Se connecter扉が閉まったあと、れいなちゃんは小さく息をついた。「……ありがとね、助かった」れいなちゃんに背を向けたまま、俺は答えた。「別に。俺がイラついただけだし」「でも……白石さん、最近ちょっと怖くて。何か、ずっと見られてる気がして」「気にしない方がいい。あいつ、すぐ飽きるから」俺のの声は淡々としていたが、その手は机の角を無意識にぎゅっと握っていた。俺はまだ、知られたくなかった。——誰にも。れいなちゃんを守っている理由も、想いも。家庭科室のカーテンを、俺はそっと閉めた。小さく笑う彼女の背中を、ふわりと包んだ。「──絢斗?」「ちょっと、補充させて」れいなちゃんの長い髪に顔を埋める。シャンプーの、いい香りがする。きつすぎる香水をつけて歩き回るケバ嬢達とは雲泥の差だ。ああ、この人は俺の天使だ。女神だ。「絢斗。まだ勤務時間中だから」「まだ待って」柔らかい髪に、柔らかい身体。今すぐ全部触れたい。れいなちゃんの啼く声が聴きたい。「なあ、ここでしちゃ……」「だめだってば」「したくなった」「無理。仕事中。誰かに見られたら私社会人として終わる……って!……ふう……んん」我慢が出来ない。れいなちゃんの服の上から膨らみを揉みしだいて先端を見つけた。もう硬くなってんじゃん。意識が、快楽に支配されていく──。だめなのに。ここ、学校なのに。職場なのに。私は教師で、絢斗は生徒なのに。誰かに見られたら絶対に終わる。私の人生が、社会人生命が、終わる。特に、さっきの白石さんに見られたら。動画なんて撮られてたら弁解すら出来ない。ブラウスの裾から絢斗のごつごつした手のひらが侵入した。触られたいけど、そのまま受け入れたいけど、今はだめ。「んはあっ……あんっ……けん、と……ね、待って……」「無理」太腿に、硬くなった彼が主張していた。そのまま視界が反転しそうになって、彼の胸を押し返す。「れいなちゃん?」そんな悲しそうな顔しないで。今すぐここで全部受け止めたくなる。「まだ、白石さんが」絢斗は静かに身体を離した。がっかりしたかな。でも、本当に、ここでするわけにいかない。窓辺でカーテンを少し開け、閉じた彼はまた私を包み込んで唇を奪った。「ふ……んん……?絢斗……?」「白石はもう、校門を過ぎてた。だから、大丈夫」「え、大丈夫って」調理台に身体を倒された
放課後の家庭科室。窓の外では、雨上がりの夕陽が水滴を照らしていた。そういえば、6時間目に雨が降ってたっけ。音を立てないように家庭科室のドアを開けた。調理実習の片付けをしていたれいなちゃんは、エプロンの裾を軽く結び直していた。教室には、粉の匂いと甘い香りがまだ漂っている。「れいなちゃん」俺の声に振り返った彼女は静かに目を見開いた。「桐生くん。どうしたの」「れいなちゃんの顔、見たくなった」困ったように目を細めて、彼女は俺を家庭科室の中に招いた。抱きしめたい衝動と闘いながら、何事も無かった風を装って彼女の作業を手伝った。このとき、俺は黙って棚を整理していた。いつものように、何も言わず、れいなちゃんの動きを横目で見て手を動かす。ふと、違和感に気付いた。何だ?見られてる?れいなちゃんじゃない。廊下の方か?──ケバ嬢。ケバ嬢はスマホを持ち、鏡のように画面を見ながら髪を直していた。だが、視線の先はれいなちゃんと俺。あいつ、巻いたと思ったのに。ずっと見てたのか。ケバ嬢の唇が、にやりと歪んだ。「絢斗お。ちょっといい?」ケバ嬢はわざと声を甘く伸ばして家庭科室に入ってきた。れいなちゃんが顔を上げると、ケバ嬢はにこりと笑い、意味ありげに俺に近づいた。ケバ嬢はわざと声を甘く伸ばして教室に入ってきた。れいなちゃんが顔を上げると、ケバ嬢はにこりと笑い、意味ありげに俺に近づいた。そのにこりとした笑いを見て背筋が寒くなったのは気のせいでは無いだろう。「この前の課題、ノート貸してくれるって言ってたよね? ね、今見てもいい?」巻いたと思ったのに。さっきの教室での俺の放心も、家庭科室に近づく俺の動きも、全部こいつにバレていたのか。気配を消すのが上手過ぎる。もしかして、今まで気付いていなかっただけで、何度か尾行されていたのかもしれない。れいなちゃんを、一瞬見る。れいなちゃんは困ったように笑い、「ノート、机の上ね」と促した。ケバ嬢はその横をすり抜けながら、れいなちゃんの方にわざと強い香水の匂いを残した。彼女が咳き込んだ。彼女は香水の匂いが苦手だ。時間差で鼻水が止まらなくなったり、貧血を起こすこともある。ケバ嬢め、余計なことを。「先生、今日のスカートかわいいですね。どこで買ったんですかあ?」れいなちゃんは少し驚いたように笑い、「あ、ありがとう。そんなに高くないの
