「おい、大丈夫か!?」
頬をぱしぱし叩かれる感覚があった。
そこそこ痛い力加減だ。
倫はなんとか目を開けたが、視界は重なって揺れ、薄い膜をかぶせられたようにぼやけている。
ぼんやりしているところに、誰かが声を上げた。
「起きたぞ!ほら、早よあれ持ってこい」
「はいよ」
上体を支えられ、口に熱くて鼻に刺さる湯が流し込まれる。
舌先に辛味が広がり、思わず唇を固く閉じた。
知らない液体を飲む気にはなれない。
優しい女の声がした。
「生姜茶だよ。飲めば体、あったまるから」
自分の記憶にあるあの声ではなかった。
倫の警戒がゆるんだすきに、何口か続けて飲まされる。
半分ほど飲んだころには、目も光に慣れ、視界がだんだんはっきりしてきた。
ここは揺れる船室の中。
小さな漁船だ。
耳に入るのは波と夜風の音。
まだ海の上らしい。
古い板の簡素なベッド。
そのそばに、五十代ほどの漁師風の夫婦が座っていた。
日焼けした肌に素朴な服装。
男が訊いた。
「具合はどうだ?」
喉がひりついて声が出にくい。
口を開いた瞬間、冷たい空気が入り込み激しくむせてしまう。
女が背中をさすった。
「無理してしゃべらんでいいよ。まずは落ち着きな」
倫は俯いた。
自分のウェイターユニフォームは脱がされており、代わりに年季の入った男物のシャツを着せられていた。
女が言う。
「あんたの服がね、びしょびしょだったからさ。このまんまじゃ風邪ひくと思って、洗って外に干しといたよ。
これはうちの旦那の服で、あんたのよりはみすぼらしいけど......しばらく我慢しな」
倫はこめかみを押さえ、気を失う前の出来事を頭の中でなぞった。
海に飛び込んだあと、強烈な衝撃で一瞬意識が飛び、すぐに深みへと潜った。
とにかく全力で海底へ逃れた。
息が切れそうになるのを意志の力だけで押しとどめ、ただひたすら水の中を進んだ。
もう戻りたくなかった。
あの息が詰まる牢獄のような場所へ。
海面からは騒ぎ声と、高速艇のエンジン音が聞こえていた。
強力なライトが海中まで差し込んでくる。
かなり離れてから振り返ると、複数のアルファが次々と海へ飛び込んで探していた。
――弓弦は、やはり諦めていなかった。
倫は歯を食いしばって泳ぎ続け、どうにか夜の闇に紛れて息継ぎをし、また潜る。
水槽から逃れた魚のように、故郷の方向へ向かった。
どれだけ泳いだのか、もう時間の感覚はなかった。
周囲は不気味に静まり返り、まるで世界に自分ひとりになったようだった。
憎しみも悲しみも、追ってくる者たちも消え失せ、黒い海の中で機械のように手足を動かす。
荒い呼吸だけが耳の中で濁った水音と混じって響く。
今の体の脆さが憎らしかった。
後頸の鈍い痛みが、昔の自分とは違うと告げていた。
深夜の海水は鋭く冷たい。
吐く息が白く凍り、手足は凍りついて動きが鈍る。
それでも止まりたくなかった。
どうせ死ぬなら、せめて家に近いところで――
限界が迫ったころ、海面を漂う板が流れてきた。
倫はそれにしがみつき、ようやく少しだけ休むことができた。
そして......そのまま意識が途切れた。
ようやく倫は声を出した。
「......助けて、くれたんですか?」
声は掠れ、喉に刃が刺さったようだった。
「ああ」
男が答えた。
「漁から帰る途中で、おまえが浮かんでるのを見つけてな。動かねぇから死んでるかと思ったぞ。いったい何があったんだ?」
倫は唇を舐め、嘘をついた。
「......友達と海に遊びに行って......落ちたんです。気づかれなくて」
「危ねぇところだったじゃねぇか。おまえの連れは何してたんだよ」
「ちょっと」
女が小声で夫を小突いた。
「その友達に電話できるかい?ここは第10区。近くの桟橋まで迎えに来てもらえりゃいいんだけど」
第10区。
倫はわずかに目を細めた。
「いえ、大丈夫です。そこなら家の近くなので、自分で帰れます」
「家はどこなんだい?」
「第13区です」
夫婦は驚き、顔を見合わせた。
「第13区って......」
倫は苦笑した。
「はい......スラム街です」
四時間後。
船の先端に立つ倫の目に、第10区の桟橋が見えてきた。
岸には漁船がいくつも並び、漁師たちが荷を下ろし、煙草をくゆらせ、大声で笑い合っている。
土色の野良犬たちが走り回り、飾り気のない人々の暮らしがそこにあった。
――ずっと恋しかった光景だ。
家に戻れる嬉しさで、痛みすら忘れていた。
倫は後ろの女に声をかけた。
「ペンチ、ありますか?」
「あるよ」
網を直していた女が立ち上がり、箱から鉄のペンチを取り出しながら訊ねた。
「何に使うんだい?」
倫はズボンの裾をまくり、左足首を見せた。
そこには金の足輪がはめられていた。
