Share

第303話

Author: 無敵で一番カッコいい
口いっぱいに広がる煙の臭いが、むせ返るように明日香の意識を揺さぶった。嫌悪の記憶が脳裏をかすめ、眩暈と吐き気が押し寄せた。

それは、この世で最も嫌う匂いだった。

半ば引きずられるように検査室へと連れて行かれ、診察台に無理やり横たわったその瞬間、彼女の目に飛び込んできたのは――哲朗のあまりにも艶やかな顔だった。

長い睫毛、薄い唇。女よりも女らしい、美しい悪意。

「久しぶりだな、明日香ちゃん」

「どうして、あなたが......!」

反射的に体を起こし、明日香は拒絶するように身を引いた。哲朗は唇の端をゆがめ、戯けたように笑った。

「見られて困るものでもあるのかい?」

「検査は、受けません!」

その言葉に割って入るように、40代半ばの女性医師が現れた。

「お嬢さんを怖がらせちゃダメよ」女性医師は哲朗に手を振って促し、明日香に向き直ると、落ち着いた声で語りかけた。

「医者に男も女も関係ありませんが、今日は私が診ます。安心して」

女性医師の言葉に少しだけ警戒心が和らぎ、明日香は再び診察台に身を預けた。

哲朗は出ていく間際、明日香に向かってウィンクを残していく。その仕草に、頬が思わず火照った。

検査台の上、M字に開かされた足の間には青い布が掛けられ、冷たい器具が挿入された瞬間、明日香の身体がびくりと震えた。

「......あら、私ったら。今日は混んでいて、お嬢さんが初めてだって忘れてたわ」

医師は額をぺちんと叩き、「少し待ってて。新しい滅菌カバーに替えるから」と微笑んだ。

エコー検査が終わり、明日香は診察室で結果を待っていた。

その頃、病院外の喫煙所には、煙と吸殻が漂い、空気は灰色に濁っていた。哲朗は白衣のポケットに手を突っ込み、首に聴診器をぶら下げながら、楽しげに皮肉を投げた。

「何度も言ったよな。結果は変わらないって。今できることは子宮を摘出するしかない。弱みを作るなって警告したのに、聞かなかったんだよな。こんなに早く心が折れるとは思わなかったぜ」

遼一は冷たい視線を返した。「余計な口を利くな」

「でも間違っちゃいないだろ?」

哲朗はまるで芝居を愉しむ観客のように、にやりと笑みを浮かべて、わざと遼一の方に歩み寄った。

「正直意外だったぜ?お前が好むのは、人妻とか年上のお姉さまだと思ってた。まさか高校すら卒業してない小娘に手を出すと
Continue to read this book for free
Scan code to download App
Locked Chapter

Latest chapter

  • 佐倉さん、もうやめて!月島さんはリセット人生を始めた   第626話

    遼一の奴、また何を血迷ったのか。部屋のドアは無惨にこじ開けられ、チェーンロックを切断した男がノコギリを手にそのまま立ち去っていく。明日香はベッドに手をつき、重いまぶたを押し上げるように身を起こした。乱れた長い髪が肩に落ち、華奢な鎖骨のあいだには、三日月を象ったペンダントが小さく揺れている。その眼差しは底冷えするように冷ややかだった。「また何をするつもり」遼一の視線がベッドサイドの薬瓶に留まった。手に取ると、それは睡眠導入剤だった。つまり、彼女が先ほどまで深い眠りに沈んでいたのは、この薬のせいか。そこへ、白衣の医師が数人の助手を連れて入ってきた。「佐倉様、こちらのお嬢様は、見たところ異常はないようですが……」遼一は言葉を遮るように低く言った。「お前たちは外に出ろ」その瞬間、部屋全体の空気が凍りついた。明日香には遼一の眼差しが何を意味するのか分からなかった。それ以上に、なぜ彼がこんなにも大勢の人間を連れてきたのか理解できなかった。せっかく閉ざしたドアも、あっさりと破壊されてしまった。遼一がカーテンを引き開けると、眩しい日差しが部屋を満たした。明日香は思わず手で光を遮り、ぎゅっと目を閉じる。「今、何時か分かっているのか」垂れ下がった長い髪が顔を隠し、その白い肌は陽光の下で透きとおるように輝いていた。「ここに閉じ込められて、寝る以外に何ができるっていうの」遼一の目には、彼女から生気の欠片すら感じ取れなかった。枯れかけた薔薇のように、花弁を垂らし、今にも散ってしまいそうに見えた。明日香は再びベッドに横たわったが、すぐに遼一の手で乱暴に引き起こされた。「服を着ろ。下で食事だ」彼は彼女の手を強く握り締め、その瞳には得体の知れない怒りの炎が揺れていた。明日香は視線を逸らし、冷ややかに吐き捨てる。「兄のつもりにならないで。父の代わりに私を躾けるなんて」そして、遼一の手を振りほどき、氷の刃のような声で言い放った。「私の目には、あなたはただ、卑劣な手で無理やり私を従わせるレイプ犯にしか映らない」遼一がドアを壊させたのは、昨夜の言葉が効いたからに違いない。彼は明日香が部屋で自ら命を絶つのを恐れたのだ。だが、なぜ彼がそんな行動を取るのか、明日香には理解できなかった。遼一はすでにすべてを手にして

