「佑樹くん、お母さんだよ」ご飯を食べていた入江佑樹は、携帯がポケットの中で振動しているのに気づいた。彼は携帯を取り出し、見覚えのない電話番号からのメッセージを見て、疑問に思いながらも開いた。メッセージの内容を読んで、彼は持っていた箸をパタっとテーブルに落とした。「どうしたの、佑樹くん?」その音に気づいた森川念江は尋ねた。佑樹は少し離れたところにいるボディーガードを見て首を振った。「ううん、ただのスパムメールだ」ただのスパムメールだったら佑樹はあんな反応を取るはずはなかった。念江は疑った。しかし、佑樹がきっと濁して教えてくれないというのを分かっていたので、念江は敢えて聞かなかった。「お母さんは……どうしてるの?」佑樹は小さな手を震わせながら母に返信した。佑樹からの返信をもらい、入江紀美子はやっと安心できた。「お母さんは大丈夫よ、そっちは?」「僕達は渡辺家にいて、携帯も返してくれたけど、前使ってた携帯はきっと全部監視プログラムを仕込まれているだろうから、こっそり新しいのに換えた」「分かった。用心に越したことはないわ。ところで、彼達に暴力を振るわれたりはしてない?」「うん、そんなことはないけど、沢山のボディーガードに監視されてる。お母さん……自殺とか、もうしないで……」紀美子は心が痛み、自分の愚行で子供達を悲しませてしまったことを後悔した。「ごめん。また心配をかけるなんて、お母さんがバカだった」「お母さんが無事でいることが分かったから安心した。僕と念江くんは瑠美おばちゃんにパソコンを用意して貰ってる。できるだけ早く塚原悟の犯罪の証拠を集めて、お母さんを助け出すから!」「この件は、そんなに簡単なことじゃないわ。くれぐれも慎重にね」もちろん彼は無暗に動くつもりはなかった。母が塚原悟に捕まっている今、絶対に慎重に動かなければならない。さらに母がそう言ってくるのを聞いて、反論できなかった。でないとまたお母さんに心配をかけさせてしまう。「分かった、お母さん。いつお母さんに会えるの?」「彼はお母さんを藤河別荘に連れ帰ると言ってるわ。佑樹くん、これから、隙をついてはあなたと念江くんの技術的支援が必要になるかも」佑樹は警戒しながら周りのボディーガードを眺めた。「何をやってほ
塚原悟はその分厚い書類を見て、眉を寄せた。まだ2日目にも関わらず、解約の申し込みが既に十数件も来ていた。森川晋太郎にこんなに沢山の忠実なパートナがいたとは!「今後はこういう書類は見せなくていい、そのまま違約金を請求しろ!」「彼達は弁償を断っています」杉本肇は悟に注意した。「しかも、彼達は逆に我々に賠償金を請求しています。如何せん彼達と契約を結んだのは晋……森川社長であり、あなたではありませんでしたので。契約期間内に断りなく株主を変更したため、彼達は如何なる違約弁償も拒否するとのことです」悟は書類を見て、目つきが段々冷たくなった。彼は書類を手に取り確認した。最初に目に入ってきたのは、田中グループからの契約中止の申込書だった。悟はあざ笑った。どうやらこの人達は、自分がこの座に着く資格はないと思っているようだ!帝都での地位を固めることは、そう簡単ではないようだ。悟は、このままこの反対が続くとMKが没落してしまうのではないかと考え始めた。おそらく彼には、帝都において相当な力を持つ女に頼る必要があるのだろう。帝都では、森川家、田中家そして渡辺家以外、あと4番目の地位を持つ加藤家がある。加藤家……そう考えながら、悟は段々と笑顔になった。どうやらそろそろ加藤家に協力する時が来たようだ。……3日後。悟は病院にいた。入江紀美子の退院を迎えにきたのだった。紀美子を車いすに座らせ、悟は後ろでゆっくりと押して病院を出た。病院の入り口には沢山のボディーガードが立っていて、その派手さで彼女は眩暈がしそうになった。悟が後ろにいなかったら、てっきり森川晋太郎が戻ってきたと勘違いするところだった。あの男も沢山のボディーガードを連れて出かけることが好きだった。紀美子は悔しさで心が痛み、ふと真っ青な空を見上げた。晋太郎、あなたは生きているの?こんな簡単に約束を破るなんて、子供達と私だけにこんな難局と対面させるつもりじゃないよね?紀美子を車の傍まで押していき、悟は手を伸ばし彼女を支えようとした。しかし目元が赤く染まった紀美子が目に入り、一瞬動きが止まった。「君はあの人のことを思っているのか?」悟は低い声で尋ねた。紀美子は唇を軽く噛んだ。彼女はまるで悟の話が聞こえなかっ
