LOGIN泥だらけの顔を綻ばせる緋依の頭上から、ひどく穏やかな声が降ってきた。
「素晴らしい初陣だった。よく生きて帰ってくれたね、藍沢緋依」
振り返ると、そこには一人の長身の男が立っていた。
低い位置で無造作に束ねられた長い銀髪。特務軍の白い軍服を着崩し、腰には身の丈ほどもある大太刀を佩いている。引き締まった痩躯に、女と見紛うほど整いすぎた美貌を持った男だった。 光の粒となって人間の姿へと戻った白玖が、面倒くさそうに口を開く。「……お出ましか、総帥殿」
階級制度に属さない白玖に対し、斎は敬意を込めて恭しく頭を下げた。彼に怯える様子は微塵もない。
そして、へたり込む緋依に目線を合わせ、優しく微笑みかけた。「君の魔法による援護は見事だった。今日はもう特別室へ戻り、二人でゆっくりと休むといい」
国と民を守るという絶対的な覚悟を持った、総帥としての労いの言葉。
しかし、彼がどれだけ優しく声をかけてくれようと、緋依が十五歳の満月の夜に喰われる運命を、彼が変えようとしないことも緋依は知っていた。 この優しさの裏には、冷徹なまでの合理主義が潜んでいるのだ。「鷺原総帥。神と生贄の慰労も結構ですが、早く指示を出してください。被害状況の集約と負傷者の搬送が滞っていますよ」
そこへ、足早にやってきた赤髪の女性が容赦のない声をかけた。
短く切り揃えられた髪と、鋭い眼光。特務軍首席参謀官の「やれやれ、玲奈は相変わらずせっかちだ。では白玖、あとは頼んだよ」
斎は苦笑しながら、足早に去っていく玲奈の背中を追って瓦礫の向こうへと消えていった。
特務軍本部、最上階の特別室。
備え付けられた広い浴室で戦いの汚れを洗い流し、身を清めた二人は、ようやく静かな夜の時間を迎えていた。真新しい部屋着に着替えた緋依は、長椅子に腰掛ける白玖の隣に歩み寄り、そっと自らの腕を差し出した。お風呂上がりの白い肌から、仄かに甘い魔力の香りが漂う。
「あ、あの……白玖様。魔力の補給は大丈夫ですか?」
今日の激戦で、白玖は大きな力を消費したはずだ。そう思っての行動だったが、白玖は差し出された細い腕を一瞥し、ふいっと視線を外した。
「……いらないよ」
「ですが、あれだけの数の〝異形〟を相手にしたのですから……」 「君さ、自分が何番目の生贄か分かってる?」冷たい声だった。白玖は自嘲するように口の端をわずかに歪める。
「僕はつい先日、十五歳になった前の生贄を喰らったばかりなんだよ。その莫大な魔力が、まだ腹の底に残ってる。だから血なんて吸わなくても、当分は平気だ」
「あ……」緋依は差し出した手を、ゆっくりと下ろした。
分かっていたことだ。白玖がこれまで何人もの少女を喰らって生きてきたことなど。しかし、彼自身の口からはっきりと「喰らったばかりだ」と告げられると、胸の奥がきゅっと冷たく締め付けられるような、なんとも言えない痛みが走った。 自分の前の少女も、今の自分と同じように彼と血を分け合い、そして残酷に命を散らしていったのだろうか。沈み込む心を悟られまいと、緋依は痛みを堪えて窓辺へと歩み寄った。
眼下には、彼らが今日命懸けで守り抜いた帝都の夜景が広がっている。無数の灯りが星空のように瞬き、人々の平穏な営みが確かにそこにあった。(……大丈夫。この大好きな美しい世界を守れるなら、私の命なんて安いものだわ)
そう心の中で強く唱え、無理やりに己を奮い立たせる。そして振り返った緋依の顔には、いつもの眩しい笑顔が貼り付いていた。
「あ、ではご飯を食べますか!? すぐ作りますね!」
わざと明るい声を出し、緋依は手早くキッチンスペースへと向かう。
あっという間にテーブルに並べられたのは、黄金色に輝く卵でふんわりと包まれた、色鮮やかなオムライスだった。 白玖は呆れたようにため息をつく。「あのねえ。君のように、僕の世話係まで嬉々として買って出るような生贄、今まで一人もいなかったんだけど」