  • 佐倉さん、もうやめて!月島さんはリセット人生を始めた   第625話

    しかし、明日香はそんな人間ではなかった。「……あの子、あなたの囲っている愛人じゃないの?」その声は、喉の奥から引き裂かれるような痛みを孕んでいた。遼一がじっと見つめてくる視線を受け止めながら、明日香は震える身体でなおも頑なに言葉を吐き出した。「私が子宮を摘出されたからって、好き勝手に何度も弄ばないで。私は人間よ、あなたの玩具じゃない。私だって痛いの。もし……いつかあなたに責め苛まれて耐えられなくなって、このまま死んで楽になったら、それで満足するの?」遼一の瞳は確信に満ち、冷たくも揺るぎなかった。「お前はそんなことをしない」「するわ」明日香は一歩も引かずに言い返した。「知っているでしょう、こんなこと初めてじゃないんだから」彼女の声は恐ろしいほど静かで穏やかだった。「もし今日、私に手を出したら……明日、あなたが目にするのは五体満足じゃない死体よ。八十八階から飛び降りれば、きっと少しも痛くはないわ」明日香のうつ病が、真に癒えたことなど一度もなかった。ここ数年、彼女を辛うじて生かしていたのは、自由への渇望と遠い場所への憧れだけ。もしまた翼を折られ、彼の囚われとなり、前世と同じ悲劇を繰り返すのなら、生きる意味などどこにもなく、再び苦痛の牢獄に閉じ込められるだけだった。その言葉は、確かに効いた。遼一は数秒間、彼女を凝視したのち、荒々しくドアを叩きつけて部屋を出て行った。ようやく明日香の張り詰めた心が少しだけ和らぐ。命を盾にすれば、彼は一時的に退くかもしれない。だが、いずれ必ず自分を屈服させ、独占物として閉じ込めるだろう。その予感は、消えることなく胸に残った。隣室のドアが叩きつけられる音を、葵は確かに耳にしていた。やがて静寂が戻ると、彼女は廊下のバルコニーに目をやる。そこにはタバコをくゆらせる人影。葵はバスローブの帯を軽く締め、そっと背後から近づくと、彼の腰に抱きつき、頬を背中に寄せて甘えるように囁いた。「あの子のところへ行かないで。私、嫉妬しちゃう……」「遼一、あなたは私だけのものよ」「欲しいものは何だってあげられる。子供だって」その瞬間、遼一の瞳の奥に冷ややかな光が宿った。葵は、彼が子供のことばかりを気にかけているとでも思っているのだろうか。しかし、明日香はもう子を宿せない身体だった。遼一は振