「それはいつのことですか?」入江紀美子は真っ青になった唇を動かして尋ねた。「もう大分前のことです。森川社長にできるだけ早く工事を完了させろと指示を受け、作業員たちに無理な工程を組んで作業してもらいました」紀美子は、ある日晋太郎に文句を言ったのを思い出した。確かその時自分は、「徹夜してまで工事を進めるなんて、一体どんな隣人さんでしょう」と言った。また、「この別荘の買主はきっと変わった性格をしてるからこんな無理な仕事をさせるんだ」とも言った。当時の晋太郎の顔色はどんなのだったっけ?なぜもっとちゃんと確かめなかったのだろう?そこまで考えると、彼女の目元からは涙がこぼれ落ちてきた。紀美子は拳を握りしめ、深呼吸をしてから震えた声で言った。「分かりました、ちゃんと残金を支払います。別荘の鍵をください」「ありがとうございます!」男は何度もお辞儀をした。「いいえ、礼には及びません」「私の携帯を返して」紀美子は塚原悟に言った。悟は目でボディーガードに指示して、携帯を持ってこさせた。紀美子は携帯で残金を支払い、男から別荘の鍵を受け取った。男が帰った後、紀美子は別荘の方を眺めて悟に頼んだ。「別荘の中を見回ってきたいの。時間をちょうだい」「分かった」紀美子は別荘に向かって歩いた。入り口には指紋認証のカギがかかっていた。彼女は手を伸ばし、迷わず自分の誕生日を入力した。「カチャッ」と、ドアのロックが解除された。紀美子は唇を噛みしめ、悲しい気持ちを無理に抑えながらドアを開いた。目に映ってきたのは、温もりのある内装スタイルの部屋だった。一階の部屋の壁は全部取り除かれ、大きなリビングとなっていた。リビングの隅には、入江ゆみが大好きなマスコットが置かれており、ソファと飾り物もちょうど良い所に置かれていた。彼女は脳裏で、ゆみが兄たちと手を繋いで遊んでいる光景を思い浮かべた。自分は晋太郎とソファに座っていて、暖かい目で子供達を見守るんだ。しかしその幸せなシーンは、今となってはもう夢の話だ。胸に強烈な陣痛が走り、紀美子は思わず胸を手で押さえ、ゆっくりと壁に寄りかかりながらしゃがみこんだ。彼女は唇を噛みしめたが、悲しみを抑えきれなかった。晋太郎……あなたは一体どこにいるの
入江紀美子は、視線をエリーのガーゼを包まれた左手に落とした。ガーゼには血がついていた。数秒経ってから、紀美子は視線を戻し、2階に上がろうとした。「紀美子」塚原悟は急に口を開いた。紀美子は足を止め、冷たい表情で悟の方へ振り返った。「これからエリーを別荘に駐在させ流。そしてもう一人の家政婦を雇って君の生活の世話をさせる」紀美子はあざ笑いをして、悟に言った。「私をいつまで監禁するつもり?」「監禁するつもりはない」悟は言った。「もし出かけたいなら、エリーに同行してもらえばいい」「監視じゃない?まさかあんたにこんな扱いされるとは」「違う、私はただ、君の安全を考えてそうしているのだ」「私を殺そうとした人に、そんなことを言う資格があるの?」紀美子はそう言うと、階段を上っていった。部屋に戻ると、懐かしい匂いがしてきた。それは森川晋太郎特有の雪松の香りだった。更衣室に入ると、晋太郎の服はまだずっしりとハンガーにかけられていた。紀美子は優しく晋太郎の服の上に手を置き、ゆっくりと掠めた。彼はいつか帰ってくる、そうよね?しばらくすると、紀美子は寝室を出た。真正面の寝室を眺めると、彼女の眼底には侘しさが浮かんだ。自分は露間朔也の最期を看取ってあげられなかった。明日に墓園に行って彼の墓参りをしよう。そう考えながら紀美子がドアを押し開けようとすると、階段の方から会話が聞こえた。「影山さん、既に手配済みです。明日加藤さんが警察署から釈放されます」ボディーガードの話は紀美子を驚かせた。自分の勘違いでなければ、ボディーガードが今言っていた「加藤さん」は、加藤藍子のことだ!悟が藍子を釈放させるつもり?一体なぜ?佳世子は彼を害するようなことをなど一切していないのに、彼女まで傷つけるつもり?紀美子は我慢できず、怒りを抑えながら1階に降りようとした。しかし階段を降り始めたところで、誰かが上ってくる音がした。2階に上がろうとしているエリーを見て、紀美子は冷たい声で言った。「ここはあなたが上がっていい場所じゃない!」エリーは冷たい目つきを浮かべ、紀美子に近づいてきた。「さっきボディーガードの話が聞こえたんでしょ?」「だったら何?」紀美子は直ちに聞き返した。
