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第2話

Author: ひとくち餃子
古い街並みの一角にあるアパートへ戻ったときには、もう夜も更けていた。

狭い玄関で、夏帆は足元の灰色のスリッパを見下ろした。履き古して形の崩れた、アキラのものだ。その裏には、昼間、床を拭いたときの水の跡がまだ残っていた。

洗面台には青とピンクのプラスチックコップが並び、ベッドの脇には、生活費を切り詰めて彼のために買った電気シェーバーが置かれていた。

ハンガーには、何度も洗って色褪せた上着が掛かっている。目に映るものすべてが、ここでアキラと暮らした日々を思い出させた。

けれど、もうあの頃には戻れない。

スマートフォンが震えた。夏帆がぼんやりしたまま取り出して画面を見ると、明からのメッセージが届いていた。

【今夜は大事な客の接待で、帰れないかもしれない。先に寝ててくれ。明日、ちゃんと説明する】

大事な客?美咲か、それとも婚約相手の藤堂家の令嬢か。もう嘘はばれているのに、まだ平気な顔で騙し続けるつもりらしい。

夏帆はかすむ目をこすり、ひと言だけ返した。

【別れましょう】

……

翌朝、夏帆はいつも通りに仕事へ向かった。だが、待っていたのは思いもよらない仕打ちだった。

午前中、パート先の漢方薬局へ行くと、店主に「もう来なくていい」と入り口で追い返された。

昼には飲食店でも、働いた分の給料を渡され、「ほかの仕事を探してくれ」と告げられる。

午後、急いでオフィスビルへ駆けつけると、今度は清掃責任者の長谷川真紀(はせがわ まき)がシフト表から夏帆の名前を消していた。

たった1日で、3つの仕事をすべて失ってしまった。夏帆はたまらず真紀の腕をつかんだ。

「長谷川さん、正直に教えてください。誰かが裏で手を回してるんですか?」

真紀は周囲をうかがってから、声を落とした。

「夏帆ちゃん、私にはどうにもできないの。上からの指示なのよ。昨夜、鷹宮さんを怒らせたんでしょう?あなたを雇ったら鷹宮家を敵に回すことになるって、もうあちこちに話が回ってるわ。うちみたいな小さな会社じゃ、とても逆らえないの」

自分まで巻き込まれるのを恐れるように、真紀は足早に立ち去った。

ビルの前に取り残された夏帆は、体の芯まで冷えきっていくようだった。散々騙して裏切っておきながら、今度は仕事まで奪うというのか。

怒りが収まらないうちに、スマートフォンが激しく鳴り出した。母が入院している病院からの着信に胸騒ぎを覚え、急いで電話に出る。

「夏帆ちゃん、お母さんの症状がまたぶり返して、一晩中苦しんでいるの。脱水も起こしかけてる」

顔なじみの看護師の声は切迫していた。

「先生も、すぐに例の薬を使わないと危ないって。今夜、心臓にまで影響が出たら、もたないかもしれない」

「すぐにお金を用意します。それまで、どうか母をお願いします!」

かつて東洋医学協会の会長の座を巡り、祖父と争っていた男がいた。正面からでは勝てないと悟ったその男は、夏帆の家族に毒を盛ったのだ。祖父は無念のまま亡くなり、父も3年持ちこたえた末に命を落とした。

母は3人の中では症状が軽かったものの、その後も体調が戻ることはなかった。この数年は夏帆が調合する薬でどうにか命をつないでいるが、症状がぶり返すと、高価な輸入薬に頼るしかなかった。

電話を切るなり口座の残高を確かめる。薬は1本16万円。それなのに、口座には6万円しか残っていなかった。

一昨日、16万円の給料を受け取ったばかりだった。だがアキラに、起業資金がまだ足りないと言われ、そのお金を全額渡してしまっていたのだ。

夏帆は歯を食いしばり、連絡先の一番上にあるアキラの名前を選んで電話をかけた。呼び出し音が続いた末に電話が切れると、深く息を吸ってかけ直した。

5回目で、ようやく通話がつながった。

「アキラ、一昨日渡したお金を――」

「橘さん、いい加減にしてくれませんか」

電話に出たのは、アキラではなく若い男だった。苛立ちをあらわにした口調で、夏帆を責め立ててきた。

「鷹宮さんが何者か、もうわかったんですよね?少しは身の程をわきまえてください。今は相沢さんと食事中なんです。玉の輿狙いで付きまとわれても迷惑なんですよ」

「付きまとってるんじゃありません!私のお金を返してほしいだけです!」

夏帆は震える声で叫んだ。

「母の命がかかってるんです!すぐに返してって伝えてください!」

だが、相手は最後まで聞くこともなく電話を切った。

夏帆は人々が行き交う交差点に立ち尽くした。周囲は騒がしいはずなのに、何も耳に入ってこない。5年間、身を削って支えてきた人に、ここまでひどい仕打ちをされるとは思わなかった。

