紀美子は我慢して説明した。「大事なのはこのことじゃなくて、この人なの。話さなきゃいけないことがあるの。次は私が誘うから、それでいい?」晋太郎は紀美子の性格をよく知っていた。彼女がその相手について話したくないのなら、誰が問い詰めたところで話すはずがない。「わかった。それなら藤河別荘で待つよ」「わかったわ。子どもたちはあなたが迎えに行ってくれる?」紀美子は即答した。「でも、今夜は藤河に泊まるつもりなの?」「俺は自分の女と一緒に寝る。何か問題ある?」晋太郎の返答に、紀美子は顔を赤らめて言った。「少し休んだほうがいいんじゃない?連日の過剰な運動は、腰を痛めるかもしれないわよ」そう言って紀美子は電話を切った。その一方で、さっきの紀美子の言葉を思い出した晋太郎は、画面を見つめながら微かに眉をひそめた。今、彼女は何と言った?少し休むとはどういうことだ?彼女の目には、自分は歳を取ったように映っているのか?たった一度のベッドでの運動で腰を痛めるような老いぼれだと?晋太郎は冷笑を漏らした。なるほど、紀美子は何か巧妙な駆け引きを仕掛けているのだろう。夜。紀美子はある男性記者とカフェで会う約束をしていた。彼女が一杯の水を飲み終わった頃、記者が店に入ってきた。記者は遠くから手を挙げて挨拶し、カウンターの店員と少し話した後、紀美子のテーブルにやってきた。「入江さん、この間お渡しした証拠、満足していただけましたか?」彼は笑顔で尋ねた。「ええ」紀美子はバッグから封筒を取り出した。封筒は厚く、中にはかなりの金額が入っているように見えた。「入江さん、これはどういうことですか?」記者は驚いた表情を見せた。「これはあなたへの報酬よ。これからもこのように迅速に動いてくれたら、さらにいい報酬を約束するわ」紀美子は封筒を記者に押し戻しながら答えた。「ありがとうございます、入江さん。正直、家計のやりくりが大変でして」記者は躊躇することなく封筒を受け取り、バッグにしまった。「これからも彼女をしっかり見張って。子どもたちを傷つけることに失敗した彼女は、また別の陰湿な手段を考えているはずよ」紀美子は続けた。「安心してください、入江さん。これからも目を離さずに動きますから!」
貞則は彼女を一瞥すると、「座って」と言った。静恵は無言のまま、茶卓の席に腰を下ろした。「明日の午前、安朝区の莫河大道の豊裕団地で待機してくれ。ある男が迎えに来る」「何をするんですか?」静恵は警戒心を露わにして尋ねた。貞則はお茶をゆっくりと飲みながら答えた。「彼が君に車を渡す。その車は偽造ナンバー付きだ。それを受け取った後、執事から連絡が来るはずだ。その時点で指定された場所に向かえ」「翔太を轢き殺せって言いたいんですか?」静恵はズバリと言い放った。貞則は彼女を見据えた。「どうした?怖いのか?やる気がないのか?お前が以前人を殺した時のあの勢いはどこに行ったんだ?」「怖いわけじゃありません」静恵は言った。「でも、あなたが手配したその男が警察ではないと、あなたの部下だと誰が保証してくれるんですか?」「ふん」貞則は冷笑した。「もし警察と繋がっていたら、今お前がここに座っていると思うか?心配なら、執事を一緒に連れて行こう。お前がうまくやれなかった場合のためだ」静恵は、貞則がその話に乗ってきたのを見て、わざと怒ったふりをして言った。「あなたは私がうまく処理できないから心配しているんじゃなくて、偽造車を受け取ったらそのまま逃げられることを恐れているんでしょう?」その言葉を聞いて、貞則は冷ややかな視線を静恵に向けた。彼は確かにその点について懸念を抱いていた。しかし執事を同行させようとしていた理由はただ一つ、犯罪の証拠を撮らせるためだった。こんな女を森川家に残すわけにはいかない!一石二鳥のチャンスを逃すわけにはいかないのだ。「これで決まりだ」貞則はきっぱりと言い放った。「お前に異議を唱える余地はない!今夜は部屋に戻って準備をしておけ!」静恵は貞則と長く話すのを避けるため、すぐに部屋に戻った。部屋に入ると、静恵はドアに鍵をかけ、携帯を取り出して翔太にメッセージを送った。「渡辺社長、貞則が動き出しました。たぶん明日のあなたの行動を探り当てたのでしょう。私に指定の場所で待ち伏せして、あなたを轢けと言ってきました」翔太はメッセージを見てから、目の前で資料を整理している秘書に顔を上げて視線を向けた。彼は軽く眉をひそめた。理論的に言えば、秘書以外の誰も明日のスケジュールを
