和巳さんが尋ねると、秋は目を瞑ったまま涙を流した。「……先生は、もう俺のこと好きじゃないんだ。……きっと」絶対意識ははっきりしてない。それでも、それは何故か秋の本音の気がした。嗚咽はおさまりそうにない。和巳さんは困ったようにため息をつき、立ち上がった。「……ふぅ。どうしようか。もうウチに連れて帰っちゃう?」「その方がいいかもね。……あ」秋から着信音らしきものが鳴ってることに気付いて、すぐに彼のポケットからスマホを取った。画面には「先生」と表示されている。こんな時間に掛けてくるぐらいだし、きっとこの人が彼氏さんだ。「秋、電話出て。彼っ……、じゃなくて、先生からだよ。秋っ?」肩を揺らして声を掛けるも、驚くことに彼はまた眠りに落ちた。「あぁ~、どうしよう! 和巳さん、俺が出ていいと思う!?」「いいんじゃない? 借金取り以外なら」他人事だと思って、和巳さんはすっとぼけてる。しょうがない……! ただの友達、ってことで俺もすっとぼけよう。秋の彼氏の寛容さを信じて電話に出た。「も、もしもし」『もしもし……あれ? ……秋じゃないね』相手は、若くてよく通る声の男性だった。これで一層確信に近付く。「すみません、俺は秋の友達で日永といいます。実は……」彼が秋と同居してることを確認した上で、今の状況を説明した。秋が酔ったまま道端で眠ってしまったことを。────ところが。『ははっ、本当かい? それは大変だったね。いいよ、それならそのまま寝かせておいて』「えっ? いや、でも……」このまま。……って、まさかこのまま放置しとくつもりか? そんなの危なすぎる。『もう時間も遅いから危ない。秋のことはいいから、君は早く家に帰りなさい』優しい、諭すような声だ。俺を気遣ってくれてるのかもしれないけど……おかしいし、納得がいかない。「あ……秋が心配じゃないんですか? こんな場所に独りにしておくなんて危険過ぎます! 彼を放っとくつもりなら俺の家に連れて帰りますが……それでもいいですか!?」自分でもビックリするぐらい、強く訊いてしまった。隣にいる和巳さんもビックリして目を見張っている。やっばー……! 秋の彼氏さんに思いっきりケンカ売っちゃった。すぐさま後悔と罪悪感に変わり、申し訳なさに押し潰されそうになった。でも……秋の恋人だからこそ、黙ってられなかった。
翌日は、確かに大変だった。「あぁあ……こ、腰が……っ!」痛い。めっちゃくちゃ痛い。どうなってるんだ。「鈴、おはよー!」「うわああぁぁっ! 和巳さん、来ないで!!」朝、鈴鳴は自身のベッドから起き上がれず悶えていた。そんなところに顔を洗って戻ってきた和巳が抱きつこうとしてきた為、全力で拒否する。「お願い! 間違っても、今俺に抱き着かないで! 触らないで、頼むから!!」「え……お、俺何かした……?」「ううん、ごめん! 単純に、腰が痛いんだ。俺が昨日調子に乗ったせいだから、自業自得なんだけど」何とか這い上がり、腰を押さえる。「でも今触られたら本気でキレちゃいそう。自分が悪いのにね。ははは!」「鈴、何か怖いな……分かったよ、今日は絶対に抱き着かない! と言いたいんだけど、俺は自制できないんだ。鈴が近くにいると考えるより先に手が出ちゃう。暴力って意味じゃないよ。鈴が可愛くて愛おしくて、言葉じゃ伝えられない愛を与えてあげたくなるんだ。それにはやっぱりスキンシップが一番だもんね」話が長い。でもありがとう。気持ちは嬉しい。「だから、俺は今日は鈴に近付かない! これでいいかな?」「ありがとう和巳さん、すごく助かるよ。痛みってすごいよね……この腰の痛み、もし触られたらどんなに大事な人でも二度と顔を見たくなくなりそう」「分かった。俺ももうちょっと加減すれば良かった。本当にごめんなさい」「いやいや、俺が悪いんだから謝らないで。それより朝ごはん食べよう!」激痛のあまり刺々しい物言いをしてしまった。罪悪感に浸りながら、和巳さんの声掛けに頷く。へこみそうになる自分を鼓舞して、朝の支度を始める。ご飯を食べ終えた後、俺は大学へ、和巳さんは会社へ向かう。駅の中で、スーツ姿の和巳さんと軽く手を触れた。触れたというか、ほとんど掠めるようなものだ。「鈴、何かあったらすぐに電話するんだよ! 痛くて帰れなかったら大学まで迎えに行くから」「ありがとう。でも大丈夫だよ、何とかここまで歩いて来れたし。和巳さんはお仕事頑張って!」「仕事行きたくない」「うん、分かるよ。でもこればっかりはしょうがない。頑張ってね」薄情かもしれないけど、そう言った。けど和巳さんは暗い面持ちで駅員さんを見つめている。多分、駅員さんに用があるわけじゃない。それは何となく察した。俺達の間に沈黙が流れ