隙間がなく、外力がなければ絶対に外れないものだ。
最近痩せたおかげで、わずかに隙ができていた。
倫はその隙間にペンチを差し込み、力いっぱい締める。
金属が「カチャン」と割れた。
倫はそれを女に差し出した。
「お礼に......大したものは持ってないので、これを。溶かせばそこそこになるはずです」
倫の着替えを手伝っていたときに、女はすでにその足輪に気づいていた。
細部まで作り込まれ、ずっしりとした重みがあり、内側には暗紅色の宝石が十数粒も嵌め込まれていて、ひと目で高価なものだと分かった。
だから彼女は、倫はどこかの御曹司が不運に見舞われたのだろうと思っていたのだ。
そんな彼が自分は第13区の住民だと口にしたとき、彼女があれほど信じられなかったのも無理はなかった。
女は慌てた。
「だ、だめだって!こんな高そうなもん、受け取れないよ!」
「いいんです。この服を買ったってことで」
倫は自分が着ているシャツの裾を引っ張った。
女は困ったように言った。
「これ、古着だよ?お金になるほどのもんじゃ......」
「なら......2000円に換えてもいいですか?」
「2、2000円?」
「はい。売ったってことで。ちょうど家までの交通費なんです」
船が岸につくと、倫は待ちきれないように跳び下り、桟橋の切符売り場へ駆けていった。
しばらくして、女が焦った声で呼んだ。
「ちょっと、あんた!服!」
洗い上げたウェイターユニフォームを抱えて走ってくる。
倫は遠くから手を振って答えた。
「いいんです!捨てておいてください!」
言い終えると、彼は振り返りもせずに走り去った。
女の人はぽかんと立ち尽くし、手にした服をどう扱えばいいのか分からなかった。
クルーズ船のサービス係の制服なんて見たこともない。
ただ、手触りの良さから高いものだということだけは分かる。
「捨ててくれ」なんて簡単に言われても、なんだか胸が痛んだ。
彼女は船室に戻り、夫に相談することにした。
夫は灯りの下で、切れ目の入った金の足輪をじっと眺めていた。
不安げに女が言う。
「ねぇ......これ、本当に受け取っちゃっていいの?」
「大丈夫だろ。壊れてるんだし、大した値もしねぇよ。それにあの子、第13区の子だろ?みんな貧しいんだ。そんな高ぇもん、持ってるわけねぇ。どうせ出来のいい偽物だ。断ったらあの子、逆に拗ねただろうし。もらっとけ」
「でもこれ......偽物にしちゃやけに出来がよくない?ほら、こんなに光ってるし......あとで店に持っていって直してもらって、娘にあげようよ。きっと喜ぶわ」
女は、先ほどの倫の「溶かせばそこそこになる」という真剣な口ぶりを思い出した。
嘘をついているようにはとても見えなかった。
そのことが心に引っかかって、落ち着かない。
彼女は服を置き、スマホを取り出して検索をかけた。
少しして、手が震えはじめた。
夫はその震えに気づき、覗き込んだ。
「どうした?」
画面を見た瞬間、夫も固まった。
彼らが手にしているこの金の足輪は、数年前、都・市丹のあるオークションで高額で落札された「あの足輪」と、まったく同じだった。
夫は落札価格の桁数を数えながら、二人そろって手を震わせた。
「こ、これは......あの有名な足輪を真似て作ったもんなのか......?本物みたいじゃねぇか......」
「......」
「......」
「まさか......本物なんじゃ......?」
夫は慌てて足輪を落としそうになる。
「まさかどっかから盗んできたんじゃねぇだろうな?」
「見なよ、この跡。しばらく脚につけてた形がついてるじゃない。盗んだもんをわざわざ脚にはめて暮らすなんて、普通しないでしょ」
「じゃあこれ......どうすりゃいいんだよ......?」
二人がよろめくように外へ飛び出す頃には、倫はもう第13区行きのチケットを買い、帰りの船に乗り込んでいた。
彼は船首の手すりにもたれ、残った400円で買ったソーセージを海風に当たりながら食べていた。
二時間後、ついに六年ぶりに第13区の土地へ足を踏み入れた。
第13区の小さな桟橋。
海辺の岩場に散らばった大きな隙間には、長年片付けられていないゴミや発泡スチロールが詰まっている。
空気には強烈な生臭さと、消えない湿ったカビの匂いが漂っていた。
六年ぶりでも、何も変わっていない。
岩雨郷(がんうきょう)と呼ばれるのは、一年中細かな雨が止まず、空がいつも灰色で霧がかかっているからだ。
ここでは、狭くて薄暗い路地がどこにでもある。
そこから突然、金を脅し取るチンピラが飛び出してくることもある。
味の抜けたガムをかみ、ビール瓶や棒をぶら下げ、ハエの群れがたかるゴミ箱の横で「金出せ」と怒鳴ってくる。
