로그인第4話 硝子の街に風が吹く
階段の最後の一段を踏むと、空気が変わった。 薄い霧。鈍い金の朝。頬に触れる風がやわらかい。 地上の匂い——焼きたてのパン、濡れた石、遠くの香辛料。胸が静かに広がる。 「久しぶりの太陽、眩しそうだな」 横に立つシアンが目を細める。 私はフードを少しずらして、光に慣らすみたいに瞬きをした。 「……少しだけね。悪くないわ」 香袋に触れる。昨夜より、香りがほのかに戻っている。 決意は、香りに似ている。強すぎると嘘くさく、薄すぎると届かない。 「見張り役は散歩が仕事、ってのは贅沢だよな」 「まあ、命令だから」 「命令、ね」 言葉の端に、ノクターンの気配が少しだけ混じった。 私は深く吸う。冷たくない朝。歩き出す足取りが、昨日より軽い。 通りはもう動き始めていた。 荷車の軋む音、呼び込みの声、笑う子ども。鐘の音が遠くで一度、溶けていく。 市場の角を曲がると、見覚えのある紋章が瓦礫の中に眠っていた。 かつての家の、欠けた盾。光を受けて、線が薄く浮く。 シアンが立ち止まり、何も言わずに私の視線の先を追う。 一拍の沈黙。風が瓦礫の粉塵を軽く舞い上げた。 「この街は、いつも風が正直すぎるな」 彼はそう言って、別の屋台の方へ顔を向けた。 「胡椒、高いな」 「ええ。涙が出るくらい」 笑うと、頬の筋肉が思っていたより素直に動いた。 痛みは、もう鋭くない。丸くなって、手のひらに収まるくらい。 「急ぐか」 シアンが歩幅を少しだけ合わせる。 「目だけ開けとけ。口は……半分閉じとけ」 「半分?」 「賢そうに見える」 「それは困るわ」 ふっと、呼吸が軽くなる。 影の館の冷たさは、この風でちょうどいい温度になった。 ヴェリド商会の支店は、石造りの壁に明るい庇。 昼前の陽が布地を透かし、店内の埃まで金色に見せる。 シアンが軽やかに前に出て、馴染みの客のように扉を押した。 「書状の受け取りに。ほら、例の噂話のお代、払うって言ってたろ」 店番が瞬きをして、うっかり奥の者を呼びに行く。 私は棚の並ぶ側道へ滑り込む。 文書室は、静かな匂いがする。インク、紙、木。 指先に香をひとつ乗せる。息を小さく吹きかけ、薄く広げる。 棚の三段目、右から二つ目。 鍵穴の縁に微かに残る、見慣れた調合。 香律の封印。 黒印が手の中でかすかに温度を持つ。 指で輪郭をなぞり、香を重ねる。 箱は迷って、やがて小さく鳴った。ため息をつくみたいに、留め金が外れる。 蓋の内側には薄い布。指先の熱で、布はふわりと沈む。 台帳を一冊。紙の重み。 めくると、文字がまっすぐに並んでいた。 整っているのに、どこか震えている筆圧。 ——これは記録じゃない。誰かの、祈りの跡。 喉がひとつ鳴る。 外で鐘の音が重なり、窓の光がわずかに揺れた。 「……見つけたのか」 背後でシアンの声。 私が振り返ると、彼は扉の影に身を置き、目だけで合図をする。 言葉は使わない。手のひらで“いま・出る”のリズムを刻む。 台帳を布で包み、箱は元の眠りに戻した。 来た時より静かに。香りだけが、うすい余韻を残す。 外に出ると、風が一度、強く吹いた。 庇の布が波になり、光がこぼれる。 遠く、屋根の線に細い人影。仮面の鈍い黒が、刹那、陽を弾いた気がした。 「……誰かが、風を動かしたな」 シアンが肩越しに空を見やる。 私も少しだけ首を上げる。 影はもういない。けれど、視線の温度だけが肌に残っている。 「だったら、追い風かしら」 私が笑うと、シアンも短く息で笑った。 足取りが同じ速度になる。石畳が、戻る道を素直に教えてくれる。 帰り道、角の硝子工房から淡い炎が見えた。 炉の口が呼吸をして、職人の手が長い竿の先で赤い芯をくるくると回す。 