로그인――これは、忘れもしない、緋依がまだ幼かった頃の記憶。
風が窓を叩いていた春の嵐の夜。
居住区に突如として現れた〝異形〟は、平穏な日常を一瞬にして地獄に変えた。 軍の兵士たちが駆けつけ、必死に銃を撃ち放つが、化け物の分厚い皮膚には傷一つ付けられない。幼い緋依の目の前で、兵士の身体は軽々と引き裂かれ、生温かい血飛沫が彼女の頬に降り注いだ。「緋依、逃げるぞ!」
父親が叫んだ。しかし、異形の標的はすでに彼らに向いていた。
「私が引きつける。お前は緋依を!」
父親はそう言い残し、自ら囮となって外へ飛び出した。しかし、人間の足で逃げ切れるはずもない。鈍い破砕音と、絶望的な悲鳴。父親の命が摘み取られたことを、幼い緋依は本能で悟った。
母親は涙を堪えながら、緋依を家の奥にある小さなクローゼットへと押し込んだ。
「絶対に出てきちゃ駄目よ。息を潜めていなさい」
暗闇の中で、緋依は震える両手で口を覆った。しかし、異形の足音はすぐに家の中へと侵入してきた。
ガシャン、と何かが砕ける音。その直後、母親が小さな悲鳴を上げてしまった。クローゼットの扉の向こう側で、肉が引き裂かれる悍ましい音が響く。ドサリと崩れ落ちた何かが、扉のすぐ外に横たわるのがわかった。
(お母さん……っ)
泣き叫びたい衝動を必死に殺す。しかし、異形の鋭い嗅覚は、扉の奥に潜む幼い人間の匂いを確実に捉えていた。
ズル、ズルと、重い足音がクローゼットの前に迫る。
もう駄目だ。殺される。 その時、緋依の脳裏に、街の大人たちが話していた噂がよぎった。――〝異形〟からは、神様が私たちを守ってくださるんだよ。
(神様……っ。どうか、助けて……!)
暗闇の中で、小さな手をきつく組み合わせた。
次の瞬間。 轟音と共に、家の壁が紙屑のように吹き飛んだ。同時に、外から激しい春の嵐が室内に吹き込んでくる。それは、夜の闇に紛れていた無数の桜の花びらを巻き込んだ、狂おしいほどに美しい花吹雪だった。
クローゼットの扉が衝撃でひしゃげ、視界に飛び込んできたのは――舞い散る薄紅色の花吹雪と月明かりを一身に浴びて、神々しく輝く巨大な白狐の姿だった。
ひどく凄惨な地獄のはずなのに、吹き荒れる薄紅の嵐の中で悠然と佇むその姿は、息を呑むほどに美しかった。白狐は強靭な顎で、母親を殺した異形の首筋に食らいつき、そのまま力任せに壁の向こうへと放り投げた。
圧倒的な力。ただ怯えることしかできなかった化け物を、さらに上位の存在が蹂躙していく。白狐はふと動きを止め、ひしゃげたクローゼットの中で震える緋依を見下ろした。
氷のように冷たく、美しい色素の薄い瞳。しかし、脳内に直接響いたその声は、ひどく穏やかだった。『――怖かった? でも、もう大丈夫だよ』
それは、絶望の底にいた緋依にとって、文字通り神の救済だった。
白狐はそれ以上何も語らず、身を翻して再び嵐の夜へと消えていった。残された異形たちをすべて打ち倒すために。すべてが終わり、静寂が戻った頃。
よろよろとクローゼットから這い出した緋依を抱き留めたのは、特務軍の兵士たちだった。「生存者がいました! まだ幼い子供です」
怪我人の救助にあたっていた赤髪の女性――火野玲奈が、緋依の肩を抱いて毛布をかける。
その様子を、冷ややかに見下ろす長身の男がいた。若き日の鷺原斎だった。
彼はしゃがみ込み、恐怖と涙に濡れた緋依の顔を覗き込んだ。「両親は?」