「ありがとう、念江」翔太は返信した。「叔父さん、遠慮しないで」そして翔太はパソコンでファイルを開いた。すぐに、先日、石原秘書が6000万の巨額の振込を受けたことを発見した。その数字を見た翔太の目には怒りが浮かんだ。やはり、どんなに良くしても、お金一つで裏切られることがあるのだ。明日、彼は貞則の計画に従い、逆にその計略を利用することにした。夜8時半。紀美子は別荘に帰ってきた。家に入ると、リビングでは晋太郎と佑樹が向かい合って囲碁を打っているのが目に入った。紀美子はスリッパに履き替え、2人へ近づいた。「囲碁をやってるの?」「ママ、この人がどれだけ狡猾で卑怯か分かってる?」佑樹は不満げな顔で顔を上げた。「実力が足りないからって、悪口か?君のママにはそんな悪い癖はないぞ」晋太郎は冷笑を浮かべた。「……」紀美子は言葉を失った。どうして急に私の話になるの?佑樹は悔しそうに歯を食いしばった。「さっきは口が滑っただけだ!もう一回勝負だ!」「約束は三局までだっただろう。男なら約束は守れ」晋太郎は立ち上がった。「年下の相手に少しも手加減しないの?」佑樹は拳を握りしめた。晋太郎は佑樹をじっと見つめた。「できるさ。だが、他の奴が手加減してくれるか?成功だけを受け入れるんじゃなくて、失敗も受け入れる術を学べ。そうすれば、君の道はもっと広がる」紀美子は口を開き、雰囲気を和ませようとした。「晋太郎、佑樹にはちょっと厳しすぎるわ」「もう子供じゃない」晋太郎は低い声で言った。「そろそろ現実の厳しさを知る時だ」紀美子は晋太郎と議論するのを諦め、佑樹の前にかがんで彼の両手を握った。「佑樹、囲碁を始めたばかりで負けるのは普通のことよ。あなたには他の誰にもない才能がある、それだけでも十分に強いんだから。焦らず、少しずつ進めばいいわよ」佑樹の目に浮かんでいた悔しさが次第に決意に変わった。「ママ、いつか僕は絶対に彼を倒してみせる!」紀美子はため息をついた。「佑樹、勝ちにこだわりすぎるのも良くないわよ」「それこそ男だ!」紀美子が言い終えるや否や、晋太郎が真逆の意見を述べた。「……」紀美子は言葉を失った。でも確かに、父親と母親では教育方針が違う。
「そういうわけでもないけど……」紀美子は、突然一緒に住むことに少し戸惑いを感じていた。彼女は再び晋太郎のそばに歩み寄り、隣に腰を下ろした。「私たちの関係って、段階があまりにも少なすぎる気がするの。普通の恋人たちは順を追って進んでいくけど、私たちは子供がいるからって、いろんな段階を飛ばしてしまっていいの?」「それは君自身の考えなのか?それとも、俺たちのペースが子供たちにとって良くないんじゃないかと心配しているのか?」晋太郎は問いかけた。「子供たちのことは、あなたならうまく説得できると信じているわ。ただ、私は……」紀美子は答えた。最後まで言い終わらないうちに、晋太郎が紀美子をぐっと抱き寄せた。「紀美子、俺はただ、君から遠く離れたくないんだ」晋太郎の声は低く、どこか不安を含んでいた。「また君を失うのが怖いんだ」晋太郎の胸の中で紀美子は速い心拍音を感じとり、彼の不安を少し理解した。最初は同棲をやんわり断るつもりだった紀美子の心も、いつの間にかほぐれていった。「わかったわ」紀美子は微笑みながら答えた。「追い出したりしないから……」「G!」突然、寝室のドアが勢いよく開かれた。紀美子が言いかけた言葉は、突然入ってきた朔也によって中断された。紀美子は慌てて晋太郎を押しのけ、恥ずかしさで穴に入りたくなった。晋太郎の顔は明らかに険しくなり、朔也を不満げに睨みつけた。「ドアを開ける前にノックくらいしろ!」朔也は目を見開いて二人を見つめた。「マジかよ、今、何かしようとしてたのか!?まさか邪魔しちゃった?」「そんなことない!」紀美子は慌てて説明した。「急に来て、何か用があるの?」「夜食を持ってきただけだよ。晋太郎がいるなんて知らなかったけど」朔也は手に持っていた夜食を見せた。「私はいらない。自分で食べて」紀美子の顔が真っ赤になった。「あぁ、それじゃ、二人で続きどうぞ!」そう言って、朔也はすぐにドアを閉めた。晋太郎は怒りの色を隠さず、目を細めて言った。「朔也に家を出て行ってもらった方がいいんじゃないか?」「彼は普段こんなことしないわ」紀美子は頭を抱えて言った。「多分、あなたがいるのを見て言い出せなかった話があったんだと思う」「君が着替え中だ