入江紀美子が1階に降りると、塚原悟は別荘を出ようとしていた。「待って」彼女は悟を呼び止めた。悟は脚を止め、彼女の方に振り向いた。「どうした?」悟は俊美な眉を上げて尋ねた。紀美子は一瞬動揺した。まるで彼はまだあの悟で、何でも話せる親友のようだった。しかし今まで起きた一連の出来事も事実だった。「なぜ加藤藍子を助けるの?」「紀美子、私にはやりたいことがあるんだ」悟は彼女に面と向かって言った。「藍子は佳世子を陥れた犯人よ!これ以上佳世子を苦しめるつもり?」「紀美子」悟は落ち着いた顔で言った。「私は他の人の気持ちまで構っていられない。利用できる価値のある人は助けねばならない」「つまり、あんたが生かしてくれたのは、私にまだ利用する価値があるから?」悟の目つきがやや暗くなった。その質問に対して、彼自身もどう答えたらいいかよく分からなかった。紀美子に答えられなかった彼は、振り向いて別荘を出た。部屋に戻った紀美子は、先ほどのことを田中晴に教えた。紀美子の話を聞き、晴の怒りは爆発した。彼が無意識に彼女の電話番号をかけようとすると、隣にいる鈴木隆一に抑えられた。「お前、正気か?紀美子に電話をするなんて!」隆一は焦った声で彼を止めた。「俺は今すぐ彼女にどうなっているかを聞きたい!藍子を釈放させる訳にはいかない!絶対にだ!」「お前が反対するからって、あいつが聞いてくれるわけがない!」隆一は続けて言った。「そう簡単に藍子を助け出せるとは、ヤツは刑務所にもとんでもないコネを持ってるに違いない!もし本当に藍子を助け出させたくないなら、前晋太郎に言われた通りにしろ!」「うちの両親に助けを求める?」晴は驚いて隆一に確かめた。隆一は頷いた。「まだ藍子が釈放されていないうちに、今すぐお前の父に頼むのだ」「彼達がやってくれるとは限らない!」晴は歯を食いしばった。「試さないと分からないだろ?行こう、俺がついて行ってやる。応援してやるから!」晴は暫く黙ってから頷いた。午後2時。晴と隆一は田中家に着いた。家に入ると、外から帰ってきたばかりの晴の父に会った。晴の父は彼らを見て、ため息をついて尋ねた。「晋太郎の消息はまだ掴めないのか?」晴は頷いた。
「自分が何を言っているか分かってるのか?」晴の父の顔色は急に険しくなった。「俺は本気で言っている!」晴は真顔で答えた。「俺と一緒にならなかったら、佳世子はあんな風にならずに済んだ!誰がどう言おうと、彼女を手放すつもりはない!」「このまま意地を張ったら、どうなるか分かってるのか?」晴の父は厳しい声で尋ねた。「分かっていなかったら、今日こんな相談をしにくることはなかった!」晴は答えた。「女一人の為に、健康な体が薬漬けに成り下がってもいいのか?」「本当に愛し合っていたら、苦難派ともに乗り越えるものだ!」晴は真剣に言った。「たとえお前がそう考えているとしても、相手は分からないだろ?」そう言われると、晴は黙り込んだ。そして、彼はあざ笑いをした。「佳世子がどう思っているとしても、俺は彼女を裏切らない!」晴は言った。「彼女は俺の元に戻ってきたくないと言っているが、俺はこんなことで彼女を手放すつもりはない!」「だからお前は愛と言う名の鎖で彼女を束縛し、彼女を一生苦しめるつもりか?」その話を聞いて、隣の鈴木隆一は驚いた。晴の父の言い分に、反論の余地はなかった。とても理にかなっているように聞こえる!隆一は心配して晴を見た。もう終わりだ……「晴、彼女は家を出て随分経っているよな?」晴の父は持っている茶碗を置いて尋ねた。晴は何も言わなかった。「彼女の勇気と決心は認める。たとえお前のせいで彼女が加藤藍子に陥れたのだとしても、彼女にはお前を道連れにする考えがなかったと言うことだ。それならお前も彼女の意見を尊重すべきだ、違うか?」「俺は今日、藍子のことだけを相談しにきたんだ!」晴は両手に拳を握りしめ、話を逸らそうとした。「加藤家に刃向かうつもりか?」晴の父は尋ねた。「お前、加藤家の帝都での地位を知らないのか?」「知ってる!」晴は答えた。「地位が高いからって、犯人を野放しにするのを黙ってみろというのか?」「お前はその女の為に田中家を巻き込むつもりか?」晴の父の顔は真っ青になった。「どうやらあんたたちには、助けてくれる気がないんだな?」晴はがっかりして言った。「俺は、何を優先すべきかが分からないほど老いぼれてはいない!」「分かった」晴
「もし加藤家が塚原のヤツを助けようとしたら、絶対に放ってはおけない!」田中晴は叫んだ。「本当にそうなったら、きっとお前は手を出せないよ」鈴木隆一はため息をついた。「どういう意味だ?」「放っておけないと言ったが、お前は一体どうするつもりだ?」隆一は聞き返した。「彼らが塚原と手を組むなら、俺は加藤家が100年かけて守ってきた加藤家の名を潰してやる!」晴は答えた。「覚えてるか?俺たちはまだ、藍子の汚い裏の顔をメディアにばらしていない!」「無駄だ。それくらいで加藤家が動揺するはずがない」「なぜそう言い切れるんだ?」晴は焦った。「藍子は加藤家の人間だぞ!」「お前、忘れてないか?藍子が警察に連れていかれる前、加藤家と縁を切ると言ってたじゃないか。