ログイン夜明けの光が、工場の高い天窓から幾筋もの白い帯となって差し込んでいた。
舞い上がる微細な鉄粉が、その光の中で静かに明滅している。シュッ、シュッと規則正しい竹箒の音が、人気のないフロアに響いていた。
佐藤は慣れた手つきで床を掃き清めていた。
彼の背中は朝日を浴びているにもかかわらず、不自然に深い影を落としている。佐藤は周囲に誰もいないことを何度も確認すると、壁際に箒を立てかけ、吸い寄せられるように第1ラインの加工機へと歩み寄った。
(……よし。昨夜のブツは無事に紛れ込んでいるはずだ。あとは俺の指紋や形跡を消して、いつも通り『おはようございます』とお嬢に言えばいい。バレるはずがない。お嬢が昨日帰ってきたのは、ただの偶然)
佐藤が加工機の裏側、配線ハブのあたりに手を伸ばした。
その瞬間。「おはよう、佐藤さん。朝早くからずいぶんと熱心ね」
冷ややかな声が機械の陰から響いた。
背後から聞こえた彼女の声に、佐藤の動きがぎくりと止ま政府の高官もまた、目の前のデータに言葉を失っていた。 彼は何度も眼鏡をかけ直し、世良グループが提示した「鉄壁の回答」を凝視している。 伊吹はその沈黙を破るように、再び口を開いた。 口元には穏やかな微笑みさえ浮かべている。 しかしその立ち姿は華麗でありながら、獲物を確実に仕留める冷酷なチェスプレイヤーのようだった。「政府高官殿。我々は期限内に、完璧な解決策を提示しました。それも当初の計画を上回る、高性能な部品と共に」 伊吹は高官へと視線を向ける。「土井精機のこの技術をプロジェクトから外せば、日本の半導体戦略そのものが根本から遅れることになります。強度が3倍の装置をオライオン社は作れますか? 排熱効率が1.5倍のラインを、彼らは提供できますか? ……できませんよね。ならば政府の下すべき決断は、自ずと明らかのはずです」 伊吹の論理は完璧である。逃げ道などどこにもない。 彼は24歳の若造として見下されていた場所で、政府と外資の巨大な権力を圧倒的な技術の裏付けを持ってねじ伏せたのだ。 高官は深く息を吐き出すと、ようやく絞り出すように声を上げた。「……分かりました。世良グループより提示された代替部品の性能、および調達計画を承認します。本プロジェクトの主導権は、引き続き世良グループが継続するものとします。オライオン社はメーヤー社の件に関して、独占禁止法に抵触しないよう、直ちに是正勧告に従ってください」 高官の言葉に、オライオンの役員たちは顔を青白くして黙り込むしかなかった。「感謝いたします。政府の賢明なご判断に」 伊吹は優雅に一礼して、オンライン会議の通信が終了した。 オライオン側と政府の接続が切れた直後、画面には伊吹と琴葉だけが残された。「……お疲れ様。見事なチェックメイトだったわね」 琴葉がマイク越しに声をかけると、伊吹はCEOの執務室で柔らかく目を細めた。 その表情は先ほどまでの冷酷な支配者のものではない。 土井家の居間で茶白の猫を撫でていた時の、あの青年のものだった。「琴葉さん
オライオンの役員たちは、勝ち誇った顔で伊吹を見つめた。「法務部を使った姑息な時間稼ぎも、ここまでですな。諦めて、我々に盤面を明け渡しなさい。子供には荷が重すぎたのですよ」 画面の中で、伊吹は瞬きをした。 外資の圧力も政府の冷遇も、年齢に対する侮りも、彼の心にはわずかの動揺も与えていないようだった。 彼はデスクの上に置かれた資料を、エレガントな仕草で横へ除けた。「メーヤー社からの部品供給停止。……ええ、確かに一時的な騒ぎにはなりました」 伊吹の声は驚くほど静かなもの。しかし部屋の隅々にまで行き渡るような通る声だった。「ですが、結論から申し上げましょう。それは、本プロジェクトにおいて些細な問題に過ぎません」「些細な問題……? 強がりも大概にしなさい。センサーハウジングがなければ、装置は完成しない!」 オライオンの役員が、苛立ちを隠さずに声を荒らげた。 伊吹はその役員を冷徹な瞳で見つめ返した。 その眼差しはお飾りなどではない。 数万人の従業員を束ねて巨大グループの頂点に君臨する、本物の支配者のものだ。「ええ。ですから、作りました」「……何?」