「……あっちで、化け物に……」 「そうか。気の毒に」鷺原の言葉には、同情の色が薄かった。彼の視線は、緋依の悲劇ではなく、彼女の〝深紅の瞳〟に釘付けになっていたからだ。
莫大な魔力を宿す、生贄の証。
この時すでに、緋依の残酷な運命は決定づけられていたのだ。「――それが、私と白玖様の初めての出会いでした」
特別室の静寂の中、緋依はふわりと微笑んで話を結んだ。
白玖はティーカップを持ったまま、微動だにせず緋依を見つめていた。その氷のような瞳の奥で、微かな動揺がさざ波のように広がっていく。だが、彼はすぐに唇の端を吊り上げ、いつもの飄々とした態度を取り繕った。
「……へえ。まあ、僕はもう何百年も生きてるからね。いちいち誰を救ったかなんて覚えてないな」
突き放すような言葉。だが、緋依は気にした様子もなく「そうですよね」と頷いた。
「でも、生きててよかった」
白玖はカップをテーブルに置き、緋依へと身を乗り出した。
「君のおかげで、今年も異形をたくさん屠れるからね」
ゾッとするような、凍てつく殺気が部屋を満たした。
それは、〝異形〟という存在そのものへ向けられた、純粋で底なしの憎悪。 そして同時に、人間などいつでも噛み砕けるという、捕食者としての絶対的な冷酷さだった。息が詰まるほどの威圧感に、緋依は思わず肩をビクンと跳ねさせる。
しかし、白玖はすぐに「なんちゃって」とおどけるように笑い、殺気を綺麗に引っ込めた。「それで? 両親が死んだあとはどうしたのさ。親戚の家にでもたらい回しにされたわけ?」
意地悪な質問に、緋依はふるふると首を横に振った。
「いいえ。身寄りがいなかったので、孤児院に引き取られました。でも、そこはとても温かい場所だったんです」
緋依の深紅の瞳が、再び優しい光を帯びる。
「孤児院の先生方も、近所の人たちも、私を本当の子供のように可愛がってくれました。私が寂しくないようにって、お誕生日の日には街のパン屋さんがケーキを焼いてくれたり、お花屋さんが花冠を作ってくれたり……」
悲惨な過去を背負いながらも、彼女の口から語られるのは、人々の優しさと愛情に満ちた思い出ばかりだった。
「たくさんの人に愛してもらえたから。だから私は、この世界が、人間が、大好きなんだと思います」
屈託なく笑うその顔は、眩しいほどに純粋だった。
白玖は、黙って彼女の言葉を聞いていた。
胸の奥で、どす黒い何かが渦を巻く。(……僕とは、真逆だ)
人間など、醜く残酷で、いつでも喰い殺せるちっぽけな餌に過ぎない。それが数百年間、彼がこの目で見てきた絶対的な真実だった。
それなのに、目の前で笑うこの少女は、自分が憎んでやまない人間たちからたっぷりと愛情を注がれ、光の中で真っ直ぐに育ってきたのだという。ひどく不快だった。自分が信じてきた世界の法則を、いとも簡単に否定されているようで。
けれど――。(どうして、こんなにも目が離せないんだろうな)
理解できない存在のはずなのに、彼女が笑うたびに、氷で閉ざされていたはずの心の奥底が、ちりちりと焦げるように熱を帯びていく。
「……君は本当に、呆れるくらいおめでたい奴だね」
ため息まじりに吐き捨てながらも、白玖の細められた瞳には、彼自身すらまだ気づいていない、微かな熱情が揺らめいていた。