そうなると、お前がその事実を公表しても加藤家には何の影響もないだろう」「でも塚原はどうやって加藤家を利用して地位を固めるんだ?」「メンツだよ」隆一はそう言うと表情を暗くした。「つまり、たとえ藍子が加藤家と関係を断っても、加藤家の顔に免じて塚原の面子を立てる人もいる、ということか?」「そういうことだ」隆一は頷いた。「なんと言っても、藍子は彼らが一番可愛がっていた子さ!血は水よりも濃い!彼らが塚原の肩を持てば、塚原も自然的に藍子を支援してくれるだろうからな」そこまで言うと、2人は目を合わせた。「まさか!悟は政略結婚を考えているのか?」2人は同時に言った。「最悪、藍子は塚原の力を借りてお前に手を出すかもしれない!」隆一は少し震えた。「俺が彼女に手を出す前に彼女が何か手を打ってくるとでも?」晴は怒りで目を大きくい開いた。「可能性はゼロではない」隆一は冷静に言った。「お前は藍子にあんなに薄情な態度をとったからな。彼女は仕返しをしてくるだろう」そこまで聞くと、晴はまるで喉に綿を詰められたかのように、息が苦しくなった。「佳世子にいうかどうかを決める前に、まずは藍子をどうするかを考えるべきだ」隆一は言った。「彼女が塚原と結託した後はきっと、塚原は自分の地位を固める為に、絶対真っ先に田中家を潰しにくる!」「それがうちとどんな関係があるんだ?」晴は怒ってきた。「うちの両親は、藍子に親切だったじゃないか」
「分かった、佳世子と相談してくる」田中晴は言った。マンションに戻って随分と躊躇ってから、杉浦佳世子にメッセージを送った。「今忙しい?」「ううん、何で?」暫く待つと、佳世子が返事してきた。「加藤藍子は、塚原悟の働きかけで釈放されるらしい」メッセージを読んだ佳世子は、思考が止まった。そして、怒りや憎しみ、悲しみが混ざった複雑な気持ちになった。佳世子は文字を打つのがめんどくなり、そのまま晴に電話をかけた。晴はすぐ電話にでた。「誰から聞いたの?」佳世子は厳しい声で尋ねた。「紀美子が教えてくれたんだ。このこと、君はどう思う?」「もし塚原がそんなことをしたら、私は絶対に彼らを許さない!!」佳世子は思わず携帯を握りしめた。晴は暫く黙り込み、先ほど鈴木隆一と相談した内容を彼女に伝えた。「佳世子、俺は君を守り抜くつもりだが、万が一のことがある。やはり君を完璧に守れるのは世論だ」「ならば、私自ら暴くわ!」佳世子は言った。「もうどうせ、ここまで来たからには、人にどう見られようと私は気にしない!加藤藍子にだけ、代価を払わせるわ!そして……塚原悟にも!」「俺を無能だと思ったりしない?」晴は目玉を動かして尋ねた。「しない。あんたは藍子を刑務所に送り込んでくれた。それでもう十分だわ」佳世子は言った。「しかも今回のことは、私自身のうっかりだったし」晴は深くため息をついた。「注意しなければならないのは、塚原が藍子と政略結婚をした後だ。君が藍子に手を出すと、塚原が君を許さないだろう」「私を殺すとでも?こんなタイミングで私に手を出したら、帝都での地位を固めることなどできないわ!」「君は、戻ってくると決めたのか?」「帰るけど、今じゃない。藍子への復讐について真剣に計画を立てなきゃ。チャンスを見つけないと」急がば回れだ。特に復讐は。「佳世子、違法なことだけはやめろよ」晴は眉をひそめた。「そんな奴の為に、命をかけるつもりはないわ!」佳世子の返事を聞くと、晴はほっとした。「分かった、待ってる」「晴、まだよりを戻すことを考えてるの?」佳世子は間をおいて尋ねた。晴は脳裏に父の話を思い浮かべた。「佳世子、俺は強引によりを戻そうだなんて思っていない。だが俺は
「なに?」ゆみは頭を傾けて言った。「誰かと約束したのに、まだ果たしていないことがあるんじゃないか?」小林は微笑んで尋ねた。「誰かと約束?そんなのないよ?ゆみはまだ一人前じゃないのに、軽々しく約束なんてできないもん」ゆみはじっくり考えてから言った。「もう一度よく考えてごらん。誰かと何か約束をしていないか。人とではなく、霊とだ」小林はヒントを与えた。「霊?」自分はいつ霊などと約束したんだろうか?ゆみはますます分からなくなった。「まあ、急がなくともよい。じっくりと考えて、思い出したら帝都に行くといい」小林はにっこり笑いながらゆみの頭を撫でた。小林のこの言葉のせいで、ゆみは一晩中寝返りを打ち、なかなか眠れなかった。彼女はぱっちりした目で窓の外の明るい三日月を見つめ、「いったい誰と約束したんだろう」と考え込んでいたが、いつの間にか夢の中へ落ちていった。夢の中では、一匹の美しい白い狐がゆみの周りをぐるぐると回っていた。ゆみが嬉しくなって追いかけていくと、突然、足が引っ掛かって地面に転んだ。痛いと言う間もなく、誰かが優しく彼女の腕をそっと掴んだ。