下駄箱で、それまで一緒に歩いていた律樹が女子に呼び止められた。名前は知らないが、律樹の好きそうな正統派美少女。律樹は進路委員をやっていて、その用事っぽい。「俺、先行ってるわ」「ああ。後から行く」後から行くと言いつつ、律樹の視線はその美少女に注がれている。わかりやすい奴め。「俺、ちょっと急いでるから。また明日な」「あ、ああ……」申し訳なさそうだけど、嬉しそうなのがバレてんだよ。正直者め。外靴に履き替えて外に出た。背後から、鼻にかかった、たるい声が聞こえた。いや、聞こえていない。きっと気のせいだ。振り返るな。振り返ってはいけない。「ねえ、絢斗お。待ってよお」振り返らない。俺、こいつの相手をする暇は無い。「ねーえ?」鞄を持っていない方の手……というより腕か。腕にケバ嬢は俺に無断で抱きついてきた。うわー……。やめて欲しい。「離せよ」「やだー。絢斗、こうでもしないと振り返らないんだもん」無理に俺の腕をケバ嬢のあるのか無いのかわからないぐらいの小さな胸に押し付けようとしている。「やめろって!」強引にケバ嬢の腕を剥がす。「えーやだいたーい」強くはやっていない。騒がれたら面倒だから、痛くない程度にしている。こいつに騒がれたら俺が悪者にされる。冤罪、ダメ絶対。無表情を全力で作る。いや、頑張らなくても勝手に無表情になる。「やだじゃねえよ。俺が嫌だ」「えーこわーい。ねー絢斗、一緒に帰ろう?」帰ろう?じゃねえよな。強制的に一緒に帰らせようとしてるよな。そうはいかない。このケバ嬢の甘ったるい声は俺には通用しないと、遺伝子レベルで理解させる必要がある。しかしどうやって?着信がある振りして逃げるのは簡単だ。でもそれはただの延命措置にしかならない。どうするか。……思いつかない。仕方が無い。「……ん、ちょ、待って」「え?何、電話?」「ああ……お、どうした?……ああ、そうだけど……」着信なんて来てない。渾身の演技中だ。俺、俳優目指せるかも?「あー……それはまずいな。ああ、そう……ごめ、ちょっと待って」「白井、俺、急用。戻んないと。先行って」「え、私待ってる。てか私、しらいし……」「時間かかるから。……ああごめん、こっちのこと……」電話の演技は限界があるんだよ。早く消えてくれ!なかなか消えないケバ嬢を置いて、来た道を戻る。勿論大股で
俺たちの秘密を知っている人がいる。それが自分の信頼出来る人であるっていうのは安心感がすごい。茶化さず騒がずリークしない。自分だけで抱えるのはやっぱりしんどかった。れいなちゃんの隣に立つには、彼女を守れる強い男でないといけない。ひとりで強い男を目指すのもかっこいいけど、でも仲間がいた方が心強い。れいなちゃんはどうだろう。俺たちのことを話せる、口の固い友達はいるんだろうか。れいなちゃんにもいるといいな。俺だけ仲間がいるのってなんかずるいからな。律樹は一瞬店の外に出ると、スマホ片手に戻ってきた。親に連絡でもしていたのだろう。「俺、先帰るわ。絢斗は先生送ってくんだろ?」「ああ。ボディガードだからな」「そのボディガードが一番危険な奴だけどな」「うるせえ」「あのさ、絢斗」「ん?」ふざけた会話をしていたのに、急な真顔。どうした律樹。「俺が店出てから10分くらいは、まだ出ない方がいい」「え、どういう」「いいから」じゃ、とだけ言い残して、律樹は帰った。「じゃあ、私たちも」と続こうとする彼女を何とか留めなければ。理由はわからないが。「ごめん、れいなちゃん。店の奥に忘れ物したから、ちょっと待ってて?」「忘れ物?うん、わかった」忘れ物なんてしていない。どういうことだ、律樹。明日、詳しく教えてもらわないとだな。「え……?」「昨日は俺が追い払ってやったけど、お前ら、本気で気をつけた方がいいぞ」昨日の律樹の忠告。10分くらい経ってから店出ろってやつ。理由を聞いて愕然としたのと同時に腑《はらわた》が煮え繰り返った。満珍軒の近くでケバ嬢──名字なんだったっけ?白井だっけ?──がウロウロしていたらしい。「白石の家ってあの周辺じゃないだろ?むしろお前の家とは逆方向」「……ああ、白石ね。白井じゃなくて」「お前なあ……もうちょっと自覚しろよ」律樹の話だと、こういうことだ。白石は昨日俺と律樹の跡ををつけていた。満珍軒に入ったところまで見て、自分も入ろうかどうか迷っていたら檀先生が入っていくのを見て、入るのをためらった。それで俺が店から出てくるまでウロウロしていたと。「満珍軒がお前の家だってことはバレてないらしい。飲食店で良かったな。檀先生が店に入ったことも、とりあえず不自然じゃないしな」「そうかそれで昨日、あのLINE……」律樹が出てから10分後に出ろ