佑樹と念江はお互いに目を合わせた。こんな夜遅くにパソコンをいじっている言い訳を思いつかなかった。逆にゆみが口をとがらせて文句を言った。「朔也おじさん、ゆみが寝ないのは兄ちゃんたちがパソコンを叩く音がうるさいせいなんだよ!」朔也は納得したようにうなずいた。「確かに、キーボードって音が出るよな。ところで、明日は土曜日だろ?俺が連れて行くからどこか遊びに行かないか?」「イヤだ!!」三人の子どもたちは声を揃えて拒絶した。前回、朔也にまるで犬の散歩のような扱いを受けたことを思い出し、もう二度と経験したくなかったのだ。朔也は夜食を口に放り込みながら、もごもごと話し出した。「今君たちの母さんは彼氏に夢中だし、俺に頼りたいんじゃないか?」「頼りたいのは朔也おじさんの方でしょ?」佑樹はズバッと指摘した。「晋太郎がここにいなかったら、夜食を一緒に食べる相手としてママを誘うつもりだったんでしょ」「そんなこと言われると、確かに見捨てられた気分になるな」朔也はため息をついて肩を落とした。「朔也おじさん、気づいてる?パパとママが仲良くなってから、ママの状態が前よりずっと良いんだよ」念江が口を開いた。「確かにそうだな。まあいいさ、彼女が幸せならそれでいい」朔也は考え込んでから言った。ゆみは手にしていた焼き鳥を置くと、朔也の胸に飛び込んだ。そして、無垢な瞳で心配そうに尋ねた。「朔也おじさん、引っ越さないよね?」「なんで俺が引っ越すんだ?」朔也は首をかしげてゆみに聞き返した。「自分が大きなお邪魔虫だと思って、ここを出て行こうとか考えたりしない?」ゆみは答えた。「邪魔虫で何が悪い」朔也は鼻を鳴らして答えた。「俺は二人を邪魔するつもりなんてないし、君たちのママが追い出さない限り、絶対にここを離れない!それに、晋太郎が本当に君たちのママを大事にするかどうかもわからないし、もしまたケンカでもしたら、俺が彼女のそばにいられるだろ?」「朔也おじさん、もしかしてママのことが好きなんじゃないの?」佑樹が眉を上げて問いかけた。「君のママとは男女の好きって関係じゃないぞ!俺たちは親友なんだ!」朔也は大きく首を振った。「残念だな」佑樹は舌打ちした。「三角関係のドラマが見られる
念江と佑樹は呆然とした表情で朔也を見つめた。「ただの冗談だよ。だって俺、MKの社長でもないし、晋太郎にどんな敵がいるかなんて分からないさ」朔也は頭を掻きながら言った。「でも、朔也おじさんの話も一理あるかも」念江は目を伏せて言った。「今までMKが攻撃を受けた会社はどれくらいあるんだ?」佑樹は尋ねた。「ほぼ全ての会社が攻撃を受けたけど、突破されたところは一つもないよ」念江は答えた。「じゃあ、一番多く攻撃された会社ってどこ?」朔也は少し考え込んでから言った。「それについては統計をまだ取っていない」念江はその場で固まった。「絶対に視線を惑わせるための仕掛けだ。僕たちはターゲットを間違えている!」佑樹は眉をひそめた。「僕たちは位置追跡ばかりに集中してその人物を見つけようとしてたけど、攻撃回数の統計には気づかなかった……」念江は言った。「統計って、今からでもできる?」佑樹は念江を見て言った。「できるけど」念江は言った。「それには父さんに動いてもらって、全ての技術部に集計させないといけない」「じゃあ、言いに行く?」佑樹は椅子の背もたれに寄りかかりながら言った。「タイミングを見て話してみる」念江は言った。「でも、僕たちの方針は変えない方がいい。じゃないと、相手に気づかれるかもしれないから」「分かった」朔也は二人の様子をじっと見つめ、舌打ちした。「君たちがそんなに緊張してると、逆に俺は君たちを外に連れ出したくなるよ」「なんで?」佑樹と念江が同時に朔也を見上げた。「気分転換だよ。ちょっと外で遊べば、頭がすっきりして別の考えが浮かぶかもしれないじゃないか」朔也は言った。彼らの会話を聞いているうちに、ゆみは眠そうにあくびをした。「朔也おじさん……」ゆみは眠そうに言った。朔也は彼女を見下ろして微笑んだ。「どうしたの、ゆみ?」「眠い……」ゆみは目をこすりながら言った。「朔也おじさん、抱っこして……」朔也は手に持っていた焼き鳥をテーブルに置き、ゆみを抱き上げた。「よし、おじさんが抱っこして寝かせてあげるよ」ゆみが目を閉じると、佑樹と念江も口を閉ざし、部屋は静まり返った。朔也は携帯を取り出し、観光サイトを覗いた。スキ
「お前は彼が焦るのを待って、俺を使って彼を刺激しようとしてるんだろう」晋太郎は確信を持って言うのを聞いて、翔太は言った。「書斎には盗聴器がある。これは絶好のチャンスだと思わないか?」「そうだな」晋太郎は答えた。「でも、執事を捕まえてもあまり意味はないかもしれない。彼の貞則への忠誠心は、俺たちの想像を超えている」「脅迫しても無駄だ。でも、彼の家族、そこが彼の弱点だ」晋太郎は冷笑した。「お前、調査が甘いな。執事の息子は養子にすぎない、彼の実の息子じゃないんだ」翔太は一瞬驚いた。「それはちゃんと調べてなかった……じゃあ、他に彼を脅せるものはないのか?」「もし彼に明らかな弱点があれば、貞則は彼を側に置くことはないだろうな」翔太はため息をついた。「まあ、とにかく先に捕まえてみよう」「わかった」電話を切った後、寝室の扉が再び開いた。