Masukホテル会場からの帰り道、送迎車の窓ガラスの向こうを、都会の夜景が流れていく。
等間隔に並んだ街灯の光が、車内に規則的な明滅を作り出していた。光と影が切り替わるたび、隣に座る伊吹の横顔が浮かび上がる。
高い鼻梁、長い睫毛。造形は実に美しい。 12歳だった詩織が王子様と呼んで憧れたのも、無理はないと琴葉は感じる。けれど琴葉には、彼の美貌はどこか無機質で精巧なアンドロイドを連想させた。
車内を満たすのは、ハイブリッドエンジンのごく低い音と、タイヤがアスファルトを噛む音だけ。
会話はない。
伊吹はタブレットを取り出して、明日のスケジュールの確認に余念がない。 先ほどの詩織の一件など、彼のメモリからは完全に消去されているようだ。(あの子、無事に帰れたかな)
琴葉は窓枠に肘をついて、額を冷たいガラスに押し当てた。
ドレスのコルセットが肋骨を締め付ける。その窮屈さが、今の琴葉の心境そのものだった。詩織の泣
「これはちょっと、私じゃ手に負えないかも」 実態のない組織相手では、技術的な正当性を主張する話し合いなど通じない。 もちろん5億円を支払うつもりはない。 琴葉は即座に世良グループの専用回線を立ち上げて、伊吹へと通信を繋いだ。 数回のコールの後、モニターに伊吹の顔が映し出された。 本社のCEO執務室に座る彼は、すでに事態を把握している様子だった。 手元には琴葉に届いたものと同じ警告書のコピーが置かれている。「琴葉さん。そちらにも内容証明が届きましたね」 伊吹は前置き無しに話を切り出した。 琴葉は頷く。「ええ、たった今読んだところよ。典型的な特許ゴロの架空請求みたいなものだけど、相手は本気で製造差し止めの仮処分を狙ってきているわ。もし仮処分が通れば、うちは工作機械を動かせなくなる。政府の半導体プロジェクト全体がストップするわよ」「分かっています。彼らの狙いも、まさにそこですから」 伊吹の冷徹な眼差しには、一切の動揺がない。 彼は手元の資料を1枚めくり、画面越しに琴葉へ向けて話し始めた。「相手の知財管理機構について、裏の資金の流れを調べさせました。ダミー会社をいくつか経由していますが、大元のスポンサーは世良本家から追放された峻嗣派の残党たちです」「峻嗣の……。ビジネスの表舞台から引きずり降ろされた腹いせに、法律の網の目を使って報復してきたというわけね」「はい。自立した僕たちを逆恨みし、国策事業を停滞させることで世良グループの株価を暴落させようという魂胆でしょう。自らは手を汚さず、特許ゴロに資金を渡して鉄砲玉にしている状態です」 琴葉は小さくため息をついた。 モノ作りの現場で必死に技術を磨く人間を、机上の法律論で足止めしようとするやり口は、技術者として最も嫌悪するものだった。「厄介な連中に目をつけられたわね。世良の法務部はどう言っているの?」 琴葉の問いに対し、伊吹の表情がわずかに険しくなった。「先ほどまで法務部のトップと会議をしてい
オライオン・システムズの買収劇を退けて、政府プロジェクトのセンサーハウジング量産が本格的に軌道に乗り始めた初夏のことだった。 土井精機の事業は好調で、本格的な夏に向かいつつある中、工場では活気があふれている。 時折吹き込む夏の風が、熱気のこもる工場に涼しさを届けていた。 そんなある日のこと。 土井精機の事務所に、一通の分厚い封筒が届いた。配達員から直接受け取る必要のある、内容証明郵便だ。「何かしら。内容証明だなんて」 琴葉は作業着のポケットからカッターを取り出し、封を切る。 中には、何枚にもわたる難解な法律用語で埋め尽くされた書面が入っていた。 送り主は『総合知財管理機構』という、まったく聞き覚えのない株式会社だ。 書類のタイトルには「特許権侵害に基づく製造差し止めおよび損害賠償請求の事前警告」と物々しい文字が並んでいる。 琴葉はデスクの椅子に座り直し、書面の詳細に目を通した。 彼らの主張はこうだ。 土井精機がセンサーハウジングの加工に使用している「高排熱特殊合金」の成分配合、ならびにその切削時の冷却プロセスが、自社の保有する特許権の範囲を完全に侵害している。 直ちに該当部品の製造を停止し、解決金として5億円を支払え、という内容だった。「……何これ。5億円ですって? 