ゆみが顔を上げると、目の前に長い巻き毛の女性が腰を屈めていた。顔はぼんやりとしていてよく見えなかったが、その雰囲気は、どこか母と似ていた。「あなたは、だあれ?」ゆみは彼女を見つめながら尋ねた。女性は何も言わず、ゆみをゆっくりと起こした。ゆみは立ち上がって女性の顔をじっくりと眺めたが、彼女が誰なのかは全く分からなかった。霧のようなものが自分の視界を遮っているのだが、女性も自分の顔を見せまいとわざと顔を伏せているようだった。女性は、ゆみの足の埃を払うと立ち上がった。すると、その姿は徐々に透明になっていった。ゆみは慌てて掴もうとしたが、何も掴めなかった。「ねえ、あなたは、だれ?どうして何も言わずに行っちゃうの??」女性の姿が消えた瞬間、優しい声がゆみの耳元に届いた。「送りに来てくれるのを待っているわ」その声が消えると同時に、ゆみはパッと目を開け、小さな体を起こした。窓の外には、すでに夜明けの光が差し始めていた。ゆみの頭はまだぼんやりしていて、夢の中の女性の声と姿が頭から離れなかった。「なんか知ってる人みたい……
「そうだ」翔太は言った。「こういう時は、信頼している誰かの一言がスッと心に響くものだ」晋太郎は黙って目を伏せ、翔太の言葉を頭の中で繰り返し考え込んだ。食事会が終わり、晋太郎は車に戻った。しばらく考えた後、彼は小林に電話をかけた。電話がつながった途端、ゆみの声が聞こえてきた。「お父さん?」ゆみの甘えた声が晋太郎の耳に届いた。「ゆみ、ご飯は食べたか?」晋太郎の整った唇が自然と緩んだ。「食べたよ!」ゆみは笑いながら答えた。「お父さんは小林おじいちゃんに用事?おじいちゃんは今、お線香あげててお仕事中だけど、すぐ戻るよ」「そうか。ところで、ゆみは最近どうだ?」「まだ帰ってきたばかりじゃん!」ゆみは頬を膨らませ、不満そうに言った。「お父さんは何してたの?記憶力悪すぎ!」「少し頭を悩ませる問題があったんだ」晋太郎は軽く笑いながら言った。「えっ?何なに?ゆみ先生が分析してあげるよ!たったの100円で!」ゆみは楽しそうに言った。「お母さんがお父さんと結婚したくないみたいけど、ゆみはどう思う?お父さんはどうすればいい?」晋太郎の目には優しさが溢れていた。「えーっ?」ゆみは驚きのあまり思わず叫んだ。「お母さんはどうして結婚したくないって?どうしてきれいなお嫁さんになりたくないの?」「ゆみはなぜだと思う?」晋太郎は逆に尋ねた。「お父さん、浮気でもしたの??」ゆみは小さな眉を寄せ、真剣に考えた。「お父さんがそんなことをすると思うか?」晋太郎の端正な顔が一瞬こわばった。「だって、したことあるじゃん……」ゆみは小さく呟いた。「……それは違う」「じゃあ、お母さんはお父さんを愛してないのかな?」晋太郎の目尻がピクッと動いた。「あっ、わかった!お父さんは年を取ったから、お母さんは他の若いイケメンが好きになっちゃったんだ!あーもう、お父さん、お母さんが他の人を好きになっても仕方ないじゃん。お父さんはゆみのお父さんであることに変わりはないでしょ?女の人の気持ちに、一切口出ししないでよ!」晋太郎の顔は一瞬で真っ赤になった。「もう、いい!これ以上当てなくていい!」晋太郎は思わず遮った。ゆみは本当に自分の娘なのだろうか。ちっとも自分の味方にな
晋太郎は何も言わないまま指で机を叩き、この件をどう対処すべきか決めかねていた。「今焦っても仕方ないよ。はぁ……こんなに苦難を乗り越えてきたのに、紀美子が問題で結婚できないかもしれないなんて」晴は嘆いた。「開けない夜はい。今はただタイミングが合わないだけだ」晋太郎は低い声で言った。「どういう意味だ?」晴は理解できなかった。「何事も始めるのにはきっかけが必要だ。今はそのきっかけがまだできていないだけ。彼女が今結婚したくないのに、無理強いするつもりはない」「いやいや」晴は言った。「結局、結婚するのか?しないのか?お前らの結婚を待ってる人間もいるんだぞ!!」「待つ」晋太郎は唇を緩めた。「……」晴は黙って考えた。つまり、自分の結婚式も延期になるってことだ。夕方、晋太郎は翔太とレストランで会う約束をした。「晋太郎、久しぶりだな」到着すると、翔太は疲れた表情で彼の前に座った。「最近忙しいのか?渡辺グループは今は安定しているはずだが」晋太郎は眉を上げて彼を見つめ、お茶を一口飲んで言った。「会社の問題じゃない」翔太は苦々しい表情で首を振った。「で、用件は?」「紀美子のことだ。彼女は心的外傷に加え、ストレス障害があるかもしれないんだ」晋太郎は言った。「大体予想はつくが、あんたが紀美子と結婚しようとして、断られたんだろう?」晋太郎の言葉を聞いて、翔太はしばらく黙ってから尋ねた。