紀美子が、衣装部屋に向かいダウンジャケットを取り出して出てくると、晋太郎が突然目の前に現れた。紀美子は驚いて、話しかけようとしたが、晋太郎は彼女を抱きしめた。「ごめん、一緒に行けなくて」晋太郎は申し訳なさそうに言った。紀美子は笑顔で彼を押し返した。「何言ってるの、あなたが忙しいことは分かってるわ」「君のお兄さんのことなんだ」晋太郎は率直に言った。「貞則は今日、彼を罠にかけて殺そうとしている」その言葉を聞いた瞬間、紀美子の胸はドキッとした。彼女は晋太郎を見上げて言った。「どういう意味なの?」晋太郎は翔太の件を紀美子に話した。「お兄ちゃんに電話する!」紀美子は緊張しながら携帯を探そうとした。晋太郎は彼女の手を止めて言った。「お兄さんは賢い人だから、計画を知って対策は考えているはずだ。それに俺もいるから心配しなくていい」「お兄ちゃんはどう対処するつもりか言わなかったの?」「言わなかったよ。でも信じて」……佳世子と約束をした後、紀美子は不安を抱えつつも朔也と一緒に子供たちを連れて藤河別荘を出発した。車の中で、朔也は紀美子の心ここにあらずな様子に気づき、彼は尋ねた。「遊びに行くっていうのに、どうしてそんなに浮かない顔してるの?」紀美子は我に返り、無理に笑顔を作った。「大したことじゃないわ。ただちょっと考
晴はシートベルトを締めながら紀美子に言った。「俺は行かないよ。君と朔也が佳世子を見てくれるならそれで十分だ」佳世子は肩をすくめた。「彼は兄弟たちと集まりたいのよ。朝、わざわざ私に休みをお願いしてきたから。たまには外に出してあげようと思って」晴はにっこり笑って言った。「さすが、優しい妻だ!」朔也は腕をさすりながら叫んだ。「おいおい、恋愛するのはいいけど、独り身の俺の気持ちも考えてくれよ!」晴は得意げにあごを上げた。「腕があるなら、こっちに来て見せてみろよ!」「こんな言葉を聞いたことある?」「カップルは……」「朔也!」朔也がそう言うと、紀美子がすぐに遮った。「縁起でもないこと言うな!」朔也はすぐに謝った。「悪かった、つい口に出しただけだ!ごめん、兄弟!」晴は朔也を気にせず、佳世子にいくつか伝えてから車のドアを閉めた。車が動き出すと、佳世子は少し疲れた様子でシートに寄りかかった。紀美子は彼女を見て、少し眉をひそめた。「佳世子、体調が悪いの?」佳世子はだるそうに目を上げた。「紀美子、わかっちゃった?」紀美子はピンと来た。「晴を残したのは、彼にあまり心配をかけたくなかったから?」佳世子は頷いて言った。「ええ、妊娠してから彼はすごく気を使ってくれるの。これ以上心配させて眠れないなんて、私も申し訳ないし」紀美子は佳世子の額に手を当て、体温が正常であることを確認してほっとした。「どこか具合が悪いの?」紀美子は尋ねた。「悟に聞いてみる?」佳世子は目を伏せた。「なんだか全身に力が入らないし、頭もぼんやりしてる。変ね、最近変なものは食べてないのに」「たぶん、妊娠中の症状と関係があるかもね」紀美子は言った。「目をつぶって休んで。着いたら起こすから」朔也はそれを聞いて、上着を脱いで佳世子に掛けた。「寒くならないように、これを掛けて」佳世子は紀美子と朔也に微笑んだ。「じゃあ、ちょっと寝させてもらうね」そう言って、佳世子は目を閉じて休んだ。紀美子はまだ心配で、携帯を取り出して悟にメッセージを送った。「悟、忙しい?佳世子が全身に力が入らないって言ってるけど、体温は正常。これってどうして?」数分後、悟から返事が来た。「食欲はど
「紀美子」「……うん」「結婚しよう」紀美子の身体はこわばり、返事もせずそっと晋太郎を押しのけた。俯いたまま晋太郎の目を避け、彼女は声をひそめた。「その…そんなに急がなくてもいいと思う……」そう言うと、彼女は慌てた様子で立ち上がった。「また今度ね!私、先にお風呂に入るから!」逃げるように去っていく紀美子の背中を見てから、晋太郎は目を伏せた。以前なら、喜んですぐに頷いてくれたはずなのに――なぜ今は躊躇するんだ?どういうことだ?家族への挨拶が済んでいないからか?浴室のドアをじっと見つめながら、晋太郎は考え込んだ。どうやら明日、渡辺家を訪ねなければならないようだ。翌日。晋太郎が会社の仕事を片づけ渡辺家に向かおうとしたところ、晴にランチに誘われた。時間にまだ余裕があったため、晋太郎は晴とレストランへ向かった。食事中、晋太郎は窓の外を見つめて黙っていた。晴は何度か彼を不思議そうに見てから、ようやく口を開いた。「晋太郎、何を考えてるんだ?」晋太郎は手に持っていたコーヒーを置き、晴を見ながら答えた。「佳世子に結婚を拒まれたことはあるか?」晴は呆然とした。