和巳さんと暮らすようになってから、もう三ヶ月が経とうとしている。「そろそろ帰ってくるかな……」時間を気にしながら夕食作りに取り掛かった。できれば和巳さんが帰って来たとき、すぐに温めて出せるようにしときたい。今日の献立は鮭の西京焼きだ。一人暮らしする前に母に教わったけど、これが結構難しくて、自分が食べるために作ったことはなかった。でも大事な彼の為なら頑張って作ろうと思える。和巳さんはウチの会社に入って二ヶ月近く経つ。だいぶ慣れてきたみたいだけど、やっぱり帰ってきた時はいつも疲れた顔をしてるから、美味しい物を食べさせてあげたい。……父さんも、和巳さんと会社で仲良くやってるみたいだから良かった。俺も今ではたまに、電話で話をすることがある。と言っても、まだ親子の会話とは言い難い、淡々と出来事を報告するだけの内容だけど。それでも、前とは全然違う。「ただいまー」「あっ、和巳さん、おかえりなさい!」一旦調理の手を止めて、和巳さんを出迎える。すぐに優しく抱き締められた。いつもの香水の香りに、ちょっとだけ酒と煙草の香りが混ざっていた。その変化はすぐに分かる。「和巳さん、もしかして飲んできた?」「あぁ。付き合わないといけない感じだったから、ちょっとだけね……鈴に会いたいから、早く帰りたかったよ」「お疲れさま。じゃあ、もしかしてお腹いっぱいかな? ご飯作ってたんだけど」「ご飯!? 腹なら空いてる! もちろん食べるよ!」和巳さんは一気に笑顔になった。だから俺もすぐに夕飯の支度をして、食卓に並べた。炊きたてのご飯に味噌汁と西京焼き、白菜の漬け物。地味なものばかりだけど、和巳さんは美味しそうに食べてくれるから、それを見てるだけで幸せだ。「美味い! あぁ~、鈴の手料理が食べれるなんて幸せだな」「こんなんで良ければ毎日作るよ」「ほんと? それは嬉しいなぁ……鈴、ありがとう」繁忙期でなければ和巳さんはそれほど遅くならずに帰って来るし、俺も課題が溜まってなければ家で過ごす時間がある。二人で笑い合えるこのひと時が、本当に幸せだった。そして夜が更けた頃、二人でベッドに入る。「ん……」部屋を暗くしてから、肩が当たりそうなほど近付いた。大抵はそのまま眠りに落ちるんだけど、彼の腕が首の後ろに回った時はちょっと違う。肩を掴まれて、より近くに引き寄せられる。これには正
「和巳君、今日は来てくれてありがとね。鈴鳴は迷惑かけてない? 一緒に暮らしてるって言うから、それだけが心配で」「あはは、大丈夫ですよ。叔父さんにも言ったんですけど、むしろ俺の方が助けられてます」二人はおしゃべりに夢中になってる。けど、俺はこの時点でかなり胃が痛かった。父は高確率でリビングにいる。以前なら日曜日の昼は、大抵お気に入りの古書を読んでいた。……でも大丈夫。普通に挨拶すればいいんだ。ただいまって言って、自然に寛げばいい。何も難しいことじゃない。それなのにドキドキが止まらないんだから、俺のチキンっぷりはヤバかった。けど、もう逃げるのはやめよう。ここで逃げたら何の為に和巳さんと一緒に来たのか分からない。今逃げたら、また次も逃げなきゃいけなくなる。会わないように計算して、関わらないように気を使って。……それももう、嫌だ。もう逃げるのも疲れてしまった。リビングに入る手前でちょっとだけ和巳さんを振り返ると、彼は小さく頷いた。「大丈夫」だって言ってくれてる。気がする。深呼吸して、俺も自分に言い聞かせた。「大丈夫」。確信なんてないけど、信じてる。……家族だから。意を決して、リビングへ入った。「父さん、ただいま!」「鈴鳴、おかえりー!!」……!?直後に返ってきた、明るく元気な声。俺は一瞬頭が真っ白になって、完全に固まった。何故なら、リビングで俺を待っていたのは父じゃなかったからだ。「鈴鳴? どうしたんだ、そんな硬直して」そこにいたのは母の弟、富生叔父さんだった。何故ここにいるのか分からないけど、彼は席を立って心配そうに近付いてきた。後ろでひょこっと顔を覗かせた和巳さんも、困ったように首を傾げる。「あれ……何だか正剛叔父さん……顔変わった?」いや、変わってない。別人なんだとツッコむ余裕も今の俺にはなかった。今日は一体どうしたんだろう。不思議に思って尋ねようとしたけど、その前に富生叔父さんは頭を下げた。「ごめんな、鈴鳴。今日は姉さんと義兄さんに無理を言ってお邪魔したんだ。……お前に謝りたくて」「あ、謝る?」「思い出したんだ。この前、日永さんのお宅で会合があっただろう。その後、俺は酔っ払ってお前に絡んで、酒をたくさん飲ませてしまったんだ」そうなんですか……?分からない。悪いけど全く思い出せなかった。衝撃の告白。いや、単純に俺が覚え