  • 佐倉さん、もうやめて!月島さんはリセット人生を始めた   第624話

    遼一は床に落ちていたスーツのジャケットを拾い上げ、そばの椅子にかけると、幾分苛立ちを含んだ口調で言った。「また何を騒いでいる?」明日香の少し赤くなった目元を認めると、彼の眼差しが僅かに翳り、説明するように口を開いた。「彼女は俺の秘書だ。君も知っているはずだ」その言葉は曖昧で、釈明しているようでもあり、何か別の深い意味を隠しているようでもあった。明日香の体は硬直し、遼一の全てを見透かすような鋭い視線に射抜かれる。彼女は口の端を歪めて冷笑を浮かべた。「あの人が誰だろうと、私に関係ないわ。出て行けって言ったのは、あんたが汚らわしくて反吐が出るからよ!」明日香はよく分かっていた。遼一の目に留まった女を、彼が拒んだことは一度もない。そんな彼だからこそ、心底吐き気がするのだ。「あんたが帰らないなら、私が出て行く」もう二度と昔のように、葵の前で笑いものになるわけにはいかない。明日香はバッグを掴み、彼を通り過ぎて部屋から出ようとした。しかし遼一は彼女を止めず、ただゆっくりとした仕草で腰の金属製バックルを外し、ベルトを緩め、白いバスローブに着替えると、スリッパを履いてバスルームへと向かった。明日香が部屋のドアを開けると、ドアの前にボディガードが立っているのが見えた。結局、怒りに任せてドアを閉め戻すしかなかった。とても逃げられない。窓から飛び降りる?ここは八十八階なのだ。バスルームに入った遼一は、床の乾いていない血痕と散乱した鏡の破片を見て、その眼差しが途端に冷たくなり、眉をきつく寄せた。結局、彼が人を呼んで後始末をさせた。ルームサービスの従業員はバスルームを片付け終えると、顔も上げずにそそくさと立ち去った。部屋の中の空気は息が詰まるほど重く、明日香は無表情でドレッサーの前に座っている。彼女の後ろに立つ男の顔は険しく、全身から放たれる雰囲気は震えるほど冷たい。「……また自傷行為っていう手口で俺を脅して、ここから出せと?」遼一の声には嘲りが含まれていた。明日香は目を伏せた。「何のことか分からないわ」「バスルームの血は何だ?」彼の声は依然として冷たく、有無を言わせぬような詰問の響きがあった。明日香は感情のこもらない声で答えた。「鼻血が出たの。ティッシュを取ろうとして、うっかり鏡を割ってしまっただけ」彼女は少

  • 佐倉さん、もうやめて!月島さんはリセット人生を始めた   第623話

    葵は遼一の横をすり抜け、威圧感をまといながら明日香の前に歩み出た。唇の端には挑発的な笑みが浮かんでいる。「久しぶりね、明日香」差し伸べられたその手とともに、彼女の眼差しには隠しようのない嘲りが宿っていた。まるで何かを誇示しているかのように。明日香の顔は瞬く間に蒼白となり、胸に鋭い痛みが走る。眉をきつく寄せ、言葉を一つも発さずに身を翻すと、廊下の突き当たりへと足早に向かった。その歩みは乱れ、よろめいており、誰の目にも尋常でない様子は明らかだった。葵は逃げるように立ち去る後ろ姿を見つめ、ふっと笑って差し出した手を引っ込める。腕を胸の前で組み、わずかに顎を上げた。前の人生でもあんたなんて所詮は出来損ない。昔も私の敵じゃなかったけど、今だって同じこと。明日香は三十一までしか生きられなかった。今度は、彼女がどこまで生きられるか、見ものだ。その名──「葵」は、明日香にとって治癒不能の病のようだった。耳にするだけで、目にするだけで、心を抉るような苦痛の記憶が蘇る。前の人生では、明日香の子は生まれる前に命を落とし、その顔を一目見ることさえ叶わなかった。中村から渡されたのは、冷たい骨壺ひとつだけ。明日香はその子を母と同じ墓に埋葬し、衝撃のあまり半年ものあいだ大病に伏せた。もう乗り越えられないと、幾度も思った。治療を受けても病状は好転せず、やがて彼女は遼一に何も告げぬまま退院して家に戻った。だが、二人の主寝室の前で耳にしたのは、男女が体を重ねる喘ぎ声──ドアの隙間からは、そのすべてが見えた。葵が長い髪を振り乱し、遼一の上に跨がり、甘ったるい声で囁いている。「明日香はあなたとの子供を産めないけど、私が産んであげる……今度こそ、すぐに私たちの赤ちゃんができるわ、遼一」記憶が洪水のように押し寄せ、明日香の頭を激痛が貫いた。髪をかきむしりながらバスルームへ駆け込むと、洗面台の上にあったものを手当たり次第につかみ、鏡に叩きつけた。ここまで取り乱すことは滅多にない。本当に崩壊寸前に立たされた時以外は。彼女が泊まるホテルの部屋は遼一の隣室だった。床には砕けた鏡の破片が散り、その一つ一つに苦悶に歪む彼女の顔が映っている。突然、前触れもなく鼻血が流れ出した。口の中に鉄錆のような味が広がり、胸の奥からこみ上げる吐き気に襲われる。乱暴に血を拭い、口