「それって……紀美子に振られたってこと?」晋太郎が頷いた。「そんな経験ないか?」「ないな」晴は答えた。「むしろ毎日のように結婚を催促されてる」晋太郎は黙り込んだ。紀美子は一体どうしたのだろうか?晴も少し考え込んだ後、言った。「晋太郎、もしかしたら紀美子は前回の婚約の件でトラウマを負っているんじゃないか?なんていう症候群だったっけ?心理カウンセラーに診てもらった方がいいかもな」晋太郎は眉をひそめた。「そこまで深刻ではないだろう」「深刻に決まってるだろ!」晴は真剣な様子で言った。「お前が生きていることを知ったあと、彼女は必死で会社を守り、銃弾まで受けた。目が覚めたらまたお前たちのことが……俺だって耐えられないよ。どうして深刻じゃないなんて言えるんだ?間違いなくトラウマがあるに決まってる。じゃなきゃ拒む理由がないじゃないか」晋太郎はイライラして指でテーブルを叩いた。「佳世子に探りを入れさせろ」「任せとけ!」晴は言った。「でも、本当にそうなら早めにカウンセリングを受けさせた方
「事実的な関係はあるだろう。紀美子、君は俺の子供たちの母親だ。この事実は変えられない」「その関係だけで、私を縛ろうって言うの?」紀美子は冷笑した。「確かに電話に出なかったのは私が悪いわ……でも、それで私の自由まで奪わないで。母親って立場だけで、あなたに私の人生をコントロールされる筋合いはないわ!」紀美子の言葉で怒りが爆発しそうになった晋太郎は、ギアを入れ替えると潤ヶ丘へ猛スピードで走り出した。あまりのスピードに、紀美子は怖くなって黙り込んだ。潤ヶ丘に着くと、晋太郎は車を止め、降りて助手席側に回るとドアを開け、紀美子を担ぎ上げてそのまま別荘の玄関へ向かった。「晋太郎!下ろしなさい!」紀美子は必死にもがいた。しかし晋太郎は解放することなく、そのまま部屋まで運び込むと、ベッドに彼女を放り投げた。彼は暴れる紀美子の手足を押さえつけ、怒りに震える声で言った。「紀美子、言ったはずだ。君にちゃんとした立場を与えると」紀美子は不満げな目で彼を見つめた。「その立場と引き換えに会社を奪われるなら、いらない!誰かに依存して生きるなんて、一番嫌いなの」「依存させようとしてない。俺が欲しいのは君だけだ。他人の目が気になるなら、今日からMKがTycの子会社になっても構わない」紀美子は動きを止め、驚いた表情で見上げた。「何を……言ってるの?」晋太郎はベッドサイドの引き出しを開け、契約書を紀美子に投げつけた。紀美子はそれを拾い上げ確認し、目を見開いて尋ねた。「これって、どういう意味?」「この契約書、本当はプロポーズのあとで渡すつもりだったんだ。君が望まないことを無理やり押し付ける気はない。」そう言いながら彼は紀美子の隣に座り、表情に強い決意を宿して続けた。「紀美子、君は俺に何か聞きたいことがあるんだろう」紀美子は契約書を握る手に力を込めた。「ええ、あなたの口から直接聞かせてほしいの。私が頑固なのは認めるわ。でも……あなたの本心を言葉にしてほしい。これは、あなたが本当に私を気にかけていたかどうかの問題よ。からかいや隠し事は大嫌いなの」晋太郎は口元を緩めた。「記憶があるかないかが、そんなに重要か?」紀美子はぱっと顔を上げた。「重要よ!本気の愛と、責任だけの結婚、あなたはどっちが欲しい?」
「まあ、そう言うけど」佳世子はため息をついて言った。「でも、やっぱり形は必要でしょ。私だって、いつできるかわからないんだから」「晴の両親は……」「あーもう!」佳世子はイライラしながら紀美子の言葉を遮った。「そんな話はやめて!考えるだけで頭にくる!」「もうすぐお正月ね。今年のお正月は、いつものように賑やかにはいかないわ」紀美子は窓の外を見つめて言った。佳世子は頬杖をつき、紀美子と同じく窓外のネオンを見つめた。「寂しいなら、いつものように賑やかにすればいいじゃない」紀美子は佳世子の方に向き直った。「どんなに賑やかにしても、子供たちがいない寂しさは埋まらないわ」その言葉を最後に、二人の間に沈黙が流れた。しばらくして、佳世子は急に背筋を伸ばして言った。「紀美子、明日私たちで不動産を見に行かない?」紀美子は目を丸くした。「家?どうして?」「あなたも私も今住む家がないでしょ?」佳世子は目を輝かせながら続けた。「別荘じゃなくて普通のマンション!同じ階を買って、間取りを繋げちゃうの!」「まあいいけど……」紀美子はまだ佳世子の指す意味を完全には理解できていない様子だった。「でも何のため?」佳世子はニヤリと笑った。「もちろん楽しむためよ!例えばあなたが晋太郎と喧嘩した時とか、私が晴と揉めた時とか。私たちだけの家に逃げ込むの!」「それで?」紀美子が尋ねた。「そしたらパーティーよ!