「ああ」晋太郎は湯呑みを置いた。「あんたが俺の立場だったら、どうやって彼女を説得するか聞きたい」「俺なら説得しないな」翔太は晋太郎の目を見て、真剣に言った。「彼女が出した決断を尊重する。あんたの話からすると、紀美子は婚約のことでトラウマがあり、抵抗しているんだろう?なぜ無理にストレスに直面させようとするんだ?」晋太郎は翔太に相談を持ち出したことが間違いだったと感じた。佑樹と念江が妹を甘やかしているのは、完全にこの叔父から受け継いた性格なのかもしれないとさえ思った。「つまり、あんたは彼女が結婚せずに俺と一緒にいることも許すのか?」晋太郎の表情は曇った。「お互いに愛しあっているのに、なぜいけないんだ?」翔太は言った。「あんたには今、親からのプレッシャーもないだろ
「MKの全株式を私に移すって言い出したの。TycをMKの子会社にしたくないって私が言ったから」「それ、最高じゃない!?」佳世子は興奮して声を弾ませた。「そこまでしてくれる男、帝都中探したって他にいないわよ!」紀美子は首を振った。「だからこそ、結婚したくないの。せっかく彼が一から築き上げた帝国が、結婚相手の私のものになるなんて……」「あなたの考え方、ちょっと理解できないな。彼の愛の証なのに、どうして負担に感じるの?」紀美子は軽くため息をついた。「私が求めているのはそういうことじゃない。彼には彼の生き方、私には私の生き方がある。結婚したからって、どちらかがもう一方の附属品になる必要なんてないでしょ?それぞれ自分の事業に集中するのがいいと思わない?」「本当に自立してるわね。じゃあ聞くけど、妊娠したらどうするの?」紀美子は遠い目をした。「それは……まだ考えたことないわ」「その時は、全部晋太郎に任せてもいいんじゃない?のんびりしたお金持ちの奥様になって、好きなことしたら?」「嫌よ!」紀美子はきっぱり拒否した。「何もしないで食べて寝てばかりのダメ人間にはなりたくないわ」佳世子は眉を上げ、からかうように紀美子の腕をつついた。「自分がダメ人間になるのは嫌なくせに、あの時は佑樹と念江を外に出したがらなかったじゃない」紀美子は佳世子を見つめて言った。「それは別の問題でしょ」佳世子は紀美子に腕を絡めながら言った。「紀美子、無理に勧めるつもりはないけど、あなたがここまで苦労してきたのは、結局晋太郎と結婚するためじゃなかったの?今やっと実現しようとしてるのに、どうして後ろ向きになるの?『附属品』なんて言い訳はやめて、本当の気持ちに向き合って。彼と一緒にいたいのかどうか」「……いやなら、同棲なんてしてないわ」紀美子は目を伏せた。「紀美子、あなた、言い訳ばかりしてるって気づいてないの?」佳世子はため息をついた。「前は晋太郎の記憶が戻ってないからって逃げてたし、今度は会社の問題って。本当に向き合うべきなのは、あなた自身じゃない?それとも……怖いの?」紀美子は一瞬ぽかんとしたが、慌てて答えた。「……怖がってなんかいないわ」佳世子は彼女の表情の変化を鋭く見据えた。「違う。あなたは怖が
「紀美子」「……うん」「結婚しよう」紀美子の身体はこわばり、返事もせずそっと晋太郎を押しのけた。俯いたまま晋太郎の目を避け、彼女は声をひそめた。「その…そんなに急がなくてもいいと思う……」そう言うと、彼女は慌てた様子で立ち上がった。「また今度ね!私、先にお風呂に入るから!」逃げるように去っていく紀美子の背中を見てから、晋太郎は目を伏せた。以前なら、喜んですぐに頷いてくれたはずなのに――なぜ今は躊躇するんだ?どういうことだ?家族への挨拶が済んでいないからか?浴室のドアをじっと見つめながら、晋太郎は考え込んだ。どうやら明日、渡辺家を訪ねなければならないようだ。翌日。晋太郎が会社の仕事を片づけ渡辺家に向かおうとしたところ、晴にランチに誘われた。時間にまだ余裕があったため、晋太郎は晴とレストランへ向かった。食事中、晋太郎は窓の外を見つめて黙っていた。晴は何度か彼を不思議そうに見てから、ようやく口を開いた。「晋太郎、何を考えてるんだ?」晋太郎は手に持っていたコーヒーを置き、晴を見ながら答えた。「佳世子に結婚を拒まれたことはあるか?」晴は呆然とした。「それって……紀美子に振られたってこと?」晋太郎が頷いた。「そんな経験ないか?」「ないな」晴は答えた。「むしろ毎日のように結婚を催促されてる」晋太郎は黙り込んだ。紀美子は一体どうしたのだろうか?晴も少し考え込んだ後、言った。「晋太郎、もしかしたら紀美子は前回の婚約の件でトラウマを負っているんじゃないか?なんていう症候群だったっけ?心理カウンセラーに診てもらった方がいいかもな」晋太郎は眉をひそめた。「そこまで深刻ではないだろう」「深刻に決まってるだろ!」晴は真剣な様子で言った。「お前が生きていることを知ったあと、彼女は必死で会社を守り、銃弾まで受けた。目が覚めたらまたお前たちのことが……俺だって耐えられないよ。どうして深刻じゃないなんて言えるんだ?間違いなくトラウマがあるに決まってる。じゃなきゃ拒む理由がないじゃないか」晋太郎はイライラして指でテーブルを叩いた。「佳世子に探りを入れさせろ」「任せとけ!」晴は言った。「でも、本当にそうなら早めにカウンセリングを受けさせた方
