偽りの貧乏、真実の絶望

娘が白血病を患ってから、私・藤原千鶴（ふじわら ちづる）は一日五つも仕事を掛け持ちし、死に物狂いで治療費を稼いでいる。その日の夜勤中、私はオーダーメイドの高級スーツを着た男が、プリンセスドレスの娘を連れているのを見た。向かいの席には、天女のように美しい人気女優が座っている。三人が注文したのは、総額1000万円のコース料理だった。食事が終わると、男は娘に尋ねた。「家に帰ったら、なんて言うか分かってるな？」娘は答える。「ママには、一晩中不用品拾いをしていたけど、売ったお金ではパン半分しか買えなかったって言うの」男は満足そうに頷き、女優も微笑んで、娘に金のジュエリーセットを贈った。帰り際、男は気前よく、従業員一人一人に10万円のチップを配った。同僚は、なぜ泣いているのかと私に尋ねた。私は、10万円もらったからだと答えた。――ただ、それがベッドで寝たきりであるはずの夫からでさえなければ、もっと良かったのに。帰り道、相良一誠（さがら いっせい）と相良美羽（さがら みう）が高級住宅街へ入っていくのが見えた。私は家政婦のふりをして中へ忍び込み、大きな別荘の塀の陰に隠れて、二人の会話に耳を澄ませた。「パパ、こんな貧乏なふりをする生活、いつまで続くの。私、本当は名門校に通ってるのに、ママには病気で学校に行けないって嘘をつかないといけないし、こんな素敵な家にも住めない。毎日、演技ばっかりで、もう疲れたよ」一誠はため息をつき、不憫そうな口調で言った。「パパだって、ずっとママを騙したいわけじゃない。でも、ママはあまりに頑固だからな。もし、パパと沙耶お姉さんが付き合っていることを知ったら、きっと大騒ぎする。ママを忙しくさせておくのが、俺たちのことを構わせない唯一の方法なんだ」橘沙耶（たちばな さや）の名前が出ると、娘は途端に嬉しそうな顔になった。「私、沙耶お姉ちゃん大好き。綺麗で、女優さんで、それにいつもプレゼントをくれるもの。ママみたいに、毎日みすぼらしい格好をして、可愛いワンピース一枚さえ買ってくれないのとは大違い。パパ、沙耶お姉ちゃんが、私の本当のママだったらよかったのにな」一誠は、真剣な顔になった。「美羽、その言葉は二度と口にするな。千鶴は、君の母親だ。昔、ママが腎臓を提供してくれたから、パパは今

この清掃員の服のおかげで、誰もが私のことをただの清掃員だと思った。ドアが開け放たれたオフィスの中では、沙耶が一誠の膝の上にまたがり、潤んだ瞳をしていた。「下の階、人がいっぱい。みんな、私たちがいつ結婚するのかって聞いてくるわ」一誠は、慈しむように彼女の長い髪を撫でた。その口調は優しいが、揺るぎないものだった。「沙耶、俺の妻は千鶴だけだ。これは、俺が彼女に負っている借りだから」沙耶は、不満そうに身をよじった。「でも、あなたは奥様が亡くなったって、対外的には言ってるじゃない」「仕方ないだろう。そう言わなければ、あの子の生活を邪魔する奴らが出てくる」「じゃあ、私は？あなたがずっと態度をはっきりさせないから、みんな私があなたを追いかけてるだけだと思ってるわ」一誠は、困ったように彼女にキスをした。「俺が悪かった。どうすれば許してくれる？田中監督の新作、出てみるかい？」「いつも、そういうもので私をごまかすんだから……」沙耶は、拒むような、しかし受け入れるような態度で、二人はすぐにまた体を寄せ合った。外にいる従業員や清掃員はこの光景に慣れっこだった。ただ私だけが、怒りを胸に、大股で中へと踏み込んだ。「私がいつ死んだって？どうして、私自身が知らないのかしら！」一誠は途端に顔色を変え、沙耶を体から突き放した。「千鶴、どうしてここに。話を聞いてくれ」「一誠、私が出かける時、あなたはまだベッドに寝たきりだった。それなのに、今はここで社長として座っている。まだ、何を説明するっていうの？」彼は眉をひそめ、言葉に詰まった。沙耶はスカートを直し、細い腰をくねらせながら近づいてきた。「藤原さん、落ち着いて。一誠兄ちゃんに、ちゃんと説明させてあげて」「一誠兄ちゃん？一誠、あなたは孤児じゃなかったの？いつから妹ができたの？」ドアの外にいた従業員たちが、野次馬のように集まってきた。一誠は、顔を真っ黒にした。「何かあるなら、家に帰ってから話せ。ここは君のいていい場所じゃない」私は、その場に凍りついた。信じられない。「私がいていい場所じゃない……一誠、あなた、良心がないのね。この会社は、私が……」「藤原さん、お疲れでしょう。家までお送りしますわ」沙耶が私を引っぱろうとしてくるので、私は嫌悪に軽く突き押