言いがかりにも程があるわ」 琴葉は手元のタブレットを開くと、書面に記載されていた特許番号を特許庁のデータベースで照会した。 表示された明細書を読み進めるにつれ、琴葉の眉間のシワが深くなっていく。 その特許は、特定の製品を生み出すための具体的な技術ではなく、「金属の配合比率の一定範囲」や「切削時の温度管理の一般的な概念」を網羅するような、極めて広範で抽象的な書き方がされていた。 これではどんな製品や技術であっても、言いがかりをつけられてしまう。 土井精機の独自技術を、言葉遊びのように強引に枠内に当てはめようとしているのは明白だ。「総合知財管理機構…&hellip
政府の高官もまた、目の前のデータに言葉を失っていた。 彼は何度も眼鏡をかけ直し、世良グループが提示した「鉄壁の回答」を凝視している。 伊吹はその沈黙を破るように、再び口を開いた。 口元には穏やかな微笑みさえ浮かべている。 しかしその立ち姿は華麗でありながら、獲物を確実に仕留める冷酷なチェスプレイヤーのようだった。「政府高官殿。我々は期限内に、完璧な解決策を提示しました。それも当初の計画を上回る、高性能な部品と共に」 伊吹は高官へと視線を向ける。「土井精機のこの技術をプロジェクトから外せば、日本の半導体戦略そのものが根本から遅れることになります。強度が3倍の装置をオライオン社は作れますか? 排熱効率が1.5倍のラインを、彼らは提供できますか? ……できませんよね。ならば政府の下すべき決断は、自ずと明らかのはずです」 伊吹の論理は完璧である。逃げ道などどこにもない。 彼は24歳の若造として見下されていた場所で、政府と外資の巨大な権力を圧倒的な技術の裏付けを持ってねじ伏せたのだ。 高官は深く息を吐き出すと、ようやく絞り出すように声を上げた。「……分かりました。世良グループより提示された代替部品の性能、および調達計画を承認します。本プロジェクトの主導権は、引き続き世良グループが継続するものとします。オライオン社はメーヤー社の件に関して、独占禁止法に抵触しないよう、直ちに是正勧告に従ってください」 高官の言葉に、オライオンの役員たちは顔を青白くして黙り込むしかなかった。「感謝いたします。政府の賢明なご判断に」 伊吹は優雅に一礼して、オンライン会議の通信が終了した。 オライオン側と政府の接続が切れた直後、画面には伊吹と琴葉だけが残された。「……お疲れ様。見事なチェックメイトだったわね」 琴葉がマイク越しに声をかけると、伊吹はCEOの執務室で柔らかく目を細めた。 その表情は先ほどまでの冷酷な支配者のものではない。 土井家の居間で茶白の猫を撫でていた時の、あの青年のものだった。「琴葉さん
オライオンの役員たちは、勝ち誇った顔で伊吹を見つめた。「法務部を使った姑息な時間稼ぎも、ここまでですな。諦めて、我々に盤面を明け渡しなさい。子供には荷が重すぎたのですよ」 画面の中で、伊吹は瞬きをした。 外資の圧力も政府の冷遇も、年齢に対する侮りも、彼の心にはわずかの動揺も与えていないようだった。 彼はデスクの上に置かれた資料を、エレガントな仕草で横へ除けた。「メーヤー社からの部品供給停止。……ええ、確かに一時的な騒ぎにはなりました」 伊吹の声は驚くほど静かなもの。しかし部屋の隅々にまで行き渡るような通る声だった。「ですが、結論から申し上げましょう。それは、本プロジェクトにおいて些細な問題に過ぎません」「些細な問題……? 強がりも大概にしなさい。センサーハウジングがなければ、装置は完成しない!」 オライオンの役員が、苛立ちを隠さずに声を荒らげた。 伊吹はその役員を冷徹な瞳で見つめ返した。 その眼差しはお飾りなどではない。 数万人の従業員を束ねて巨大グループの頂点に君臨する、本物の支配者のものだ。「ええ。ですから、作りました」「……何?」「メーヤー社が供給を止めたなら、我々の技術力でそれを上回るものを作ればいいだけのこと。高官殿、お手元の端末に土井精機より提出された最新の性能評価レポートを共有いたしました。ご確認ください」 伊吹が操作盤をタップすると、高官とオライオン側の画面に、琴葉が作成したデータが全画面共有された。「性能評価……? 代替部品だと?」 オライオンの役員たちが、怪訝な顔で画面のデータを見つめる。「ここからの説明は、本プロジェクトの技術提携先である、土井精機の土井琴葉責任者に委ねます。琴葉さん、お願いします」 伊吹に発言権を促され、琴葉はマイクをオンにした。「土井精機の副社長、土井琴葉です。政府高官、そしてオライオン社の皆様。今画面に表示されているのは、弊社が保有する五軸加工機と、独自開発の『高排熱特殊合金』を用いて内製化した、セン