「事実的な関係はあるだろう。紀美子、君は俺の子供たちの母親だ。この事実は変えられない」「その関係だけで、私を縛ろうって言うの?」紀美子は冷笑した。「確かに電話に出なかったのは私が悪いわ……でも、それで私の自由まで奪わないで。母親って立場だけで、あなたに私の人生をコントロールされる筋合いはないわ!」紀美子の言葉で怒りが爆発しそうになった晋太郎は、ギアを入れ替えると潤ヶ丘へ猛スピードで走り出した。あまりのスピードに、紀美子は怖くなって黙り込んだ。潤ヶ丘に着くと、晋太郎は車を止め、降りて助手席側に回るとドアを開け、紀美子を担ぎ上げてそのまま別荘の玄関へ向かった。「晋太郎!下ろしなさい!」紀美子は必死にもがいた。しかし晋太郎は解放することなく、そのまま部屋まで運び込むと、ベッドに彼女を放り投げた。彼は暴れる紀美子の手足を押さえつけ、怒りに震える声で言った。「紀美子、言ったはずだ。君にちゃんとした立場を与えると」紀美子は不満げな目で彼を見つめた。「その立場と引き換えに会社を奪われるなら、いらない!誰かに依存して生きるなんて、一番嫌いなの」「依存させようとしてない。俺が欲しいのは君だけだ。他人の目が気になるなら、今日からMKがTycの子会社になっても構わない」紀美子は動きを止め、驚いた表情で見上げた。「何を……言ってるの?」晋太郎はベッドサイドの引き出しを開け、契約書を紀美子に投げつけた。紀美子はそれを拾い上げ確認し、目を見開いて尋ねた。「これって、どういう意味?」「この契約書、本当はプロポーズのあとで渡すつもりだったんだ。君が望まないことを無理やり押し付ける気はない。」そう言いながら彼は紀美子の隣に座り、表情に強い決意を宿して続けた。「紀美子、君は俺に何か聞きたいことがあるんだろう」紀美子は契約書を握る手に力を込めた。「ええ、あなたの口から直接聞かせてほしいの。私が頑固なのは認めるわ。でも……あなたの本心を言葉にしてほしい。これは、あなたが本当に私を気にかけていたかどうかの問題よ。からかいや隠し事は大嫌いなの」晋太郎は口元を緩めた。「記憶があるかないかが、そんなに重要か?」紀美子はぱっと顔を上げた。「重要よ!本気の愛と、責任だけの結婚、あなたはどっちが欲しい?」
「まあ、そう言うけど」佳世子はため息をついて言った。「でも、やっぱり形は必要でしょ。私だって、いつできるかわからないんだから」「晴の両親は……」「あーもう!」佳世子はイライラしながら紀美子の言葉を遮った。「そんな話はやめて!考えるだけで頭にくる!」「もうすぐお正月ね。今年のお正月は、いつものように賑やかにはいかないわ」紀美子は窓の外を見つめて言った。佳世子は頬杖をつき、紀美子と同じく窓外のネオンを見つめた。「寂しいなら、いつものように賑やかにすればいいじゃない」紀美子は佳世子の方に向き直った。「どんなに賑やかにしても、子供たちがいない寂しさは埋まらないわ」その言葉を最後に、二人の間に沈黙が流れた。しばらくして、佳世子は急に背筋を伸ばして言った。「紀美子、明日私たちで不動産を見に行かない?」紀美子は目を丸くした。「家?どうして?」「あなたも私も今住む家がないでしょ?」佳世子は目を輝かせながら続けた。「別荘じゃなくて普通のマンション!同じ階を買って、間取りを繋げちゃうの!」「まあいいけど……」紀美子はまだ佳世子の指す意味を完全には理解できていない様子だった。「でも何のため?」佳世子はニヤリと笑った。「もちろん楽しむためよ!例えばあなたが晋太郎と喧嘩した時とか、私が晴と揉めた時とか。私たちだけの家に逃げ込むの!」「それで?」紀美子が尋ねた。「そしたらパーティーよ!イケメンたちを大勢呼んで、一緒に騒いじゃうの!」話に夢中になっていると、いつの間にか背後に二人の男が立っていた。佳世子の言葉を聞いた瞬間、晴の顔は青ざめた。「佳世子!!」晴は我慢できず、佳世子の背中に向かって怒鳴った。佳世子はビクッとして振り向き、突然現れた二人を見て目を見張った。「あなたたち、どうしてここに!?」紀美子も慌てて振り返った。彼女はすぐに、顔をしかめた晋太郎が自分を睨みつけているのに気づいた。その目には明らかな怒りが見えた。紀美子が口を開く間もなく、晴は佳世子を肩に担ぎ上げた。「晴っ!お、おろしてよ!ちゃんと話し合えばいいじゃない。なんで担ぐのよ!?紀美子!助けて!」佳世子は叫んだ。叫びながら遠ざかっていく佳世子の姿を見送りながら、紀美子