溶けた硝子が、息を入れられて、ゆっくり広がる。 丸い。まだ歪んでいる。けれど、その歪みが光をよく拾う。 立ち止まっていると、シアンが少し先で振り返った。 目で「どうした」と問うて、言葉にはしない。 「……なんでもないわ」 目を細めて、炉の音を耳で撫でる。 怒りも、きっとこんなふうに。熱にちゃんと触れて、息を入れて、形にする。 その形が、誰かを傷つける刃じゃなくて、光を集める器であったら——少し、いい。 工房の外に散った小さな破片が、風に押されてカランと鳴った。 朝より高い音。空が青くなる予感の音。 香の匂いが薄く流れ、硝子の面に映る私の瞳が、黒に光を混ぜる。 「行こう」 シアンが先に歩き出す。 私は一拍置いてから並ぶ。 通りの先、噂がもう形を変えて走っていく。 誰かの笑い声。パンの匂い。猫の影。 世界は、手の届く距離で呼吸している。 風が、背中を押した。 香袋が胸のところで軽く揺れる。台帳の重みは、思っていたより温かい。 影の中にも、光は息をしていた。朝の空気は薄く冷たくて、紙の粉の匂いがわずかに残っている。前夜に触れた端のざらつきが、まだ指の腹にいて、胸の鼓動は静かだ。机には封を終えた小さな香袋が三つ、転がる気配を止めている。ミーナが身をかがめてエリシアの顔をのぞき込み、眉尻を下げた。「目の下、ちょっと赤いよ。寝れてないんじゃない?」エリシアは椅子の背にもたれず、まぶたを一度だけ深く上げた。「目は開いてる。それで十分」シアンは窓辺から外を確かめ、肩だけこちらへ向ける。「今朝、角の工房に人が集まってた。何か噂になってる」ミーナは香袋を指で転がし、口角をわずかに上げた。「その噂、うまく使えるかもね」エリシアは机上の紙端を指でなぞり、視線を落としたまま続ける。「昨日の棚、綺麗に見えたけど……歪んでた。つまり、誰かが細工してる」一拍だけ、室内の音が減る。火は弱く、湯の表面だけが揺れた。外へ出ると、石畳はまだ湿っている。雲は低く、路地の向こうでガラス工房の排気が温かく吐き出される。蜂蜜と炭が混じった匂いが喉に触れて、少し甘い。ダリウスは足を止めず、顎で通りの先を示した。「巡回は二人一組。交代で回ってる」ダリウスが肩越しに短く振り返り、声を落とす。「さっきの通り、戻りが早すぎる。見張りが気づいてるかもしれない」シアンは手袋の口を締め直し、エリシアと目を合わせた。「例の合図、三回だ。早くなったら下がれ」エリシアは浅く息を吸い、指先で胸元を軽く押さえる。「わかってる。息を合わせればいいんでしょ」歩幅をそろえる。呼吸を短く、同じ拍で吐く。靴底が水分を薄く伸ばして、音を隠した。角へ近づくほど、街の温度が上がっていく。パン屋が焼き色を裂く音がして、猫が紙屑を蹴る。買い物袋を抱えた女が一度だけ足を止め、子どもが笑い声を残して走り抜ける。呼び声と囁きが絡まり、始まりのわからない話がいくつも同時に回る。人の息が渦になって、角そのものが大きく呼吸しているみたいだ。黒い帽子の噂屋が屋台の柱にもたれ、目だけこちらへ滑らせた。「昨夜、記録が勝手に動いたって話、聞いた?」エリシアは答える前に視線を一度だけ外し、噂屋の目に戻す。「記録は誰かが触れないと動かないわ」噂屋は口の端で笑い、二人の手元を見た。「言い方がきれいだね。手が慣れてる感じ」シアンは屋台の台上を指さし、手