イケメンたちを大勢呼んで、一緒に騒いじゃうの!」話に夢中になっていると、いつの間にか背後に二人の男が立っていた。佳世子の言葉を聞いた瞬間、晴の顔は青ざめた。「佳世子!!」晴は我慢できず、佳世子の背中に向かって怒鳴った。佳世子はビクッとして振り向き、突然現れた二人を見て目を見張った。「あなたたち、どうしてここに!?」紀美子も慌てて振り返った。彼女はすぐに、顔をしかめた晋太郎が自分を睨みつけているのに気づいた。その目には明らかな怒りが見えた。紀美子が口を開く間もなく、晴は佳世子を肩に担ぎ上げた。「晴っ!お、おろしてよ!ちゃんと話し合えばいいじゃない。なんで担ぐのよ!?紀美子!助けて!」佳世子は叫んだ。叫びながら遠ざかっていく佳世子の姿を見送りながら、紀美子
晴は口をとがらせ、不満げな表情で視線を逸らした。「そんなんじゃないよ。彼女にブロックされたんだ」晋太郎は一瞬呆然としたが、すぐに嘲笑った。「お前、余計な干渉をしすぎたんじゃないか?」「お前だって紀美子にズカズカと干渉してるくせに、偉そうなこと言うなよ」晴は「ちぇっ」と舌打ちした。「だったらお前が紀美子に電話してみろよ」晋太郎はテーブルの上の携帯を手に取った。「少なくともお前のようにブロックはされてない」そう言うと、紀美子の番号をタップした。しかし、コール音が一度鳴ったところで、機械的な女性の声が流れてきた。「申し訳ありませんが、お掛けになった電話は現在通話中です……」「プッ…」晴は思わず吹き出した。「それでよく偉そうなこと言えたな!紀美子にまさかのワン切りされてるし!はははは……」晋太郎の端正な顔が、晴の笑い声とともに次第に険しくなっていった。彼は諦めず、再び紀美子に電話をかけた。今度は呼び出し音すら鳴らず、すぐに機械音声に切り替わった。「あははははは!」晴は涙を浮かべながら笑い転げた。「晋太郎、お前、さっき言ってたこと……どうしたんだよ?はははは!」晋太郎は携帯をしっかりと握りしめた。彼女は一体どこに行ったんだ?自分の番号をブロックするなんて!晋太郎は苛立ちながら、連絡先から肇の番号を探し出し、電話をかけた。つながると、彼は怒りを抑えながら言った。「肇、紀美子の位置を特定しろ!」肇が返答する前に、美月の声が聞こえてきた。「社長、奥様が見つからないからってアシスタントに頼むなんて、どうかしてますよ?」美月のからかい混じりの声が晋太郎の耳に飛び込んできた。その言葉を聞いて、晴はこらえきれずまた顔を赤くしながら笑い転げた。「お前、なんで肇と一緒にいるんだ?」晋太郎は眉をひそめ、冷たく問い詰めた。「彼は独身、私も未婚。一緒にいて何か問題でも?」美月が返した。「遠藤さん、私から晋様にお話しさせてください……」肇が慌てて割り込んできた。「ただ紀美子さんを探してほしいだけでしょう?他に用事はないわ」美月は言い放った。「奥様と喧嘩したからって、私たちまで巻き込まないでちょうだい」美月がそう言い終わらないうちに、通話が切られ
紀美子は翔太に事情を簡単に説明した。話を聞いた翔太は深くため息をついた。「あの子たちはみんなしっかりした子たちだ。自分で決めたことなら、無理に引き止めるわけにはいかない。尊重してやらなきゃな。だが……こんな場所で気分転換するべきじゃない」「そういえば、翔太さんはここで何を?」佳世子は話題をそらすように尋ねた。翔太はバーの入口を一瞥しながら答えた。「あの連中は舞桜の遠縁の親戚たちなんだ」二人は顔を見合わせ、紀美子は怪訝そうに聞いた。「どうして舞桜の親戚と一緒に?」翔太は苦笑し、鼻をこすりながら答えた。「実はな、舞桜と一週間後に婚約する予定なんだ」「えっ!?」二人は声を揃えて叫んだ。「そんな大事なこと、どうして教えてくれなかったの?」紀美子は驚きを隠せなかった。佳世子は舌打ちした。「翔太さん、私たちより早いじゃない!」「彼らが帰ってから紀美子に話そうと思ってたんだ」紀美子は軽く眉をひそめた。「さっき見かけたけど、舞桜と同世代くらいの人たちみたいね。難しい人たちなの?」「なんというか……」翔太は小さくため息をついた。「茂の親戚と似たような連中だ。だから君には早く知らせたくなかったんだよ。彼らは本当に面倒を起こすから」「舞桜が止めないの?」佳世子は聞いた。「いつまでも我慢してばかりじゃダメよ!」「止めないわけじゃない」翔太は言った。「舞桜の父親からの試練のようなものだ。舞桜は彼らのことで父親と大喧嘩したんだ。でも、父親は自分だけでは決められないと言ったらしい。舞桜の祖父の意向もあるみたいで」紀美子は話の裏を読み取って聞いた。「もしかして、その祖父って……舞桜と兄さんの関係に反対してるの?」「そうだ」翔太は率直に認めた。「舞桜の祖父は、海軍の偉いさんでさ。我々のような商人のことを、なかなか認めてはくれない」「今どきそんな家柄を気にするなんて!」佳世子は呆れたように言った。紀美子はしばらく考え込んでから言った。「でも、そうでなければ、舞桜もここまで来て兄さんと出会うこともなかったわね」「うん、その通りだ。前に舞桜が俺に会いに来たことが、余計に彼女の祖父の反感を買ったらしい」「舞桜は良い子よ」紀美子は翔太を見つめて言った。