「メーヤー社が供給を止めたなら、我々の技術力でそれを上回るものを作ればいいだけのこと。高官殿、お手元の端末に土井精機より提出された最新の性能評価レポートを共有いたしました。ご確認ください」 伊吹が操作盤をタップすると、高官とオライオン側の画面に、琴葉が作成したデータが全画面共有された。「性能評価……? 代替部品だと?」 オライオンの役員たちが、怪訝な顔で画面のデータを見つめる。「ここからの説明は、本プロジェクトの技術提携先である、土井精機の土井琴葉責任者に委ねます。琴葉さん、お願いします」 伊吹に発言権を促され、琴葉はマイクをオンにした。「土井精機の副社長、土井琴葉です。政府高官、そしてオライオン社の皆様。今画面に表示されているのは、弊社が保有する五軸加工機と、独自開発の『高排熱特殊合金』を用いて内製化した、セン
政府が指定した最終期限の日、午後1時。 琴葉は土井精機の事務所で、デスクの上の大型モニターに向かっていた。 画面には、政府、巨大テック企業オライオン・システムズ、そして世良グループの三者を繋ぐ、オンライン会議の真っ白な待機画面が表示されている。 琴葉の手元には、昨日削り出したセンサーハウジングの測定データと、性能評価レポートがタブレットに用意されていた。 彼女は今日、世良グループの技術提携先の責任者として、この最終会議にリモートで同席する。「お待たせいたしました。これより会議を始めます」 事務的なアナウンスと共に、画面が分割される。参加者たちの顔が映し出された。 中央には政府の半導体戦略を担当する高官。 その隣には、オライオン・システムズのエグゼクティブ役員たちが並んでいる。 彼らはすでに勝利を確信しているのか、画面越しにも分かるほど余裕に満ちた傲慢な笑みを浮かべていた。 そして、別のウィンドウに伊吹が現れた。 世良グループ本社のCEO執務室が映っている。 伊吹は、チャコールグレーの最高級スリーピーススーツを完璧に着こなし、デスクの前に座っていた。 その佇まいは華麗でありながら、近寄りがたいほどの冷徹さをまとっている。 髪は少しの乱れもなく、瞳には理知的な輝きが満ちている。 所作は落ち着いて、動揺は少しも感じられない。 彼がそこに座っているだけで、会議の空気が張り詰めるのが分かった。 しかいオライオンの役員たちは、画面の中の伊吹を見て鼻で笑った。見下しを隠そうともしない態度だった。「やれやれ、世良グループも焼きが回りましたな。まさかこんな大事な国のプロジェクトの最終局面に、24歳の子供を代表として寄越すとは」「先代の宗佑氏を追い落としたのも、裏で重役たちに担ぎ上げられただけのお飾りだと聞いていましたが……どうやら本当のようですね」 彼らにとって伊吹は単なる若造であり、世良家の傀儡に過ぎない。 侮りは画面越しの琴葉にもはっきりと伝わってきた。
分厚い防弾ガラスの向こう側で、主軸が高速回転を始める。 高圧の切削液が白く勢いよく噴き出す中、刃物が特殊合金のブロックへと迫った。 ギィィィン、という硬い金属同士が削り合う鋭い音が工場に響き渡る。「主軸の負荷メーター、安定しています。ビビリもありません」 琴葉は操作盤の数値を食い入るように見つめた。 プログラムの真価が問われるのはここからだ。 荒加工が終わり、複雑な内部水路の仕上げ加工へと移る。 五軸加工機のテーブルが滑らかに傾斜し、同時に主軸が斜め方向から入り込んでいく。 機械全体がまるで生き物のように連動し、刃先を不可能と思われた奥の曲面へと送り届ける。 職人たちは固唾をのんでその動きを見守っていた。「すげえな……刃物の動きに一切の迷いがない。干渉ギリギリのところを、ミリ単位の隙間でかわして削っていきやがる」「特殊合金の熱も、上手く逃がせているみたいだ。切り粉の排出も完璧だぞ」「さすがはお嬢だ。ここまで見事にやってみせるとは」 小さく交わされる会話は、驚きを含んでいる。 切削加工はそれから数時間にわたって行われた。一瞬たりとも気の抜けない過酷な作業だった。 やがて主軸の回転が止まり、切削液の噴射が停止した。 エアブローが吹き付けられ、白く濁った液が吹き飛ばされると、そこには図面と寸分違わぬ、複雑で美しい曲面を持ったセンサーハウジングが姿を現した。「すぐに三次元測定機へ持って行って」 琴葉の指示で、完成した部品が検査室へと運ばれる。 三次元測定機は、恒温室に置かれている。 ルビーの球がついた細いプローブが、部品の各表面に正確に触れていく。 ピッ、ピッという電子音が鳴るたびに、モニターに測定結果の数値が弾き出された。 琴葉と工場長は、画面の数値を凝視した。「……信じられねえ」 工場長が感嘆の声を漏らした。驚きのあまり少し声が震えている。「