机の上に、薄い布と硝子玉と細い紐と紙小刀を並べた。 雨の前の湿気が、指先にまとわりつく。 窓の外は灰色で、音だけが近い。 ミーナが小瓶を二つ、静かに置く。 ひとつは封のため、もうひとつは息を戻すため。 栓をわずかに傾けると、薄荷が白檀に触れて、冷たい匂いが立った。 「封印は薄くしてね」 ミーナが言う。 「濃くすると、跡が残るから」 「跡が残れば戻れるけど、追われることにもなる」 エリシアが頷く。 「戻るときだけ残ってればいい」 戸口でダリウスが耳を澄ます。 屋根を叩く前の雨の音を、彼はいつも先に聞く。 「合図は三回。間隔が短ければ、すぐに引け」 シアンは手袋の指先を曲げ伸ばす。 言葉が少し噛んだ。 「心臓、うるさいな……」 「聞こえるってことは、生きてる証拠だよ」 エリシアが短く笑い、手首に“戻り香”を一度だけ触れさせる。 ミーナは瓶を引きながら、目線で息の高さを指示した。 「足音と同じリズムで息を吸って」 「吐くときも同じ高さで。そうすれば気づかれない」 「わかった」 硝子玉を薄布に包む。 紐は一重で足りる。 余計を持たない。 外へ出ると、雨はまだ細い。 傘は使わず、外套の裾だけが重くなる。 石畳の匂いが、夜を近づけた。 曲がり角の影で、ダリウスが二本の指を立てる。 間を置いて一本。 「今、警備がゆるい」の合図。 扉の鉄に指を置いた。 冷たさが骨に触れる。 錠の油は薄い。 「開ける音は短いほうが助かる」 シアンが囁く。 「息を短く」 エリシアは顎だけ動かした。 ピンがひとつ、遅れて落ちる。 腹にカチ、と小さく落ちた音が、合図のように広がる。 シアンが扉を数指だけひらく。 外の雨の息を、内の空気に混ぜた。 温度が、すこし均る。 二人は滑るように入り、押しで扉を戻す。 蝶番は鳴らなかった。 中は白い。 棚が高く、天井は低い。 紙の乾いた匂いが、薄く鼻に触れる。 音を立てない灯りが、廊下の奥から滲む。 硝子玉を指で転がし、光を割らずに受けて返す。 麦束の影が、水の底みたいに淡く浮いた。 「……浅いな」 エリシアが小声で言う。 「棚は、もっと奥だ」 束ね線を爪先でなぞる。 右へ寄る癖が、均一に繰り返されている。 背の糸が太い束と、細い束が、同じ棚で肩を並べて
窓の桟に、朝の白が薄く乗っていた。 格子のすきまを、冷たい風が静かに抜ける。 指先がかすかにかじかむ。 隅で白いものが揺れていた。 羽根ではない。 雨で角がやわくなった薄い紙片。 そっと摘む。光に透かす。 麦束の細い影――それが、紙の奥に沈んでいた。 「……麦だ」 背後でミーナが小さく息を吸う。 人差し指で縁をなぞり、紙端に寄った細い筋を示す。 「監査倉庫の束ね方だな。押しが弱い。奥の棚でよく見るタイプだ」 「棚の印?」 「うん。古い在庫の場所だ」 机に紙片を置くと、下からもう一枚、薄い紙がすべった。 宛名欄だけが広い呼出状。 日付と印だけが冷たく残る。 「行くなら、帰りの目印を残していって」 ミーナが小瓶を引き出しから出す。 薄荷と白檀の軽い匂いが、ふわりと立つ。 「ほんの少しでいい。帰ってくるときの合図になるから」 「少しでも戻れるの?」 「帰りたくなったときに、思い出せるくらいにはね」 寝癖を撫でつけながら、シアンが台所から顔を出す。 紙を持ち上げ、噛むように言葉を出す。 「行くのか……いや、行くしかないよな」 「逃げたら、流れが変わる」 「じゃあ、俺も行く」 小瓶の栓を軽く戻す。 香袋は閉じきらず、紐を一度だけ巻く。 戻り道の印は、それで十分だ。 玄関で靴紐を結ぶ。 革の固さが、朝の温度に似ている。 扉の取っ手は冷たい。 ミーナが小瓶をもう一度押しつける。 「不安になったら、これを嗅いで。落ち着くから」 うなずく。 シアンが扉を少しだけ開け、外の風を測る。 「向かい風だな。顔を上げすぎると目が乾くぞ」 「目、閉じないでね」 「閉じないさ。……ゆっくり行こう」 外気が頬に触れる。 歩幅がそろうまで、三歩。 街路の白灰が薄金に変わり始めていた。 その風はまるで、見えない誰かの意思に導かれるように、進む道を撫でていった。 監査局の白い壁は、近くで見るほど冷たい。 案内役は何も言わず、手だけで方向を示す。 小室の扉が短く鳴る。 中は低い机と、水差しと、折り畳まれた椅子。 石と紙のうすい匂い。 書類の匂いに混じる鉄のような冷気が、胸の奥を静かに刺した。 窓は開かない。 聴取官は笑わないが、目は柔らかい。 声は低く、語尾は上がらない。 「名前は言わなくていい」
