LOGIN伊吹は琴葉に向き直った。
「我々世良グループは現在、国家プロジェクトでもある半導体事業に力を入れています。そしてその事業に、土井精機の技術が必要不可欠であると判断しました」
彼の瞳が熱を帯びる。
「この技術の真の価値と未来を理解されているのは、琴葉さん、あなただ。このプロジェクトの責任者は、あなた以外にあり得ない。あの合金技術はあなたが開発したのだから」
(私を持ち上げて、こちらの懐柔を図るつもり? そんな手に乗るものですか)
伊吹の言葉に琴葉は内心で警戒を強めた。そんな手に乗るものかと、あえて挑戦的な問いを投げかける。
「口先だけなら何とでも言えます。私の企画書のどこを評価しているというんですか? 例えば、A-7合金の熱処理プロセスについて、あなたは何か意見でも?」
それは企画書の中でも最も専門的で、何度も実験を重ねた核心部分だった。生半可な知識で答えられるはずがない。
しかし伊吹は少しも動じなかった。むしろその挑戦を待っていたように、楽しげに口元を綻ばせる。「A-7の熱処理プロセスですね。低温での段階的な時効硬化処理は、確かに強度を最大化する上で画期的です。ですが」
彼はそこで一度言葉を切り、琴葉の目をまっすぐに見た。
「あれは航空宇宙分野を前提としたアプローチでしょう? 半導体製造装置に転用する場合、求められるのは強度よりも、ナノレベルでの寸法安定性です。あなたのプロセスを応用し、さらに極低温下での追加処理を加えれば、熱膨張率を限りなくゼロに近づけることができる。僕は、その可能性に投資したいんです」
琴葉は、言葉を失った。
(この男。私の企画書をただ読んだだけじゃない。その先まで……もう何歩も先まで、見通している!)
伊吹が語ったのは、琴葉自身ですらまだ構想の段階に過ぎなかった、技術の未来そのものだった。
絶句する琴葉を前に、伊吹はにこやかな表情を崩さずに続ける。「話を買収に戻しましょうか。問題はスピードと内外に示す『結束』です。通常のM&Aや業務提携では、手続きだけで数ヶ月を要する。その間に競合他社に嗅ぎつけられるリスクもある。そして何より、僕の社内での立場です」
「あなたの、立場?」
琴葉が訝しげに問い返す。
「ええ。僕は次期CEOですが、まだ社内での立場が万全ではない。この巨大プロジェクトを成功させるには、僕のリーダーシップを疑う勢力を黙らせる、強力な実績が必要です。土井精機の技術を、僕の功績として迅速にグループへ統合する。そのためには、最も強固で、誰の目にも明らかなパートナーシップの形が求められるのです」
伊吹の真意を測りかねて、土井社長が問いかける。
「世良様……。その、最も強固なパートナーシップの形とは、具体的にはどういったものですか」
伊吹は土井社長の問いには答えなかった。ソファから立ち上がると、琴葉の目の前まで歩み寄る。
彼の視線は、琴葉だけを捉えていた。
彼は琴葉の猫に似た瞳を見つめた。その視線に奇妙な熱を見つけて、琴葉は戸惑う。
伊吹はビジネスの話をする口調を変えないまま、淡々と言った。「土井琴葉さん。僕と結婚してください」
琴葉はカップをソーサーに戻した。 カチリ、磁器の当たる硬い音が鳴る。「ん? どうしたの」 伊吹は言葉を探すように一瞬だけ視線を落とした。 深い青色の瞳が再び琴葉を捉える。「……僕にこんなことを言う資格はないと分かっています。でもどうしても、僕はあなたともう一度歩んで行きたい。その気持が捨てきれないのです」 伊吹の声は低くかすれている。 言葉の端々に彼自身の抑えきれない切実な感情がにじみ出ていた。 琴葉の胸の奥で、心臓がトクンと大きな音を立てる。 指先からわずかに体温が逃げていくような、不思議な感覚に包まれた。「もちろん、断ってくださって構いません。今はもうあなたを縛るものは何もないのですから。けれどもし可能であるならば……もう一度だけ、チャンスをください」 それは、かつてのような支配や強要を伴うプロポーズではなかった。 すべてを失いかけ、自分の愚かさを自覚し、琴葉と共に困難を乗り越えてきた一人の人間としての、不格好なまでの願いだ。 琴葉は、テーブルの上に置かれた伊吹の手を見た。 あの冷酷な手回しで町工場を追い詰めていた男が、今はただの青年として、拒絶される恐怖を抱えながら自分に判断を委ねている。