「結婚を発表する日に、この件も公表する」晋太郎はペンを置いてから答えた。今のところ、自分はまだ紀美子を正式に口説き落としていない。いきなりこんな話をしても、笑いものになるだけだ。夜。紀美子は佳世子に連れられ、帝都に新しくオープンしたバーに来ていた。入り口に入った瞬間耳をつんざくような音楽が聞こえてきて、紀美子は鼓動が早くなるのを感じた。彼女は佳世子の手を引き寄せ、耳元で叫ぶように言った。「佳世子、ここはやめようよ。あの人たちに知られたら、飛んでくるに決まってる」「どうしていけないの?」佳世子は紀美子の手を引っ張って中へ進んだ。「あの人たちはあの人たち、私たちは私たちよ。付き合ってるからって、こういう場所に来ちゃいけないルールでもあるの?正しく楽しんでるんだから、平気でしょ!」紀美子は佳世子が気分転換のために連れてきてくれたのだとわかっていた。だが、こういう騒がしい場所は苦手だった。理由は主に二つあった。一つは環境が乱雑なこと、もう一つは晋太郎の性格だ。彼が知れば、このバーごとひっくり返しかねない。自分でトラブルを起こすつもりもなければ、晋太郎に誰かに迷惑をかけさせるつもりもなかった。ボックス席に着いても、紀美子はまだ佳世子の手をしっかり握っていた。「佳世子、やっぱりここは嫌だわ。静かなバーに変えようよ?」「え、何?!」佳世子は聞き取れなかった。紀美子はもう一度繰り返し言った。「紀美子、まず座って落ち着いて話を聞いてよ」佳世子は言った。紀美子は彼女の意図を察し、しぶしぶ一緒に座った。佳世子は紀美子の耳元に寄った。「晋太郎、まだ記憶が戻ったって認めてないでしょ?」紀美子は彼女を見て尋ねた。「それがここに来ることと何の関係が?まさか、彼を刺激したいの?」佳世子は激しく頷いた。「男ってのはみんなそうよ。何か起こさないと本当のことを言わないのよ!」「だめだめ」紀美子は慌てて首を振った。「言わないのは彼の勝手よ。私がどうするかは私の自由。佳世子、本当にここにいたくないの」佳世子はまだ何か言いたげだったが、ふと目の端に映った人影に気づき、言葉を止めた。そしてじっとその見覚えのある姿を見つめながら言った。「紀美子、あの人……あなたのお兄
二人は涙を見せれば、ゆみがますます別れを惜しんでしまうことを恐れていたのだ。「ゆみ、待ってるから!毎日携帯見て、お兄ちゃんたちからの連絡を待ってるからね……ゆみはちゃんと大きくなるよ。ご飯もいっぱい食べて、悪さしないで……うう……早く帰ってきてね……」紀美子も、堪えきれず涙をこぼした。晋太郎がそっと近寄り、彼女を優しく抱き寄せた。この別れは、誰の胸にも重くのしかかっていた。ゆみは学校に行かなければならなかったので、佑樹と念江を見送った後、昼食を取るとすぐに急いで飛行機で帰って行った。紀美子は、がらんとした別荘を見回し胸の奥にぽっかりと穴が空いたような感覚に襲われ、ソファに座ったまま呆然としていた。今にも、子供たちが階上から駆け下りてきてキッチンで牛乳を飲むような気がしてならなかった。そんな紀美子の様子を見て、晋太郎は携帯を取り出し佳世子にメッセージを送った。1時間も経たないうちに、佳世子が潤ヶ丘に現れた。ドアが開く音に、紀美子がさっと振り向いた。佳世子と目が合うと、一瞬浮かんだ期待の色はすぐに消えていった。佳世子は小さくため息をつき、紀美子の隣に座った。「紀美子、まだ子供たちのことで頭がいっぱいなの?」紀美子は微かに頷いた。「うん……なかなか慣れなくて。佑樹と念江も行っちゃったし、ゆみもすぐ帰っちゃったし……」「あの子たち、本当にあなたに似てるわ」佳世子は言った。「あなたが帝都を離れてS国に行った時も、こんな風に自分の目標に向かって突き進んでたもの」紀美子はぽかんとし、思わず苦笑した。「あれは状況に迫られてのことよ」「そんなこと言ったら、まるで子供たちがあなたから離れたくてたまらないみたいじゃない」佳世子は紀美子の手を握った。「そんな話はやめましょう。午後はショッピングに行くわよ!」「ちょっと!」紀美子は驚いたように彼女を見つめて言った。「どうして急に来たの?」佳世子はきょろきょろと周りを見回し、晋太郎の姿がないのを確認すると、小声で言った。「実は、あなたのご主人に頼まれて来たのよ!」紀美子は、ご主人様という言葉を聞いて顔が赤くなった。「え、え?ご主人なんて……私、彼とはまだそんな関係じゃないのよ……」「遅かれ早かれ、そうなるんだから!」佳