あれから、数年の月日が流れた。 厚い雲に覆われ、常にどこか重苦しい空気が漂っていた帝都の空は、今では嘘のように高く澄み渡っている。 暖かな春の陽射しが、復興と発展を続ける白嶺の街並みを優しく照らし出していた。 特務軍本部の最上階。総帥室の大きな窓際に立ち、鷺原は平和を取り戻した帝都の景色を静かに見下ろしていた。「鷺原総帥……」 背後から静かな足音が近づき、鷺原の銀色の長髪に舞い込んでいた一枚の桜の花びらが、そっと取り払われた。 振り返ると、そこには火野が立っていた。 彼女の右腕の袖からは、特注で作られた精巧な機械仕掛けの義手が覗いている。あの日、命と引き換えに失われた腕の代わりだった。「彼らは……まだ、どこかで生きているのでしょうか」 火野の問いかけに、鷺原は再び窓の外へと視線を戻し、ふっと目を細めた。「せっかく平和な世界になったんだ。……生きていてもらわないと困る」 ――あの日。 ジェネシスという強大な悪意が打ち倒され、すべてが終わった直後。 菫川の手配した特務軍の特別救護班が、崩落の危険が迫る海底研究所の最深部へとついに突入を果たした。 しかし、血の海と化した研究室に残されていたのは、意識を失い倒れていた鷺原と火野の二人だけだった。 絶対的な力を持っていた白玖も、彼を最期まで支え抜いた緋依の姿も、そこにはなかった。 ひび割れた冷たい金属の床には、緋依が流したであろう絶望的な量の血痕が広がっていた。 そしてその中心には、薄紅色のガラス細工の桜の破片と、雪のように白い獣の毛がいくつか落ちているだけだった。 どれほど部隊を動員して瓦礫を退けようと、二人の遺体はどこにも見つからなかった。 ただ一つ、鷺原たちが決して公にはせず、特務軍の極秘記録にも残さなかった事実がある。 研究所から地上へと続く、長く薄暗い連絡通路。 その冷たい床には、血に濡れた巨大な獣の足跡が点々と残されていた。 その足跡は途中から、もう一匹分の小さな足跡と並んでいたのだ。 巨大な獣の歩幅に合わせるように、そして、互いに寄り添いかばうように歩く、一回り小さな獣の足跡が。 その事実だけが、二人が人間という枠組みを超えて生き延びているという、鷺原たちの唯一の希望だった。 特務軍の技術研究局。 ひっそりとした個室の研究室で、菫川は分厚い資料の山に囲まれな
腹部を貫かれた緋依の小さな身体が、無慈悲に宙へと持ち上げられた。 ジェネシスの異形化した強靭な腕が、血に染まった緋依の首根っこを乱暴に掴み上げている。「あーあ。君は次の母体にするつもりだったのに。抵抗するもんだから……致命傷になってしまったかな?」「ぐっ……うう……ッ」 緋依の口から、ごぼりと赤黒い血が溢れ落ちる。ジェネシスはつまらなそうに目を細め、血の海に沈む床を見下ろした。「出血が多いなぁ。これはダメかな? また次の母体を探さないと……」「緋依ッ!」 総帥が血を吐くような悲鳴を上げ、満身創痍の身体を引きずって駆け寄ろうとする。 だが、ジェネシスが煩わしそうに指先を振ると、亜空間から射出された二本の骨の槍が、総帥の右腕と左足を容赦なく床へと縫い留めた。「がはっ……!!」「鷺原総帥……ッ!」 動けない火野が絶望の声を上げる。 最高戦力である白玖は操られ、他の三人は瀕死の重傷。 もはや万事休す――誰もがそう死を覚悟した、まさにその時だった。『……申し訳ありません。少々、手間取ってしまいました』 突然、研究室に設置されたスピーカーから、聞き慣れた青年の声が響き渡った。 ――技術研究局の菫川主任だ。 直後、壁一面を覆っていた巨大なモニター群が激しく明滅を始め、白玖を縛っていた赤い命令コードが次々とエラーを吐き出して崩壊していく。