(昔の伊吹なら、絶対にこんな風に頼み込んだりしなかったわね) 琴葉の胸の奥で、温かい感情がじんわりと広がっていく。 かつての伊吹は、自分の弱さを隠すために力で他人を支配しようとしていた。 しかし今の彼は自分の弱さを明確に認めて、琴葉と対等な立場で向き合おうとしている。 琴葉の口元から、ふと笑みがこぼれた。「仕方ないわね。私も今の伊吹なら、一緒に進んでいけると思っている」 その言葉を聞いた瞬間、伊吹の端正な顔に驚きと喜びの色が波紋のように広がった。「本当ですか……!」「でも」 琴葉は人差し指を立てて、テーブル越しに伊吹の鼻先へ突きつけ
「それじゃ、乾杯」「乾杯」 乾杯のグラスを合わせて、食事が始まる。 運ばれてくる料理はどれも芸術品のように美しく、味わい深いものばかりだった。 軽いおつまみであるアミューズから始まり、彩り鮮やかな前菜、濃厚なコンソメスープと続く。「ソースの味はどうですか。ここのシェフはスパイスの使い方が絶妙だと聞いていたので、琴葉さんの口に合うかと思いまして」 伊吹が上品にカラトリーを使いながら言う。「ええ、とても美味しいわ。土井精機の工場の休憩室でお弁当を食べていた日々が嘘みたい」 琴葉は土井精機の社長令嬢にして副社長だが、会社は小さな町工場。 本来はこんなに豪華な食事を楽しむほどお金持ちではない。 琴葉が冗談めかして笑うと、伊吹も口元を綻ばせた。「工場のお弁当も、悪くはありませんでしたよ。あの鉄の匂いの中で食べる食事は、今となっては懐かしい。逃亡生活中のマンションの食事も、素朴で僕は好きでした」「あら、そう? 実は私もけっこう気に入っていたのよ、あの時期の暮らし」「猫のルークは元気ですか。今度会いに行きたいです。僕のこと、忘れていないかな」「ルークならうちの父に可愛がられて元気よ。あなたのことも覚えているんじゃない? あんなに懐いていたんだもの」 2人の間で交わされる会話は、どこまでも穏やかだった。 会社の未来について、技術の展望について。「そうだ、知っているかしら。黒田大臣の孫の詩織ちゃん、就職が決まったと連絡してきたの。大学は何とか卒業できそう、卒業してからの就職と言っていたわ」「ええ、聞きました。あの状況からきちんと自分で就職を決めるとは、彼女は意外にガッツがある人だったのですね」 話題は尽きることなく、メインディッシュの牛フィレ肉のローストが運ばれてくる頃には、琴葉の緊張はすっかり解けていた。 食後のデザートとコーヒーが運ばれてくると、給仕のスタッフは一礼して個室から退室した。重たい扉が閉まる。 部屋に残されたのは、琴葉と伊吹の2人きりだ。 外の
土井精機の工場内には、いつも通り切削油の匂いがうっすらと漂っている。 時刻は午後6時を回ったところだ。普段であればまだ多くの職人が残業をしている時間帯だが、今日の工場フロアは稼働を停止した工作機械が立ち並ぶだけで、ひっそりとしていた。 半導体事業は滞りなく進んでいる。 今日は金曜日ということもあり、工場長をはじめとする職人たちは早々に仕事を切り上げ、連れ立って飲みに出かけていった。 琴葉は無人になった事務所のデスクで、タブレット端末を操作していた。 画面に表示された今月の生産データは、要求された公差をすべてのロットで満たしている。不良品の発生率はゼロだ。(本当に、長い戦いだったわね) 琴葉は大きく息を吐き出して、背もたれに体を預けた。 ギシリと小さく椅子が鳴る。 世良グループの株価はしっかりと回復し、事件以前の高値を更新している。 半導体製造ラインの中枢技術には、間違いなくこの町工場の技術が組み込まれていた。 あの巨大な嵐を乗り越えて、自分たちは勝ったのだ。 ふと、視線を壁に掛けられた時計に向ける。(おっと、いけない。そろそろ行かなきゃ) 約束の時間が迫っていることに気づき、琴葉は慌てて立ち上がった。 今日は、すべての騒動が片付いた慰労会という名目で、伊吹から夕食に誘われている。 作業着を脱ぎ、ロッカーに掛けてあった私服に着替える。 いつもなら動きやすさ重視のパンツスタイルを選ぶところだが、今日は少しだけ特別な日だ。 琴葉は、柔らかな手触りのネイビーのワンピースに袖を通した。 工場の洗面台の鏡で、簡単にメイクを直す。 乱れていた髪をブラシで整え、リップを引き直した。 鏡に映る自分の顔は、毎日のように油にまみれて図面と格闘している町工場の責任者から、年相応の女性の顔へと切り替わっている。 工場を施錠し、外に出る。 夏の夜風が、火照った頬を心地よく撫でていった。 琴葉はタクシーを拾い、指定された都心のホテルへと向かった。