秋と色々話したその日の夕方、一本の電話がかかってきた。大学の帰り道、スマホがの画面を見ると“母”と表示されていた。「もしもし、母さん?どした?」『もしもし。ごめんね、急に電話して』未だ過保護な母は、二週に一回は心配して電話を掛けてくる。以前和巳さんと一緒に暮らすことを伝えたらホッとしてたけど、今日は何の用事だろう。『ちゃんとご飯食べてる?』あ、いつもと同じ内容だな。「大丈夫だよ。ていうか家事は和巳さんが手伝ってくれるからすごい楽してる」『良かった。アンタ達昔は仲良かったけど、会うのは六年ぶりだから……心配してたけど、上手くやれてるみたいね』「……うん」父とは一切連絡を取らないけど、母には色々相談ができる。けど子どもの頃は、母のことすらあまり好きじゃなかった。いつも父の味方をして、ご機嫌とりに必死だったから。……それでも一旦離れてみると、母の有り難さが分かった。本当に金欠で困ってるときは父さんに内緒でお金をカンパしてくれるし、食べ物や生活用品を送ってくれる。父の機嫌を損ねることが怖かったのかな、って気がしていた。俺と同じだったんだ。『ねぇ鈴鳴、たまには家に帰って来なさいな。大学やバイトが忙しいのは分かるけど……お父さんも寂しがってるわよ』途中まではうんうん頷いて素直に聞いていたけど、最後の台詞は聞き流せなかった。寂しがってる? 父さんが? んなバカな。『貴方がお義父さんの家で大暴れしてから特に、鈴鳴鈴鳴、って一日二回はぼやいてるのよ』「ちょっ、大暴れまではいってないよ。それに父さんが心配してるのは俺じゃなくて、面子だろ。今回のは申し訳ないけど、基本俺が変なことしないか見張っておきたいだけなんだ」彼は一度だって、俺自身を心配してくれたことなんてない。できることなら首輪を繋いで監視したいんだ。……それほどまでに、俺は彼に信用されてない。おじいちゃん家のことで、その想いは一層強くなったはずだ。『確かにお父さんは貴方に厳しいけど……貴方が嫌いだから、厳しくしてるわけじゃないのよ。それだけは分かってあげて』「……分かんないよ。だって何も言ってくれないじゃんか」つい子どもみたいに言い返してしまって、自分でも呆れて舌を出した。だけど、父はそういう人なんだ。必要最低限のことしか話さない。たまに家に帰っても、俺を見向きもしないから。『言いたいこ
俺も、できることなら堂々と恋人だと名乗りたい。けどそのせいで鈴が困ることになったら耐えられない。この秘密は絶対に隠し通さないと。しかしこの青年は、先程とはまた違う視線を向けてきた。「あぁ~、なるほど道理で……。どうも、風間秋です。鈴鳴とはサークルが一緒なんです」「そうそう、学科は違うんだけどね。実は和巳さん、秋も同せっ」鈴は何か言い掛けたけど、今度は風間君に口を手で塞がれていた。「どうせ……何?」「あー、どうせ学科移るんだろってよく言われるんですけど、俺は今のままでいいって話してるんです! 今まで勉強したこと無駄になっちゃうし」そう言って風間君はけらけら笑う。直後、少し鈴を睨んだように見えたけど……彼の口から手を離した後、また興味深そうに一歩近寄ってきた。「それは置いといて~、和巳さん……は、今日は何でここに?」「実は鈴の大学を見たくて、無理言って案内してもらってたんだ。ここは本当に綺麗で、良い所だね。設備もよく整ってるみたいだし」「へぇ。あ、アメリカにいたんでしたっけ。鈴鳴から聞いたことあるんで、知ってますよ」彼の話し方はとても自然だけど、不自然なほど鈴と密着している。肩に寄りかかるような形で、やたらベタベタしてる。ちょっと変わった子なのかな。というより、距離近くないか? 冷めた感じの子に見えたのに、鈴の頭を撫でたり頬をつついたりしてる。……本当に仲良いんだな。────いや、これって仲良いのか?「なぁ鈴鳴、俺達のサークルに連れて行ったら?」「あぁ、それはいいね! 和巳さん、一緒に行こうよ!」鈴が笑顔で手を差し伸べてくる。それ自体は嬉しいはずなのに、何かおかしい。変な気分だ。可愛く微笑む彼の手をとる。……けど、逆に引っ張って俺の方へ引き寄せてやった。「うわっ!」小柄で軽い鈴は簡単にバランスを崩し、俺の腕の中にすっぽり収まった。「か、和巳さん?」「……ごめん。今日は他に約束があるから遠慮しとくよ。また今度……ね、鈴」驚いた顔をしている鈴に笑いかける。卑怯だと思ったけど、彼は黙って頷いた。「……ごめん、秋。そういえば店予約してるの忘れてた。今日はもう帰るね」「おぉ。わかった、じゃあまたな。和巳さんも、次はのんびりできる時に来てください」「ありがとう。また遊びに来るよ」そう答えると風間君は微笑み、去って行った。俺達も