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今さら私を愛しているなんてもう遅い
今さら私を愛しているなんてもう遅い
作者: 大落

第1話

作者: 大落
「藤崎さん、私、立花市へ行きます。あなたの妹さんの心療内科医になりましょう」

白鳥未央(しらとり みお)の落ち着き払った声が鳴り響いた。

電話の向こうの男は低く意外そうな声を出した。

「白鳥さん、あなたはもう結婚したと聞きました。ご家庭のことが心配でしたら、あなたの旦那さんとお子さんの都合も考えますよ」

旦那と子供?

未央は視線を下に落とした。そう遠くないところにうっかりひっくり返してしまった牛乳が床にぽたぽたと滴っている。

彼女は突然、朝、彼女が牛乳をひっくり返してしまった時、息子が嫌悪の目つきで見つめているのを思い出した。

「ママ、どうしてこんなちょっとしたこともできないの?もし雪乃さんだったら、こんなことしないよ?ママって本当に雪乃さんには遠く及ばないよね」

息子が言うその「雪乃さん」という人物は、夫である西嶋博人(にしじま ひろと)の浮気相手である綿井雪乃(わたい ゆきの)のことだ。彼女はバレエダンサーとして有名な女性で、「白鳥の湖」を躍らせると、それはそれはまるで夢の中の幻想のようで、小さな息子でさえもそれに憧れの目を向けるほど美しかった。

その時、博人は息子の言葉を聞いて、息子を叱ることもなく、ただ冷ややかな嘲笑するような目つきで彼女を見ていた。「この女がどうして雪乃さんと比べられる?昔お前の母さんがあんな小細工して仕掛けてこなけりゃ、俺はこんな女と結婚なんかしなかったってのに……」

彼女と博人は結婚して7年だ。この二人はある予想外なことがきっかけで関係を持ってしまい、子供ができてしまって結婚することになったのだ。

西嶋家は財閥家で、彼女は博人と結婚した後、西嶋家から仕事をやめるように要求された。そして、全てを懸けて博人の良い妻となり、夫に尽くし子供をしっかり育てろと言われたのだ。息子の西嶋理玖(にしじま りく)をしっかりと教育するべきだと。

未央は息子のために結局はそれを受け入れ、仕事をやめ、家事を全部こなす専業主婦になり、熱心に夫と息子の世話をしていた。

それから7年という時が流れたが、彼女の息子と夫の心に住みついているのは彼女ではなく、他所の女だった。

息子がいつも「ママ、どうしていつもパパにわがままを言うの?ママが何もできないから、パパに嫌われたって当然だよ。もし雪乃さんが僕のママならよかったのに」と言っているのを思い出した。

未央は目線をまた元に戻し、少しうわずったような声で言った。「藤崎さん、いいんです」

夫と息子の二人とも雪乃を自分たちの妻と母親にしたいと思っているのだから。

それなら彼女は彼らの望みを叶えてあげるまでだ。

夫も息子も、いらない。

未央は藤崎悠生(ふじさき ゆうせい)に15日後にこの町を去ることを約束した。

藤崎悠生は立花市のトップクラスの富豪である。彼の妹は心理的な問題を抱え、重度のうつ病を患っていた。

河本(こうもと)教授の助けを借りて、白鳥未央を紹介してもらったのだ。彼女は以前、河本教授の一番弟子と言っていいほどの実力の持ち主で、催眠術と心理学において天賦の才を発揮していた。

そして彼女が博人と結婚してから、心理学から離れ専業主婦となってしまったことに河本教授は心から残念に思っていた。

「白鳥君、君は女性だけれども、西嶋家のために家の中に閉じ込められておくべきではないと思うよ。君は強く逞しい自由な精神を持っている。その才能を思う存分発揮するべきだと思うんだけどね」

河本教授は以前このように彼女に伝えていた。

当時の彼女はそれでも西嶋家の言う通りにすることを選んだ。

今考えてみると、やはり外から見ていた人のほうが正しかったようだ。

彼女が博人たちこの父子のために自分を犠牲にしてきたことは自己満足のようだった。彼らの瞳には、以前心理学の天才だった彼女よりも、ヒラヒラと踊る可愛らしい白鳥である雪乃のほうがよく映っているのだった。

未央が電話を切ってすぐ、ちょうど博人からボイスメッセージが送られてきた。「俺と理玖は外で食事する。だから夕飯の準備はしなくていい」

彼の口調は淡々として素っ気なく、妻に対して言うようなものではなかった。それとは逆にまるで家政婦に指示を出しているかのようだ。

彼女はこの何年もの間、些細なことにも気を使い、非常に忙しくしていて、確かにタダ使いの使用人にそっくりだった。

未央は彼に返事をしようとしたが、ボイスメッセ―ジの中に雪乃と息子の声がするのに気づいた。

「雪乃さん、ママって老婆みたいなんだよ。なんにもできない上に、人のことにはうるさく口を出してくるんだ。僕にこういうのは食べさせてくれないんだよ。やっぱり雪乃さんが一番だね。何でも言うこと聞いてくれて、僕は雪乃さんが大好きだ」