「いいえ、あなたはただの犯罪者だ」 伊吹が冷酷に言い放つ。 その声は平坦で、怒りも憎しみすらもない。ただ路傍のゴミを見るような冷たさだけがあった。 警察官たちが伊吹から峻嗣を引き取り、その腕に手錠をかけた。 暴れる峻嗣は複数人に押さえ込まれ、パトカーの後部座席へと押し込まれていく。「おのれ、伊吹……! 土井琴葉ぁ……!」 バタンとドアが閉められ、峻嗣の呪嗟の声は完全に遮断された。 パトカーはすぐにサイレンを鳴らして走り去り、路地裏には再び夜の静けさが戻ってきた。 伊吹はスーツの袖口を軽く手で払い、琴葉の方へと向き直った。 その顔には先ほどまでの冷徹な気配はすっかり消え去り、いつもの穏やかな青年の表情が戻っている。「怪我はありませんか、琴葉さん」「ええ。ありがとう、伊吹。少し驚いただけよ」 琴葉はこわばっていた肩の力を抜いた。 まだ心臓は少し早く動いているが、伊吹の涼し気な瞳を見ていると、自然と呼吸のリズムが正常に戻っていくのを感じた。「警察を待機させていたって……最初から彼が来ることを分かっていたのね」「はい。彼の足取りは完全に把握していました。ただ、現行犯でなければ確実に逮捕することはできない。危険な目に遭わせてしまって申し訳ありません」 伊吹が頭を下げるのを見て、琴葉は小さく笑った。「いいのよ。あなたが必ず守ってくれるって、分かっていたから」 その言葉に、伊吹は少しだけ目を丸くする。やがて嬉しげな笑みを浮かべた。「これで本当に最後です。過去の因縁は、すべて清算されました。父は療養所で罪と向き合い、叔父は刑務所へ行く。僕たちを脅かすものは、もう何もありません」「そうね。なんだか、長くて暗いトンネルをやっと抜け出した気分だわ」 伊吹がそっと右手を差し出した。 琴葉はためらうことなく、その大きな手を握り返した。 彼の手のひらは温かく、これまで
峻嗣は叫ぶ。「お前がいなければ、世良グループは私のものだったんだ! 俺の財産も、地位も、失ったのはすべてお前のせいだ!」 理不尽極まりない言いがかりだ。 確かに琴葉は、彼のAI筐体に罠を仕掛けて自壊させた。 けれどもそれは峻嗣の傲慢さによるものであり、人間の手を介した技術を過度に軽視した結果でもある。 自業自得以外の何物でもない。「知らないわよ! あんたの身から出た錆でしょ!」 辛うじて言い返すが、身勝手な憎しみに狂った相手に届くはずもなかった。 琴葉は後退ろうとしたが、足がコンクリートに縫い付けられたように動かない。 狂気と暴力を目の前にして、口の中がカラカラに乾く。 峻嗣が鉄パイプを高く振りかぶり、獣のような唸り声を上げて琴葉に突進してくる。 迫り来る凶器の風切り音が聞こえた。 琴葉が身を守るために両腕で頭を覆おうとした、その瞬間だった。 無音の影が、琴葉と峻嗣の間に滑り込んだ。「ぐぁっ!?」 峻嗣の短い悲鳴が夜の路地裏に響いた。 琴葉が恐る恐る目を開けると、そこにはダークネイビーのスーツの背中があった。伊吹だ。 伊吹は振り下ろされた鉄パイプの軌道を、左腕で下から柔らかく受け流していた。 そのまま円を描くような滑らかな動作で峻嗣の右手首を捕らえ、自身の体捌きに合わせて相手の重心を完全に崩す。 ガキンッ、と硬い音を立てて、鉄パイプがアスファルトに転がり落ちた。「ああっ、腕が……!」 伊吹は流れるような動きのまま、峻嗣の腕を背中側へ捻り上げて冷たいコンクリートの地面へと押し倒した。 片膝で峻嗣の肩甲骨のあたりを的確に制圧し、一切の反撃を許さない。 合気道の達人特有の、力みを感じさせない完璧な制圧だった。 伊吹の呼吸はまったく乱れておらず、スーツの裾さえ汚れていない。「峻嗣叔父さん。あなたの浅薄な思考など、手にとるように読めていましたよ」 伊吹の声は、絶対