「なんだ……? 外部からのハッキングだと!?」 ジェネシスが驚愕の声を上げたのと同時に、白狐の氷のような瞳に、確かな理性の光が戻った。 白玖がハッと息を呑み、周囲の惨状を見渡す。 右腕を失い血だまりに伏す火野。四肢を貫かれ倒れる総帥。そして、ジェネシスに首を掴まれ、腹部から絶望的な量の血を流している愛しい少女の姿。 床には、彼が贈ったガラス細工の桜の髪飾りが、無残に砕け散っていた。『こ、これは……ッ!』『白玖様! そちらの惨状はモニター越しに確認しています。ですが、今は創造主を倒すことを最優先でお願いします!』 菫川の悲痛な叫びが、白玖の脳髄を叩き起こした。 次の瞬間、白玖の全身から、これまでとは比べ物にならないほど禍々しく、そして純粋な殺意を帯びた魔力の暴風が吹き荒れた。『お前っ……よくもッ!!』 怒髪天を衝くとはこのことだった。 激昂した白玖の巨体が、一瞬で音を置き去りにした。 ジ
「緋依……ッ!」 おぞましい骨の触手によって空高く吊るし上げられた緋依の姿に、総帥の悲痛な叫びが研究室に響き渡った。 今すぐにでも助けに向かいたい。だが、総帥の目の前には自我を奪われた白玖の容赦ない猛攻と、異形と化したジェネシスの長大な鉤爪が立ちはだかっていた。 二体の規格外の化け物を相手に、剣の達人である総帥でさえ、ギリギリのところで致命傷を躱すのが精一杯という絶望的な状況だった。(このままでは、ジリ貧だ……っ!) 総帥は歯を食いしばり、大太刀を大きく振りかぶった。 狙うのは――白玖。 総帥は心を鬼にして白狐の巨体の懐へと潜り込むと、その太い前脚を非情にも両断した。 白玖が痛みに身をよじり、体勢を崩す。〝異形〟の細胞を持つ白玖の肉体は瞬時に修復を開始するが、完全に元通りになるまでにはほんのわずかなタイムラグが生じる。 総帥が作り出した、一瞬の隙。 それを逃さず、総帥は標的をジェネシスへと切り替え、床を蹴って肉薄した。 しかし、ジェネシスは発達した両腕を使って信じられないほどの敏捷さで後退し、虚空に無数の黒い穴を開いた。 亜空間から、鋭く研ぎ澄まされた槍のような骨が次々と射出され、総帥を串刺しにしようと襲いかかる。 総帥は神速の太刀捌きで飛来する骨を弾き落としていくが、その動きを制限された隙を突き、ジェネシスの巨大な鉤爪が横薙ぎに振り抜かれた。「ぐっ……!」 間一髪で身を反らして回避したものの、鋭い爪の先端が総帥の胸元を掠めた。分厚い軍服が引き裂かれ、空中に鮮血が散る。 わずかに体勢が崩れたその絶対的な死角から、ひときわ太く鋭い骨が、総帥の無防備な喉笛めがけて突き出された。「……ッ!」 吊るし上げられていた緋依は、その光景に息を呑んだ。 助けなければ。しかし、首元を骨の触手にきつく締め付けられているため、声が出せず魔法の詠唱ができない。視界が涙で滲む中、緋依はただ絶望することしかできなかった。 だがその時、鼓膜を劈くような銃声が室内に轟いた。 ドガァンッ! という炸裂音と共に、総帥の喉を貫く寸前だった極太の骨が粉々に砕け散る。「火野……!」 総帥が視線を向けた先には、右腕を失い血溜まりの中に倒れ伏しながらも、残された左手一本で大型拳銃を構える火野の姿があった。 激痛と失血で顔面は蒼白になり、息も絶え絶えでありながら、
