれが何だって言うんだ?それは唯月が結婚した時の結納金の補填だろう。うちの孫娘がお宅の息子と結婚する時に一円も出しゃあしなかったくせによ。結納金に代わって百万ちょいの補填だけで済んだんだぞ。お宅にも娘がいるだろ。その娘が結婚する時に一円も結納金を受け取らずにタダで娘を婿側に送ったのか?」佐々木母はそれを聞いて腹を立てて言った。「なにが結納金だ、お前は唯月を育ててきたのか?そうじゃないくせに結納金を受け取る資格があんたにあるとでも?彼らはもう離婚したってのに、馬鹿みたいにあんたらに結納金を今更補填してあげるわけないでしょうが。さっさと金を返すんだよ!」「金なんかねえ。命ならあるけどな。それでいいなら持って行くがいい」内海じいさんは、もはやこの世に何も恐れるものなど何もないといった様子で、佐々木母はあまりの怒りで彼に飛びかかって引き裂いてやりたいくらいだった。そこに英子が母親を引き留めた。「お母さん、あいつに触っちゃダメよ。あいつはあの年齢だし、床に寝転がりでもされちゃったら、私たちが責任を追及されちゃうわよ」「ああ、じいさんや、私はすごくきついよ。もう息もできないくらいさ。こいつらがここで大騒ぎしたせいで私まで気分が悪くなってきたみたいだ。死にそうだよ……」病床に寝ていたおばあさんが突然、気分が悪そうな様子で胸元を押さえて荒い呼吸をし始めた。内海じいさんはすぐにナースコールを押して、医者と看護師に来るように伝えた。そして、佐々木母たち三人に向って容赦なく言った。「もしうちのばあさんがお前らのせいで体調を悪化させた
唯花は笑って言った。「姫華が言ってたの、九条さんって情報一家らしいわ。彼と一緒にいたら、ありとあらゆる噂話が聞けるわよ。あなたって一番こういうのに興味があるでしょ。九条さんってまさにあなたのために生まれてきたみたいな人だわ、あなた達二人とってもお似合いだと思うけど」明凛「……」彼女が彼氏を探しているのは、結婚したいからなのか、それとも噂話を聞くためなのか。「そういえば、お姉さんの元旦那のあの一家がまた来たって?」明凛は急いで話題を変えた。親友に自分の噂話など提供したくないのだ。「お姉ちゃんと佐々木のクソ野郎が離婚して、お姉ちゃんがあの家から出て行ったでしょ。あいつらは待ってましたと言わんばかりに引っ越して来ようとしてたわけ。だけど、今は部屋を借りるかホテル暮らしするか、はたまた実家に帰るしかなくなったでしょ。あの一家は絶対市内で年越ししたいと思ってるはずよ。実家には帰らないでしょうね」佐々木一家は絶対に実家のご近所たちに、年越しは市内でするんだと言いふらしていたはずだ。だから、住む家がなくとも、彼ら一家は部屋を借りるまでしてでも、市内で正月を迎えようとするに決まっている。唯花は幽体離脱でもして佐々木家に向かい、彼らの様子を見てみたいくらいだった。「あの人たち、家の内装がなくなってめちゃくちゃになった部屋を見て、きっと大喜びして失神したことでしょうね」唯花はハハハと大笑いした。「そりゃそうね」唯花が今どんな状況なのか興味を持っている佐々木家はというと、この時、すでに内海じいさんがいる病院までやって来ていた。内海ばあさんは術後回復はなかなか順調で、もう少しすれば退院して家で休養できるのだった。佐々木母は娘とその婿を連れて病室に勢いよく入っていった。佐々木父は来たくなかったので、ホテルに残って三人の孫たちを見ていた。ただ佐々木父は恥をかきたくなかったのだ。「このクソじじい」佐々木母は病室に勢いよく入って来ると、大声でそう叫んだ。内海じいさんは彼女が娘とその婿を連れて入ってきたのを見て、不機嫌そうに眉をしかめた。彼の息子や孫たちはどこに行ったのだ?誰もこの狂ったクソババアを止めに入りやしないじゃないか。「これは親戚の佐々木さんじゃないですか、うちのばあさんはまだ病気なんで、静かにしてもら