琴葉の言葉に、伊吹は冷静な態度で頷いた。「ええ、その通りです。彼は金も権力も、周囲の取り巻きもすべて失いました。文字通り、一文無しです」「じゃあ、もう何もできないじゃない」「失うものが何もない人間ほど、最後に何をするか分かりません」 伊吹の瞳が鋭い光を放った。「権力を笠に着て裏から他人を操っていた男が、自身のすべてを奪われた。その憎悪の矛先は、真っ先に僕に向くはずです。ですが、僕の周囲には常に何重ものセキュリティが敷かれています。彼が近づくことは不可能です」「……まさか、私を狙ってくるって言うの?」「逆恨みの果ての、極めて短絡的な思考です。しかし追い詰められた人間の凶行は、時に理屈を超えます。今日僕がここへ来たのは、あなたを確実に送り届けるためです」 琴葉の背筋に、ぞくりとした冷たい感覚が走った。 確かに、土井精機のセキュリティは世良本社のそれに比べれば無防備に等しい。 工場長や職人たちがいるとはいえ、夜になれば人通りも少なくなる。「そこまで追い詰められているのね……。分かったわ。戸締まりをして、すぐに出ましょう」 琴葉は急いでタブレットを鞄にしまい、作業着の上から薄手のジャケットを羽織った。◇ 夜の8時を回った頃。 土井精機の工場のシャッターを下ろし、琴葉は外の空気を吸い込んだ。 夏の夜風が、火照った頬を撫でていく。 昼間の熱気がまだわずかにアスファルトに残っていた。 伊吹は「車を工場の前まで回してきます」と言い残し、歩いて3分ほどの場所にある提携駐車場へ向かっている。 琴葉は街灯の薄暗い光の下で、バッグの持ち手を握り直した。(伊吹が警戒しているとはいえ、いきなり襲ってくるなんてことがあるのかしら) そんな考えが頭をよぎった直後のことだった。 工場の壁沿いに積まれた廃材の陰から、不自然な黒い塊が飛び出してきたのだ。
食後、琴葉はローテーブルに置いたマグカップから、ブラックコーヒーを一口飲んだ。 深い苦味が、オムライスの余韻をさっぱりと洗い流してくれる。 テーブルの向かい側には、同じくコーヒーの入ったマグカップを手にした伊吹が座っていた。「明日の作戦の最終確認をしておくわよ」 琴葉が声のトーンを落として告げると、伊吹の表情から生活感が抜け落ちた。 かつて世良の右腕として辣腕を振るっていた、鋭い実務家の顔に切り替わる。「はい。ホテルの裏回線へのハッキングルートは、現在も正常に維持されています」「罠の発動
ウィークリーマンションの一室では、今は少しの緊張感が漂っていた。 ローテーブルの上に置かれたノートパソコンの冷却ファンが、高音を立てて回っている。 ディスプレイから放たれる青白い光が、壁に琴葉の影を大きく映し出していた。 エンターキーに置いた彼女の薬指に、じんわりと汗がにじむ。(これが最後のコマンド。世良の強固なファイアウォールを内側から食い破るための、見えない時限爆弾) 画面上には、幾重にも重なるターミナルウィンドウが表示されている。 緑と白の文字列が、滝のように上から下へと流れ落ちていく。
伊吹はそのまま床に膝をつき、床に落ちたボールペンを拾い上げた。 さらに、ソファの下に転がっていった十円玉を、腕を伸ばして拾い集める。 文句一つ言わず、散らばった小銭を手のひらに集めていく。 床に落ちていたメモ用紙を拾い上げると、手で丁寧にシワを伸ばし、テーブルの上に置き直した。「さて。どこまで計算したか、記憶をさかのぼらないと」 伊吹は再びテーブルの前に座ると、集めた小銭を種類ごとに分け始めた。 先ほどのような、寸分の狂いもない完璧なピラミッドではない。 ただ大まかに種類を分けただけの、無造
その日の深夜。琴葉の部屋では、ページをめくる乾いた音が響いていた。 ベッドの上には、色あせたアルバムが何冊も散乱している。「……いない」 琴葉は眉間にしわを寄せて、古い写真を指でなぞった。 幼稚園の運動会、小学校の入学式、夏休みのキャンプ。 背景に写り込んでいる子供たちまで一人ひとり確認する。だが、あの整いすぎた美貌を持つ少年の姿はどこにもない。 たとえ成長して面差しが変わっても、面影が残っていれば分かるはずなのに。(私を「お姉ちゃん」だなんて、子供みたいな呼び方で呼んだ。ずっと会いたかった、なんて言ってたけど) だから過去、子供の頃に会ったことがあるのではないかと考えた