ひときわ重厚な金属の扉。 総帥と白玖が力を合わせてその鋼鉄をこじ開けた先に広がっていたのは、先ほどまでの無機質な通路とは打って変わった、広大な研究室だった。 壁一面を埋め尽くすほどの無数の巨大なモニターが、血のような赤い光や昏い緑のデータを明滅させている。 空調の低い稼働音だけが響くその空間の中央に、一人の男が立っていた。 伸びきった黒髪を低い位置で無造作に纏め、口元には無精髭をたくわえ、着古してヨレヨレになった白衣を羽織っている。分厚い眼鏡の奥の瞳は、知性と狂気が入り混じった異様な光を放っていた。 彼こそが、すべての〝異形〟を生み出した元凶であり、白玖の父親――創造主だった。「やぁ。よく来たね。我が息子よ」 親が子を出迎えるような、ひどく穏やかで狂気に満ちた声だった。 白玖は無言のまま、氷のような瞳で男を睨みつける。「兄弟たちや、あまつさえ母さんまでも手にかけたか。実に、実に罪深い。……この私、父さんまで手にかけるつもりかい?」「……黙れっ!!」 白玖の怒りが臨界点を突破し、凄まじい魔力の風が吹き荒れた。 瞬時に巨大な九尾の白狐へと顕現し、殺意を剥き出しにして牙を鳴らす。 緋依、総帥、火野の三人もそれぞれ武器と魔力を構え、臨戦態勢をとった。 しかし、ジェネシスは微塵も怯えることなく、むしろ口元を歪めて嗤った。「くくっ。出来損ないと言えど、貴様も私の細胞を受け継いだ我が息子であることには違いないのだよ。……個体番号127」 ジェネシスが手元のコンソールを操作すると、壁一面のモニターに不気味な文字列が高速で流れ始めた。『――創造主の意志に従い、人類を殲滅せよ』 無機質な電子音声が研究室に響き渡った瞬間だった。 顕現していた白玖の巨体が、ビクンと大きく跳ねた。氷のような瞳から光が失われ、底なしの暗闇のように濁っていく。 次の瞬間、白玖の強靭な顎が、目の前のジェネシスではなく――真横にいた総帥へと猛スピードで襲いかかったのだ。「なに……っ!?」 総帥が咄嗟に大太刀を盾にして白玖の重い一撃をいなすが、その凄まじい衝撃に後方へと弾き飛ばされる。「白玖様!?」 突然の狂行に緋依は悲鳴を上げた。火野も絶望の色を浮かべ、瞬時に銃を構える。 白玖の意志とは無関係に、彼の肉体はジェネシスの命令コードに完全に支配されて
ゆっくりと上昇した防護壁の奥、昏い緑色の非常灯に照らし出されたその姿は、この世のあらゆる悪夢を煮詰めたような冒涜的な存在だった。 上半身は、真っ白な肌をした人間の女性の形を保っていた。床一面を這い回るほど長い白い髪の隙間から覗く顔立ちは、恐ろしいほどに整っている。 しかし、その顔の半分を占めるような氷の色をした大きな瞳は今にも零れ落ちそうに見開かれ、絶え間なく黒い涙を流し続けていた。 だが、真に悍ましいのはその下だ。 女性の腹部は、極限まで風船を膨らませたかのように異様に張り裂けそうに膨れ上がっており、薄い皮膚の下で複数の〝異形〟の胎児たちが、ボコボコと不気味に蠢いているのが透けて見えた。 そして、腰から下は人間ではなく、赤黒い甲殻に覆われた巨大なムカデのような節足の群れへと変貌していたのだ。「キィィィィィィィィィィッ!!」 それは言葉を紡ぐことはなく、ただ鼓膜を劈くような奇声を上げた。彼女の自我はすでに失われ、膨れ上がった腹の中の〝子供たち〟を守り、近づく者を敵味方構わず排除するという原始的な本能だけで動くマザーと化していた。「うわ……っ」 想像を絶するおぞましさに、白玖が思わず後ずさった。 