「沙耶お姉ちゃんは違うもん。会うたびにプレゼントをくれるし、新しいドレスで、私たちの別荘がいっぱいになっちゃうくらいだもん！」私は、娘が私を見下すその様子に失望し、顔を上げると、目には涙が溢れていた。「一誠、あなたもそう思うの？私のことを、信じてくれないの？」彼は、私を一瞥しただけだった。「他の病気にでもしておけば、考えてやらんでもなかったがな。君はこの数年、あちこちでバイトばかりして、視野が狭まっている。他の病気を思いつくこともできなかったんだろう」父娘は、外へと歩いていく。革靴がコンクリートの床を打ち、不協和音を立てる。「この団地は、すべて俺の名義だ。君が連絡を取っていた大家は、俺の秘書だ。もし、考えを改めて、芝居をやめる気になったら、秘書を通して俺に連絡しろ。日の当たる部屋に替えてやる」ドアが閉まり、私は足の力が抜けて、床に座り込んだ。そういうことだったのか。私が愛した、あの前向きで、誠実で、怖いもの知らずだった男の子は、とっくに変わってしまっていた。夫の寝たきりは嘘、娘の白血病は嘘、借りていた地下室も嘘。ただ、私だけが何も知らされず、すべてを捧げたことが水の泡となったことだけが、本当だった。私は、床に一晩中座っていた。夜が明けると、両親にメッセージを送り、小さなスーツケースを提げて地下室を出た。通路を出ると、外が見知らぬ人々で溢れかえっていることに気づいた。彼らは私を取り囲み、石やペンキを投げつけてきた。「家政婦のくせに、私たちの沙耶様と男を奪い合うなんて！自分の醜い顔でも見てみろ！」「相良社長と沙耶様は相思相愛なのよ。あんたなんかに、引き裂けるわけないでしょ？」「こいつを殺せ！これ以上、恥知らずにのし上がろうとさせないで！」あっという間に、私の顔はペンキだらけになり、体は石を投げつけられて血だらけになった。避けることも、逃げることもできない。パニックの中、一誠に助けを求めようとしたが、ガラケーを取り出して、彼が寝たきりのふりをし始めた年に、私の知っている携帯番号を解約してしまったことを思い出した。ふと、大家のことを思い出した。電話をかけると、私は石がぶつかる痛みに耐えながら大声で叫んだ。「早く一誠を助けに来させて！家の前に、人がたくさんいるの！」大家