雨のあとなら、ぬかるんだ地面に無数の水たまりができる。
街路の低いアパートは防音がまるでなく、誰かの怒鳴り声も、泣き声も、通りの端まで丸聞こえだ。
第13区の環境は、ここに住む全員を侵食している。
粗悪な空気を吸い、同じように虫食いのような息を吐き、濁った目で先の見えない未来を見つめ、アルコールにまみれた体をぎこちなく動かしながら、刹那に生き延びている。
倫は幼いころからずっとこんな場所にいた。
逃げ出したいと何度も思い、実際に遠くへ行った。
でも数年巡り歩いた末に気づいたのは――
結局、自分が帰れるのはここしかないのだ、ということだった。
岩雨郷の濡れた路面を踏みしめながら、倫は記憶を頼りに進んだ。
細い路地を抜け、いくつかの石橋を渡ると、遠くに建物の尖った屋根が見えた。
倫は思わず笑みを浮かべ、歩きから小走りへと速度を上げた。
三階建ての学校だった。
授業中らしく、教師の声が中から聞こえてくる。
校門付近の警備小屋の前には、男が二人。
一人はしゃがんで太った体に煙草、もう一人は筋肉の塊のような体つきで立っている。
骨の中に蜂の群れでも巣食っているんじゃないかと思うほど、全身がゴツい。
二人が何か話し、どっと笑い声を上げた。
その笑いにつられて、倫も笑ってしまう。
彼が近づいて声をかけた。
「ブーちゃん、マッチョ」
「誰だよ、いきなりブーちゃんって――倫さん!!!」
幼い頃のあだ名を呼ばれてムッとした二人だったが、倫の顔を見た途端、ブーちゃんは煙草を落とし、マッチョも固まった。
「倫さん......?」
「ほんとに......ほんとに倫さんなのか!?夢じゃないよな!?」
二人の大男が雷みたいな勢いで駆け寄り、倫を抱きしめる。
倫はその圧で潰れそうになり、もがきながら顔だけ隙間から出して息を吸った。
「おまえら......ちょっと......息が......」
だが二人は離れない。
ブーちゃんは涙目で、笑いながら泣いていた。
「なんで今まで帰ってこなかったんだよ!倫さんのことをずっとずっと心配だったんだぞ!
六年だぞ!?六年!!先生も、俺たちも、どれだけ心配してたかわかってるのか?家にも帰らないなんて......ほんとに薄情者なんだから!」
その言葉に、倫は鼻の奥がつんと痛んだ。
「......今までごめん」
ブーちゃんは鼻をすすり、顔を上げて倫を見るなり声を震わせた。
「なんでこんなに痩せてんだよ!?ごはん、ちゃんと食べてる?」
倫は滲む視界を瞬きでこらえ、深く息を吸った。
「そんなことないよ」
二人はようやく倫を離し、倫は尋ねた。
「先生は?」
マッチョが腕で目をこすり、「中にいる。呼んでくる!」と言って中へ走った。
ブーちゃんと倫は校門で待つ。
倫は学校の全体を眺め、「ここ、すごく立派になったな」と言った。
「だろ?先生の心血が全部ここに注ぎ込まれてるんだ。立派になるのは当然だ。工事の時も俺がずっと見張ってたんだ。手抜きなんてさせるもんか」
「お前とマッチョ、ここで働いてるのか?」
「そうだよ。教師が足りないし、先生はひとりで何役もやってる。忙しすぎて飯もろくに食えない時があるし、学校建てたのに嫉妬して、いちゃもんつけてくる連中もいる。だから俺たちが見張ってるんだ。先生に何かしようって奴がいたら、俺たちがぶっ飛ばす!」
もう二人は、昔みたいに倫の後ろをついて回るだけの子供ではなかった。
「すごいな、お前ら」
倫は素直に言った。
ブーちゃんは照れて顔を赤くした。
「いやいや、倫さんこそすごいよ。あんたが六年前に置いていった金と物がなかったら、この学校なんてできるわけなかったんだから」
ブーちゃんは倫に煙草を一本渡した。倫は受け取り、口にくわえる。
ブーちゃんが手で風を遮り、火をつけてやりながら、ふと聞いた。
「でさ、六年もどこ行ってたんだよ?先生は『都で働いてる』って言ってたけど、仕事忙しかったのか?今は休み?」
「......」
倫は二秒沈黙し、安物のタバコの煙をゆっくり吐きながら答えた。
「......もう辞めた」
「辞めたのか!?ってことは......もうここから離れないんだな!?」
「ああ」
倫は目を伏せ、灰を落としながら言った。
「これからはずっとここにいるから」
「倫!」
後ろから、柔らかく澄んだ声が響いた。
乱れた足音が近づき、倫が振り向く間もなく、ひとりの人間が勢いよく飛び込んできて抱きしめた。
後ろへよろめくほどの強さ。
その体から漂う、懐かしい石鹸の香り。
倫はもうこらえられなかった。
瞼を閉じたら涙が零れそうで、瞬きすらできない。
彼は相手を抱き返し、顔を首元に埋める。
「先生......ただいま」