窓を少し開けた。朝の気配が、格子の間を静かに通る。 昨日、あの人に宛てて出した封筒のことを思い出す。香りだけの返事。宛名なし。 外は白灰。王都の音がまだ遠い。 あの人に出したはずの言葉が、まだ世界のどこかに漂っている気がした。 「あれ?」 窓の隅で、白いものが揺れていた。羽根……じゃない。薄い紙片。角が雨で少し丸い。 指でつまむと、ひゅっと風が弱まる。 背後で気配。 「……また、あの気持ちが近づいてきたのか?」 シアンが肩越しに覗き込む。眠たそうな目、声はいつもどおり。 「……返事、かもしれない。もう、いらないと思ってたのに」 二人で紙をひっくり返す。何も書いていない。 けれど、香りが少し違う。昨夜の香袋とも、館の香とも違う。 手の中でかすかに残るのは、通りの朝の匂い。濡れた石、焼き始めのパン、あと……ほんの少し、誰かの衣の香。 「香り、昨日のとは違うな」 「……誰かの気配。通り過ぎた後の匂い」 「それでも、返事だって思うんだな」 「思いたいだけ、かもしれない」 「でも、そう思う方が前に進める」 窓辺の椅子に並んで座る。沈黙のほうがやさしい朝。 外で鳥が一度、低く鳴いた。 「ノクターンは?」 「さあな。どこかで見てるだろ。……あいつ、静かに見守るタイプだし」 「……見られてる感じ、嫌いじゃないな」 「変わってるな」 笑って、静けさにまぎれた。紙片は机の上で乾き、香りを薄く置いていく。 昼前。影の館の奥は、いつもより明るい。 ミーナが机の上を片づけ、紙束を帯でまとめる。 私は香袋の内布を縫い直す。糸の目は細かく、母の手の癖に似せて。 シアンは書類を運びながら、途中で埃を吹いて怒られる。 「ねえ、想いってさ、誰が動かしてるんだろう?」 ミーナが何気なく言う。声はいつもより柔らかい。 「自然に、じゃないのか?」 縫い目を止めずに返す。 「“自然”も、誰かの願いかもしれないわ」 「詩人みたいなこと言うな」 シアンが笑う。喉に笑いが引っかかった。 ミーナは肩をすくめて、羽根ペンの先を布で拭った。 「たまにはいいでしょ。理屈よりも、気持ちの方が真実に近い時があるの」 「……想いも、何かを願ってるのかな」 手を止めて、窓のほうを見る。 「きっと。あなたが、もう一度“声”を出すことを」 「声か……」
灯が、ほとんど消えかけている。 窓の布が息をして、薄い影が机の上をなでた。 便箋が一枚。白が、夜の色を少し吸って、灰に近い。 あの夜の声が、まだ部屋のどこかに残っている気がした。 指先で端をなぞる。角が冷たい。 ペンを転がす。細い音が、静けさを少しだけ動かす。 まだ、何も書けていない。 廊下で足音が一つ、ためらって止まる。 シアンが戸口に寄りかかって、欠伸を無理に飲み込んだ。 「まだ起きてたのか?」 「……ちょっと、考えごとしてて」 「考えてるときの顔、静かすぎてちょっと怖いな」 息だけで笑う。笑う音は出さない。 窓辺の布がふくらんで、すぐしぼむ。外の風は、まだ夜の温度。 「紅茶、入れてくる」 シアンが言って、廊下に消える。しばらくして、湯の音が近づいた。 同じテーブル。湯気が細く重なる。 カップの縁に指を置く。熱が、呼吸の速度を決める。 