息子のその話しぶりは無邪気で未熟だった。

もし以前の彼女だったら、未央は恐らくがっくりと気を落として辛く思ったことだろう。

しかし、この時の彼女の心は、意外にも穏やかだった。

息子は早産だったので、体が弱く彼女は長年とても気を配って彼を育ててきた。飲食においては特に気を付けていて、彼女は彼の身体を心配し、外食などさせてこなかった。

しかし、息子の目には、彼女は老婆のように映っているのだった。

未央は多くを語らず、短く「分かったわ」とだけ返事をした。

血の繋がりがあろうが、彼がひ弱な体であろうが、もはや今の彼女には関係ない。

未央は散らかったリビングを見つめながら、自分から床にこぼれたままの牛乳を掃除することはせず、家政婦のおばさんを呼んできた。

博人は赤の他人が家に入るのを嫌っているから、今までずっと未央が片付けや掃除をしていたのだ。彼女はこれまで不器用ながらも、注意深く博人の好き嫌いに合わせてやってきた。

しかし、今の未央はもう全てを悟っていた。

彼女はここを離れる決意をした。博人が好きか嫌いかなどもう重要ではないのだ。

家政婦のおばさんに部屋の掃除を任せ、未央は部屋に戻って離婚協議書にサインをし、時間指定の宅配サービスを頼んだ。

半年後、これが時間通りに彼女の夫の手元に届くのだ。

彼女は、これは恐らく博人に贈る最後のプレゼントだと思った。

夜、博人はやっと息子と一緒に帰って来た。

二人は家に着くと、息子のほうは興奮した様子で話し始めた。「パパ、雪乃さんの踊りって魔法みたいにキラキラしてたよね。明後日学校で出し物をするんだけど、雪乃さんに来てもらってもいいかな?」

息子は金持ちの子供たちが通う幼稚園に行っているのだ。

そして、明後日には園児たちの出し物があって、親が同伴しなければならない。ただ彼はずっと自分の母親が人前に出てくるのは恥ずかしいと思っていて、このことを未央に伝えていなかったのだ。

そうか、彼は母親ではなく雪乃に来てもらいたいのか?

息子の興奮して楽しそうだったその様子は家の中に入ったとたんに消えてしまった。

彼女を見た瞬間、息子は口をすぼめて眉間にきつくしわを寄せた。

博人は彼の手を繋いだまま、家の中を見渡し眉をひそめた。「誰か来たのか?」

「ええ」未央は不用意に言った。「使わない物を頼んで片付けてもらって、あげちゃったの」

たとえば、彼女が以前夫のために買ったが、一度も使われることのなかったネクタイやカフスボタン、それから息子のために準備していたが、すぐに遊ばれなくなったおもちゃ等だ。

彼女はここを去るのだから、このようなお古はさっさと片付けてしまったほうがいい。それにちょうど彼女の夫が新しくこの家に綿井雪乃という女性を迎える準備にもなるだろう。

博人はこの時、どうもおかしいと思った。

彼はクローゼットの中にはあまり興味がなく、何が減ったのかなどよく分からなかったのだ。

ただ眉間にきつくしわを寄せて、冷たい声で言った。「理玖は体が弱いんだ、いろんな物にアレルギーがある。今後、他所の人間を家に入れるのは控えてくれ。あのどうでもいいガラクタなんか捨ててしまえばいい、西嶋家にはなんでもあるんだからな」

その通り。

彼女が心を込めて準備した夫と息子へのサプライズは一度も一度も彼らに喜んでもらえなかった。

未央は以前のようにヒステリーを起こすこともなく、他のどんな人間よりも息子にどんなアレルギーがあるか知っているということを説明することもなく、ただ冷たい端正な顔をした夫を見つめ頷いた。「分かったわ」

そして未央は息子が家に入って来た時に話していた言葉を思い出し、突然言った。「明日私は用があるから、幼稚園の出し物は雪乃さんと一緒に行ってきてくれる?」

傍にいた理玖はそれを聞いて瞬時に瞳をキラキラと輝かせ、どもりながら言った。「ほ、本当にいいの?ママ、本当に雪乃さんに来てもらっていいの?」

未央は息子が興奮して嬉しそうな様子を見て、突然笑った。

彼女は頷いた。「もちろんよ」

しかし博人のほうは顔をしかめて、彼女がおかしな事を言い出したので、表情を瞬時に凍らせ、我慢できない様子で言った。「未央、お前、何腹を立ててるんだ?

理玖はまだ小さい。雪乃のことを気に入るのはごく自然なことだ。この子はただ適当に言ってみただけだぞ、お前まさか息子にキレてんのかよ?」
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コメント (1)
goodnovel comment avatar
しおタン
女って冷める時は一瞬だよね。
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