「そうね、姫華にも彼女のプライドっていうものがあるんだもの。神崎家の娘は条件も整ってるから結婚に悩む必要もないし」神崎夫人は娘のことをやはりよく理解しているのだった。姫華が諦めると言えば、必ず諦めるのだから。その時、外から車の音が聞こえてきた。理紗が立ち上がり、外のほうへと歩いていき言った。「きっと姫華ちゃんが帰ってきたんです」彼女が外に出ると、やはり義妹が帰ってきたのだった。姫華は車を降りて義姉のほうへとやって来ると、キラキラと輝く笑顔を見せて言った。「お義姉さん、お母さんはまだ家にいる?」義妹が輝くような笑顔を送ってきたので、それを見た理紗は心がとても痛んだ。彼女は義妹がつらい気持ちを吐き出すために、このように無理して笑うより、泣いたほうが良いと考えていた。姫華がこんな笑顔を見せるたびに、彼女の心が傷ついているというのは明らかだからだ。ああ。自分を愛してくれない男を好きになってしまうのは、こんなにもつらいことなのだ。その相手が結婚したばかりだと知ったら、その苦しみはもっと深くなるだろう。「お義母さんは家にいるわよ。姫華ちゃん、あなた大丈夫?」「お義姉さんったら、そんなふうに見える?心配しないで、私は大丈夫だから。ただ過去と決別してきただけよ」姫華はもう吹っ切れたような言い方だったが、それでもあまり理仁のことについては話したくなかった。彼女は親しそうに義姉の手を引っ張って言った。「お義姉さん、さあ、中に入りましょうよ」姫華が帰って来ると、神崎夫人はさらに居ても立ってもいられなくなった。それで、神崎夫人は家族に付き添われて、鑑定機関へと赴いた。神崎夫人がとても緊張しているのと比べて、唯花のほうはとても落ち着いていた。彼女はレジの後ろでハンドメイドをしていた。陽と一緒に遊ぶおばあさんと清水をちらりと見て、明凛に言った。「うちの理仁さんは出張に行ったわ。ここ数日なにか面白いことがあって、私も参加できそうなら一声かけてよね」最近嫌なことが多すぎて、日々は張り詰めた空気に包まれていた。だから親友と一緒に遊んで、気分を上げる必要があるのだ。その時は姉と陽の二人も一緒に連れ出そう。明凛は笑って言った。「それなら、ショッピングか、美味しい物を食べるか、唯花が好きなことって他に何があるかしら?社交界のパ
それを聞いて姫華は笑った。笑ってはいたが、手で瞳に滲んだ涙を拭きとり顔をそむけて遠くの方を見つめていた。そして少ししてから、ようやくまた顔を理仁のほうへと向けて、落ち着いた表情になりまた笑って言った。「理仁、あなたからそんな言葉が聞けて、それだけでもよかったわ。何年もあなたに片思いしてた甲斐があったっていうものよ」彼女はおおらかにも理仁のほうへ手を差し出し、理仁も同じようにして彼女と握手を交わした。「理仁、奥さんと年を取るまで、いつまでも幸せでいてちょうだいね」「ありがとう、神崎さん」「あなた達が結婚式を挙げるなら、私も参加させてもらえたら嬉しいわ」理仁は手を引っ込め、優しく言った。「良い日取りを決めて、結婚式を挙げる時は、神崎社長と、君に招待状を送るよ」「じゃ、あなた達をお祝いできる日を楽しみにしているわね」姫華は笑って言った。「結城社長は忙しいでしょうから、貴重な時間の邪魔はもうしないわ。さようなら」彼女は理仁に手を振り、背中を向けて彼女のスポーツカーに乗り、すぐに結城グループの前から去っていった。さようなら、はじめて深く愛した人。今後は二度と彼女がここに現れることはない。彼女は傷を癒したら、また新たに自分の人生を歩んでいくのだ。理仁が車に戻ると、運転手は急いで車を出した。運転手はこの二人がまた揉めるのかと思っていたが、まさか神崎家の令嬢が祝福を送りに来るとは思わなかった。神崎お嬢様は正直に人を愛し、また憎み、そしてすぐに決断してスカッと自分の気持に区切りがつけられる性格の持ち主なのだ。運転手にしろ、ボディーガードたちにしろ、みんな神崎姫華への考えを改めた。少なくとも、彼女が引き続き彼に纏わりつくことはなくなったのだ。姫華は唯花のところに行こうと考えていたのだが、行く途中でまた考えを変えた。彼女は家に帰って母親と一緒にDNA鑑定機関に赴き、その結果を取りに行かなければならない。それで、姫華はUターンできるところで引き返し、家へとルート変更して車を走らせていった。家に到着した時には、すでに午前九時過ぎだった。神崎夫人は早く出かけて結果を知りたがっていたが、夫に「まだ早いだろう。そんなに焦らないで。結果が出るのは出るんだから、誰もそれを取って行ったりなんかしないって」と繰り返し諭して