それと同時に、石が一つ、私の後頭部を直撃し、私はよろめいて、仰向けに倒れた。後頭部から鮮血が流れ出し、ペンキに混じって、暗赤色の湖のようになった。そして、その湖の真ん中で、私は、ゆっくりと目を閉じた。カメラが並ぶオフィスに、美羽の甲高い悲鳴が響き渡った。「ママ！」記者たちは、その一言だけを捉えた。インタビューする間もなく、父娘は部屋を飛び出していった。沙耶がその場に取り残され、人だかりとなった記者たちが、すぐに彼女を取り囲んだ。「橘さん、相良社長の娘さんは、あの家政婦にとても懐いているようですね。家政婦の代わりとなって、美羽さんの信頼できる母親になる自信はありますか？」別の記者が尋ねた。「あの者たちは、あなたのファンだと名乗っていましたが、あなたが、家政婦に仕返しをするよう、彼らを仕向けたのでしょうか？」彼女の目には怒りがきらめいていたが、表面上は、物分かりの良い微笑みを保とうと努めていた。「申し訳ありません。この件は、私とは無関係です。私も、あの家政婦さんのことを、とても心配しています」そう言うと、彼女はマスクをつけ、大股でその場を去った。一方、一誠と娘が団地へ駆け戻った時、入り口には、ただ赤い水たまりが残っているだけだった。美羽は声にならない悲鳴を上げ、一誠は、険しい顔つきで地下室へと入っていった。中の様子は昨夜と全く同じだったが、ただ、私の姿だけがなかった。テーブルの上には、二つの書類が置かれていた。検査報告書と、離婚協議書。「千鶴、俺と離婚するつもりか？」彼が低く呟くと、後ろで、私を探して部屋を出入りしていた美羽が、大声で叫んだ。「パパ、ママは、本当に死んじゃったの！」「馬鹿なことを言うな！」一誠は口では娘を叱りつけたが、その体は、抑えきれずに震えていた。彼は、すべて監視カメラを調べるよう命じたが、団地の映像はすべて消去されており、市内のどの病院にも、私の死亡記録はなかった。ふと、彼は、検査報告書に書かれた病院の名前に気づいた。三十分後、二人は、魂が抜けたように病院から出てきた。「パパ、ママは、本当に病気だったんだ……ママは、死んじゃった！どうして、ママの病気を治してあげなかったの。どうして、助けに行かなかったの！パパが、ママを殺したんだ！」美

周りのひそひそ声が、彼に背筋を伸ばすことさえ許さなかった。それでも彼は、歯を食いしばって顔を上げ、私に説明しようとした。「違うんだ、千鶴。君を騙すつもりじゃなかった。俺は、ただ……ただ……」一誠は、話しているうちにまた俯き、しばらく言葉を続けられなかった。私は、軽蔑的に笑った。「ただ、私が頑固すぎて、あなたがこっそり沙耶と付き合っているのを知られるのが怖かっただけでしょう。だから、私の時間を搾取して、あなたの行動を調べる暇さえ与えなかった！私を騙すために、十数年も使ってきた携帯番号まで解約して！それなのに、私は？私は、あなたたちのために過労で腎不全になったのに、あなたは私が仮病を使っていると……一誠、私はあなたほど恥知らずじゃない。貧乏や病気のふりをしてまで、一番身近で、一番愛している人を傷つけたりしない！」最後の数言で、私のすべての気力は尽き果てた。一誠の瞳は激しく揺れ動き、唇は開いたが、音を発することはなかった。一部始終を聞いていた同僚の一人が、怒りのあまり、彼の頭にカップを投げつけた。「このクズ男！人探しの時はあんなに一途なこと言っておきながら、五体満足な社長のくせに、奥さんをこんなひどい目に遭わせるなんて！」一誠は、殴られて床に崩れ落ち、ようやく口から一言を絞り出した。「すまない、千鶴。本当に、すまなかった……」しかし、私はただ顔を背け、彼を見ようとはしなかった。父が歩み寄ってきて、ちょうどその光景を目にした。「一誠、十数年前から、俺は君のことを見下していた。だが、残念なことに、娘は君に惚れ込んでいた。その後、君の会社が大きくなっていくのを見て、娘の賭けは正しかったのかと思ったが、まさか、君がこれほどまで、無情だったとはな。彼女の腎臓をもらっておきながら、彼女を一番深く傷つけるとは！」父は、私を見た。「しっかり後始末をしなさい。俺たちの期待を裏切るな。藤原家には、このような婿は必要ない！」父が去った後、私は弁護士を呼び、最新の離婚協議書を渡させた。そして、その場を去った。一誠が、後ろから私を呼んだ。「千鶴、本当に、俺を許してくれないのか？」私は、振り返らなかった。「私は、一度過ちを犯し、そのために、痛ましい代償を払った。二度目は、絶対にないわ」実は、言わなかった