「手紙の相手、誰か分からないんだろ?」 「分からないけど……なんとなく知ってる気がする」 「……風のクセっていうか、似た感じがする」 「風が書いた手紙だったら、どうすればいいの?」 「返さないってことが、答えになることもある」 言葉が止まる。湯気だけが動く。 夜の匂いと、紅茶の渋みが同じ高さで混ざった。 「……でも、何か伝えたい」 「うまく言葉にできなくても書いてみろよ。誰も読まなくていいから」 頷く。ペン先を持ち上げ、また置く。 紙はまだ、音を立てない。 「ミーナはまだ起きてるかな?」 「起きてると思うぞ」 そのとおりに、廊下の向こうで小さな欠伸。 扉が少しだけ開いて、ミーナが顔を出した。 「夜更かし組、仲良くしなさいよ」 軽く言って、テーブルにカップをひとつ足す。 目は冗談じゃない温度で、こちらの手元を見る。 「返事を書かなくても、匂いで伝わることがあるの」 シアンが眉を上げる。 「どういう理屈だ?」 「理屈じゃないの。香りは“気持ちが届いた証拠”だから」 カップを受け取りながら、笑う。 「……じゃあ、香りで返事しようか」 「そうね。香りって嘘つけないもの」 ミーナは私の肩越しに窓を見た。外の色が、ほんの少し薄くなっている。 「風が変わるわ、もうすぐ」 「起こしたら悪いし、俺は廊下で見張ってるよ」 シアンが椅子を引く。音を出さないように
午後の光は、霧雨みたいにやわらかかった。 窓を少し開けると、街のざわめきが薄く入ってくる。どこかで笑って、どこかでため息をついて、同じ高さで混ざる。 ミーナが帳簿をぱたんと閉じて、湯気の立つ急須を持ち上げた。 「噂って、広まるの早いのね」 「追いかけてもキリがないぞ」 シアンが指先で本棚の埃を払うふりをして、片目だけで笑う。 私も笑いかけて、やめた。窓から入った風が香を押して、部屋の角が丸くなる。 「人が集まると、言葉が音になる」 廊下の方から、低い声が一度だけ落ちて、すぐ静かになった。 「仕入れのついでに、少し歩こうか」 シアンが軽く手を振る。香紙の束を入れる布袋を肩にかけ、扉を押す。 雨上がりの道。傘を畳む音。足音が湿って響く。 誰かが囁く。 「昨日、あの質問した人のことだろ」「名前はまだ出てない」「帳簿の端の件だ」と、 空気の表面で弾む。 角を曲がったところで、シアンがふっと歩調を落とす。 「人が話すと、周りの空気が変わるだろ」 「……空気、ね」 「でも、それって誰の言葉でもない。ただ流れが形になっただけ」 少し間を置いて、彼が低く続けた。 「……噂の根、もう俺たちの名前にも触れてるかもしれない」 「じゃあ……それを止めるには?」 「止めたら、誰も話せなくなる」 言葉がそこで切れて、靴音だけが続く。 市場の女が籠を抱えてすれ違いざま、眉を上げた。 「昨日の人ね」 私は何も言わず、微笑んだ。女は言葉を胸の中へ戻して、頷くのか頷かないのか、曖昧な角度で去っていく。 周りの声がいったん遠くなって、またすぐ戻ってきた。 「香紙は、あの店のやつ?」 「知ってる。安いけど、すぐに滲むんだ」 「滲む?」 「雨の日は、紙も涙もろくなる」 私たちの会話も、風に紛れて、どこにも残らない。 軒の深いカフェの前で、シアンが立ち止まる。木の庇から、水がひと筋落ちた。 紙袋を足元に置いて、彼は喉のところで言葉を転がす。 「……言葉にするって、案外しんどいな」 私は顔を上げる。 「聞いてくれる人がいれば、少しは楽かも」 「うん。でも、誰かが聞いてくれるってことは、もう独りじゃないってことだろ。それが怖い」 「怖いの?」 「“届いた”ってことは、誰かと繋がったってことだ。……それが一番怖い」 まつ毛が、少しだけ