海への恐怖に加え、極度の虫嫌いである彼にとって、実の母親が巨大な多足の化け物になり果てているという現実は、視覚的にも精神的にも致命的なダメージだった。「臆したか、白玖! それでも貴様は神か!」 鷺原総帥の鋭い一喝が、凍りついた空気を叩き割った。「嫌だよ、あんな気持ち悪いの……!」「泣き言をほざく暇があるなら、さっさと顕現しろ!」 総帥に容赦なく叱咤され、白玖は顔を引き攣らせながらも膨大な魔力を解放し、嫌々ながら九尾の巨大な白狐へと姿を変えた。 その直後、マザーの無数の脚が床を削りながら、凄まじい速度で襲いかかってきた。巨大な外見からは想像もつかないほどの俊敏さだ。『狭いってばっ!』 白玖が狭い通路で巨体を翻して回避しようとした瞬間、その太い尻尾が背後に並んでいた巨大な培養槽に激突してしまった。 ガシャンッ、と分厚いガラスが砕け散り、緑色の液体と共に、まだ未成熟の〝異形〟の幼体たちが大量に床へとこぼれ落ちる。「おい、敵を増やしてどうする!」『うるさいなぁ! わざとじゃないしっ!』 総帥の呆れたような声に反論しながら、白玖は強靭な顎
冷たい潮風が吹きすさぶ崖にカモフラージュされていた岩肌の奥。巨大で錆び付いた昇降機は、酷く嫌な軋み音を立てながら、昏く冷たい海底へとゆっくりと下っていく。 海への異常な恐怖を抱える白玖は、昇降機の壁に寄りかかりながら、あからさまに顔色を悪くしていた。緋依は彼の大きな手にそっと自分の手を重ね、静かに互いの体温を分け合う。「へぇ……こんなところ、よく見つけたねぇ」 白玖が気を紛らわすように、努めて普段通りの飄々とした口調で言った。すると、昇降機の真ん中で腕を組む鷺原総帥が、銀色の長髪を揺らしながらジロリと白玖を睨む。「……お前たちが、逢瀬にいそしんでいる間も探し続けていたからな」「ぼ、僕たちも一応は探してたんだけどね」 気まずそうに視線を逸らす白玖。 これから世界の命運を懸けた最終決戦だというのに、緊迫感のかけらもない軽口を叩き合う男性陣を見て、緋依は思わず大きなため息をついた。 隣に立つ赤髪の火野参謀官も、愛用の大型拳銃の弾倉を確認しながら「まったく、うちのトップは……」と呆れ果てた顔をしている。 やがて、ガコンという重い衝撃と共に昇降機が停止した。 分厚い鉄の扉が、鈍い音を立てて左右に開く。 その先にある光景を見て、緋依は息を呑んだ。 そこは、不気味なほどに真っ白な研究施設だった。 ガラス張りの無機質な実験室、緑色の液体で満たされた巨大な培養槽、そしてどこまでも続く長い無人の廊下。数百年前からこの海底に沈んでいるはずなのに、まるで昨日まで稼働していたかのように保存状態が良い。 だが、誰もいない。ただ空調の音だけが響く、静かすぎる空間だった。「気味が悪いですね……」 緋依が呟いたその時。 警戒しながら白玖が施設内の床へ一歩足を踏み入れた途端、冷たい電子音が廊下に響き渡った。『──生体反応を確認。排除プロセスに移行します』 ガシャンッ! と背後の昇降機の扉が完全にロックされ、同時に天井のパネルが次々と吹き飛んだ。 落ちてきたのは、気配を持たない改良型の〝異形〟の群れだ。 一瞬にして戦闘態勢に入った白玖は、膨大な魔力を解放し、巨大な九尾の白狐へと姿を変える。しかし。『っ、せまっ! 動きにくっ!』 野外戦を得意とする白玖の巨体にとって、この閉鎖された無機質な廊下はあまりにも戦いづらかった。壁に尻尾が激突し、思うように身動きが