  • 佐倉さん、もうやめて!月島さんはリセット人生を始めた   第622話

    明日香には、遼一の自分に対する態度がいつから変わったのか、どうしても理解できなかった。樹と一緒にいた頃からなのか。それとも、樹との婚約が目前に迫っていたあの時からなのか。道理からすれば、彼は自分を嫌悪して然るべきであり、今のように執拗に迫ってくるはずはない。珠子がまだ生きている――結局のところ、自分が珠子を死なせなかったから、遼一の態度が変わったのかどうかも、確信は持てなかった。たとえ二人の間にあのような関係があったとしても、遼一が自分に感情を抱いているなどとは、一度たりとも考えたことがない。好き?そんなこと、彼が狂気に陥らない限りあり得ない。遼一は誰に対しても、いわゆる感情を注ぐことは決してない。彼の目には、そんなものはすべて滑稽な幻想にすぎない。遼一のような人間に、真心など存在しないのだ。今の彼の行動はすべて、独占欲がそうさせているだけ。明日香がその支配から逃れることを決して許さない。四年前、月島家ですら彼の策略に嵌められたのだから、ましてや自分など。もし戻れば、またあの頃のように、彼が作り出した深淵へ堕ちていくだけだ。結局、遼一は明日香をホテルへ連れ戻した。彼の背に従うように歩き、その後ろからは六人のボディガードが無言でついてくる。彼女に逃げ場は、どこにもなかった。豪華絢爛なロビーを抜け、二人はエレベーターに乗り込み、八十八階のプレジデンシャルスイートへと直行した。薄暗い廊下には静寂が漂い、足元の絨毯は雲の上を歩くかのように柔らかかった。一日中歩き回ったせいで、明日香は心身ともに疲れ果てていた。遼一がルームキーを差し込みドアを開けようとするのを見て、かつての彼の獣のような姿をふと思い出し、唇を噛みしめて勇気を振り絞った。「……あなたと同じ部屋は嫌」遼一は振り返り、後ろにいる中村に短く命じた。「中村、もう一部屋取れ」「はい、社長」その一言に、明日香はほっと胸をなで下ろし、心の奥でそっと安堵の息をついた。遼一がスイートのドアを開け、疲れた表情でスーツの上着を脱ぎ、照明に手を伸ばしたその瞬間――真っ暗な室内から人影が飛び出し、両腕を彼の首に絡め、甘えるように囁いた。「今日はどうして迎えに来てくれなかったの?」この声は……明日香の心臓が激しく揺さぶられる。見慣れた顔をはっきりと目にした

  • 佐倉さん、もうやめて!月島さんはリセット人生を始めた   第621話

    遼一は黒地に金箔をあしらった名刺を一枚、ライラに手渡した。ライラは大げさに口元を押さえ、何度も「ありがとう」と繰り返しながら興奮で言葉を噛み、しどろもどろになっていた。明日香の視線は自然とその名刺に落ちる。「セイグランツ社」という文字がひときわ目に焼き付き、胸の奥がどくりと締め付けられた。顔を上げた瞬間、遼一の眼差しと真正面からぶつかり、心臓が再びきゅっと縮み上がる。セイグランツ社……まさか、本当にここまで勢力を広げていたなんて。結局、明日香は遼一に強引にストレッチ・ブガッティへと押し込まれ、ライラは駆けつけた家族に伴われて帰っていった。車内に座り込んでから、ようやくその車が数千万円もの価値を持つことに気づき、明日香は亀のように首をすくめ、硬直したまま微動だにできなかった。「大したもんだな。警察を呼ぶ知恵まで身につけたか」遼一の声音には、嘲りが薄く混じっていた。「どこへ行こうと、兄さんに心配ばかりかけるつもりか?ん?」彼の手が伸びて触れようとするや、明日香は驚いた兎のように身をひるがえし、意識的に距離を取った。全身をこわばらせたまま、怯えと警戒を抱え、探るように問いかける。「遼一……もしかして、ずっと前から私を監視してたの?」その張り詰めた様子を眺め、遼一は目を細めて謎めいた笑みを浮かべる。答えの代わりに赤ワインを開け、グラスに注いで口に含んだ。それからポケットから取り出したのは、明日香が引きちぎったはずのペンダントだった。いつの間にか修復されている。「こっちに来い。つけてやる」「いらない!」即座に拒絶が返る。「俺が行ってつけてやるのと、お前が自分から来るのと、どっちがいい?」その声音には、有無を言わせぬ圧があった。明日香は嫌悪に満ちた目で睨みつけた。「追い詰めないで!いらないって言ってるでしょ!」さらに言葉を重ねる。「どこへ連れて行くつもり?私は自分のマンションに帰りたい」「百平米そこらの古びた箱に、帰る価値があると思うか?」遼一はそう吐き捨てると、直接手を伸ばし彼女を膝の上に引き寄せ、片腕で腰を抱き、もう一方の手で首筋の髪をかき分けた。「今後、二度とこれを外すな」明日香は必死に身をよじる。「今つけられたって、また外すわ!遼一、わからない。私を見つけて一体何がし

More Chapters
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status