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last update Petsa ng paglalathala: 2026-01-23 19:57:23

 社長室の空気が凍りついた。

 琴葉は数秒間、言葉の意味を理解できなかった。脳の処理が追いつかない。

「……は? 今、なんて?」

「結婚です。婚姻届に判を押すだけの、簡単な手続きですよ」

 琴葉の目の前に立ったまま、伊吹は表情を変えない。あくまで穏やかに微笑んでいる。

「ふざけないで!」

 琴葉はダン! と机を叩いて立ち上がった。

「会社を買収するついでに、私も買おうってわけ? 人身売買じゃあるまいし、この21世紀の世の中に、そんな馬鹿げた話があってたまるものですか!」

 父も狼狽して口をパクパクさせている。

 だが伊吹の表情は少しも揺るがない。むしろ琴葉の怒りを楽しんでいるようにさえ見えた。

「誤解しないでください。これはロマンスなどではありません。『人的資産の流出防止(ロックイン)』のための措置です」

「ロックイン……?」

「土井精機の価値は、老朽化した設備にあるのではありません。独自の加工技術を持つ、あなた自身の頭脳にこそあります」

 伊吹は冷徹な実務家の顔で、淡々と続けた。

「単なる雇用契約では不十分だ。あなたが辞職し、技術を持って他社へ流出するリスクを排除できない。ですが、戸籍上の家族になってしまえば話は別です。法的に、対外的に、あなたは一生『世良のもの』として管理される」

『世良のもの』。

 人間をまるで高性能なデバイスのように扱う物言い。

 琴葉の背筋に冷たいものが走った。

「それに私の父である世良宗佑は、利益を生まないものを即座に切り捨てる冷徹・冷酷な人間です。この赤字工場を存続させたいなら、『身内』という強い鎖で私と繋がり、彼に『損切りさせない』状況を作るしかない」

 それは脅迫だった。

 琴葉の顔が青ざめる。

 だが逃げ場のない正論でもあった。

 父を、工場を、従業員たちを守るためには、この悪魔の契約に乗るしかないのか。

 琴葉は呆然と悪魔を眺めた。あくまで温和な微笑みを浮かべる、美しい悪魔を。

「明日までに返事を。……もっとも、あなたに断る権利はないと思いますが」

 伊吹は優雅に立ち上がり、出口へと向かう。

 すれ違いざま彼は足を止める。琴葉の耳元に顔を寄せた。吐息がかかるほどの距離。

「いいお返事を待っていますよ」

 そして周囲には聞こえないほどの声量で、彼はささやいた。

「……琴葉お姉ちゃん」

 今までの理知的な声と程遠い、奇妙に幼い口調。

「……!?」

 ドクン、と心臓が嫌な音を立てた。

 伊吹が去った後の部屋には、重苦しい静寂と高級なコロンの残り香だけが漂っていた。

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