「ふふっ、自信作ですよ。さあ、冷めないうちにどうぞ!」文句を言いながらも、白玖はスプーンを手に取った。そして一口食べた瞬間、ふっと目元を緩め、素直にスプーンを進める速度を上げた。その無防備で穏やかな表情を見ているだけで、緋依の胸の痛みは少しずつ温かいものへと溶けていく。
食後の茶を飲みながら、白玖がふと尋ねてきた。
「そういえば。今日初めて〝異形〟と戦ってみて、どうだった?」
「怖かったです。足がすくんで、逃げ出したいくらいでした」緋依は正直に答えた後、照れくさそうにはにかんだ。
「でも、戦う白玖様は、とてもかっこよかったです。私、ずっとずっと憧れていたから……あんなに間近でその姿を見ることができて、本当に感慨深いです」
「憧れ?」白玖は思わず眉をひそめた。人喰いの兵器である自分に向ける言葉として、それはあまりにも不釣り合いだったからだ。
緋依は深紅の瞳を細め、大切な宝物を思い出すようにそっと微笑んだ。「はい。実は私――幼い頃、白玖様に助けていただいたことがあるのです」
その言葉に、白玖は微かに息を呑み、手にしていたティーカップをテーブルに置いた。
カチャリと、陶器の触れ合う乾いた音が静かな部屋に響く。 数百年生きる彼にとって、人間の命などひどく脆く、記憶に留める価値もないものだった。誰を助け、誰を見捨ててきたかなど、血塗られた長い年月の底に沈んで久しい。しかし、目の前に座る少女の深紅の瞳は、嘘偽りのない絶対的な信頼と、神に向けるにはあまりにも純粋で、狂おしいほどの〝熱〟を帯びて彼を見つめている。
「……僕が、君を?」
白玖の戸惑うような低い声に、緋依は静かに、けれど力強く頷いた。
あれから、数年の月日が流れた。 厚い雲に覆われ、常にどこか重苦しい空気が漂っていた帝都の空は、今では嘘のように高く澄み渡っている。 暖かな春の陽射しが、復興と発展を続ける白嶺の街並みを優しく照らし出していた。 特務軍本部の最上階。総帥室の大きな窓際に立ち、鷺原は平和を取り戻した帝都の景色を静かに見下ろしていた。「鷺原総帥……」 背後から静かな足音が近づき、鷺原の銀色の長髪に舞い込んでいた一枚の桜の花びらが、そっと取り払われた。 振り返ると、そこには火野が立っていた。 彼女の右腕の袖からは、特注で作られた精巧な機械仕掛けの義手が覗いている。あの日、命と引き換えに失われた腕の代わりだった。「彼らは……まだ、どこかで生きているのでしょうか」 火野の問いかけに、鷺原は再び窓の外へと視線を戻し、ふっと目を細めた。「せっかく平和な世界になったんだ。……生きていてもらわないと困る」 ――あの日。 ジェネシスという強大な悪意が打ち倒され、すべてが終わった直後。 菫川の手配した特務軍の特別救護班が、崩落の危険が迫る海底研究所の最深部へとついに突入を果たした。 しかし、血の海と化した研究室に残されていたのは、意識を失い倒れていた鷺原と火野の二人だけだった。 絶対的な力を持っていた白玖も、彼を最期まで支え抜いた緋依の姿も、そこにはなかった。 ひび割れた冷たい金属の床には、緋依が流したであろう絶望的な量の血痕が広がっていた。 そしてその中心には、薄紅色のガラス細工の桜の破片と、雪のように白い獣の毛がいくつか落ちているだけだった。 どれほど部隊を動員して瓦礫を退けようと、二人の遺体はどこにも見つからなかった。 ただ一つ、鷺原たちが決して公にはせず、特務軍の極秘記録にも残さなかった事実がある。 研究所から地上へと続く、長く薄暗い連絡通路。 その冷たい床には、血に濡れた巨大な獣の足跡が点々と残されていた。 その足跡は途中から、もう一匹分の小さな足跡と並んでいたのだ。 巨大な獣の歩幅に合わせるように、そして、互いに寄り添いかばうように歩く、一回り小さな獣の足跡が。 その事実だけが、二人が人間という枠組みを超えて生き延びているという、鷺原たちの唯一の希望だった。 特務軍の技術研究局。 ひっそりとした個室の研究室で、菫川は分厚い資料の山に囲まれな