電話を切った後、理仁は七瀬に指示を出した。「俺がいない間、しっかりと妻の警護にあたってくれ」「若旦那様、ご安心ください。私がしっかり若奥様をお守りしますので」若奥様はもともと強いお方だ。そんな彼女を警護する仕事なら楽勝だ。さらにさらに、ボーナスが倍に!七瀬はそれを考えただけで顔がほころんだ。これこそ若奥様とお近づきになる最大のメリットなのだ!「もし妻が何か困って助けが必要な時には、ばあちゃんに言えば解決方法を指示してくれるだろう。それか、辰巳に相談してくれてもいい」「若旦那様、ご安心を。若奥様が何かお困りになられたら、おばあ様がすぐにおわかりになることでしょう」おばあさんはもはや、神的存在だ。そんな彼女の孫たちは神の掌の上で泳ぐしかない。理仁は祖母の能力を考え、それ以上は何も言わなかった。それから、理仁にある意外な出来事が起こった。暫くの間、会社の前に現れなかった神崎姫華がこの日また現れたのだ。彼女は自分の赤いスポーツカーに寄りかかっていて、理仁の専用車の列がゆっくりと近づいてくるのを見ていた。それを見て運転手が言った。「若旦那様、神崎お嬢様がまたいらっしゃったようです」理仁は少し黙って、運転手に言いつけた。「神崎さんの前で車を止めてくれ」それを聞いた運転手と七瀬はとても意外だった。確かに神崎家の令嬢と若奥様は仲のいい友人同士である。しかし、今まで若旦那様は一度も神崎家の令嬢には優しくしたことはなかった。少しだけ彼が優しくしているのは牧野家のお嬢さんだ。彼女は若旦那様と交友関係にあるからだ。それに、牧野家のお嬢さんは若奥様と一緒に本屋を経営している。理仁にそう指示されて、運転手は言われた通りにした。姫華はその時どうしようか迷っていた。以前と同じように死ぬ気で彼の車を妨害しようかと思っていたところ、理仁が乗ったあのロールスロイスのほうから彼女の前に止まってくれた。車のドアが開き、理仁が車から降りてきた。暫くの間会っていなかったが、彼は彼女の瞳には依然として超絶な美形に映っていた。姫華は暫くじいっと彼に見惚れていたが、すぐに自分自身にそれを止めるよう言い聞かせた。彼はすでに他の女性の夫なのだから。「結城社長、あまり警戒しないで、今日私がここに来たのは、あなたに付き纏うためじゃないから
顔をあげて彼を暫く見つめ、唯花は仕方なく彼の首に手を回し、自分のほうへ引き寄せて甘いキスを彼に捧げた。理仁は妻のほうからキスをしてもらい、上機嫌になって、片手でスーツケースを引き、もう片方の手で唯花の手を繋いで一緒に家を出ていった。おばあさんは一階でこの二人を待っていた。その時、おばあさんと一緒にいて話をしていたのは七瀬だった。唯月の引っ越しを手伝った時、唯花は七瀬も手伝いに来てくれたことに気づき、彼はきちんと報酬がもらえれば、どんな仕事でも請け負うと言っていた。そして、また唯花に会った時、七瀬はもうわたわたと焦ることはなかった。正当な理由をようやく見つけて堂々とできるという感じだ。「結城さん、内海さん、おはようございます」七瀬のほうから挨拶をしてきた。唯花はそれに微笑んで、ついでに「お名前は?あの日、すっかり名刺をいただくのを忘れていました」と言った。七瀬はその時、素早く主人である理仁のほうをちらりと確認し、彼の表情が変わらないのを見て何も恐れることなく彼女に答えた。「私は七瀬と申します」そして、ポケットから一枚の紙を取り出して唯花に渡し、申し訳なさそうに言った。「家に帰って名刺がもう切れていることに気づいたんです。まだ印刷しに行っていないので、携帯番号を紙に書いておきました」唯花は彼の電話番号が書かれた紙を受け取り、自分の横にいる夫に言った。「七瀬さんがどんな仕事でも受けてくれるらしいわ。今後自分でできないことは七瀬さんにお願いしようと思って」こう言って理仁がまたヤキモチを焼き始めるのを阻止しようとしたのだ。理仁は低い声で言った。「七瀬さんはとても頼りになるからね。何か力仕事があれば、彼に頼むといい」七瀬は素直に笑った。「はい、その通りです。きちんとお金をいただければ、どんな仕事だっていたしますよ。ところで、結城さん、出張ですか?」理仁は「ええ」とひとこと言った。「では、私はこれで」七瀬は夫婦二人に挨拶をしてからおばあさんに手を振り、自然にその場を離れた。今回、若旦那様は出張に半分のボディーガードしか連れて行かない。その中に七瀬は含まれておらず、ここに残って若奥様の護衛をするのだった。自分の主人の出張について行けないことを七瀬は少しも残念には思っていなかった。なぜなら、女主人にゴマすりで