20歳のとき、血まみれで倒れていたアキラを偶然見つけた。息も絶え絶えだった彼を背負って家へ連れ帰り、三日三晩、一睡もせずに看病して命を救ったのだ。

目を覚ましたアキラが「何も覚えていない」と言っても、夏帆は疑わなかった。「私が面倒を見るから」と伝えると、彼は目を潤ませ、一生大切にすると約束してくれた。

事業を始めたいというアキラについてこの街へ移り住み、3つの仕事を掛け持ちしながら、稼いだお金を彼に渡し続けた。彼の頼みを断ったことなど、一度もなかった。

自分の暮らしを切り詰めてまで尽くした日々も、鷹宮家の御曹司にとっては、落ちぶれていた間の気晴らしでしかなかったのだ。

怒りで全身が震えたが、涙だけは必死にこらえた。もう二度と、あの男のために1円だって使うものか。

そう心に誓っても、今は母の薬代があと10万円足りない。夏帆は大きく息を吸い、仕事の仲介をしている大森佳代(おおもり かよ)へ電話をかけた。富裕層からの個人的な依頼を扱う佳代は、幅広い人脈を持っている。

しかし、電話に出た佳代の声は冷たかった。

「鷹宮さんを怒らせておいて、よく私に連絡できたわね。悪いけど、もうあなたに仕事は回せないわよ」

夏帆はスマートフォンを強く握りしめた。

「昨夜はあんなことになるとは思わなくて……ご迷惑をおかけしたのはわかっています。でも、どうしても今すぐお金が必要なんです。どんなにきつい仕事でも構いません、何でもやります。お願いですから、もう一度だけ助けてください!」

沈黙が続いたあと、佳代がため息混じりに口を開いた。

「すぐにお金が入る仕事なら、1つあるわ。3年間、形だけの妻になってくれる人を探してるんですって。秘密を守れて、礼儀正しくて、身の回りの世話もできる女性がいいそうよ。やるなら、覚悟して引き受けなさい。今度こそ面倒を起こさないでよ」

夏帆は目を閉じた。もう手元には何も残っておらず、誇りさえ明に踏みにじられていた。それでも、母の命だけは守らなければならなかった。

「引き受けます」

……

午後4時。バスを2度乗り継ぎ、指定されたカフェに到着した。

扉を押すと、ドアベルが軽やかに鳴った。店内に客はほとんどおらず、窓際の席に1人の男が座っている。

上質な黒い薄手のニットが、肌の白さを際立たせていた。カップの縁に指先を添えたまま、男がゆっくりと顔を上げる。

その顔を見た瞬間、夏帆の足がぴたりと止まった。

切れ長の黒い瞳に、彫りの深い端正な顔立ち。鼻筋は高く通り、薄い唇は笑みひとつ浮かべていない。

ただ静かに座っているだけなのに、うかつに近づけないほどの威圧感があった。傍らには、ファイルを手にしたスーツ姿の若い男が控えている。

「橘夏帆か」

男が口を開いた。低く響くその声は、ひどく冷たかった。

「はい」

夏帆は我に返って足早に歩み寄り、向かいの席に身を縮めるようにして腰を下ろした。

黒瀬怜司(くろせ れいじ)は、目の前の女に視線を向けた。夏帆はごく普通の白いシャツに、洗い込んで色褪せたジーンズをはき、肩には使い古した帆布のバッグを掛けている。

色白の丸顔で、澄んだ大きな目が印象的だった。ゆるくまとめた髪からは後れ毛が数本こぼれている。飾り気はないが、清潔感があった。

目尻には泣いたあとの赤みが残り、可愛らしい顔に、どこか守ってやりたくなるような儚さがにじんでいた。契約の話をしに来たというのに、まるで行き場をなくした小動物のようだった。

傍らに立つ若い男が、頃合いを見て口を開いた。

「橘様、黒瀬会長の秘書をしております、佐伯楓(さえき かえで)です。契約については、私からご説明します」

夏帆はほっとした。この近寄りがたい男と直接話さずに済むだけでも、少し気が楽になった。

楓はファイルを開き、事務的な口調で条件を読み上げていく。

「契約期間は3年間です。その間、会長の親族の前では妻として振る舞っていただきます。契約のことは口外しないでください。また、妻という立場を利用して、利益を得ることも禁止です。

結婚後は、指定のマンションに移っていただきます。書斎と会長の寝室、治療用の部屋には、許可なく入らないでください。

会長の持ち物に勝手に触れたり、私生活を詮索したりすることもお控えください。呼ばれたときは、すぐに来ていただきます」

次々と条件が告げられ、最後に楓が付け加えた。

「それから、会長は急に体調を崩すことがあります。普段から様子に気を配り、何かあればすぐに私か主治医に連絡してください」

バッグの持ち手を握る夏帆の手のひらには、じっとりと汗がにじんでいた。向かいの男をうかがうと、ひと言も発していないのに、その存在感だけで胸が押しつぶされそうになる。

怜司が目を上げ、視線がぶつかった瞬間、夏帆は慌ててうつむいた。

楓はファイルを閉じ、夏帆の前へ差し出した。

「ほかの条件も契約書に書いてあります。ゆっくりご確認ください」

夏帆は深く息を吸い、契約書を1ページずつめくった。びっしりと並んだ条項は、どれも夏帆の行動を厳しく制限するものばかりだ。けれど、選り好みできる立場ではない。

知りたいのは、ただ1つ。

「報酬はいくらでしょうか?」

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