俊介は淡く微笑んだ。「晋太郎、子供たちは俺にとって実の孫同然だ。心配する必要はない」その言葉を聞いて、紀美子は少し安心した。一行は保安検査場の目の前まで来ると、紀美子は子供たちの前にしゃがみ込んだ。彼女は無理に笑顔を作りながら、子供たちの腕に手を置いて言った。「一時間後には搭乗よ。誰と一緒でも、自分のことはきちんと守って。無理しないでね」佑樹と念江は頷いた。「ママ、心配しないで。僕たち、できるだけ早く帰るから」佑樹は言った。「ママも体に気をつけてね」念江は笑みを浮かべて言った。「パパと一緒に、今度は妹を作ってよ」紀美子は一瞬固まり、念江の鼻をつまんで言った。「ママとパパはまだ何も決めてないの。その話はまた今度ね」ゆみを待っている晋太郎は、周囲を見回しながらふと紀美子の方を見た。口を開こうとした瞬間、背後から慌ただしい足音が聞こえてきた。「お兄ちゃん!!念江お兄ちゃん!!」ゆみの声が響き、一同が振り返った。ゆみは小さな体で次々と乗客の間を縫うように駆け抜け、全力で佑樹と念江の元へ突進してきた。そして両手で二人の首にしっかりと抱きついた。「間に合ったよ!」ゆみは泣きながら二人の肩に顔を埋めた。「お兄ちゃんたちの見送り、間に合って良かった」佑樹と念江は呆然と立ち尽くした。まさかゆみがこんなに遠くまで見送りに来てくれるとは思ってもいなかったのだ。二人の目が一瞬で赤くなった。これ以上の別れの贈り物はないだろう。二人はゆみをしっかりと抱きしめ、必死に冷静さを保ちながら慰めた。「もう、泣くなよ!」佑樹はゆみの背中を叩いた。「人がたくさんいるんだぞ。恥ずかしくないのか」念江の黒く大きな目は優しさに溢れていた。「ゆみ、わざわざ来てくれてありがとう。大変だったろう」ゆみは二人から手を放した。「向こうに行ったら、絶対に自分のことをちゃんと気遣ってね。時間があったら、必ず電話してよ。分かった?」佑樹と念江は、思わず俊介を見た。その視線に気づいたゆみは、俊介を睨みつけた。「あなたのくだらない規則なんて知らないよ!お兄ちゃんたちを連れて行くのはいいけど、連絡を絶たせるなんてひどいよ!ゆみは難しいことは言えないけど、家族は連絡を取り合うべきだってわか
紀美子は箸を握る手の力を徐々に強めながら、優しく言った。「念江、大丈夫よ。本当にママに会いたくなったら、会いに来ればいい」念江はぽかんとした。「でもあそこは……」紀美子は首を振って遮った。「確かにルールはあるけど、抜け道だってあるはずでしょう?」念江はしばらく考え込んでから頷いた。「うん。僕たちが認められれば、きっとすぐにママに会える」紀美子は安堵の表情でうなずいた。子供たちと食事を終えると、彼女は階上へ上がり、荷造りを手伝った。今回は晋太郎の部下に任せず、自ら佑樹と念江の衣類や日用品をスーツケースに詰めていった。一つ一つスーツケースに収める度に、紀美子の胸の痛みと寂しさは募っていった。ついに、彼女は手を止め俯いて声もなく涙をこぼし始めた。部屋の外。晋太郎が階下へ降りようとした時、子供たちの部屋の少し開いた扉から、一人背を向けて座っている紀美子の姿が目に入ってきた。彼女の細い肩が微かに震えているのを見て、晋太郎の表情は暗くなった。しばらく立ち止まった後、彼はドアを押して紀美子の傍へ歩み寄った。足音を聞いて、紀美子は子供たちが来たのかと慌てて涙を拭った。顔を上げ晋太郎を見ると、そっと視線を逸らした。「どうしてここに……」「俺が来なかったら、いつまで泣いてるつもりだったんだ?」晋太郎はしゃがみ込み、子どもたちの荷物をスーツケースに詰めるのを手伝い始めた。「手伝わなくていいわ、私がやるから」「11時のフライトだ。いつまでやてる気だ?」晋太郎は時計を見て言った。「もう8時半だぞ」紀美子は黙ったまま、子供たちの服を畳み続けた。最後になってやっと気付いたが、晋太郎は服のたたみ方すら知らないようだった。ただぐしゃぐしゃに丸めて、スーツケースの隙間に押し込んでいるだけだった。紀美子は思わず笑みを浮かべて彼を見上げた。「あなた、本当に基本的なことさえできないのね」晋太郎の手は止まり、一瞬表情がこわばった。彼は不機嫌そうに顔を上げ、紀美子を見つめて言った。「何か文句でもあるのか?」紀美子は晋太郎が詰めた服を再び取り出しながら言った。「文句を言ったところで直らないだろうから、邪魔しないでくれる?」「この2日間で、弁護士に書類を準備させた。明日届く