晴は口をとがらせ、不満げな表情で視線を逸らした。「そんなんじゃないよ。彼女にブロックされたんだ」晋太郎は一瞬呆然としたが、すぐに嘲笑った。「お前、余計な干渉をしすぎたんじゃないか?」「お前だって紀美子にズカズカと干渉してるくせに、偉そうなこと言うなよ」晴は「ちぇっ」と舌打ちした。「だったらお前が紀美子に電話してみろよ」晋太郎はテーブルの上の携帯を手に取った。「少なくともお前のようにブロックはされてない」そう言うと、紀美子の番号をタップした。しかし、コール音が一度鳴ったところで、機械的な女性の声が流れてきた。「申し訳ありませんが、お掛けになった電話は現在通話中です……」「プッ…」晴は思わず吹き出した。「それでよく偉そうなこと言えたな!紀美子にまさかのワン切りされてるし!はははは……」晋太郎の端正な顔が、晴の笑い声とともに次第に険しくなっていった。彼は諦めず、再び紀美子に電話をかけた。今度は呼び出し音すら鳴らず、すぐに機械音声に切り替わった。「あははははは!」晴は涙を浮かべながら笑い転げた。「晋太郎、お前、さっき言ってたこと……どうしたんだよ?はははは!」晋太郎は携帯をしっかりと握りしめた。彼女は一体どこに行ったんだ?自分の番号をブロックするなんて!晋太郎は苛立ちながら、連絡先から肇の番号を探し出し、電話をかけた。つながると、彼は怒りを抑えながら言った。「肇、紀美子の位置を特定しろ!」肇が返答する前に、美月の声が聞こえてきた。「社長、奥様が見つからないからってアシスタントに頼むなんて、どうかしてますよ?」美月のからかい混じりの声が晋太郎の耳に飛び込んできた。その言葉を聞いて、晴はこらえきれずまた顔を赤くしながら笑い転げた。「お前、なんで肇と一緒にいるんだ?」晋太郎は眉をひそめ、冷たく問い詰めた。「彼は独身、私も未婚。一緒にいて何か問題でも?」美月が返した。「遠藤さん、私から晋様にお話しさせてください……」肇が慌てて割り込んできた。「ただ紀美子さんを探してほしいだけでしょう?他に用事はないわ」美月は言い放った。「奥様と喧嘩したからって、私たちまで巻き込まないでちょうだい」美月がそう言い終わらないうちに、通話が切られ
紀美子は翔太に事情を簡単に説明した。話を聞いた翔太は深くため息をついた。「あの子たちはみんなしっかりした子たちだ。自分で決めたことなら、無理に引き止めるわけにはいかない。尊重してやらなきゃな。だが……こんな場所で気分転換するべきじゃない」「そういえば、翔太さんはここで何を?」佳世子は話題をそらすように尋ねた。翔太はバーの入口を一瞥しながら答えた。「あの連中は舞桜の遠縁の親戚たちなんだ」二人は顔を見合わせ、紀美子は怪訝そうに聞いた。「どうして舞桜の親戚と一緒に?」翔太は苦笑し、鼻をこすりながら答えた。「実はな、舞桜と一週間後に婚約する予定なんだ」「えっ!?」二人は声を揃えて叫んだ。「そんな大事なこと、どうして教えてくれなかったの?」紀美子は驚きを隠せなかった。佳世子は舌打ちした。「翔太さん、私たちより早いじゃない!」「彼らが帰ってから紀美子に話そうと思ってたんだ」紀美子は軽く眉をひそめた。「さっき見かけたけど、舞桜と同世代くらいの人たちみたいね。難しい人たちなの?」「なんというか……」翔太は小さくため息をついた。「茂の親戚と似たような連中だ。だから君には早く知らせたくなかったんだよ。彼らは本当に面倒を起こすから」「舞桜が止めないの?」佳世子は聞いた。「いつまでも我慢してばかりじゃダメよ!」「止めないわけじゃない」翔太は言った。「舞桜の父親からの試練のようなものだ。舞桜は彼らのことで父親と大喧嘩したんだ。でも、父親は自分だけでは決められないと言ったらしい。舞桜の祖父の意向もあるみたいで」紀美子は話の裏を読み取って聞いた。「もしかして、その祖父って……舞桜と兄さんの関係に反対してるの?」「そうだ」翔太は率直に認めた。「舞桜の祖父は、海軍の偉いさんでさ。我々のような商人のことを、なかなか認めてはくれない」「今どきそんな家柄を気にするなんて!」佳世子は呆れたように言った。紀美子はしばらく考え込んでから言った。「でも、そうでなければ、舞桜もここまで来て兄さんと出会うこともなかったわね」「うん、その通りだ。前に舞桜が俺に会いに来たことが、余計に彼女の祖父の反感を買ったらしい」「舞桜は良い子よ」紀美子は翔太を見つめて言った。