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影の灯り

Author: 吟色
last update Last Updated: 2025-10-14 05:08:00

目を開けると、灰色の朝が地下の格子窓から少しだけ差し込んでいた。

細かな埃が光の筋の中で、金粉みたいにゆっくり泳いでいる。

枕元の香袋に手を伸ばす。昨夜より香りが薄い。まるで、胸の奥のざらついた怒りが少しだけ空へ昇っていったみたいだった。

鏡をのぞく。瞳の奥に、黒い光がほんの少し強くなっている気がする。

そこへ、淡い色の外套を羽織った女が扉から顔を出した。インクで指先を汚した、あの記録係だ。

「おはよう。私はミーナ。契約者は朝食の前に“確認”を受ける決まりよ。怖がらなくていいわ、記録のための手順だから」

「確認……誓印の?」

「ええ。嘘がないかを確かめる儀式。すぐ終わるわ」

ミーナに案内され、長い廊下を歩く。足音が石にやわらかく返ってくる。

館の奥へ進むほど空気はひんやりして、だんだんと静けさが厚くなる。

やがて小さな聖堂に出た。黒い石の祭壇。壁には文字も像もない。ただ、灯だけが淡く揺れている。

ダリウスが無言で立っていた。背は高く、影のように動かない。

シアンが柱にもたれて、片目でこちらを見て笑う。

「早いね、新顔。地下の朝は短いんだ」

ミーナが帳簿を開く。「記録を始めます」

最後に、あの仮面の男が入ってきた。歩みの気配が、場の空気をひとつ結ぶ。

「誓印は嘘を嫌う」

低い声が聖堂に落ちる。

「恐怖も、ときに嘘だ。お前はまだ震えている」

「震えているから、立っているのよ」

自分でも驚くほど素直に言葉が出た。

ノクターンは小さく首を傾け、右手を上に向ける仕草を示す。

「手を」

掌を差し出すと、黒印の上にうすい光の紋が浮かびあがる。王家の印章に似ているが、ここでは色を持たない。

光はゆっくり回り、やがて小さく脈打つ。黒印が内側から熱を帯び、針でなぞられるみたいに痛む。

息を吸って、吐く。目は閉じない。

背中に冷たい壁。足の裏は床の硬さをちゃんと拾っている。

心臓が速くなる。けれど、逃げたいという思いではない。

「怖くても進む。それは嘘じゃないわ」

言うと、光紋がふっと薄くなり、そのまま消えた。

黒印の疼きも静まる。

ミーナが羽根ペンを滑らせる音が、ささやきみたいに長く続いた。

「確認。誓印の反応は正常。虚偽反応なし」

シアンが指笛を短く鳴らす。「やるじゃない」

ダリウスは何も言わない。ただ、こちらを真っ直ぐ見て、一度だけゆっくり頷いた。

それだけで、この場所に踏み入れていいと認められた気がする。

儀式のあと、ミーナが簡素な食事を出してくれた。温かいスープと、少し硬いパン。

湯気が立ちのぼって、指先の冷えを追い払う。テーブルの向こうに、シアンが腰を下ろした。

「ミーナは元書記官。王都の記録室にいた。でも、上からの“訂正”にサインをしなかった。それで、ここ」

ミーナは苦笑いする。「代わりにインクをこぼしたの。偶然ね」

「こぼしたインクで、消えた字が見えたこともある」

シアンが肩をすくめる。「俺は噂の商売人。貴族が好きそうな話を売って、嫌いそうな話を高く買う。ま、ここでは全部、別の値段で動くけど」

「ダリウスは?」と聞くと、シアンは顔をしかめた。

「元近衛。言葉のかわりに剣を持ってた。でも、剣を抜かないためにここにいる。黙ってるのが、あいつの誓い」

ダリウスは視線だけをこちらに向けた。嫌悪ではない。ただ、測っている。

その目に、少しだけ柔らかさが混じった気がした。

「……私だけじゃ、ないのね」

つぶやくと、ミーナが頷いた。

「そう。切り捨てられたのは、あなたひとりじゃない」

スープの温度が胸に落ちていく。熱は静かで、長く残る。

昼に近い時刻、ノクターンがまた現れた。仮面は外さない。

彼が立つだけで、部屋の言葉が一度止まる。

そして、必要な言葉だけが再び動き出す。

「今日から動く。最初の標的はヴェリド商会の文官、ロット」

ミーナが顔を上げ、シアンが口笛を飲み込む。

私は席を正した。

「ロットは数字を綺麗にするのが得意だ。二冊の帳簿を一冊に見せる。盗まれた金より、消された記録が厄介だ」

ノクターンは地図の南を指で叩いた。

「殺しはしない。必要なのは、“記録”だ。匂いで開く箱が一つ。筆跡でしか動かない鍵が一つ。——お前が行け」

呼吸がひとつ、深くなった。

あの夜、舞踏会で失ったものの重さを、いま指先が覚えている。

誓印の疼きはない。代わりに、黒い光が静かに広がる。

「……分かったわ。証拠で、殺す」

ノクターンの仮面の奥で、視線がわずかに細くなる。

それは笑いでも嘲りでもない。

仕事人が、刃の良さを確かめるような目つきだ。

「怒りが形を持つと、人はようやく美しくなる」

その言葉は、褒め言葉には聞こえなかった。

けれど、私の背筋はまっすぐになった。

ミーナが手元の紙を束ね、シアンが地図を筒に巻く。

ダリウスが扉を開け、短く合図する。

影の館が、初めて私のために動いた。

夕方、部屋に戻る。

机の上に、小さな香炉を置く。香袋から残っていた香木の欠片を取り出し、火を移す。

やがて、細い煙が立ちのぼる。色は黒と紅のあいだで揺れて、壁に影の輪郭を描く。

揺れる影が、一瞬だけ仮面の形に見えた。

窓の外は、もう夜の手前。

深く息を吸うと、香りは静かに肺に残り、心を同じ色に染める。

準備は、もう始まっている。

手袋、薄刃、封蝋を剥がすための糸、香りを移すための小瓶。香炉の熱が、指の感覚を確かにする。

「行ける」

声に出した。震えはない。

灯りが小さく強くなり、部屋の壁に映る影が濃くなる。

その灯りが、彼女にとっての最初の武器だった。

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