腹部を貫かれた緋依の小さな身体が、無慈悲に宙へと持ち上げられた。 ジェネシスの異形化した強靭な腕が、血に染まった緋依の首根っこを乱暴に掴み上げている。「あーあ。君は次の母体にするつもりだったのに。抵抗するもんだから……致命傷になってしまったかな?」「ぐっ……うう……ッ」 緋依の口から、ごぼりと赤黒い血が溢れ落ちる。ジェネシスはつまらなそうに目を細め、血の海に沈む床を見下ろした。「出血が多いなぁ。これはダメかな? また次の母体を探さないと……」「緋依ッ!」 総帥が血を吐くような悲鳴を上げ、満身創痍の身体を引きずって駆け寄ろうとする。 だが、ジェネシスが煩わしそうに指先を振ると、亜空間から射出された二本の骨の槍が、総帥の右腕と左足を容赦なく床へと縫い留めた。「がはっ……!!」「鷺原総帥……ッ!」 動けない火野が絶望の声を上げる。 最高戦力である白玖は操られ、他の三人は瀕死の重傷。 もはや万事休す――誰もがそう死を覚悟した、まさにその時だった。『……申し訳ありません。少々、手間取ってしまいました』 突然、研究室に設置されたスピーカーから、聞き慣れた青年の声が響き渡った。 ――技術研究局の菫川主任だ。 直後、壁一面を覆っていた巨大なモニター群が激しく明滅を始め、白玖を縛っていた赤い命令コードが次々とエラーを吐き出して崩壊していく。「なんだ……? 外部からのハッキングだと!?」 ジェネシスが驚愕の声を上げたのと同時に、白狐の氷のような瞳に、確かな理性の光が戻った。 白玖がハッと息を呑み、周囲の惨状を見渡す。 右腕を失い血だまりに伏す火野。四肢を貫かれ倒れる総帥。そして、ジェネシスに首を掴まれ、腹部から絶望的な量の血を流している愛しい少女の姿。 床には、彼が贈ったガラス細工の桜の髪飾りが、無残に砕け散っていた。『こ、これは……ッ!』『白玖様! そちらの惨状はモニター越しに確認しています。ですが、今は創造主を倒すことを最優先でお願いします!』 菫川の悲痛な叫びが、白玖の脳髄を叩き起こした。 次の瞬間、白玖の全身から、これまでとは比べ物にならないほど禍々しく、そして純粋な殺意を帯びた魔力の暴風が吹き荒れた。『お前っ……よくもッ!!』 怒髪天を衝くとはこのことだった。 激昂した白玖の巨体が、一瞬で音を置き去りにした。 ジ
「緋依……ッ!」 おぞましい骨の触手によって空高く吊るし上げられた緋依の姿に、総帥の悲痛な叫びが研究室に響き渡った。 今すぐにでも助けに向かいたい。だが、総帥の目の前には自我を奪われた白玖の容赦ない猛攻と、異形と化したジェネシスの長大な鉤爪が立ちはだかっていた。 二体の規格外の化け物を相手に、剣の達人である総帥でさえ、ギリギリのところで致命傷を躱すのが精一杯という絶望的な状況だった。(このままでは、ジリ貧だ……っ!) 総帥は歯を食いしばり、大太刀を大きく振りかぶった。 狙うのは――白玖。 総帥は心を鬼にして白狐の巨体の懐へと潜り込むと、その太い前脚を非情にも両断した。 白玖が痛みに身をよじり、体勢を崩す。〝異形〟の細胞を持つ白玖の肉体は瞬時に修復を開始するが、完全に元通りになるまでにはほんのわずかなタイムラグが生じる。 総帥が作り出した、一瞬の隙。 それを逃さず、総帥は標的をジェネシスへと切り替え、床を蹴って肉薄した。 しかし、ジェネシスは発達した両腕を使って信じられないほどの敏捷さで後退し、虚空に無数の黒い穴を開いた。 亜空間から、鋭く研ぎ澄まされた槍のような骨が次々と射出され、総帥を串刺しにしようと襲いかかる。 総帥は神速の太刀捌きで飛来する骨を弾き落としていくが、その動きを制限された隙を突き、ジェネシスの巨大な鉤爪が横薙ぎに振り抜かれた。「ぐっ……!」 間一髪で身を反らして回避したものの、鋭い爪の先端が総帥の胸元を掠めた。