「やっぱり、この角度からの進入は駄目ね」 琴葉は舌打ちする代わりに、すぐさまパラメータの修正に取り掛かった。 刃物の傾斜角をわずか5度深くし、テーブルの旋回角を調整する。再計算を実行。 今度は干渉を回避できたが、工具の突き出し量が長くなりすぎていることに気づく。 この長さでは加工中に共振が発生し、表面がむしれて使い物にならなくなる。「工具を短くして、その分テーブルを傾ける……でも、そうすると今度は機械の主軸頭が材料にぶつかるわね。なら、別のアプローチからえぐり取るしかないか。一筋縄じゃいかないわ」 琴葉は独り言を呟きながら、キーボードを叩き続けた。 それは果てしない試行錯誤の連続だった。 金属の切削限界、特殊合金特有の排熱問題、五軸加工機の可動域。 すべての物理法則を網羅し、たった1つの矛盾も許されない数万行のコードを編み上げていく。 やがて窓の外が完全に暗くなり、工場の稼働音も途絶えた。 誰もいない事務所の中で、マウスのクリック音とキーボードの打鍵音だけが響き続ける。 手元のコーヒーはすっかり冷え切っていた。 琴葉の目には疲労の色がにじみ始めているが、そのタイピングの速度は全く落ちない。 外資系企業は、巨大な権力と資本の論理で盤面を支配しようとしている。 伊吹は今頃、眠ることも許されず、法と政治の網の目を縫って彼らとの折衝を続けているはずだ。(だったら、私も負けられないでしょ) 彼が必死に支えている盤面を、物理の世界からこじ開ける。 それが対等なパートナーとしての琴葉の役目だった。◇ 夜が明け始めた頃、最後のシミュレーションが完了した。 画面上の仮想工具は、複雑な水路の奥深くへと滑らかに進入し、干渉のエラーを一度も出すことなく、指定されたすべての面を削り出し終えた。「……完璧よ」 琴葉は背もたれに深く寄りか
「それから、もう1つ重要な変更があるわ」 琴葉はモニターの表示を切り替えて、材質指定の欄を拡大した。 そこには見慣れたアルミ合金が表示されている。「先方から渡された図面では、汎用のアルミ合金が指定されている。でも、今回はこれを使わない。うちで配合のノウハウを持っている『高排熱特殊合金』を使って削り出すわ」 その言葉に、工場長が目を見開いた。「おいおい、あの特殊合金を使うのか? あいつは熱に強いが、とにかく硬くて粘る。アルミの何倍も削りにくい難削材だぞ。刃物の消耗が激しいだろう」「分かっているわ。でも、あの合金は熱膨張率が極めて低く、熱伝導率が高い。半導体製造装置のセンサー部のように、極限の温度管理が求められる場所にはうってつけの素材よ」 琴葉は職人たちの懸念を真っ向から受け止めて、技術的な根拠を提示した。「純正のアルミ部品をそのまま真似して作っても、相手は特許侵害や仕様の違いを理由に難癖をつけてくるかもしれない。外資の連中を黙らせるには、代用品じゃ駄目なの。純正品をはるかに凌駕する、完全な上位互換品を叩きつける必要があるわ」 琴葉の技術者としての凄みが、その場の空気を完全に支配した。 伊吹は圧倒的な資本力を持つ外資と政府を相手に、孤独な時間稼ぎの交渉を行っている。 彼女がここで妥協する理由は1つもなかった。「……分かったよ、お嬢。あんたがそこまで言うなら、現場は最高の段取りで応えるだけだ」「やってやるぜ。土井精機の技術を見せつけてやろうじゃねえか」 工場長が腹を括ったように笑った。職人たちも同意して散っていく。「みんな、頼んだからね!」「おうよ、任せとけ!」 職人たちが工場に戻るのを横目で見送った後、琴葉は自身のデスクに向かった。 鋭い瞳でモニタを睨む。 本格的な加工プログラム(CAM)の構築に入るための作業が始まった。◇ デュアルモニターの右画面には三次元C