律樹の食べっぷりは本当に気持ちがいい。俺もよく食べる方だけど、律樹の食欲と食べるペースは俺の倍だ。律樹の母ちゃんお手製のお弁当はいつも二つだ。早弁用と昼食用。俺も早弁するときあるけど、基本、店のまかないだ。律樹の弁当もまかないなんだそうだ。律樹の家はデカ盛りの店を経営している。互いに家が飲食店であることがわかってから、特に仲良くなった。「今日も早えな」「普通でしょ。お前、今日は餃子と唐揚げしか食わねえの?」「ちょっとな」「ふーん」律樹は必要以上に干渉しない。楽だ。大抵は、「何があるんだよ」としつこい追及が始まるもんだ。さっぱりしたこいつの性格のおかげで、俺は割と快適に過ごせている。しっかし、お冷《ひや》を入れる手つきが慣れてんな。まだ高校生である俺たちは、お冷ひとつ入れるにも慣れているやつとそうでないやつの差が激しい。お冷も入れられないやつらって、一体どうやって生きてきたんだか。全部親にやってもらってたのだろうか。律樹が特盛ラーメンを食べ終える頃。れいなちゃんが店の入り口を開けた。「こんばんは……」ちょっと恥ずかしそうな顔で、れいなちゃんはいつも入ってくる。いいね。今日も恥じらいひとつ、頂きました。「ん?あれ、壇先生じゃね?」「れいなちゃん!こっち」軽く目を見開いた彼女は、カウンター席の俺の隣に当然のように座った。「えっと……菅原、くんも一緒だったんだ」完全オフの彼女モードから瞬時に先生モードに戻った。戸惑った顔も良かったんだけどな。って俺、れいなちゃんに律樹がいること言ってなかったか。やば。後で絶対怒られるやつ。ほら、れいなちゃんの背後に炎がほんのりと……見える気がしている。「お前、何で壇先生と……」「あー……えっと」バラしていいのか?いやダメだろ。でも律樹だったら黙っててくれると思う。ただカミングアウトした場合の、俺の隣に座るれいなちゃんの戦闘力が53万を超えてそうな気がする。やべえ。スーパーサイヤ人並みの圧を愛しのれいなちゃんから感じる日が来るとは。「付き合ってんの?」「え、いや、その」隣からの圧が更に増えた。れいなちゃんの方を向けない。彼女が今どんな表情してるかなんて、考えただけで恐ろし過ぎる。「先生、大丈夫ですよ。俺、口固いから」実際律樹は言いふらすようなやつではない。警戒心強めの俺が心許して話せる数少ない人間だ
れいなちゃんの元彼は大人しくしているようだ。スマホの全ての連絡手段をブロックしたと、れいなちゃんは言っていた。彼女の新居も当然ヤツには伝えていない。その上接近禁止令。うん、完璧。これでれいなちゃんが元彼のせいで苦しむことは無くなった。授業中に騒いでいた奴らは俺が目を光らせているから問題無い。本当は鈴木も何とかしたい。でも俺、鈴木と全く接点が無い。下手に近づいて、れいなちゃんと何かあるって勘づかれたらまずい。許されるなら、れいなちゃんをあのアパートの部屋に閉じ込めて、全てのストレスから彼女を守りたい。しかしそれを、世の中では軟禁と言われてしまう。そして俺にそんな力はまだ無い。俺に力があれば。腕力だけじゃだめだ。財力、権力も、れいなちゃんを守るために必要ならば身につけてやる。じゃあどうする?腕力には筋トレ?筋肉は裏切らないからな。筋肉を限界まで追い込むって快感以外の何ものでも無い。それをれいなちゃんに話すと変な顔をされる。「この子、何言ってんの?」って顔に書いてある。財力と権力。ああ、考えたくないけど、結論として出したくないけど。どう考えても、今の俺に出来る財力と権力の身につけ方って勉強なんだよな。はい、頑張ります。れいなちゃんを守れる、れいなちゃんに相応しい男になる。それが俺の、最近の全てに対するモチベーションだ。「ねえ、絢斗お。ここ、わかんないんだけどお」また来た。今日何回目だよ。何なら今日数学ありませんけど。聞くなら理系のやつに聞けよ。ここが文系クラスだとこいつはわかってないんだろうか。「解説読めよ」「だってえ。解説短いんだもん」「俺忙しいから理系のやつに聞いて」「理系の子の説明わかんないんだもん」やべえ。こいつ、本当に入試受けたんだよな?あ、内部進学組か。この翠嶺高校は、高校からの外部進学は偏差値が高いので有名だが、中等部からの進学組は、落ちこぼれていても高等部に進学可能だ。裏で親が追加課金しないといけないという噂だが。律樹《りつき》に視線を送る。目が合う。まばたきを数回する。伝われ。俺が助けを求めてるって、伝われ。まじ助けて律樹。俺をこのケバ嬢から解放してくれ頼むから。「白石さん」ケバ嬢が律樹の方を振り返る。振り向いた瞬間の、傷んだ長い髪からくっさい香水が臭った。香水ってさ、においって本来匂いだよな。でもこのケバ嬢から出