分厚い軍服が引き裂かれ、空中に鮮血が散る。 わずかに体勢が崩れたその絶対的な死角から、ひときわ太く鋭い骨が、総帥の無防備な喉笛めがけて突き出された。「……ッ!」 吊るし上げられていた緋依は、その光景に息を呑んだ。 助けなければ。しかし、首元を骨の触手にきつく締め付けられているため、声が出せず魔法の詠唱ができない。視界が涙で滲む中、緋依はただ絶望することしかできなかった。 だがその時、鼓膜を劈くような銃声が室内に轟いた。 ドガァンッ! という炸裂音と共に、総帥の喉を貫く寸前だった極太の骨が粉々に砕け散る。「火野……!」 総帥が視線を向けた先には、右腕を失い血溜まりの中に倒れ伏しながらも、残された左手一本で大型拳銃を構える火野の姿があった。 激痛と失血で顔面は蒼白になり、息も絶え絶えでありながら、
ひときわ重厚な金属の扉。 総帥と白玖が力を合わせてその鋼鉄をこじ開けた先に広がっていたのは、先ほどまでの無機質な通路とは打って変わった、広大な研究室だった。 壁一面を埋め尽くすほどの無数の巨大なモニターが、血のような赤い光や昏い緑のデータを明滅させている。 空調の低い稼働音だけが響くその空間の中央に、一人の男が立っていた。 伸びきった黒髪を低い位置で無造作に纏め、口元には無精髭をたくわえ、着古してヨレヨレになった白衣を羽織っている。分厚い眼鏡の奥の瞳は、知性と狂気が入り混じった異様な光を放っていた。 彼こそが、すべての〝異形〟を生み出した元凶であり、白玖の父親――創造主だった。「やぁ。よく来たね。我が息子よ」 親が子を出迎えるような、ひどく穏やかで狂気に満ちた声だった。 白玖は無言のまま、氷のような瞳で男を睨みつける。「兄弟たちや、あまつさえ母さんまでも手にかけたか。実に、実に罪深い。……この私、父さんまで手にかけるつもりかい?」「……黙れっ!!」 白玖の怒りが臨界点を突破し、凄まじい魔力の風が吹き荒れた。 瞬時に巨大な九尾の白狐へと顕現し、殺意を剥き出しにして牙を鳴らす。 緋依、総帥、火野の三人もそれぞれ武器と魔力を構え、臨戦態勢をとった。 しかし、ジェネシスは微塵も怯えることなく、むしろ口元を歪めて嗤った。「くくっ。出来損ないと言えど、貴様も私の細胞を受け継いだ我が息子であることには違いないのだよ。……個体番号127」 ジェネシスが手元のコンソールを操作すると、壁一面のモニターに不気味な文字列が高速で流れ始めた。『――創造主の意志に従い、人類を殲滅せよ』 無機質な電子音声が研究室に響き渡った瞬間だった。 顕現していた白玖の巨体が、ビクンと大きく跳ねた。氷のような瞳から光が失われ、底なしの暗闇のように濁っていく。 次の瞬間、白玖の強靭な顎が、目の前のジェネシスではなく――真横にいた総帥へと猛スピードで襲いかかったのだ。「なに……っ!?」 総帥が咄嗟に大太刀を盾にして白玖の重い一撃をいなすが、その凄まじい衝撃に後方へと弾き飛ばされる。「白玖様!?」 突然の狂行に緋依は悲鳴を上げた。火野も絶望の色を浮かべ、瞬時に銃を構える。 白玖の意志とは無関係に、彼の肉体はジェネシスの命令コードに完全に支配されて
ゆっくりと上昇した防護壁の奥、昏い緑色の非常灯に照らし出されたその姿は、この世のあらゆる悪夢を煮詰めたような冒涜的な存在だった。 上半身は、真っ白な肌をした人間の女性の形を保っていた。床一面を這い回るほど長い白い髪の隙間から覗く顔立ちは、恐ろしいほどに整っている。 しかし、その顔の半分を占めるような氷の色をした大きな瞳は今にも零れ落ちそうに見開かれ、絶え間なく黒い涙を流し続けていた。 だが、真に悍ましいのはその下だ。 女性の腹部は、極限まで風船を膨らませたかのように異様に張り裂けそうに膨れ上がっており、薄い皮膚の下で複数の〝異形〟の胎児たちが、ボコボコと不気味に蠢いているのが透けて見えた。 