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第866話

Author: 錦織雫
それだけを言い放つと、笑美は迷いなく歩き去った。

世羅の瞳に浮かんでいた余裕の笑みが、すっと固まり、剥がれ落ちる。

まさか笑美から、あんなに言葉をぶつけられるとは思ってもみなかったのだ。

少し、きつかった。

だが世羅はすぐに気持ちを切り替えた。

笑美があんな負け惜しみを言うのも、手の届かないものを欲しがる惨めな悔しさからじゃないか——そう解釈すれば、どうということもない。

それに、外からの目線を気にするくらいなら……笑美以外の誰が、今のここの状況を知っているというのか。

……

笑美は一階へと降りてきた。

頭の奥が、まだじんじんと痺れるように響いていた。

世羅がまさかあそこにいるとは、完全に想定外だった。

ときどき距離感がおかしいのだろうとは思っていたが、まさかこれほど堂々と、半同棲のような状態になっているとは思ってもみなかった。

何がどうであれ。

理斗の目に、もう笑美のことなど微塵も映っていないことだけは明白だ。

こんな泥沼のゴタゴタに、これ以上一秒たりとも関わりたくなかった。

自分の車のドアに手をかけた、まさにその時。すぐ横に一台の車が滑り込むように停ま
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