政府が指定した最終期限の日、午後1時。 琴葉は土井精機の事務所で、デスクの上の大型モニターに向かっていた。 画面には、政府、巨大テック企業オライオン・システムズ、そして世良グループの三者を繋ぐ、オンライン会議の真っ白な待機画面が表示されている。 琴葉の手元には、昨日削り出したセンサーハウジングの測定データと、性能評価レポートがタブレットに用意されていた。 彼女は今日、世良グループの技術提携先の責任者として、この最終会議にリモートで同席する。「お待たせいたしました。これより会議を始めます」 事務的なアナウンスと共に、画面が分割される。参加者たちの顔が映し出された。 中央には政府の半導体戦略を担当する高官。 その隣には、オライオン・システムズのエグゼクティブ役員たちが並んでいる。 彼らはすでに勝利を確信しているのか、画面越しにも分かるほど余裕に満ちた傲慢な笑みを浮かべていた。 そして、別のウィンドウに伊吹が現れた。 世良グループ本社のCEO執務室が映っている。 伊吹は、チャコールグレーの最高級スリーピーススーツを完璧に着こなし、デスクの前に座っていた。 その佇まいは華麗でありながら、近寄りがたいほどの冷徹さをまとっている。 髪は少しの乱れもなく、瞳には理知的な輝きが満ちている。 所作は落ち着いて、動揺は少しも感じられない。 彼がそこに座っているだけで、会議の空気が張り詰めるのが分かった。 しかいオライオンの役員たちは、画面の中の伊吹を見て鼻で笑った。見下しを隠そうともしない態度だった。「やれやれ、世良グループも焼きが回りましたな。まさかこんな大事な国のプロジェクトの最終局面に、24歳の子供を代表として寄越すとは」「先代の宗佑氏を追い落としたのも、裏で重役たちに担ぎ上げられただけのお飾りだと聞いていましたが……どうやら本当のようですね」 彼らにとって伊吹は単なる若造であり、世良家の傀儡に過ぎない。 侮りは画面越しの琴葉にもはっきりと伝わってきた。
分厚い防弾ガラスの向こう側で、主軸が高速回転を始める。 高圧の切削液が白く勢いよく噴き出す中、刃物が特殊合金のブロックへと迫った。 ギィィィン、という硬い金属同士が削り合う鋭い音が工場に響き渡る。「主軸の負荷メーター、安定しています。ビビリもありません」 琴葉は操作盤の数値を食い入るように見つめた。 プログラムの真価が問われるのはここからだ。 荒加工が終わり、複雑な内部水路の仕上げ加工へと移る。 五軸加工機のテーブルが滑らかに傾斜し、同時に主軸が斜め方向から入り込んでいく。 機械全体がまるで生き物のように連動し、刃先を不可能と思われた奥の曲面へと送り届ける。 職人たちは固唾をのんでその動きを見守っていた。「すげえな……刃物の動きに一切の迷いがない。干渉ギリギリのところを、ミリ単位の隙間でかわして削っていきやがる」「特殊合金の熱も、上手く逃がせているみたいだ。切り粉の排出も完璧だぞ」「さすがはお嬢だ。ここまで見事にやってみせるとは」 小さく交わされる会話は、驚きを含んでいる。 切削加工はそれから数時間にわたって行われた。一瞬たりとも気の抜けない過酷な作業だった。 やがて主軸の回転が止まり、切削液の噴射が停止した。 エアブローが吹き付けられ、白く濁った液が吹き飛ばされると、そこには図面と寸分違わぬ、複雑で美しい曲面を持ったセンサーハウジングが姿を現した。「すぐに三次元測定機へ持って行って」 琴葉の指示で、完成した部品が検査室へと運ばれる。 三次元測定機は、恒温室に置かれている。 ルビーの球がついた細いプローブが、部品の各表面に正確に触れていく。 ピッ、ピッという電子音が鳴るたびに、モニターに測定結果の数値が弾き出された。 琴葉と工場長は、画面の数値を凝視した。「……信じられねえ」 工場長が感嘆の声を漏らした。驚きのあまり少し声が震えている。「