そして、腰から下は人間ではなく、赤黒い甲殻に覆われた巨大なムカデのような節足の群れへと変貌していたのだ。「キィィィィィィィィィィッ!!」 それは言葉を紡ぐことはなく、ただ鼓膜を劈くような奇声を上げた。彼女の自我はすでに失われ、膨れ上がった腹の中の〝子供たち〟を守り、近づく者を敵味方構わず排除するという原始的な本能だけで動くマザーと化していた。「うわ……っ」 想像を絶するおぞましさに、白玖が思わず後ずさった。 海への恐怖に加え、極度の虫嫌いである彼にとって、実の母親が巨大な多足の化け物になり果てているという現実は、視覚的にも精神的にも致命的なダメージだった。「臆したか、白玖! それでも貴様は神か!」 鷺原総帥の鋭い一喝が、凍りついた空気を叩き割った。「嫌だよ、あんな気持ち悪いの……!」「泣き言をほざく暇があるなら、さっさと顕現しろ!」 総帥に容赦なく叱咤され、白玖は顔を引き攣らせながらも膨大な魔力を解放し、嫌々ながら九尾の巨大な白狐へと姿を変えた。 その直後、マザーの無数の脚が床を削りながら、凄まじい速度で襲いかかってきた。巨大な外見からは想像もつかないほどの俊敏さだ。『狭いってばっ!』 白玖が狭い通路で巨体を翻して回避しようとした瞬間、その太い尻尾が背後に並んでいた巨大な培養槽に激突してしまった。 ガシャンッ、と分厚いガラスが砕け散り、緑色の液体と共に、まだ未成熟の〝異形〟の幼体たちが大量に床へとこぼれ落ちる。「おい、敵を増やしてどうする!」『うるさいなぁ! わざとじゃないしっ!』 総帥の呆れたような声に反論しながら、白玖は強靭な顎
冷たい潮風が吹きすさぶ崖にカモフラージュされていた岩肌の奥。巨大で錆び付いた昇降機は、酷く嫌な軋み音を立てながら、昏く冷たい海底へとゆっくりと下っていく。 海への異常な恐怖を抱える白玖は、昇降機の壁に寄りかかりながら、あからさまに顔色を悪くしていた。緋依は彼の大きな手にそっと自分の手を重ね、静かに互いの体温を分け合う。「へぇ……こんなところ、よく見つけたねぇ」 白玖が気を紛らわすように、努めて普段通りの飄々とした口調で言った。すると、昇降機の真ん中で腕を組む鷺原総帥が、銀色の長髪を揺らしながらジロリと白玖を睨む。「……お前たちが、逢瀬にいそしんでいる間も探し続けていたからな」「ぼ、僕たちも一応は探してたんだけどね」 気まずそうに視線を逸らす白玖。 これから世界の命運を懸けた最終決戦だというのに、緊迫感のかけらもない軽口を叩き合う男性陣を見て、緋依は思わず大きなため息をついた。 隣に立つ赤髪の火野参謀官も、愛用の大型拳銃の弾倉を確認しながら「まったく、うちのトップは……」と呆れ果てた顔をしている。 やがて、ガコンという重い衝撃と共に昇降機が停止した。 分厚い鉄の扉が、鈍い音を立てて左右に開く。 その先にある光景を見て、緋依は息を呑んだ。 そこは、不気味なほどに真っ白な研究施設だった。 ガラス張りの無機質な実験室、緑色の液体で満たされた巨大な培養槽、そしてどこまでも続く長い無人の廊下。数百年前からこの海底に沈んでいるはずなのに、まるで昨日まで稼働していたかのように保存状態が良い。 だが、誰もいない。ただ空調の音だけが響く、静かすぎる空間だった。「気味が悪いですね……」 緋依が呟いたその時。 警戒しながら白玖が施設内の床へ一歩足を踏み入れた途端、冷たい電子音が廊下に響き渡った。『──生体反応を確認。排除プロセスに移行します』 ガシャンッ! と背後の昇降機の扉が完全にロックされ、同時に天井のパネルが次々と吹き飛んだ。 落ちてきたのは、気配を持たない改良型の〝異形〟の群れだ。 一瞬にして戦闘態勢に入った白玖は、膨大な魔力を解放し、巨大な九尾の白狐へと姿を変える。しかし。『っ、せまっ! 動きにくっ!』 野外戦を得意とする白玖の巨体にとって、この閉鎖された無機質な廊下はあまりにも戦いづらかった。壁に尻尾が激突し、思うように身動きが